ヤジと民主主義 劇場拡大版のレビュー・感想・評価
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演説に対するヤジも表現行為なのですけれども…。
政治家の演説に対して、自分が反対の考え方を持っていることを主張することも、表現行為の一形態として尊重されるべきことは、言うまでもないと思います。評論子も。
ただ、他方で妨害なく演説を聞く権利も聴衆には、上記の主張とまったくの等価をもって保障されていることを、評論子は、見落としてはならないと思います。
その限りで、表現行為としての「ヤジをする権利(自由)」も、一定程度の制約を受けることは、やむを得ないのではないでしょうか。
そう思いました。評論子は。
むろん、表現行為(とくに本作のような政治的な表現行為)は、民主主義社会の基盤をなすものとして、手厚く保障されるべきものであることには多言を要しないと思うのですけれども。
一方で、それが「表現」という物理的な実態を伴った行為でもあり、それ故に必然的に他者(相手)な有形無形の影響を与えるものであるという性質から、100%自身(権利者)の内面に留まるような「思想・良心の自由」のように、いつ、いかなる場合にも絶対的・無制約に保障される権利(自由)でないことも、他人を侮辱するような表現行為(ヘイトスピーチ)のような例を引くまでもなく、明らかだとも思います。
そして、ここで「妨害なく演説を聞く権利(自由)」と「ヤジをする権利(自由)」との調整原理として重要になってくるのは、「妨害なく演説を聞く権利(自由)」というのは、その演説を静かに聞く以外の方法によっては実現・享受できないのに対して、その演説(その演説の政治的な立場)に反対する方法の一態様である(その演説に)「ヤジをする権利(自由)」には、その演説にヤジをする以外にも、実質的に等価の表現方法が、別にあり得るということ、つまり他に選ぶことのできる代替的な手段があるということではないかと、評論子は思います。
ヤジをする人以外の人の「妨害なく演説を聞く権利(自由)」を妨げない方法・態様によって。
現に、本作でヤジをした人の一部の人は、同じ趣旨を大衆に訴える方法として、賛同する仲間を募って、デモ行進を企画・実行しているわけです。
安倍晋三首相(当時)のあの演説にヤジをしなければ、自らの意思表示をする方法がないか、あるいは、あったとしてもかなり実現が困難だったとしたら、上記のような調整原理は使えないことにはなりますけれども。
少なくとも、本作のようなケースでは、そういうような不可能・困難があったとは言えなさそうです。評論子の受け止める限りでは。
(国会とか、地方議会とか、自律的権能を与えられている狭い世界=自律的部分社会におけるヤジと、本作のような公共の場所でのヤジとが、同列に論じられないことも、また明らかと思います。→議会の議決は(附帯決議という方法もないではないのですけれども)基本的に賛成・反対、YES・NOの二者択一しか意見を表明できないので、そのディテールを補う意味で、討論の過程での議場における議員のヤジには、また違った意味合いが出てくる。)
そうすると、評論子的には、結論的に言ってしまえば、地裁の判断よりは、どちらかというと高裁の判断の方が、本件については当を得たものだったように思われます。
もっとも、この手の問題には多様な見解があり得ることを、評論子としても否定するものでは、決してありません。
そして、制度的にも、当事者が求めている(上告している)という段階で、まだ最終審である最高裁の判断が示されている段階でも、ありません。
(あと、上記のような表現行為の保障の範疇(はんちゅう)の問題のほか、本作の場合は、警察かヤジをした人を、いわば強制排除してしまっているので、その強制排除の根拠法令が何か、そして、その法令の適用上、警察による本作の強制排除が適法行為であったかという問題も、もちろんあったと思います。→本件の事件としての内容面ではともかく、訴訟技術的には、むしろこちらの方が中心的な論点だったとは思います。)
ドキュメンタリー作品としての「出来栄え」ということでは、優に佳作の評価に値すると思います。
(追記)
レビュアーのみなさんも、もちろんそれぞれの印象・お考えをお持ちのこととは思いますが、上記はあくまでも、本作に対する評論子のレビューの範囲内ということで、押さえていただきたいと思います。
終始、憤ってしまう。
権力への忖度による警察の違法行為。
暴行行為があったとする道警の意見を受け入れながら、暴行者を現行逮捕すらせず被害者を取り抑えた事には触れもしない裁判官。
