キラーズ・オブ・ザ・フラワームーンのレビュー・感想・評価
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プリ夫、楽しそうでよかったよ
オレはスコセッシの映画は正直苦手だ。
1)音楽がうるさい
2)映画オタクならではの技法が鼻につく
3)なんだか見ないと、映画好きじゃないと思われる
「グッドフェローズ」なんかは、まさしくそれで、なんだかオールタイムベストな超名作扱いだが、オレは、レイ・リオッタの顔は嫌いだし(これは関係ない)、終始やかましいし、後半まったく面白くなくなる。前半もそんなに面白いと思ってない。
そうだな、スコセッシ個人的ベストは
1位・ケープ・フィアー
2位・タクシー・ドライバー
3位・キング・オブ・コメディ
これらの、「怖い⇔笑い」を行き来する作品が好きだ。というより、オレの嫌いな3点が気にならず、むしろスパイスになっていると感じるのが、この3作品なのかもしれない。
「ケープ・フィアー」はちょっと別格で、もう全編ホラーでコメディで、エンタメ全開でありつつも、見てはいけないものを同時に見せていて、演出も「やりすぎ」が心地よさでもあり、常人は不愉快を感じる傑作。
で、今回はというと、割と好きなほう。こじつけだが、上記3作の要素は本作にもあると思っている。
「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」
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本作の音楽は、不愉快にうるさくなく、むしろ暗いシーンで実は音楽が心地よく、シリアスな展開でも(ラストで分かるように)エンタメ色はしっかりと残しており、殺人シーンも、雑な殺しであることを強調するかのように、派手で映える撮り方。
大きな流れは「グッドフェローズ」だが、同時に思い出したのは、プリ夫と初タッグを組んだ「ギャング・オブ・ニューヨーク」(2002)。
師弟関係などは全く違うのだが、時代や大作感のせいかもしれない。「ギャング」の時のプリ夫はまだ若干かっこつけが求められたのかもしれないが、タッグ2作目の「アビエイター」からオスカーノミネートの常連となるほどの変貌を遂げる。現在年齢48歳。もう少し若いころに本作に巡り合い、本作のあの演技が見たかったなあと思うし、これはデ・ニーロにしてもそうで、史実とは異なっていいから、もう少し若いころに演じてほしかったとも思う。(本作に関しては、よぼよぼのじじいだからよい、というのはあるが)
と考えると、「ギャング」こそ、デ・ニーロとプリ夫が共演すべき最初の映画、デイ・ルイスは大好きな役者だが、アングロサクソンに見えなくったって、デ・ニーロでよかったんじゃないか、と。あの映画で不満だったのは、ニューヨークの混沌をメインに描くことを主として、デイ・ルイスとプリ夫の関係と決着があやふやになってしまったことだ。デ・ニーロとプリ夫なら、たとえ「あやふや」決着を迎えたとしても、当時の映画ファンは「師匠殺し」「親殺し」とまではいかなくとも、相当イマジネーションを掻き立てられたことだろう。これ以降スコセッシはプリ夫とばかり組んで、デ・ニーロと組まなくなったので、なおさら。
そんな妄想をしながら本作を振り返ると、スコセッシのもと、見事に変貌を遂げたプリ夫がスコセッシのもと、いよいよ初共演のデ・ニーロにああいった形で従がわれる役どころは、むしろ逆を行って面白いと思った。さんざん待った映画ファンの「親殺し」の期待に対し、見事に逆を行っているのは、「同じ作品を作らない」スコセッシならでは、なのかもしれない。
それはさておき、ちょっと気に入らない点を。
スコセッシはやっぱり女性を観客として積極的に呼ぶ映画を撮らない。
本作、唯一「ラブストーリー」として展開していこうと思えばいける素材だが、プリ夫がモリーを愛した理由、(あんな世界でわかっちゃいるけど)プリ夫を愛することになった理由、二人が愛し合うシーンが足らない、愛されていると同時に自分の家族が「明らかに」殺されてるのにも関わらず、自分の体の不調がでるまで、行動に出ない。
