碁盤斬りのレビュー・感想・評価
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基盤斬りって…そういうこと
…草彅剛の武士の落ち着いた
出で立ち顔立ちがいい
果邪ちゃんも日本髪と着物姿が
とても似合ってる
中川大志くんもいい人
…囲碁の名手で武士
囲碁を打つ場面が多く
囲碁を打つ真剣な眼差しが
心…落ちつける
嫌疑をかけられ
借金で娘を…
國村隼さんはいい人に見えて
裏では…と思ったらいい人
唯一悪い人と言えば
斎藤工さんだけ
二人が対峙するところは
草彅の醸し出す雰囲気
と斎藤工の雰囲気が
違う感じがした
時代劇だけど
よき人ばかりできれいに
収まり過ぎかな
という印象
キャスティング完璧!
草彅くんも清原果耶ちゃんも國村隼さん、そして時任くんも!みんなありきの良い作品!
いや、SHOGUNから始まって侍タイムスリッパー、なんか時代劇が観たくて観たくて(笑)こんなにバリエーションが深いなんて…ええなぁ。
時代劇に見た新しさ
この物語は抑揚があり、当時の日本人の考え方に焦点をあてていて面白い。
ただ、それを「考え方」と一括りにするにはいささか「?」が残る。
無鉄砲で顧みずな性格や、一本気で考え方を曲げないとか、この物語のように清廉潔白を心情に生きているのが当時の人々なのかもしれないが、「いざ、仇討ちに」出発した直後にあらぬ嫌疑をかけられたことでいったん自宅に戻ってくるというシーンは首を傾げたくなった。
お絹も「仇討ちに出ていったのに、なんでおかしな問題を抱えて戻ってきたの?」と、突っ込みたくなっただろう。
また、期限直前の門仕舞いと、そこで晴れた嫌疑だったが、どう考えても優先順位はお絹だろう。
娘をないがしろにしてまでゲンベエに文句を言いに行くことが、この時代の考え方、行動の仕方なのだろうか?
当時の考え方を散りばめていたのは、柳田の行動が正当なものだというための伏線なのか?
頭で理解しつつも、このあたりがどうしても悶々と残ってしまう。
さて、
柳田の清廉潔白という一途な思考が碁に表現され、それを知ったゲンベエが彼の美しい心に魅了され、萬屋ケチベエというあだ名を体で表したような人格がまるで別人へとなった。
それはあたかもいいことのように思えたが、こと藩においてのそれは、家臣たちへの重しとなり、結果多くの家臣が路頭に迷うことになった。
敵役の柴田は口先だったが狩野探幽の掛け軸を売り払い、それを家臣たちへ配り生活の足しにした。
この言葉が柳田の心に大きく変化をもたらした。
そもそも柳田は、ゲンベエと碁を打っている最中に訪ねてきた家臣から柴田のことを聞かされ、腹の中が煮えくり返ってしまう。
それが碁に現れ、ゲンベエが思わず「いけません」と言ってしまう。
大きな心の乱れ
それは明らかに清廉潔白を欠いたことだったが、そもそも大きく心が乱れてしまうほど柳田は未熟だったと感じた。
ただそれは当時の思考
妻の仇を討つことこそ、武士の務め
正しいことは常に時代によって変化する
あの時代の価値観は現代の価値観とは違う。
時代劇の難しさ。
さて、
すべてがうまくいった。
ご縁があり、お絹はヤキチと結ばれる。
祝言の2次会だろうか、ゲンベエは柳田にあの日の決着をつけようと持ちかける。
ところが柳田は姿を消した。
柳田が、
ゲンベエとヤキチの首を切る直前、刀は首の代わりに碁盤を切った。
冒頭、貸し玉半年分の請求 お湯も沸かせないほど身の回りのことができない柳田
時間をかけて彫る印鑑も二分にしかならない。
そんな食べてゆくのも困窮した生活をお絹にも強いてきた。
掛け軸を売って生活費にすることは、殿に対する謀反
今までは考えもしなかった事だったが、時に頑なな心よりも方便の方がいいのかもしれない。
彼の中の優先順位が入れ替わろうとする。
刀をすでに振りかぶったとき、柳田にはそのようなことが多々目に浮かんだのだろう。
二人を切れば、萬屋が廃れる。
それはまた不幸を作り出すことになる。
もしかしたら俺(柳田)は、自分の折れないこの思考の所為で皆を不幸にしてきたのか?
