イノセンツのレビュー・感想・評価
全198件中、1~20件目を表示
オレをそして娘をみて、おっさんは本作を見てこう思った。
もうとうに昔のことだが、オレが子供の時は、さすがに猫はないが、カエル、ザリガニは当たり前のように爆竹で破裂させていたし、近所の子供に平気で石をぶん投げていた。
それは、やはり環境によるもので、そういった行為は無垢とか無邪気とか、変に理由をつけたり、ましてや正当化するものではなく、程度こそあれ、生きていくうえでの通過点だったと今は思っている。
よく言われることだが、それを「イノセント」と呼ぶのは、子供ではなく、大人であり、もっというと、「そんな経験もしていないのに、想像の」ノスタルジーに浸る、ただの気持ち悪いオトナである。
そして子供を怖いというのも、あんた、子供だった時がないのか、と。
・
・
・
「イノセンツ」
本作の興味深い点は、子供の「その無邪気な行為」を大人の空想で「超能力に置換させたらどうだろう」という点。
まあ、子供の時だって、「超能力があれば・・・」と思ったりしたこともあるだろう。念じてアイツの頭が破裂すればいいのに、とかね。
そういや、自分はダミアンだと信じて、トモダチの脳血管をぶち切ろうと念じたら、自分の鼻血が出たな。
はっはっは。
だからね、この映画、まどろっこしいのよ。音でドキドキさせなくても、そんなタメ、要らないよ。サっとやっちゃうからね。
で、自分が子供を持つようになって、娘のそういった兆候をみたりするのよ。
「ああ、そうだよね。」てね。
でも、娘は猫はおろか、カエルも殺さないだろう。
だって、カエルがいないから、というのは冗談で、カエルを殺すことを求められないから。
感情的にものを投げることはあるよ、だってその方法しか知らないんだから。
だから、この映画はそんな怖いとか、ましてや、子供の無邪気が怖いとかそんな見方をしてはだめなんだって。
オタクが、日本のマンガに惚れて、なんとか映画にしました、っていうね。そこから楽しまなきゃ嘘よ。ホラーでも、社会派スリラーでもなく、サイキックバトルギャグ映画でいいでしょう。
の割にギャグが足らない、ここぞという見せ場も、その路線で期待するから、勝手にやり過ぎみたいな期待も裏切られる。まあ、これはしょうがない。
ベンの意識が標的の窓に寄っていく「エンゼル・ハート」オマージュなところは好き。
追記
ラストは、姉ちゃんの手が止まる。
子供たちが陥る落とし穴は「狂気」ではない。
子供たちの静かなる内面模様に心掴まれる
北欧から届く映画には、日常を別の角度から、あるいは内側から提示するものが多い。この『イノセンツ』も子供たちのサイキックスリラーといえばそれまでだが、描写の端々に一筋縄ではいかない感覚が溢れ、序盤の「つねる」という子供ながらの小さな悪意を起点として、まだ右も左も分からない主人公たちの感情がいかに振り切れていくのか、期待させるし、不安にもさせる。「童夢」にインスピレーションを受けているだけあって、団地が舞台となのは当然であるし、やがて目覚める彼らの力は不可能を可能とし、希望にも、また暴走の火種にもなりうる。だがここで注目すべきは内面の描写であり、最初の「つねる」という行為がいかに変容していくのかという姉妹の関係性の成熟には心奪われるものがあった。興味深いのは、超能力をメタファーとして捉えると、子供をめぐる社会のあり方を描いた映画のようにも思えること。これまた北欧らしいなと感じ入った次第である。
エンドロールが上から下へ……
意を決して観たけど、やっぱムナクソ系だった!
