ヤジと民主主義 劇場拡大版

劇場公開日:

ヤジと民主主義 劇場拡大版

解説

2019年7月15日、安倍元首相の遊説中に政権批判の声を上げた市民を警察官が取り囲んで移動させた「ヤジ排除問題」を4年間にわたって追及したドキュメンタリー。

表現の自由と民主主義がおびやかされたとして、当時メディアで大きく報道されたヤジ排除問題。北海道放送が2020年に放送したドキュメンタリー番組「ヤジと民主主義」はギャラクシー賞や日本ジャーナリスト会議賞など数々の賞を受賞し、書籍化もされた。その後、排除された市民2人が原告として警察側を訴え、1審は勝訴したものの高裁では判断が分かれ、双方が上告し裁判は続いている。

この問題を4年間にわたって追い続ける取材班が、当事者および専門家たちに追加取材を行い、テレビや書籍では伝えきれなかった問題の深刻さを浮き彫りにする。作家の落合恵子がナレーションを担当。

2023年製作/100分/G/日本
配給:KADOKAWA
劇場公開日:2023年12月9日

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(C)HBC/TBS

映画レビュー

3.0与党や県警の問題は言うまでも無く、左派の問題点も浮き彫りにしている。

2024年6月25日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

ヤジ排除における北海道警の違法行為の問題点はよく描かれている。
が、一方で原告側たちがヤジを飛ばしてまで安倍政治の何が問題だと思っているのかは、なのかはよく伝わってこない。こういった映画を好む左派にとっては言うまでも無いのかもしれないが、それではドキュメンタリー映画としては説得力が低い。
問題のある政治に対しては辞めろと声を上げても良いのだと思わせるだけの説得力を欠いている。

ヤジ問題と直接関係ないが、桃井希生氏が「トランスジェンダーの人に勇気づけられた」とコメントしているが、非常に底の浅い正義感を感じる。

マイノリティー=正義ではない。そもそもトランスジェンダーは数は少ないが必ずしも抑圧されたマイノリティーかと言えばそうではない。特に女性を自認する男性である「トランス女性」の場合は。
それこそ海外では未手術のトランス女性であるリア・トーマスという水泳選手が他の女性選手ガイやがる中、同じ女子更衣室を下半身丸出しで使ったり、男子では箸にも棒にもかからない記録しか出してなかったのに「女子選手」として次々に記録を塗り替えている問題を知らないのだろうか。「トランス女性」と言う名の自認女性男性に奪われた女子スポーツでのメダルの数は3桁以上にのぼる。
他にも罪を犯して捕まった後に女性を自認し、女性刑務所に収監された「トランス女性」が女性囚人をレイプしている事件も多発している。

日本でもトランスジェンダーの経産省職員(身体男性)が、性的適合手術を受けることを条件として職場の一部の女子トイレの使用を許可されいわば本人専用のトイレがあるにもかかわらず、実際には手術をせず、他の女性と同じ女子トイレを使えないことを不服として裁判に訴え、最高裁はあろうことかこの「トランス女性」の訴えを認めた。

トランス問題においては本来のマイノリティーである身体女性の人権が無視されている。スポーツや着替え排泄など身体性が重要視される場所において、男性の身体を持つ人はトランスだろうが何だろうが、マイノリティでもなんでもない。紛れもない強者だ。

マイノリティは正義、与党の悪行は広く知られている、という思い込みで発言しているから左派は支持を得られない、という左派の問題点がむしろこの映画で浮き彫りになったのではないか。与党や県警の問題点を追求するなら左派はもっと慎重になるべきだ。

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Jax

3.0演説に対するヤジも表現行為なのですけれども…。

2024年5月20日
PCから投稿
鑑賞方法:その他

政治家の演説に対して、自分が反対の考え方を持っていることを主張することも、表現行為の一形態として尊重されるべきことは、言うまでもないと思います。評論子も。

ただ、他方で妨害なく演説を聞く権利も聴衆には、上記の主張とまったくの等価をもって保障されていることを、評論子は、見落としてはならないと思います。
その限りで、表現行為としての「ヤジをする権利(自由)」も、一定程度の制約を受けることは、やむを得ないのではないでしょうか。
そう思いました。評論子は。