ああいう雰囲気に大衆が染まってしまっているのは忖度メディアに相当の責任があると思う。
HBCはドキュメントを制作したくらいでメディアの責任を果たしたとは思わないで欲しい。贖罪の入口に立てただけ。
理性と感情をわけること
座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルて鑑賞
観ている側として、いろいろ思う事はあるけれど、
どんな主義主張で、どんな人だから、自分には受け入れられなさそうという感情があっても、特定の主張が意図的に退けられることは理性的に考えて許されない、という話が刺さる。
ただ、この世の中は理性だけで成り立つわけでもないので、どちらにも偏ることなく認識するのが大事であるけれど。
権利はみんなにある
政権を批判する権利は誰にでもあるけど、
演説を聴きたくてあの場所にいた人たちには、演説を聴く権利がある。演説を聴いている人の横で 安倍かえれ とか バカヤローとか大声でどなれば、聴いている人は聴きにくいし、不快に思うはず。こえをあげた方はご自分の権利ばかりを主張していらしたが、自分が、気に食わないと思っている政治家の演説を聴いている人には人権がないと思っているのか。映画だからそれぞれの主張で作品を作るのは良い。しかし、映像に映っている2人の行動はどうなのか。不快に思った聴衆が危害を加えようとするかもしれない。それを未然に防ごうするのは警察の仕事。その後の銃撃事件や爆発物事件を考えても、警察の対応には合理性があるのでは。政権を批判するのは良いし、それが民主主義。それはあの場所でなくてもできるはず。
民主主義とは名ばかりで終わってならない!
メディアの前で起こった"ヤジ排除問題"
政権批判をした事に対して法的根拠がないまま排除された一連の流れのドキュメンタリー映画は言葉を届ける事すら出来ない社会的に一刀を投じていた。
憲法で保障されてる日本の法治国家が疑わしい方向を向いている。そんな感じを受けたけど最高裁の審判が待たれてる様だ。
原告ふたりの言い分を司法がどう判断するのか興味ある問題だと思った。
ただ元安倍首相の射殺事件が警護の観点から卑劣な道警へ有利な判決となった高等裁には納得出来なかった。
声を上げることの大切さがよく分かる映画
この映画は声を上げることの大切さを描いた素晴らしい映画でした。自然と涙が溢れてきました。
中さんという女性が桃井さんという女性が警察に拘束された際に寄り添っていたこと、大きな意味があったと思っています。一人でも多くの方に観ていただき、民主主義の大切さを感じていただきたいと思っています。
無謬性に囚われる
いつもの映画館①で
②の方は今年3月で閉館だと
東口の単館系がなくなるのはさみしい
で映画
今日で終わりなので駆け込み
ちょうど休暇だったので
14:55開始でも問題なし
最近街を歩いていて
原発 軍拡 消費税 差別などに異を唱える人たちに会うと
感謝する気持ちになる
オラたちの代わりに声を上げてくれていると
似たような言葉がこの映画の最後の方で出てきた
自分は図らずもこのような立場になって
どうしようもなく巻き込まれたが
公共のためにやるしかないと
ホントこういう口うるさい人たち
ABEが負けるわけにいかないと言ったこんな人たち
おとなしくしていたらいいようにされる
ABE的なもの
・議論を嫌う
・強がる
・徒党を組む
・めんどくさいことを嫌う
・近道を好む
・単純化したがる
・Yes or No
・そのくせ自分へのNoを嫌う
ABEの演説にヤジを飛ばして排除されたひとが
一旦裁判に勝つも
ABEが演説中に殺されて
ん やっぱりヤジは危ないかもと判決をひっくり返される
うまく表現できないが
後に起きたトラブルを過去の出来事に遡って当てはめようとする
違和感
ヤジを排除した警察官は滞りなく終わらせたかっただけ
その場を何とかやり過ごしたい
それに抵抗する異物 取り除く
言いくるめようとするが手強い
手痛いしっぺがえしを喰らう
無謬性に囚われる
つじつまを合わせるために頑張る
あぁ嫌だ
最高裁に行きたくないですかと
気分を上げて快哉を放つ彼女を応援する
ドキュメンタリー映画
ドキュメンタリー映画なので賛否があると思いましが、私自身も期待していませんでしたが、問題提起としては良かったのでないか。
ドキュメンタリー映画の大変さがわかるのは、提供がHBCしかついていないは上映迄に大変なハードルを越えてきたのが理解出来ます。
裁判を闘った二人は素晴らしい。結局、もと安倍秘書官の忖度。しかし、...