このように思ったのだろう。
同時に、お絹に貧乏生活をさせ続けた元凶の碁に終止符を打とうと考えたのだろう。
碁との決別
考え方を改めてもなお、決めたことは決して譲らない。
だから碁を持ち掛けられたとき席を立ったのだろう。
直角にしか曲がれない侍の思考
ようやく娘を嫁に出し、一人また次の場所へと旅立った。
従来ありがちな仇討ちと何かを足したものに、
そこに碁というものをさらに付け加えることで、一瞬の判断で斬ったりする反射的な時代劇の概念を、少し考えてから行動するという概念にしている。
どっちがいいのか考えてから行動する。
会社の考え、教育、人は誰でも何らかのドグマや信じていることによって行動しているが、おそらくそれらは使える場面と使えない場面がある。
出来事が起き、反射的に思った判断はこの場面では正しいのかどうか?
少し考えてから行動しても遅くはないのだろう。
この部分は素晴らしい教えとして受け取りたい。
新しい概念を持った時代劇 面白かった。
武士の誇りをかけて
いつの間にか配信が始まっていたので早速鑑賞。
実直な人柄と清らかな心は武士としての品格を生み出して、草彅剛だから演じられたなぁとしみじみ思いました。
タイトルの意味が最後の最後でようやく解りました。
確かに、時代劇は衰退。棒読みの演技に酷い殺陣
SHOUGUNでのインタビューで、真田が時代劇を憂慮していたが、実感させてくれる作品に出会った。改めて、SHOUGUNの素晴らしさを認識した。国内では、本物の時代劇は、やはり作れない事がよくわかった。何より、観てまったく心が動かない。主演クラスに、適材をせめて配して欲しかった。育てるために、このような作品が必要なのか?
落語では語られない場面も観られます
先日(2024/09/21〜9/22)、2回に分けて観ました。
序盤に落語家の立川談慶さんが登場したのは、嬉しいサプライズでした。柳田格之進役の草彅剛は実直な浪人を演じていましたが、やはり草彅剛が浪人を演じているに過ぎず、悪い意味で予想通りでした。振る舞いはそれっぽかったですが、凄味を感じるには至りませんでした。
やはり本作での功労者は、萬屋源兵衛を見事に演じ切った國村隼に他なりません。丁寧な言葉遣いに見え隠れする“嫌味なあるじ像”を見事に体現してくれました。その嫌味なあるじは、人を見る目に長けており、柳田格之進の実直さに碁を介して気づき、少しずつ立ち振る舞いが変わっていきます。その移り変わりに國村隼の演技力の底深さを感じました。
落語でいうところのサゲ間近、柳田格之進が約束を果たしに萬屋へ赴き、刀を振り下ろした場面。柳田格之進の台詞がなかったのが残念でした。仇に介錯するシーンを前に観せ、緊張感を与える所までは良かったですが😕
落語の一席では語り尽くせない部分を、映像で観られたのは良かったです。落語は人の業の肯定といいますが、『柳田格之進』の一席もまさにその通りで、誰にも起こりうる失念や偶然による間違いや不運を考えさせられ、とても意義があると思います。
本作を気に入った方は、是非落語の方もご覧になってみて下さい‼️
❇️『本当に碁盤を切るんかい😅』 ★彡技名ではないんやな。
碁盤斬り
❇️『本当に碁盤を切るんかい❗️⁉️😅』
★彡技名ではないんやな。
1732年🇯🇵江戸(享保17年)徳川吉宗時代
身に覚えのない罪を着せられ、武士で貧乏長屋に夫婦で暮らしている主人公(草薙さん)囲碁の勝負で萬屋店主(國村さん)と信頼を深めていた。
ある日、昔の出世や囲碁勝負の遺恨て揉めていた武士(工さん)との復讐劇。
◉63点。
★彡主人公の草薙さん。こんな友達はいらないな。クソ真面目すぎて面白くない。💩
🌀吸いも甘いもやねんな。
🟢感想。
1️⃣『心の動きを囲碁で伝える。』
★彡碁石の音や打ち手の采配で心の表現するのが良かった。
2️⃣『そもそも囲碁のルールがわからへん💢』
★彡雰囲気と表情でそこそこ楽しめた。
3️⃣元々落語らしいのだが、どこで笑うのか落語をいつか観てみたい。
🈲ネタバレ少しあるよ!。
3️⃣『主人公の堅物で身勝手さが』
★彡①何故妻を殺されたのに碁で勝負できるの?