むろん、表現行為(とくに本作のような政治的な表現行為)は、民主主義社会の基盤をなすものとして、手厚く保障されるべきものであることには多言を要しないと思うのですけれども。

一方で、それが「表現」という物理的な実態を伴った行為でもあり、それ故に必然的に他者(相手)な有形無形の影響を与えるものであるという性質から、100%自身(権利者)の内面に留まるような「思想・良心の自由」のように、いつ、いかなる場合にも絶対的・無制約に保障される権利(自由)でないことも、他人を侮辱するような表現行為(ヘイトスピーチ)のような例を引くまでもなく、明らかだとも思います。

そして、ここで「妨害なく演説を聞く権利(自由)」と「ヤジをする権利(自由)」との調整原理として重要になってくるのは、「妨害なく演説を聞く権利(自由)」というのは、その演説を静かに聞く以外の方法によっては実現・享受できないのに対して、その演説(その演説の政治的な立場)に反対する方法の一態様である(その演説に)「ヤジをする権利(自由)」には、その演説にヤジをする以外にも、実質的に等価の表現方法が、別にあり得るということ、つまり他に選ぶことのできる代替的な手段があるということではないかと、評論子は思います。
ヤジをする人以外の人の「妨害なく演説を聞く権利(自由)」を妨げない方法・態様によって。

現に、本作でヤジをした人の一部の人は、同じ趣旨を大衆に訴える方法として、賛同する仲間を募って、デモ行進を企画・実行しているわけです。

安倍晋三首相(当時)のあの演説にヤジをしなければ、自らの意思表示をする方法がないか、あるいは、あったとしてもかなり実現が困難だったとしたら、上記のような調整原理は使えないことにはなりますけれども。
少なくとも、本作のようなケースでは、そういうような不可能・困難があったとは言えなさそうです。評論子の受け止める限りでは。

(国会とか、地方議会とか、自律的権能を与えられている狭い世界=自律的部分社会におけるヤジと、本作のような公共の場所でのヤジとが、同列に論じられないことも、また明らかと思います。→議会の議決は(附帯決議という方法もないではないのですけれども)基本的に賛成・反対、YES・NOの二者択一しか意見を表明できないので、そのディテールを補う意味で、討論の過程での議場における議員のヤジには、また違った意味合いが出てくる。)

そうすると、評論子的には、結論的に言ってしまえば、地裁の判断よりは、どちらかというと高裁の判断の方が、本件については当を得たものだったように思われます。

もっとも、この手の問題には多様な見解があり得ることを、評論子としても否定するものでは、決してありません。
そして、制度的にも、当事者が求めている(上告している)という段階で、まだ最終審である最高裁の判断が示されている段階でも、ありません。
(あと、上記のような表現行為の保障の範疇(はんちゅう)の問題のほか、本作の場合は、警察かヤジをした人を、いわば強制排除してしまっているので、その強制排除の根拠法令が何か、そして、その法令の適用上、警察による本作の強制排除が適法行為であったかという問題も、もちろんあったと思います。→本件の事件としての内容面ではともかく、訴訟技術的には、むしろこちらの方が中心的な論点だったとは思います。)

ドキュメンタリー作品としての「出来栄え」ということでは、優に佳作の評価に値すると思います。

(追記)
レビュアーのみなさんも、もちろんそれぞれの印象・お考えをお持ちのこととは思いますが、上記はあくまでも、本作に対する評論子のレビューの範囲内ということで、押さえていただきたいと思います。

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talkie

4.0終始、憤ってしまう。

2024年5月3日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:映画館

権力への忖度による警察の違法行為。
暴行行為があったとする道警の意見を受け入れながら、暴行者を現行逮捕すらせず被害者を取り抑えた事には触れもしない裁判官。
ああいう雰囲気に大衆が染まってしまっているのは忖度メディアに相当の責任があると思う。
HBCはドキュメントを制作したくらいでメディアの責任を果たしたとは思わないで欲しい。贖罪の入口に立てただけ。

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マダマダサンデー

4.0自分の感じた思いの大切さ

2024年3月7日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:映画館

マイノリティになってしまっても、孤独を感じてしまっても、自分の思いはしっかりと手放さずに正直に表現する大切さを感じました。

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はなてん