山中貞雄
現在も高い人気を誇る映画監督、脚本家。京都市下京区出身。6男1女の末子。映画監督の加藤泰は甥。1927年に現・京都市立西京高校を卒業。卒論は「京都と映画産業」。同年、助監督としてマキノプロダクション入社、「浪人街 第一話 美しき獲物」などの現場につく。28年、マキノを退社し嵐寛寿郎プロダクションへ。「鬼神の血煙」で脚本家デビュー。29年には嵐の斡旋で東亜キネマ入社。4月の徴兵検査で甲種合格、12月から1年間、福知山歩兵第20連隊に入隊する。
除隊後「磯の源太 抱寝の長脇差」(32)で監督デビュー。その後日活に入社、8作目「盤獄の一生」(33)が検閲や規制で改変を強いられるも好評価を得る。この頃、小津安二郎と知己に。34年、稲垣浩らと脚本集団(後の鳴滝組)を結成、「梶原金八」などの名義で次々と作品を発表する。
35年、日本トーキーの傑作「国定忠治」、原作の印象を一新した「丹下左膳余話 百万両の壺」、前進座提携作「街の入墨者」などを監督。36年「河内山宗俊」の撮影中に溝口健二、内田吐夢らと日本映画監督協会を結成。前進座の要請もあり日活を辞めP.C.L.に入社し東京へ転居。移籍第一作「人情紙風船」(37)の公開日に召集令状が届き10月に中国に出征した。南京攻略に参加し38年1月に小津と束の間の再会。7月河南省で急性腸炎に罹患、療養所に入るが病状は安定せず9月17日に28歳で急逝。愛すべき人間性から、死の衝撃は映画界を中心に大きく、命日に友人や親族、ファンが集う「山中忌」は、小津が揮毫した墓のある京都・大雄寺で、中断を挟みつつ今も行われている。
監督作は全て時代劇で、ほぼ全シナリオを自ら手がけた。欧米の洋画や親友・小津の影響もあり、侍も平民も等しく捉えたスタイルは「髷をつけた現代劇」と呼ばれた。5年で共同作を含め26本を監督するも、全編が現存するのは「丹下左膳」など3本のみとなる。