②ワイなら娘を吉原に入れるならプライドは捨てるね。
③疑われたのに娘を嫁にあげるかね?普通?
④結婚式なのに途中で消えるかね?普通。
⑤國村さんのうっかり八兵衛には納得できない。
⑥クソ真面目すぎて斉藤工さんが民が言っていた事は一理あるのでしょうか?
⑦斎藤工さんアッサリ討たれるねんな。
⑧クソ真面目なのに絵巻は貰い売るんかい💢
グラグラやな?
⑨國村さんとの碁石勝負捨てて消えるなんて失礼礼儀極まりない💢。だったら嫁を託すな💢
駄目な侍やん。落語やな?
👘🍶🗡️
碁盤斬りの意味は最後にわかる
上手い役者さんばかりなので見応えがありました。
その中でもやはり主役の草薙さんは別格ですね。柔和な顔から鬼のような顔に変わったときの怖ろしさたるや。何やっても許してくれそうな人が本気で人を殺す顔になる。目の奥まで別人に入れ替わったぐらいの変わりよう。
話は落語が素だそうで、どこか古めかしさがあって、最近の現代的な時代劇とはまたちょっと違っていて、個人的には好きでした。
草薙の演技と背景の雰囲気はいい
古典落語を基にしたストーリーだが、この噺はどうしても志ん朝の挙措が目に浮かんでしまう。高潔な武士を草薙が演じているが、なかなか鬼気迫る良い演技をしている。背景、音楽も日本映画らしさが出ていて楽しめるが、残念ながら脚本が少し甘い。終盤に娘を向かいに行った草薙が借りた50両はいつ返されたものなのか。いつの間にか草薙の手中にある。
それに一度は父に嫌疑をかけた男と夫婦になる娘も腑に落ちない。それほどまで心に想っていたのか、その描写もなく、ストーリーを落とすために夫婦に結びつけてエンディング、というやっつけ仕事感がある。そのあたりをもっと踏み込んだ脚本にしたら完成度は格段に上がったであろう。
このままだと志ん朝の噺の方がより響くだけである。
囲碁にもう少し詳しかったら…。
幼い頃、祖父から囲碁のことを教えられる機会があったのだが、自分には陣地を取るという概念が分からず、結局身に付かなかった。なので、本当はヒリヒリしているのであろう勝負の場面が、理解できないもどかしさもあって、全くの個人的な問題なのだが、少し引いた目線での鑑賞になってしまったかも。
例えば、萬屋が、柳田の正々堂々とした囲碁に感化され、商売の姿勢まで知らず知らずに変わってしまうところなどとても清々しいのだが、番頭に下世話な勘繰りを代表させて語らせるところや、弥吉の思慮の足りない言動などに引っかかってしまったのだ。
ただ、役者たちは良い。自分の融通の効かなさが周囲に迷惑をかけてきたことを自覚する柳田を、草彅剛が自然体で演じている。清原伽耶も、ファン目線の甘さもあるかもしれないが、父の血を引くお絹の清廉さを見事に演じていたと思う。
それにしても、父のために娘自ら置屋に自分の身を売りに行って50両を借り受け、しかもそこには碁が絡んでいるというのは、落語「文七元結」からのインスパイアかな…と思ったら、まさに「柳田格之進」という演目もあるそうな。それだけ、オーソドックスな設定ということなのかな?