裁判を闘った二人は素晴らしい。結局、もと安倍秘書官の忖度。しかし、亡くなったもと道警のような人もいるというのに、一般の警察官の民度のあまりの低さ。ヤフーコメントは廃止しろとは言わないまでも規制しろ。彼女が言ったように反対派が暴力を振るえば、ヤジが排除できるとか恐ろしい。最高裁、頑張れ。
札幌高裁の裁判長、忖度だろ
2019年7月15日、安倍元首相が札幌駅前で遊説中に、安倍やめろ、とか、増税反対、と政権批判のヤジを飛ばした市民を警察官が取り囲んで強制移動させた「ヤジ排除問題」を4年間にわたって追及したドキュメンタリー。
表現の自由がおびやかされたとして、排除された市民2人が原告として警察を訴え、1審は勝訴したものの高裁では判断が分かれ、双方が上告し裁判は続いているとのこと。
最初にナチスが共産党を攻撃した時・・・、から始まるマルティン・ニーメラーの言葉は、自分はその集団の関係者じゃないから、と見て見ぬふりをしていたら、自分が迫害対象になった時、誰も声を上げてくれる人はいない、と言うことになり、声をあげる事の大切さ、を知ることになり、心に響いた。無関心ではいけないのだと。
このヤジ事件で、法的根拠がほとんどないのに拘束する警察もどうかしてるが、札幌高裁の裁判長も政権に忖度しすぎだと感じた。
国会でもヤジくらい飛ばしてるのに、あれくらいで何がいけないのかと、憤りを感じた。
大杉雅栄さんのヤジはちょっと品がないところもあったが、
桃井希生さんは増税反対だけだったし、声をあげたのは勇気あるなと思った。そして可愛かった。
アベノノロイはまだまだ続いている
本日、検察は安倍派の裏金問題について起訴しない方針を固めた。もはやこの国の政府に自浄作用を求めるのは、魚屋で野菜を求めるような物なのかもしれない。閉塞感で一杯になる。
ヤジとは表現の自由か?
ヤジとは自分の思うことを 周辺の状況も考えず吠えることは言論の自由とも言えるが、その行動を止める事が 民主主義を抑制することか?と言えば 違うように思う。ただ 政治家も国民が自己主張する場を設けて 意見を戦わす事も考える必要がある。
ヤジと民主主義
なかなかの秀作だと思います。
観ながら怒りで身体がふるえました。
ヤジに対しての警察の取り締まりは、まるで治安維持法の復活さながらでした。
この作品を観ながら、結局警察然り、自衛隊然り、国民を守るために存在するのではなく、国家権力の手先として存在しているということが、心底わかりました。
このことは肝に銘じておかなければならないな、と。
反権力の集会時に、拡声器で大きな声、音で集会を妨害する右翼団体を、全く取り締まらない警察。ヤジは取り締まるのに右翼の妨害は取り締まらない。
おかしなことです。
日本もだんだん独裁国家の道を歩み始めているような気がします。
反対側の視点は?
映画だし一方側視点の構成でも面白いのだが、道警側というか反対側の視点も見てみたかった。この映画だけ観るとあの二審の裁判所が政治?の圧力に屈していて、法治国家が完全に崩壊している。ほんとにそうなの?そこまで日本でダメな国なの?世界で1番成功した社会主義な国とは聞くけど。
銃撃みたいなことがないように警察を動きやすくしておかないとみたいな意見もわからないでもないが、やはり話が違う。
何かしら原告側にも排除される理由があるのかな?
