首のレビュー・感想・評価
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本当に見たかった戦国絵巻
そもそも戦国の世は大河ドラマほど美しい筈はないと思っていた。どうせ、騙し合いの殺し合い、愛憎ドロドロで泥まみれの血みどろの戦国時代、武士の清さ美しさなど、作家に描かれた幻想と思っていたけれど。
だから、この映画のような映像が真実であったような気がする。少なくとも血まみれ泥だらけのこの映像が真に迫っているのは間違いないのでは無いでしょうか。黒澤明監督の「乱」が凄いと思っていたけど、後発で時代も進んだこともあるけど、北野武監督がこれほどまでの映像を築き上げるとは思っていませんでした。飛び交う無数の矢、泥まみれで駆けずり回る役者達、本当に首を落としてるんじゃ無いかと見える断首のシーンはタイトル「首」にかけて見事にエグい映像として見せつけられました。
どうにも、「本当はこうだったんだろう」という映画を目指されただけに、歴史との比較をしたくなってしまうけど、あくまでもエンターテイメントとして生まれた映画の筈。周知の歴史観との比較も楽しみの一つになってしまうけど、それを抜きにしても良い映画だったと思います。結末で光秀が自分の首を自分で切って譲るシーンは、彼の相応しい最後だった。光秀は逃走においてもどうして鎧兜を脱ぐことはなかったか。家康のように身をやつして逃げれば良かったのに。そこがまた、彼らしい武士の誇りだったんでしょうね。
信長の衆道もよく語られていた一説ではあるけど、こうした光秀の顛末はどんな歴史書にも記されていないフィクションの筈。こうしたフィクションも用意されているところも、エンターテインメントとしての節度を守っていて、北野武監督、ありがとうございました、と申し上げたいところです。
そして最後のエンドロール。全てにおいて和名に英字も表記されているあたり、世界に勝負する気満々ですね。既に喝采されているとも聞きますが、さあ、北野監督は天下を取れるでしょうか。期待して果報を待ってます。
狂気を引き出すコメディの妙。そのバランス感覚がすごい。
◯作品全体
本作のポスターにも書いてある「狂ってやがる」な人物たちとは対照的に、バランス感覚のある作劇だった。織田家の中でも重臣同士で探りあいがあり、あわよくば上手く出し抜いて突き落そうとする関係性は、言ってしまえば北野監督の『アウトレイジ』と同じ文脈だと思う。しかし、そこにコメディチックな演出や同性愛の要素を入れることで人間味を醸し出し、シリアスとコメディの雰囲気、どちらにも偏りすぎずに物語が展開されていく。
これをシリアスな要素だけに傾けるならば、やはり『アウトレイジ』になるし、シリアスとコメディを切り分けると『ソナチネ』になってしまう。さらに言えば過去2作品はどちらも現代を舞台としていて、「日常の中にある狂気」が一番の特色になっていた。本作では戦国時代である以上、時代劇という背景が付いて回る。その時代の日常ももちろんあっただろうが、今とは異なる生活を見せたところで狂気が引き立つとは思えない。
だからこその、コメディなのだと思う。コメディの写し方は徹底して秀吉、秀長、官兵衛をトリオユニットのように写す。3人が映るカットはほとんどがフルショットで、現代に放送されているバラエティ番組のカメラのようだ。しかし話す内容は光秀への策謀であり、曽呂利の使い捨て方だ。コメディチックな雰囲気をまとうのは各シーンのわずかな時間だが、策謀で生み出される因果の生生しい描写によって「人間味ある狂気」という不気味極まる絵面が作られていた。
物語の流れだけ追ってしまうと、本能寺の変を取り巻く策謀を秀吉と光秀を中心に描いた歴史ドラマ、という大河ドラマや正月特番で見たような作品だ。しかし、戦国時代の人物たちの考えや行動によってもたらされた結果がどれだけ惨たらしいものだったか、というのはドラマでは綺麗に撮られすぎているし、教科書では「倒した」で終わってしまう。一方で、グロテスクだけでは凄惨さばかりが先行してしまう。そこを北野武のコメディという、独特な味わいで絶妙に映しているのが、この映画の凄いところだと思う。
コメディと狂気を内包するラストの首実検のシーンは、まさしく集大成だった。数多く転がった首を整えさせ、三人でそれを吟味する。当時は当然のこととはいえ、やっていることはグロテスクそのものだが、茂助を思い出し軽口を叩きながら首を眺める3人は、コメディであり狂気だ。
こういう、いくつかの要素が絶妙に同じ画面でひしめいているのが、とにかく不気味で、面白い。
◯その他
・序盤で茂助が一番狂ってると思ったけど、最後まで見ていると一番の常識人だとわかる。庶民が狂気の世界に踏み出したことでわかりやすく狂ってしまったけど、一番狂ってるのは狂っているのかわからないぐらい狂気の世界に浸かったやつらなんだな、と。最後まで友人の幻影を見ているところで、狂いきれなかった茂助が透けて見えた気がした。