キシダ斬り
ノワールな作風で知られる白石和彌監督がずっと撮りたがっていたという時代劇。落語の演目「柳田格之進」をベースにしたオリジナル脚本は、“白河の清き流にすみかねて...”をテーマにした現代日本にも通じる内容だ。清廉潔白であることが必ずしも周囲にいい影響を及ぼすとは限らない。“碁盤”に刻まれたます目のように白黒つけたがる几帳面な性格の柳田(草彅剛)が、“石の下”ならぬ“袖の下”を受け取るような(柳の如き)柔軟性も時には生きていく上で必要なのでは、と考えを改める(斬る)ストーリーになっている。裏金問題で揺れに揺れている現在の自民党政権を揶揄した内容とも言えるだろう。
一切株式や不動産投資物件を保有していないことを自慢していた鳩ならぬレイムダックこと岸田首相であるが、派閥解体と同時に四面楚歌で孤立、米国の後ろ楯を必要とした岸田は、結局ネオコンとウォール街の意のままに操られているバイ◯ン政権につけこまれ、大増税=一億総貧困という最悪の禁じ手に及んでしまったのである。清廉潔白な性格が災いし娘に貧乏生活を強いる結果となった柳田のように。かつてその柳田の告発によって藩の中枢から追い出されたという役人たちが、裏金議員と非難され派閥を解体された安倍派自民党議員と重なって見えた方も多かったのではないだろうか。
アメリカ次期大統領候補のハ◯スと同様無◯をさらけ出したネオリバタリアンもどきの小泉Jr.は問題外として、安倍派の復権をねらう保守高市と、アンチ安倍で徒党をくむ石破の一騎討ちになりそうな自民党総裁選挙。芸能人を呼ばなければ集会も閑古鳥だというヒラリーの妹分ハ◯スと、猫食いネタ→エプスタイン島事件→子供の人身売買→アドレノ◯ロム利権を公にしようとしているトランプとの間で現在戦われているアメリカ大統領選挙。生前立川談志が(バブリーな)“今の時代には合わない”として毛嫌いしていた演目を、あえてこの時代によみがえらせた白石和彌監督以下映画スタッフの慧眼を感じさせる一本なのだ。
50両の猫ババを囲碁友である両替屋の源兵衛(國村隼)に疑われた格之進、劇中、その娘お絹(清原果耶)が冤罪をはらすためキョンキョンが経営する売春宿に自ら身売りし金を工面するくだりが出てくる。それはまさに、臓器がほぼ出来上がっている妊娠9ヶ月までの中絶を推奨し、世界各国の紛争や貧困に介入、どさくさ紛れにいたいけな子供たちをいい値で買い取ったり誘拐したりして、性奴隷や臓器売買、はては脳内麻薬抽出のため子供の拉致監禁殺害へと及ぶ一大シンジケートの悪行を、揶揄していたとはいえないだろうか。
現代風の照明や安っぽいスタジオセット内で撮られている、(原作落語にはない)宿敵兵庫(斎藤工)とのクライマックスにおける殺陣などを見ていると、白石和彌が“小林正樹”というよりも“藤沢周平”をやりたかったことは明白である。しかしながら、日本の政治が、アメリカ的なコーポラティズムまたはその急先鋒であるネオリバタリアンどもの手に陥ってしまうのか、それとも、ある程度の柔軟性(裏金)を保ちながら安倍派保守陣営が復権しその防波堤となるのかの端境期にあるだけに、この映画時代劇風の現代劇ともいえるのである。
曲がった〜ことが大嫌い〜♪…
柳田様はそんな人。妻の死の真相を知ってからが一気に物語が急加速。草彅剛の演技も様変わりする。許されざる悪事を働いていた兵庫だが、柳田のせいで藩を追われた者たちへの言及は確かに分からないでもない。袖の下を貰っていたのは自業自得だが程度の問題かと。ラストは柳田はその者たちに掛け軸売った金を渡しに旅に出たのだろうか。碁盤斬りって、そのままの意味だったか。清廉潔白の人はある意味怖い。しかし、一時でも娘を売り飛ばすような真似は腑に落ちない
復讐劇
全く期待しないでアマプラ配信でやってたので何気なく観た。
いや、面白かった!
