コラム:映画館では見られない傑作・配信中! - 第1回
2019年4月24日更新
新藤兼人、フェリーニ、ブニュエル「ROMA ローマ」が拡張する映画的記憶
今や商業的にも批評的にも絶対に無視できない存在となった配信映像作品にスポットを当てていくこのコラム、“映画館では見られない”と謳いながら、第1回目に取り上げるのは現在映画館でも上映中のアルフォンソ・キュアロン監督作「ROMA ローマ」。
この作品、日本では昨年の東京国際映画祭での上映後、12月14日からNetflixオリジナル映画として配信公開されているが、アカデミー賞受賞の盛り上がりを受け、今年の3月9日から全国48館のイオンシネマで公開され、さらにミニシアター系からの上映希望も相次ぎ、各地の映画館で上映中。最終的には100館を超えるかもしれない。
すでに配信されている作品がここまで大規模に映画館で上映されるのは、日本では初めての異例かつ画期的な事態。これは、作品の質も含め、日本における映像ビジネスの決定的な転機のひとつとして映画史に残り、後世に語り継がれる重要な作品といえるだろう。
第75回ベネチア国際映画祭での金獅子賞を始め、アカデミー賞外国語映画賞、監督賞、撮影賞など、すでに数多くの“お墨付”も獲得し、国際的にも名作認定されているこの作品。ご覧になっている方も既出レビューも多いので、ここではちょっと違う視点で見てみたい。
映画では、1970年代のメキシコシティのローマ地区を舞台に、キュアロン監督の少年時代、彼の母代わりでもあったひとりの家政婦への思いを映像化。一見地味なアート系作家映画と思われがちだが、実は製作費1500万ドル(約17億円)の大作だ。この内容でノースター&モノクロということで、既存の映画会社の多くが出資を躊躇し予算調達に苦労するなか、配信大手Netflixの参加によって企画が実現した。
作品の細部や、いかにお金がかかっているかは、大画面や完璧な音響で見るとより明確に感じられる。私は最初に配信で、その後某シネコンの最大スクリーンで見たが、驚くほど印象が違い、発見があった。
劇中の地震や山火事、デモと暴動、そしてラスト近くの荒れた海など、65ミリのフィルムで撮影されたクリアな映像は圧倒的迫力だし、綿密に計算されたサラウンド音響の迫力は臨場感たっぷりに恐怖を盛り上げる。映像と音響の理想的な環境は、淡々と描かれる日常にじわじわと迫りくる悲劇や災難、不安や試練をリアルに体感させ、この映画のスペクタクル・サスペンスとしての性格をより際立たせる。つまり、これは“過酷な状況における死と再生”を描いたキュアロン監督作「トゥモロー・ワールド」(2004)、「ゼロ・グラビティ」(13)と完全に地続きの作品なのだ。反面、主人公の家政婦を常に引いた場所から見つめ、感情移入が難しい客観的な演出は、好き嫌いの分かれるところだろう。
多くの優れた作品がそうであるように、「ROMA ローマ」は見る者の映画的記憶を縦横無尽に拡張させる。実は、この作品を見て私の脳裏に浮かび、また見たいと思ったのが新藤兼人監督の「裸の島」(60)と「縮図」(53)だった。前者はモノクロ・ワイドの美しく力強い映像で“過酷な状況における死と再生”を描き、後者は“報われないひとりの女性の奮闘”を描いていた。どちらも乙羽信子の演技が素晴らしく、客観性もありながら慈愛に満ちた演出は確実に見る者の魂に触れる。もちろん、キュアロン監督作との直接的な関係など一切無い50年以上前の映画だ。でも、新藤監督がもし「ROMA ローマ」を見たら何と言うか、聞いてみたい。そして、「ROMA ローマ」に感動した方は、機会があればその新藤監督作をぜひ見て欲しい。
また、ここで描かれる少年時代の思い出や懐古、郷愁、題名の響きも含め、フェデリコ・フェリーニの「フェリーニのローマ」(72)や「フェリーニのアマルコルド」(74)を連想するのは容易だし、ユーモアが漂う南米風マジックリアリズムにメキシコ時代のルイス・ブニュエル作品を思い出す人も多いだろう。もちろん、劇中の映画館で上映されている「大進撃」(66)や「宇宙からの脱出」(69)は、キュアロン監督の作家的アイデンティティに大きな影響を与えているハズで、特にジョン・スタージェス監督の「宇宙からの脱出」を子供たちが見に行く場面は、「ゼロ・グラビティ」誕生秘話的な発見として映画ファンに快感を与えてくれる。
ともあれ、「ROMA ローマ」の成功は、配信映像業界の存在感を全世界に示したと同時に、映画館で映画を見ることの意味をすべての人に今一度考えさせ、同時にそのモノクロ映画力や映画的記憶の喚起は、監督の過去作や往年のクラシックをも配信やパッケージで再び輝かせて映画界全体を活性化させるハズだ。Netflixなら「ROMA ローマ」と「トゥモロー・ワールド」「ゼロ・グラビティ」の一気見も可能だ。
映像の送り手たちがこのビジネスモデルに学ぶべきところは大きい。配信時代の到来は、無限の可能性を秘めた新たなる映像エンタテインメントの歴史のはじまりである。映画であれドラマであれ、決め手となるのは結局のところ作品の質なのだ。どこで見るか、見せるかは実はそれほど大きな問題ではない。質の高い作品にどれだけ投資できるか、勝敗を左右するのはそこではないだろうか。
筆者紹介
江戸木純(えどき・じゅん)。1962年東京生まれ。映画評論家、プロデューサー。執筆の傍ら「ムトゥ 踊るマハラジャ」「ロッタちゃん はじめてのおつかい」「処刑人」など既存の配給会社が扱わない知られざる映画を配給。「王様の漢方」「丹下左膳・百万両の壺」では製作、脚本を手掛けた。著書に「龍教聖典・世界ブルース・リー宣言」などがある。「週刊現代」「VOGUE JAPAN」に連載中。
Twitter:@EdokiJun/Website:http://www.eden-entertainment.jp/