注射の中身を聞くのは、中身の真実ではなく、プリ夫の答え、答え方なんだけれども、どっちを答えたとしても、事件が収束したあの時点では、どう答えたって、モリーの結論は同じはずだ。それはいいんだけれども、モリーが最後まで一人苦しんでしまっていること、プリ夫の、愛しているけど「それでも」あんな行動に出る「自分のなさ」を際立たせるには、もう少し二人が愛し合う過程を組み込んだほうがよかったんじゃないかなと思う。
様でなくなったプリ夫と、じじいのデ・ニーロ、3時間越えの映画ではハナから女性客を呼ぶつもりもないにしても。
こんだけ大金ぶち込んでも(appleとパラマウントがぶち込める)、貫ける、とするところが、「巨匠」ということか。
最後にハエ。
プリ夫に時にまとわり付くハエは、決断を迫られているとき。その存在は神か悪魔か。
エンドクレジットを全部見ない人には関係ないが、エンドクレジットで、オレらにまとわりつく。
スコセッシの限界ゆえに生まれた恐るべき怪作。
本作にコンサルタントとして関わったオセージ族が、加害者である白人男性が主人公として描かれていることに複雑な胸中を表明したように、特権側の白人男性である監督がネイティブ・アメリカンの悲劇的な歴史を描く上で、どうしても限界が露呈している作品ではあると思う。しかし、原作では比重の大きかった白人捜査官を脇役に追いやり、関係者の中でも飛び抜けて情けない加害者を主人公に置いたことは、この連続殺人事件のどうしようもなさを描くにあたって現実的な策のひとつではあったと思う。
なぜ人はこれほどの愚行をしでかすのか。そして歴史的に愚かな蛮行はなぜ止むことがないのか。もちろん悪意が存在するからにほかならず、それをデ・ニーロ扮するキング・ヘイルが体現しているわけだが、キング・ヘイル単体で成し遂げられる悪徳などたかが知れている。ヘイルは自分よりも意志薄弱な者を操り、利用して、間接的に他人を支配する。その支配された側であるアーネスト(ディカプリオ)は、間違いなく加害者なのだが、同時に、日和見で長いものにまかれて、お人好しだけど善良ではない大衆の代表として機能している。
100%オセージ族の視点からこの歴史を描けばまたまったく違う物語になっただろうし、それはそれで非常に興味深い作品なはずでぜひ観てみたいと思うが、スコセッシが、ディカプリオがこの映画にアプローチしたときに、われわれはたやすく悪に加担する弱さを持っていることを明らかにする映画が生まれたことは、彼らが自分たちの限界を知った上での誠実さだと思うし、映画が、演技が、生き生きと輝きすぎていることは諸刃の剣ではあれど、人間のダメさを容赦なく描いた凄い作品であることは間違いないのではないだろうか。
スコセッシ流の語り口のビートが3時間26分、一向に途切れない
これは並外れた怪作である。まず驚かされるのは、冒頭のボルテージMAXの大噴射シーン。それを起点に3時間26分、いっさい弛まぬ物語のビートがゆっくりと魔術的なまでに高鳴り続ける。そこに現れる顔、顔、顔。ディカプリオ は若き日の精悍さとはまるで次元の違う底知れぬ人間性の境地へと辿り着き、口をへの字に曲げた表情などはジャック・ニコルソンの再来かと思えるほど。さらにデ・ニーロの温厚な中にクセある味わいが加わり、リリー・グラッドストンの芯のある眼差しが崇高さを添える。このアメリカの血塗られた歴史を象徴するノンフィクションを、ストーリー仕立てに脚色したエリック・ロスの筆致も実に見事。そしてなんといってもスコセッシの重厚な采配が冴え渡る。あらゆるシーンに乾いた凄みが迸ると同時に、人間の愚かさ、おぞましさ、口が開きっ放しになるほどの滑稽さと不可解さが詰まったエネルギッシュな仕上がり。その語り口を堪能した。
ディカプリオのダメ男ぶりがかつてないほど秀逸
3時間26分。近頃長くなった映画の中でもダントツの長さだが、人にもよるだろうが体感時間は約2時間超。理由は、エリック・ロスの脚本と、それを手にしたマーティン・スコセッシの演出が、1920年代のオクラホマ州、オーセージで連続する先住民の不審死事件を、終始サスペンスタッチで描いているから。それも、観客の頭の中に早くから真犯人が浮かんでいるのにも関わらず、作劇が面白過ぎて全然退屈しないという奇跡のような作品だ。
