ジャン・ルノワール
仏パリ出身で、父は印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワール。幼少期に乳母と観た人形劇や初期の映画に影響を受け、映画作家を志す。第1次世界大戦中は軍人として功績をあげ、戦後は父の勧めで陶芸もたしなむが、妻カトリーヌ・ヘスリングをスターにしたいと無声映画「カトリーヌ」(24)で脚本を手がけ、同年「水の娘」で監督デビュー。
「女優ナナ」(26)で高い評価を得、「トニ」(34)、「どん底」(36)、反戦映画「大いなる幻影」(37)、「ゲームの規則」(39)などでリアリズムを追求し、後の映画作家に多大な影響を与えて仏映画界の名匠の地位を築く。41年、第2次世界大戦中に母国を離れ、米国市民となる。「南部の人」(45)でベネチア国際映画祭最優秀作品賞を受賞、アカデミー監督賞にノミネートされ、インドで撮影を敢行した初のカラー作品「河」(51)でベネチア国際映画祭国際賞を受賞。
イタリアで製作した「黄金の馬車」(52)を経て、「フレンチ・カンカン」(54)は15年ぶりに祖国フランスで撮り上げた。 75年、アカデミー名誉賞を受賞、同年レジオンドヌール勲章コマンドゥールを受章。79年、心臓発作のためロサンゼルスで死去した。TV映画「ジャン・ルノワールの小劇場」(69)が遺作となった。甥のクロード・ルノワールは撮影監督としてジャンの映画製作に参加している。