エスパー団地(?)っていう設定が面白くて飽きずに観れたけど、
「童夢」が元ネタなのね。
役者の方がみんな上手くて
子供の気持ちや危うさみたいなものがリアルだった。
毒親の子は毒
「子どもの可能性は無限大」
「若いから何でもできる」
大人を超える能力があっても、使い方次第で可能性はむしろマイナスになってしまう。
プラスに使えるのは、家庭で大切に扱われている人。ここでいうアナ。
一方マイナス方向に使ってしまうのがベン。あの生育環境なら無理もない。
家庭や社会で人は自分の都合で動かすことを否応なく学ばされている。
どちらもある意味純粋に、きちんと親の教育の成果が出ている。
高い能力を活かして可能性に変えられる子どもは、そこそこ恵まれた環境で育ってこそなのだ。
それは衣食住が賄えてるだけではなく、自分の意思が尊重されたり、感情を適切に受け止めてもらえたりするような経験ができるかどうかも大きい。
自分が誰にも尊重されていると思えなかったら、人のことなんて尊重できない。
そういう子の親も、他者から厚く歓迎されていない立場にいる。
移民、ワーキングプア、離婚、それによる孤立、職業的地位…。色々な要因が勢揃いする。
社会に精神的居場所のない親は、子どもにも精神的居場所をつくれない。
子どももいつか大人になる。
そういう子が集まる社会では、誰の居場所もつくられない社会ができあがる。
みんな自分の目先の都合を満たすことに奔走する。
映画の団地は日本にもありそうな光景だったが、大人の行動も共通している。
子どもは「社会を映す鏡」として、その鏡を見せたかった映画なのかもしれない。
ラストの個人的解釈
思っていた映画といい意味で予想を裏切られた。淡々とした怖さというか不気味さがあり、 ところどころ不愉快になるシーンがある。
ラストシーンはイーダが力を得た説も個人的にあるかなぁと思って。
足が治ったりギプスが割れるシーンはアナがしてくれたように思えてイーダの力が覚醒したのでは?
ラスト、アナがボードにぐちゃぐちゃに書き殴っていた手を止めたシーンなのですが、イーダはアナの心が読み取れるようになったのではないか?と個人的に解釈したのだがどうだろう。ベンを倒す時、2人で手を繋ぎ力を合わせていたし。カメラのピントがアナに合っていて、奥でそれを見つめているイーダになんとなく違和感を覚えた。無言のままのアナの顔に焦点を当ててるってことは、なにか話してるんじゃないかな?
アナの手が止まったのは、イーダの力を感じ取ったから=絵を描く必要性がなくなった。
それともアナがベンに操られてしまっていた…?
エンドロールが逆さまという情報を読んで、アレエンドロールって普通はどっちだっけ?と感覚がおかしくなってしまった。
これは凄いけど…
猫のシーンは観てるのが辛かった。
あのシーンは本当に観ていられませんでした。
全体的な感想は終始漂う不気味さにどんどん引き込まれました。
そしてちゃんと怖いし、終盤はとても緊張感がありました。
家で1人で映画を観てあんまり声を出すことはないのですが、この映画では怖い所とか痛そうな所で声を出してしまいました。
数少ない大友原作の実写化、傑作!
フィンランドは黒人の人やインド系の人が多いよ
この映画『そんな冗談を言わないの。怖くないから』兎に角、
何を言いたいの?
大友先生をウマシカにするな!!
『沸騰している鍋に触るな!』
超能力って、つまり『ユーリー・ゲラゲラ』なんでしょう。
大友先生の作品の『バビロンの塔の内部』の絵画やアニメの『大砲の街』と比べれば、この映画なにも無い事が分かる。どっかの賞を取ったとか、大友先生の名前を出せば『名作』ってのは短絡的過ぎる。
この映画は殺されてしまったジジ見たいな黒いニャンコ先生の尻尾だよ♥️
子供たち使って、人件費を浮かせて作ったB級ホラーだと思うけどね。どこに賞として評価される部分があるの。百歩譲っても背後が気になる様な薄気味悪さはないし、サイキックスリラーってキャリーとかあったじゃん。使い古されてるよ。
黒いニャンコ先生は尾も白くないでしょ。
黒いニャンコ先生の冥福をお祈りします。
『愛のないAI』に聞いたら、『ヘイト』に繋がるかもしれないって回答だ。
大人が子供をそんなふうに見ているなんて、それこそ薄気味悪い。実存主義は北欧にはないのか?