・なんか『真田丸』っぽいキャラが多かった。徳川家康のちょっと抜けた感じとか、般若の佐兵衛がまんま出浦昌相だったりとか。でも北野監督の気持ちはわかる。出浦昌相やってる寺島進かっこよかったもん。本作もやっぱりかっこよかった。
・信長がバリバリの名古屋弁っていうのがツボだった。「やっとかめ」って歌以外で初めて聞いた。
北野監督のドライな死生観が時代背景にマッチする戦国アウトレイジ
北野武のバイオレンスと戦国時代は相性がよいのかもしれない。近年の時代劇では描かれない、切られてぽんぽん飛ぶ首、たくさんの人がドライに殺されてゆく様を見て、これが当時の命の軽さのリアルかもしれないという感触を持った。
混沌とした時代を生き延びようとする大名や要人たちの権謀術数は、北野監督の手にかかればまんまアウトレイジだ。彼が戦国時代を描きたかった理由が何となくわかる。キャスティングもアウトレイジ感満載で、物語が進むにつれ馴染んだものの、序盤はアウトレイジの面子で戦国芝居をしているように見えて困った。村重が刀に刺さった饅頭を食べるくだりでアウトレイジの歯医者のシーンを思い出した(アウトレイジ連呼)。
大将首が出世を叶える重要アイテムというのが共通認識の時代に、飛ぶ鳥を落とす勢いの秀吉は、敵大将が死んでさえいれば首などどうでもいいと生首を蹴り飛ばす。清水宗治が自刃する時の武士としての段取りも、秀吉の目にはただ冗長なものに映る。
武士の世界の常識に染まらない農民上がりの秀吉に、映画監督として世界に名を馳せても芸人としてのアイデンティティを持ち続ける北野武の姿が重なって見えた。首はさしずめ、常識や形式の象徴だろうか。
予習として原作小説を読んで臨んだところ、いくつかの相違点があった。
原作では男色は「そういう関係にあることの匂わせ」程度の表現だったので、肉体関係のがっつり描写はちょっと驚いた。
また、弥助の白いところを当てるというくだりは原作にもあって、読んだ時点でポリコレ的に心配ではあった。映画化にあたり海外に配慮して削るかと思いきや、そのまま入れてきた。一方で、小説では最後まで信長に逆らうことはなかった弥助が、本能寺の土壇場で信長を裏切り、人種ディスり返しをするという顛末に変更されていた。
北野監督は何を思ってそのような変更をしたのだろうか。これでポリコレ面でのバランスを取ったつもりということか、ただ単にこの方が映画的に面白いと思ったからだろうか。海外のアジア人差別への皮肉と解釈する余地もなくはないが、よくわからない。
身体的特徴をイジる表現が一律にアウトだと言う気は全くないが、テーマを表現する上での必然性は必要ではないかと思う。それがないと、側から見たら単なる差別表現に堕してしまう。
光源坊の容姿は、原作では「行き倒れの雲水同然」「筋張った体」などとあるのみだが、本作ではホーキング青山に白塗りメイクを施して狐面の巫女(?)を侍らせ、唐突に異世界ものの雰囲気を醸し出していた。また、半蔵と斎藤の対決場面だけ、いきなり一昔前のワイヤーアクションになったのは笑うというよりきょとんとしてしまった。
こういった突然の非現実描写は何だったんだろう。笑うところだったのだろうか。私含め客席はしーんとしていた。
光秀の最期は、茂助に背中から刺されて息絶えるというものから、自ら首を切る描写になった。原作はそもそも曾呂利の語る物語という体裁で、曾呂利が死ぬことはなかったが、映画ではラストに殺された。
このあたりは、中村獅童による茂助のキャラ表現を踏まえて、より茂助が情けなく見えるように変えたとか、武士たちの野望の間隙を上手く渡ってきた曾呂利まで死なせることで、時代のシビアさをより強調するとかの意味があるのかなと思った。
キャストで一番エグかった(褒め言葉)のは信長の加瀬亮だ。ささいな対処を間違えたら本当に殺されそうで怖い。史実に基づいた信長像というより、北野武映画のキャラとして最大限面白くなるよう脚色した信長だ。
加瀬亮ってここまでキレキレになれるんだ(他の出演作品をあまりチェックしていない私の不見識かもしれないが)……と茫然としてしまった。エキセントリック過ぎて怖いが、ほとんど不快感がないのも不思議だった。
彼だけでなく、北野監督のバイオレンス映画に出てくるワルはみんな、「ただ悪いだけ」ではなく、ワルの魅力や人間臭さを漂わせている。名だたる俳優が北野作品に出たがるのもわかる気がする。
たけしの秀吉は……演技はうーんって感じなのだが、作品を作った本人なので、これを正解と思って見るしかない。官兵衛&秀長と3人でわちゃわちゃやり取りする場面は面白かった。
序盤で「役不足」の誤用がつい気になったが、そういうのは御大の脚本だからノーチェックなのだろうか。
武将やその奥方などがやたら現代的な感覚で命の重さを語るような今時の大河とは対極の命の扱い。当時の現実なんて誰にもわからないが、こっちの方が断然リアルなのだろうと肌で感じる。