作劇の基軸になるのは、石油鉱業権を取得した先住民、オーセージ族と白人の関係性が逆転したことによる不協和音というか、不吉なムードというか。
やがて、映画がアメリカの近代史の隙間に埋もれていた、どんな人種差別よりもえげつない恥部を炙り出し始めると、漂う空気はサスペンスから社会派ドラマへとシフトして行く。そして、そんな暗黒の時間に訳もわからず取り込まれ、利用されるディカプリオ扮する帰還兵、アーネストの存在が、余計に歯痒く、見る側の心を抉りまくる。今回のディカプリオのダメ男ぶりはかつてないほど秀逸だし、彼を介してこの物語にもう一つ痛烈な基軸を構築した脚本と演出の力には、改めて恐れ入る。
来るオスカーのフロントランナーという評判は正しかった。
素晴らしい映画体験
巧い、顔芸デカプリ夫、悔恨の猛烈な浅さ。
【事実ベースの長い長い映画】
先住民族の土地で起きた殺人事件を、実話をもとに3時間半にわたって描く。
しかし、時間の流れが分かりにくく、デ・ニーロの不気味さやディカプリオの愚かさも伝わりづらい。
視点は、迫害を受ける先住民ではなく、彼らを搾取する白人側におかれている。
そのため物語は、正義も倫理も歪んだまま進み、観る者に居心地の悪さを残す。
「家族を守るために証言する」という主人公の選択も、実は愚行の極み。
それでも「妻は裏切らない」と信じる彼の姿には、傲慢さと悲しさが滲む。
この描き方がまさにスコセッシらしいシニカルさだ。
アメリカの黒歴史を描いた意欲作として見応えはある。
だが、やはり——長い。
その長さこそが罪の重さを示しているのかもしれないが、観る側には覚悟がいる。
苦しく重い
3時間26分を、長いと感じるか、感じないか。
この映画の長さを楽しめない奴はダメだ、という旨の意見を時々見かけますが、
短い映画で凝縮させる映画の凄みを知らない愚かな輩なんだろうなぁと思います。
だいたい、べつにストーリーにしたってよくあるクライムスリラーですし、この3時間26分の長さはやっぱり異常に感じましたし、
これを、あっという間だった、という意見にはさすがに首を傾げざるを得ません。
そもそもの話、この表現自体、個人的に甚だ疑問で、いや、もちろん比喩で言っているのは承知の上ですが、にしたってあっという間は大袈裟すぎるだろうと思っています。
…と、散々、苦言を呈しておいてなんのですが、
悩ましいのが、それでもこの映画、普通に面白いんですよね。
なにより、この長尺の割にそこまで不要と思えるシーンは驚くほど少なく、さすがベテランのスコセッシ監督の技だと思いました。
まあ、それにしたって長すぎですが…
4.5。
先住民という概念を改めて考えるきっかけに
先住民。元々そこに住んでいたのにも関わらず、
時代の流れに飲み込まれた彼らの部族のうちのひとつ
「オーセージ族」
彼らに対する謎の大量殺人が行われた事実から、
FBI発足のきっかけまでが丁寧に描かれていて。
この映画は全編を通して、人の弱さと強さを描いていたように思いました。
とにかく長い。長いけれども、長いからこそ見ながら考えることが出来る。
私にとってはそんな存在となった映画でした。
劇場で観た時、次々と亡くなっていく先住民の人々。
噂の範疇にすぎないけれども、皆が感じていた
「オイルマネーのために殺された」という状況証拠。
そして家族を疑わなくてはいけない状況の中で、
かろうじて壊れずに気持ちを保った女性。
家族を大切にしたいという気持ちと叔父との間で、惑い、
流されていく主人公。
雨の音、虫の音。
そして人の声。
劇場でこそ味わえる、考えることだけが出来る時間。
観る前に感じていたよりも、より深いアメリカの先住民の方々との歴史を
人の弱さを感じた一作でした。
長すぎる長すぎる長すぎる
恐れ入りました!
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