蘇る子供時代の視点
タイトルに込められた無垢や無邪気さと表裏一体である残酷さ。
同じ子供の両側面を超能力というモチーフを使って描いている。
どんな場合でも、「大人は真意を知ろうとはしない」というような概念がこの作品の根底にあるように思う。
この作品は2023年のノルウェイの作品のようだが、昭和から平成にかけての日本のようでもある。
ベンジャミン
彼は母親から軽い虐待を受けているようだ。
彼のことをすべて否定する母親
それは虐待とネグレクトが合わさっている。
腹部に付いた大きなあざや小さな傷痕
外に出ると中学生からのいじめが待っているので、一人で秘密基地を作って遊んでいる。
この場所に引っ越して彼と友達になった主人公のイーダ
彼女が持つ「面白くないこと」は、姉のアナ
両親はアナにつきっきりで、自分たちの都合が悪くなるとすぐに姉の面倒を押し付けてくる。
アナは痛くても痛いと言えない。
だから腹いせに時々抓ってみる。
他人に姉と一緒にいるのを見られるのが嫌
子供はすべて知っていて、すべて思い通りにいかなくて、その事をわかろうとする大人が誰もいないこともわかっている。
でも、最上階の階段から猫を落とし、頭を踏んで殺す行為に、イーダは大きく気持ちが動かされた。
そこにあった気持ち悪さと、後追いの興味
ベンの不思議な力を見て純粋に凄いと思う。
テレキネシス
何だか懐かし言葉だ。
顔の肌が斑になっている女の子アイシャ
その顔立ちから感じる孤独
友だちもいないので一人で人形と遊ぶ。
アイシャはテレパシーが使えるが、それを特殊だとはとらえてない。
彼女は引っ越してきたアナの存在をテレパシーで知り、近づいてくる。
二人はテレパシーで会話する。
その様子に驚くイーダ
イーダはそんな能力はないものの、かなり利発だ。
真意を組み取ろうとしない大人に説明する無駄を理解している。
子供の見たこと感じたこと、それを表現しようとする拙い言葉に耳を貸さないから、「自分で決着をつけるしかない」のだろう。
やるか、やられるか
こどもにとって、それは、単純なこと
さて、
子供にも受け入れられる容量というものがある。
我慢の限界ともいえる。
大人は、勝手にそんなことは処理できるものだと思い込んでいるが、どうしても無理なことがあって、それがトラウマというようなものに変化するのだろうか。
私自身この作品を見て、私の中に今でもある心の嘆きの様なものを思い出した。
思い通りにならないことに対する憤り。
そのほとんどは運転中に起きるのだが、その原因をこの作品の中で思い出すことができた。
両親からの一方的な決め付け。
何もかも「お前が悪い」
この点において、ベンの気持ちがよくわかる。
せっかく似たような能力のある友達ができて楽しくテレパシーごっこで遊んでいたのに、イーダの心ない悪口によって、再生し始めていた心が大きく歪んでしまう。
「ベンはクソだ」
それは誰もがするくだらない子供の、気にしなくていいもののはずだった。
しかしベンにとってその言葉ほど傷つくものはなかったのだろう。
親友の裏切り
ベンの怒りでレベルアップしたテレキネシスだったが、同じようにアナもまたその技が使えた。
拮抗するパワーは、傍にあった大木を破壊した。
その歪みは、普段から少し気に入らない母親へと向けられる。
その歪んだ波動に気づくアイシャ、アナ、そしてイーダ
ベンの歪んだエネルギーはいじめっ子に向かう。
そしてアイシャへも
さて、、
ベンもイーダもアナもアイシャも、多くの子供たちも皆、両親や社会によって抑圧されている。
大げさな言い方かもしれないが、この作品の制作者はその事に気づいたのだろうか?
または自分自身が体験者だったのだろうか?
私もこの物語を見て、思わぬことを思い出してしまった。
いつも、自分がいったい何に反応していたのかがよくわかった。
押し付けられてきたことと、否定し続けられてきたこと
純粋だからこそ、残酷さに躊躇うこともないのだろう。
その残酷さの場所さえ与えられない場合、そのエネルギーはいったいどこに向かうのだろう?