北野監督の、バイオレンス作品における生き死にへのドライな視点が、戦国時代の価値観を現代倫理への忖度で汚さないというある種の誠実さとしても作用しているように見えて、その点はよかった。
Origins of the colloquial term
Kubi is the perfect pairing to Shogun, featuring part of the story of the TV series and some of the same characters with their original names. It’s among the most ambitious Japanese historical productions in recent memory, perhaps since Sekigahara. Based on Kitano’s novel, he balances Japan’s feudal history with his own career achievements. A bloody and stylish look at Japan’s fascinating past.
シンプルというべきか短絡的というべきか、
首が転げ落ちまくるイジメっ子コントを延々と見せることで、お山の大将をめぐる権力争いがとことんバカげている様を描こうというコンセプトはわかる、わかるんだけど、権力をテーマにするにはあまりにも短絡的な戯画化だし、そのコンセプト以上に受け取れるものがないとわかってからも長いので、求めるものが違ったのだと思うことにした。
役者冥利に尽きる戦国顔見世興行
北野武が構想に30年を費やしたという戦国時代劇は、ジャンル映画のルーティンをことごとく駆逐して痛快極まりない。
ネタになる"本能寺の変"をいったいこれまで何回見てきたことだろう。かつて、そこには武士のこだわりと執念と、運命がもたらす悲劇が描き込まれていたはずだが、武版"本能寺の変"では武将たちが男色で繋がり合い、首を取った取らないで一喜一憂している姿が皮肉を込めて描かれる。権力者の野望なんて、所詮そんなものだと言わんばかりに。
明らかに、NHKの大河ドラマで描かれてきた戦国ものに対する反論を感じる。その向こう側には黒澤明が晩年に監督した戦国絵巻があるかも知れない。監督が敬愛する大島渚の『戦場のメリークリスマス』や、特に『御法度』の影響も感じなくはない。
でも、北野監督がベースにして来たお笑いのセンスが本作をユニークなものにしている。嬉々として武将たちを演じる俳優陣の乗りは、見ていて羨ましくなるほど。これは役者冥利に尽きる戦国顔見世興行なのだ。
北野作品らしい奇抜さと過激さ
北野武監督が織りなす異色の戦国時代劇は、彼にしか成し得ない奇抜さと過激さに包まれた劇薬だった。首、それは斬ってもそのままでもシュールの極み。戦国版『アウトレイジ』とも呼ぶべきこの危なっかしい智略と暴力のバトルロワイヤルにおいて、信長役の加瀬亮が頭のネジがぶっ飛んだ切れ味の鋭さで非道の限り(饅頭シーンは夢に出そう)を尽くしたかと思えば、秀吉役ビートたけしは信長の前では決して出しゃばらず、己の館に帰ると息のあった部下達とコントのように計略を練っては、笑いと冷酷さのはざまを器用に行き来する。彼ら猛獣達に振り回されっぱなしの西島秀俊が彼にしか務まらない実直な役どころを巧みにこなす一方、木村祐一がしゃべりの得意な”芸人”として飄々とした存在感を発揮するのが面白い。監督自身の職能とも相通じる特殊な役をあえて戦国鍋へ投じて化学反応の行方をじっくり見つめるところに、奇才ならではのユニークさ、斬新さがある。
浅草芸人から“世界のキタノ”になったたけしが、百姓あがりの天下人・秀吉を演じる必然
ある時代の暴力と上下関係を伴う男性社会の群像を、男色の要素を加えて解釈するという点で、大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」(1983)と「御法度」(1999)の影響を感じる。前者では監督デビューする前のビートたけしが国際的合作に初めて抜擢され、大島監督の遺作となった後者では主演。タブーに挑戦し続けた巨匠の遺志を継いだ北野武監督の集大成的作品でもある。
「本能寺の変」を題材にした本作でたけしが演じるのは、百姓から身を起こし織田信長亡きあと天下人へのぼりつめる羽柴(のちの豊臣)秀吉。脚本も手がけた北野は、秀吉の駆け出しの頃を思わせる元百姓の雑兵・茂助(中村獅童)と、落語家の始祖と言われる曽呂利新左衛門(木村祐一)という2人のキャラクターを配して、浅草芸人の見習いから出発し映画人として世界的に名を成した人生をかえりみるようでもある。
1994年のバイク事故の後遺症がなければ、秀吉の台詞回しの滑舌ももっと良かっただろうか。だが、ビートたけしの今のありのままを映画の中で秀吉に重ねることが、監督・北野武のたどり着いた境地なのだろうとも思う。
キタノ流・国盗り物語、面白かった!
