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なんという恐ろしい傑作が誕生したのだろうかと唸らずにはいられない。徹底的に計算された「音」が支配するこの映画は、観る者に「想像」することを要求し、観る者の「想像」を拡張させる。完璧なまでに「想像力」の映画だった。
以下、ネタバレを含みます。
▶︎3つの感想
1.「普通の日常」に潜む「残虐な非日常」
2.徹底された“音”の想像力
3.ランズマンの「表象不可能性」をめぐって
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①「普通の日常」に潜む「残虐な非日常」
あらすじにあるとおり、この映画の舞台はアウシュビッツ収容所のすぐ隣。1枚の壁に隔てられた場所で幸せに暮らす家族の物語だ。
まずこの設定からして、僕らの想像力は1つ拡張される。おそらく日本人の多くが、アウシュビッツ収容所の名前を教科書で見たことがあり、そこで繰り広げられていたあまりにも残酷なナチスによるユダヤ人虐殺の事実について、少なからず”知識”としては知っている。
ただ誰が想像しただろう。その地獄のすぐ隣に、幸せを享受する家族の日常があったことを。虐殺されていったユダヤ人、凶行にはしったナチス。彼ら彼女たちはあくまでも「歴史」に刻まれた人々であって、「戦争」という光景のなかに閉じ込められたような感覚が、少なからずあるのではないか。
しかしこの映画では、現代を生きる僕らと変わらない「日常」が流れている。水遊びに興じ、家族で食事をとって、二段ベッドでは兄弟の会話を交わし、新しく手に入れた服を試着する。10台の固定カメラで撮影されたという映像は、こうした「日常」を淡々と映し出す。
それはあたかも「何事も起こっていない」かのように見える。水遊びをしている川にユダヤ人を焼いた遺灰が流れてくること以外には。二段ベッドで子供たちがユダヤ人の歯をもて遊ぶ以外には。彼女たちが分け合い試着する服がユダヤ人から剥ぎ取られたものであること以外には。
「普通の日常」に「残虐な非日常」が丁寧に、そして密かに描きこまれる。アウシュビッツの事実を知っている観客は、その1つ1つを見逃してはいけないと強烈に自覚しながら、この映画に対峙する。映像として描かれている「日常」を観客の「想像力」が拡張することで、映画『関心領域』は完成するのではないか。
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②徹底された“音”の想像力
そして、そうした演出の極みとも言えるのが「音」の設計だろう。『関心領域』では、ずっと”なにか”の音が響き続けている。それはときに銃声のように、ときに悲鳴やうめき声のように、ときに人体を焼く炎の音のように聞こえる。こうした音の設計について興味深い記事を見つけたので、ここに引用したい。
【(引用)グレイザー監督は音響デザイナーのジョニー・バーンに「1年かけてアウシュビッツの音の専門家になって欲しい」と依頼。バーンは当時のアウシュビッツの地図や証言を読み込んだ上で、当時どんな音が彼らの耳に響いていたのかを研究。実際にアウシュビッツにまで赴き、庭と収容所の距離を測った上で、家の中からの銃声の聞こえ方までをも正確に再現したり、その季節に飛んでいる虫の羽音が何なのかを調べたりまでしたそう】
「オスカー受賞の話題作『関心領域』をネタバレ解説。悪意と無関心はイコールなのか」(mi-mollet)より
『関心領域』に響く音は、基本的にはその発生源から距離(1枚の壁)があり、具体的になんの音なのかがわかるような映像はなく、絶えず「想像」することを要求し続ける。その想像は、「これはなんの音だろう」というところから始まって、次第には「今ひとが殺されたのか」「何人のユダヤ人が焼かれているのだろうか」という惨劇そのものへの想像へと拡張されていく。
それはつまり、不穏な「音」が恐怖や緊張を必然的に生み、観客の心に暗く悲しい波が押し寄せる。そして実はこの言いようのない暗澹たる心情を劇中でも敏感に感じ取っている登場人物がいる。と、僕は思った。
まずは子供たち。おそらく弟と思われる少年は、二段ベッドの下で壁の向こうから聞こえてくる「なにかよくわからない音」の旋律を自然と口ずさんでしまう。そして兄と思われる少年は弟をビニールハウスへと閉じ込めるが、それはまるでナチスがユダヤ人をガス室に閉じ込めて殺す所作をも彷彿させる。その背景におそらくあの空間に漂う残虐で暴力的な空気とそこに響く音があるのではと想像してしまう。比べるべくもないが、夫婦喧嘩の絶えない家庭の子供が暴力的になりやすいと言われるように。
そしてもっと直接的に感じ取っているのは、間違いなく赤子と犬だろう。劇中で「うるさい」と感じるほどに、赤子は常に泣き続け(実際に「よく泣くね」といったセリフもあった)、犬は常に吠え続けている。赤子の泣き声は壁の向こうの悲鳴に共鳴しているように感じてしまう。犬が吠え続けている相手は、おそらくはナチスの狂気であり暴力であろうとも。
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③ランズマンの「表象不可能性」をめぐって
『関心領域』のようなホロコーストをめぐる作品を考えるうえで必ず思い出されるのが、フランスの映像作家クロード・ランズマンの提唱した「表象不可能性」の問題だろう。ランズマンは、とりわけスピルバーグの『シンドラーのリスト』を標的として、ホロコーストをフィクションとして描くことを痛烈に批判し、自身は関係者へのインタビューから構成される9時間のドキュメンタリー映画『SHOAH ショア』を制作した。
「表象不可能性」の問題を簡潔に咀嚼できるほどに僕の教養は深くはないのだけれど、ざっくり言うと、ランズマンは、どのようなフィクションもホロコーストの残酷さを描くことはできないという前提のもとで、最終的には現存する「写真」などの資料すらも全否定してしまう。そしてそのある種の証明として、『SHOAH ショア』では虐殺の描写を映像的には一切排除して、当事者たちの証言そして沈黙のみを淡々と記録している。
そのランズマンに対して、収容所のゾンダーコマンド(特別労務班)が撮影し歯磨き粉のチューブに隠して外へと持ち出された4枚の写真をもって、『イメージ、それでもなお』と反論したのがフランスの哲学家ジョルジュ・ディディ=ユベルマンだ。
ユベルマンは4枚の写真が決して「ホロコーストのすべて」を表象しているとはせずに、それでもなお、だからこそ、想像することを倫理的な責務として課している。そこで必要とされるのは、写真のイメージを前にした恣意的な連想という意味にとどまらない、写真に刻み込まれた痕跡についての徹底的な観察——ときに文字資料や同時代の証言などと組み合わせて——に基づいた「歴史的想像力」である。
本作の完成までにおよそ10年もの年月をかけたジョナサン・グレイザーや制作チームが、詳細で綿密な取材と調査のもとに築き上げたのはまさにこの「歴史的想像力」ではないだろうか。そして、『関心領域』に刻み込まれたその「歴史的想像力」が、私たち観客の「想像力」を導き、拡張させる。
『関心領域』が生み出す「想像の連鎖」はまさに、ゾンダーコマンドが4枚の写真に添えた「拡大した写真はもっと遠くにまで届くはずだ」というメモ、そこに込められた祈りにも似た”なにか”に応えようとしているように思えてならない。