時代劇はあまり好きではないが、これは面白かった。
やっぱり復讐劇は王道で面白い!
意地悪い質屋が囲碁の強い侍と出会って
良い人になっていく展開も良い。
でも、ただ一つ納得いかない展開がある。
それはラスト!
いくら好きだったとはいえ、父親を盗人扱いして、
しかもそのせいで、自分が売春婦にまでさせられた男と
その後、結婚するなんて!絶対にありえないでしょ!
絶対に納得出来ない!!この親子、馬鹿なの!?と思った。
普通そんな人、信じられないし、許せないでしょう!?
観ていて「そんな馬鹿な!?ありえないだろ!」と
大きな声を出して突っ込んでしまった。
いくらなんでも美談にし過ぎ!
最後の最後で興醒めしました。
でも、全体的には良く出来た作品だと思います。
期待度○鑑賞後の満足度△ 囲碁の好きな人は分からないが、映画としては何だかなぁという出来である。良い部分も有るのだか全体として不細工。演出や脚本にも問題があるが最大の戦犯は草彅剛のミスキャスト。
①草彅剛は大部分の出演作品では好演である。しかし、本作では侍役が全く似合わない。表情も台詞も違和感だらけである。
だから、柳田格之進が結局どういう人物なのか全く見えてこない。
ついでに言うと、斎藤工も現代性が前面に出過ぎて全く侍に見えない。殺陣も下手(一応剣道をしていたので分かる)。
もし、演出の意図が新しい侍像を描くことにあったのなら、申し訳ないが全くの失敗。
②後付けで知ったが、元々は落語の話との事。そう言えば、クライマックスで源兵衛と弥吉とが互いに「自分の首を切ってくれ」と掛け合うシーンはそれらしい味が出ていたが、突然そういう流れになったような演出でチグハグ感が目立つ。
お絹を吉原に迎えに行ったところから弥吉との祝言のシーンで、“ああ、人情話だったんだ”と思ったら最後は「木枯し紋次郎」みたいで、余韻を残したかったのかも知れないが、蛇足みたいにしか感じられなかった。
③万事こんな感じ。
映画にいろいろな要素を盛り込むのはよろしい。コミカルなシーン、心暖まるシーン、緊張感あるシーン、悲劇的なシーン、怖いシーン、静かなシーン、アクションシーン等々、それらの要素が、ジグソーパズルのように全てのピースがピタッと嵌まって一つの絵が完成されるように、一つ一つの要素が個々の役割を際立てつつお互いを引き立て合いながらハーモニーとなり、全体として均衡が取れてかつ豊潤な映画となれば言うことがない。
それが、本作は未完成なジグソーパズルみたいな感じ。
④最初は裏長屋に住む何か曰くありげな浪人(柳田格之進)と、その世話をしつつ反物の繕いなどで生活を支える健気な娘(お絹)。
時代劇にはよくある設定で始まる。まあ、導入部として無難。
よくある設定ではあるが、明るく健気な娘という在り来りな人物設定ながら、清原果耶の佇まい・存在感は父親役の草彅剛の違和感を補って余りある。
武士の娘らしい凛としたところ、ちょっとしたことでは揺るがない芯の強さを持ちながら明るく心がキレイで誰からも好かれる、守ってあげたいと思わせる健気さを同時に表現して、相変わらずその人物造形の上手さに唸らされる。
最後まで安定感のある演技と存在感で映画を支えている。
贔屓し過ぎかも知れないが、この映画を救っている三大要因の一つは彼女である。
やがて、
柳田の「真っ直ぐさ加減」
「碁敵(ごがたき)は憎さも憎し懐かしし」という川柳があります。
「笠碁」という落語の枕によく使われますけれども。