2023年公開、東宝・KADOKAWA配給。
【監督・脚本・原作】:北野武
主な配役
【羽柴秀吉】:ビートたけし
【明智光秀】:西島秀俊
【織田信長】:加瀬亮
【黒田官兵衛】:浅野忠信
【羽柴秀長】:大森南朋
【難波茂助】:中村獅童
【徳川家康】:小林薫
【荒木村重】:遠藤憲一
【曽呂利新左衛門】:木村祐一
ほかに、
岸部一徳、勝村政信、寺島進、桐谷健太、堀部圭亮、大竹まこと、副島淳、津田寛治など
1.脚本すばらしい
劇場公開時、なぜか興味を持てず未鑑賞。
それが幸いして?(笑)、
初見でとても楽しむことができたし、映画館で見たかった、ともならなかった。
戦国時代なんて、きっとこんな感じだったに違いない。
すばらしい想像力だし、
仮説としても面白い。
曽呂利新左衛門なる実在のお伽衆に、
抜け忍というエピソードを付加して狂言回しをさせた。
これも良かった。
2.舞台を観ているような。
俳優たちの実年齢と、歴史上の人物の年齢が
かなりずれている。
羽柴秀吉はたぶん40代半ば、
明智光秀は50〜60代、
徳川家康は40そこそこ、
リアリティを追求するのではなく、
性格付けに重きを置いたキャスティングだ。
映画というより、舞台を観ているような感じがした。
一方で、
戦国武将の生年月日など、おそらくテキトーだろうから、実はリアリティがないとも言い切れない。
3.キタノ流・国盗り物語
2時間を超える作品だが、
くどい部分はなく、サクサク進行して展開も早い。
『アウトレイジ』シリーズよりも、好きだ。
衆道、裏切り、嫉妬、策謀…
時々、笑いを入れながら見せるあたりは、
北野武、喜劇人としての真骨頂ではなかろうか。
名作と呼ぶのは躊躇するが、存分に楽しめたので、
☆4.0
解釈が難しい
正直言って解釈の難しい作品です。率直な感想は救いがないというものでした。この時代、敵方の大将格の首をあげることが立身出世のいちばんの近道であったというのは分かる。作品では、皆が皆、敵と見做した人物の首をあげるためにあるいは生き延びるために血眼になり、謀略、裏切り、替え玉等々何でもありの醜い首取り合戦の様相を描いていた。三英傑として今も崇められる信長、秀吉、家康もそれぞれの個性を存分に発揮しつつ、どうしようもない利己的な人物として描かれていた。一方、武将たちの悪どさに比べ、彼らに仕える忍びの者たちが主君のために懸命に戦う姿は凛々しく描かれていた。ここまで書いてきて思ったのは、この映画はまさしく戦国版アウトレイジである。アウトレイジも親分たちのどうしようもなさに比べ、手下の者たちの潔さ、献身ぶりを描いていたが、いつの時代も偉い奴らはどうしようもないということを描きたかったのか・・・。首がこれでもかと刎ねられるシーンは北野監督お得意のリアリティを感じたが、信長、光秀、村重の男色三角関係のもつれという新(珍)解釈は果たして必要だったのだろうか?
北野武監督+ビートたけし
音楽と同じで、映画にも好みはある。 万人受けするものと万人受けはし...
タイトルなし(ネタバレ)
全体的に締まりがないというか、分かり易い筋道のようなものが他の映画と比べて薄かった。だが、北野武(秀吉)が家臣たちといる時のコミカルな会話と随所の大河ドラマでは描かれないようなリアリティある演出(戦、首洗い、能)はよかった。
オチの「光秀が死んでることが分かれば首なんてどうでもいいんだよ」と言って首を蹴り飛ばすのはすべてをひっくり返す痛快さがあって面白かった。
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