コラム:佐藤久理子 Paris, je t'aime - 第63回
2018年9月27日更新
今、世界の映画祭を揺るがす、Netflixと男女平等のトピックス
今年のベネチア国際映画祭で、Netflixが制作したアルフォンソ・キュアロン監督の「Roma」が金獅子賞を受賞して以来、映画祭とNetflixに関する議論がますます白熱している。
そもそもベネチアのコンペティションには、他にもNetflix制作によるコーエン兄弟の「The Ballad of Buster Scruggs」(脚本賞受賞)とポール・グリーングラスの「22 July」があったため、当初から話題を集めていた。カンヌが昨年、劇場公開されないNetflix作品のコンペ入りを排除して以来冷戦を続けているのを横目に、ベネチアはあくまで作品重視を掲げながら歓迎したため、一挙にベネチアに流れた感がある。それでなくとも最近、アカデミー賞のキックオフとしてベネチアに耳目が注がれるようになり、スターを集めるのが難しくなっていると言われるカンヌだけに、この事態を苦々しく思っているに違いない。ちなみにカンヌのパルムドール受賞監督で、ホアキン・フェニックスとジョン・C・ライリーを起用した新作「The Sisters Brothers」をベネチアに出品し銀獅子監督賞に輝いたジャック・オーディアールは、カンヌを蹴ってベネチアを選んだと認めている。さらに彼は、今後カンヌには行かないこと、どこのコンペにも出したくないと発言して物議を醸し出した。
一方、ベネチアの審査員長を務めたギレルモ・デル・トロはNetflix作品について、「映画はスクリーンに映っているもので評価されるべき。それ以外の部分ではさまざまな議論があり、人によって意見は異なるだろう。でも我々が心を砕くのは、映画のクオリティとストーリーテリングで、それはスクリーンのなかに存在するものだ」と、あえて映画祭で排除することに異を唱えている。
「Roma」はメキシコの富裕層が住む地域を舞台に、ブルジョワ家族に仕える使用人の眼を通して階級社会が浮き彫りにされる。社会のなかで弱者が味わう感情をモノクロの画面で綴った、人間味あふれる作品。実際にこうした家庭で育ったキュアロンの思い出をもとにしたパーソナルな趣があり、確かにこの手の作品を従来のやり方で制作するのは難しいかもしれない。いずれにしろ多くの才能ある監督たちがNetflixにリクルートされている状況のなか、今後映画祭とNetflixの問題はますます議論の対象となるだろう。
もうひとつ、現在映画祭を揺るがす問題が、♯MeTooムーブメントをきっかけに論じられるようになった男女平等性だ。今年のベネチアにはコンペのなかに女性監督作がジェニファー・ケントの「The Nightingale」(審査員特別賞と俳優バイカリ・ガナムバルがマルチェル・マンストロヤンニ賞を受賞)1本だけだったことについて、映画祭を非難する声もあったほど。オーディアールはこの議題にもコメントし、「世界の大きな映画祭はほとんど男性で仕切られている」と発言。さらに議論を煽ることになった。ベネチアでの火種に影響を受けたのか、その後9月下旬に開催されたサン・セバスチャン国際映画祭は間髪いれずに、運営事務局のコミッティが来年から男女半々で構成されることを発表した。
とはいえ映画祭に出品される作品にはもちろんタイミングの問題もあるし、何より作品としての評価が重要視されるべきものである。選ぶ側を男女平等にするのは道理として、選ばれる側にそこまで平等性を要求するのはヒステリックな反応とは言えまいか。そもそも女性監督による作品数が現状、圧倒的にマイノリティである以上(それ自体が問題ではあるが)、選考結果が仮に不平等になったとしても仕方がないだろう。上記のデル・トロの発言にもあったように、映画とはあくまで内容第一に論じられるべきものなのだから。
ともあれ、今もっともホットなこのふたつの議題は、今後も映画祭の運営陣にとって頭を悩ます種となるに違いない。(佐藤久理子)
筆者紹介
佐藤久理子(さとう・くりこ)。パリ在住。編集者を経て、現在フリージャーナリスト。映画だけでなく、ファッション、アート等の分野でも筆を振るう。「CUT」「キネマ旬報」「ふらんす」などでその活躍を披露している。著書に「映画で歩くパリ」(スペースシャワーネットワーク)。
Twitter:@KurikoSato