この作品はすべての子供たちの視点を捉えている。
どんなに裕福でも、多少は感じる抑圧
個人的な気づきがあったことで気持ちが楽になった。
何十年ぶりかに当時の気持ちを思い出し、処理できた。
感謝です。
固唾
ポスターからしてやばかったのだが、序盤から、あ!これ鬱になりそう!ってざわざわした。
大友克洋先生ですか…なんとなく納得。
舞台は団地、引っ越してきた家族。
優しい両親と自閉症の姉アナと妹イーダ。
両親の目はアナに行きがちなのは仕方ないと思うのは大人の目線であって、当のイーダは不満たらたら。
子供だからといってもやり過ぎ感がすごい。
アナを気遣う優しいアイシャ。
彼女は心が読めるだけに、アナの気持ちを代弁しそれを外に発するよう促す。
イーダもきっとアイシャを通してアナにもきちんと目に見える感情がわかり嬉しかったのだろう。
バケーションでほぼ住民のいない大きな団地。
イーダが最初に友達になったのはベンジャミン。
少しのサイキック能力はあったが、イーダやアイシャ、アナと遊んでいるうちに力が暴走し始める。
もともと、母親の愛が薄く冷蔵庫を見る感じとても貧しそう。そりゃすごい力を持ったら闇堕ちしますよ。
悪口言うなっ!て「さん付けろよデコ助野郎!」くらいの勢いでやってきたらすごい力出てたよ!みたいな。これも俺の力なのか〜的に母親を死に至らしめる。なんか童夢もそうなんだけど、鉄雄味を感じたかな〜
心の読めるアイシャはベンの心も分かるが敢えて告げない。彼の闇に気づいていたのだろう。
不穏な音楽、カメラアングル、セリフ説明のあまり無い描写など何をとっても終始固唾を飲む。
子供達の表情もとても良い。
舞台の団地が様々なアングルで撮られていて、その大きな団地に潜む問題を象徴しててとても心に残る。
イーダを守るため、1人外に出るアナ。強く眩しい光が彼女を包む。
対抗して陽に当たり影を強調させるベン。
池を挟んで対峙する2人。握る拳。
すでにバケーションから帰ってきた沢山の住民達の中、静かなバトルが始まる。
共鳴する子供達。
唯一、力を持っていなかったイーダの覚醒。
姉妹の握り合う力でベンは1人きりブランコの上で力尽きる。
全てが終わった後、日常を取り戻す団地の風景。
また磁石ボードでグシャグシャと線を描き始めるアナ。
母に縋り泣きじゃくるイーダ。
最後、アナはガシャっと白紙にする。
それは今まで無意味にやっていたそれではなく、何かの意思を感じられた。
ひょっとしたら、様々な事情を抱えるこの団地で第二、第三のベンが生まれてくるのかもしれない。
ただのサイキックバトルではなく、障害を持つ子供の親、片親、DV、移民、貧富、などの附属物もあり考えさせられる話にはなっていたけど結局、子供達は親に振り回されているだけの話なんだなと…
ネッコは許さない…
子供の好奇心って怖いよね。
大友克洋先生のパクリ
X-MEN
おばけ団地かな?
子どもらしい感情と思考の変化
そして、手に余る危険な能力…
混ぜるな危険と言うセットが揃い、大体酷い事が起こるのが想像できる。
移住者が沢山いるマンション群に居る子どもたち3人に特殊な能力が発芽し最初は遊び程度に使っていたのが次第に強大な力になっていく様を淡々と見せられる。
BGMはほぼ環境音程度で、音で驚かしてやろうなどとは微塵も考えていない…しかし団地やその周囲の公園と言う日常風景の中、あまりにも異質な力が使われていくのは気味が悪い。
子ども達は皆何かしらの障害を抱えており、自閉症のアンナ、じっとしてられない様子や我慢できない所、残虐性のあるベン、顔に斑点のあるアイシャが力を使える様になる
ろくに会話も出来ない自閉症の姉が両親に構われていること嫉妬して
嫌がらせするイーダとアンナの関係性の変化や発語が可能になったアンナに喜ぶ両親の姿を観ている内は良かったが、猫を惨殺したり、他人を操って人を殺し始めたベンを見ると悲しい気持ちになる
最後の対決シーンは周りは普通に生活している公園で行われ、決着時に子どもだけが彼らの方をチラリと見る。ここでも聞こえてくるのは生活音のみで異色さを際立たせている。
BGMをほとんど付けてない事で実際に在りそうに見えてくるのが面白い
共振
全198件中、1~20件目を表示