普段は好敵手だけに、いったんケンカ状態になると収拾がつかなくなるが、そこは同好の士の間柄のこと、蟠(わだかま)りが解ければ、また元の鞘(さや)に戻ることのできる間柄でもあるのですけれども。
相手側の荒唐無稽な言いがかりも、無視して相手にしないことではなく、(どんなに困難であっても)相手の言い分を是として受け止めたうえで、その言い分が「言いがかり」だった場合のペナルティを厳しく設定する―。
それが本作の柳田の「真っ直ぐさ加減」というものだったのでしょうか。
本作の主演の草彅剛といえば、評論子的には、どうしてもミッドナイトスワンの凪紗の印象を拭えないのですけれども。
しかし、本作は、草彅剛にとっても(初演ではないようですけれども)時代劇俳優としての新境地といえるのかも知れません。
そして、これまた時代劇では新境地を拓いたという白石和彌監督が、「武士の体面」やその土壌となっている「武家社会」など、相変わらず鋭い視点で(そろそろ時代から浮きつつある?)世相を捉えている点は、『日本で一番悪い奴ら』などの現代ものの作品と変わらない一本でもあったと思います。
つまり、50両の冤罪をかけられた時、「やっていないものはやっていない」と突っぱねるのがふつうの感覚なのだろうと思われます。
(別作品「シャイロックの子供たち」で、横領の嫌疑をかけられた女性行員に、その上司の係長は「やっていないなら、もう泣くな。胸を張っていろ。」とも声をかけています。)
しかし、「嫌疑をかけられただけでも、末代までの恥さらし」と受け止める武士道は、もう既に、この当時においても、世間の感覚との間にははズレが生じてきていたのかも知れません。
そこにも思いを致すと、本作は、充分に佳作としての評価に価する一本だったとも思います。
(追記)
柳田から50両を受け取ったときの弥吉の約束どおり源兵衛・弥吉の首を刎(は)ねる代わりに(源兵衛自慢の)碁盤を切ったのは、単に武士として、いくら約束とはいえ、身分違いの町人に過ぎない)源兵衛・弥吉の首を刎ねることが躊躇(ためら)われた故でしょうか。それとも、源兵衛・弥吉の庇(かば)い合いの心根の美しさに、思わず手元が狂ったものなのか。
柳田の真意を推測させるようなシーンもなく、その点は(本作の構成上は)不明ということにはなっているのではありますけれども。
もし、前者であるとするならば、いかに碁打ち仲間として気心を通じた仲であっても、柳田は源兵衛を、その程度の身分としか見ていなかったことにもなりそうです。
(評論子としては、柳田の真意は前者であって、本作としては、そこに士農工商という当時の身分制社会を暗喩したと受け止める印象がより強いようにも思われます。)
(追記)
柳田が梶木に申し入れた仇討ち(決闘)が、囲碁の勝負だったことは、面白いと思いました。評論子は。
もちろん、それは囲碁をモチーフに展開してきた本作のストーリーとしては「展開上の都合」という、オトナ的な理由もあったのだとは思いますけれども。
しかし、梶木は足が不自由で歩行は杖に頼っている身。
「いざ尋常に勝負、勝負」ということでお互いに抜刀するなら、柳田が圧倒的に有利なことは明らかで、それで梶木の首を討ち取っても、本当の意味では仇討ちを果たしたことにはならないというのが、柳田の本意だったのだと思いました。評論子は。
むしろ彦根藩に無双の打ち手としての誉れ高い梶木には、彼の得手の囲碁での勝負を挑む―。
柳田の正義感の「真っ直ぐさ加減」というものは、そんなところからも窺い知ることができるのでしょう。
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