とりあえず、一審の判決のシーンは涙が出ました。
私自身はとても勇気がない
やじと言えば、議会議場で、党派勢力をバックにした争いの一環という印象があるけれども、本作では、特に安倍元首相が街頭演説をしている最中に、賛同側ではなく反対側に立って、独りで叫ぶなんて、警察から排除されなくても恥ずかしくて私には到底勇気を出すことはできない。一人は、湯浅誠氏の著書を愛読するソーシャルワーカーで、それだけ信念が強いことがわかるし、デモ行進の組織化も、まさにソーシャルアクションの一環であろう。もう一人は当時大学生の女性で、現在でこそ労働組合職員となり、職務上、演説の機会も増えているであろうけれども、警官による説得の様子をみても、子ども扱いされ、親に通報されて説得されることも予想され、とても覚束なさそうである。ところが、青い芝の会の運動に共鳴した芯の強さももち合わせていた。
一審は全面勝訴ながら、二審は二人の首相への襲撃事件の影響もあって、一部勝訴という結果に終わった。三審はあまり期待できないかもしれないけれど、頑張ってほしい。
私自身はとても勇気がないからやじは飛ばさないだろうし、やったとしても、簡単に説得を受けて止めてしまうだろうし、自分の伝えたいことが伝わるような最善の方法を考える方が建設的だと思っている。
自由民主主義を目指すのか、体制維持を目指すのか、それが問題だ
今年ひとつのトレンドとなった(?)選挙や政治を扱ったドキュメンタリーの掉尾を飾る作品でした。選挙を取材する人が主人公となった「劇場版 センキョナンデス」、「シン・ちむどんどん」、「NO 選挙, NO LIFE」、選挙に直接関わる人が主人公だった「ハマのドン」、選挙を離れて安倍元首相の国葬の日が行われた1日の全国の風景を取材した「国葬の日」と、取り上げ方は様々ありましたが、本作はこうした類型からすると「ハマのドン」と同様のジャンルになるように思われます。ただ「ハマのドン」と決定的に違うのは、「ハマのドン」は主人公が選挙運動をする側だったのに対して、本作では安倍元首相の演説中にヤジを飛ばして警察に排除されたお二人の一般の方である大杉さんと桃井さんが主人公でした。
”事件”が起こったのは2019年の参院選挙。札幌で応援演説をしていた安倍首相(当時)に対して大杉さんがヤジを飛ばすと、大勢の警官が飛んできて排除されてしまう。それを見ていた桃井さんも、大杉さんが排除されたことに触発されてヤジを飛ばしたところ、同様にこちらも排除されてしまう。その後二人は不当な排除であったとして北海道警を相手に国家賠償を求める裁判を起こす。一審は二人の勝訴だったものの、その後2022年の参院選挙期間中に安倍氏が狙撃され亡くなるという大事件が発生。さらに2023年4月の統一地方選挙期間中に、岸田首相が応援演説に出向いた先で襲撃されるという事件も発生。その2カ月後に出た二審判決では、安倍氏銃撃や岸田首相襲撃の影響があったのか、大杉さんは敗訴、桃井さんは勝訴という結果になり、二人の明暗が分かれることになるところまでで映画は終了。二審判決に不服な大杉さんも道警も上告したため、現在最高裁で争われているようだけれども、現時点では結論は出ていない模様です。
上記のような内容の作品でしたが、これを観て思ったのは、究極的に日本がどういう国を目指していくのか、ということだと思いました。それこそ『外交の安倍』と言われた安倍氏は、首相時代の国会での演説などで、その外交方針について「自由、民主主義、基本的人権、法の支配という基本的価値を共有する国々との連携の強化する」とたびたび発言していました。これは覇権主義的に勢力拡大をしている中国を念頭に置いたものと解説されていますが、これを読むと、安倍政権としても、日本は「自由」や「民主主義」を標榜し、「基本的人権」を尊重し、「法の支配」を行う国であることを自認しているようです。
しかしながら、実際は当の安倍氏の選挙演説でヤジを飛ばしただけで警察に排除されてしまうのが実情で、これではまるで中国と同じ路線ではないかと思ってしまいました。
先ごろ香港の民主活動家の周庭(アグネス・チョウ)氏が、カナダに亡命したという報道がありました。一連の香港民主化運動に対する中国政府の”弾圧”には、日本の世論も概ね批判的ですが、中国政府にしてみれば周庭氏は反政府活動を行った不逞の輩です。でも中国は共産党支配を絶対視し、それに反する分子は徹底的に取り締まるのが国家の方針であることを隠しておらず、「自由」も「民主主義」も「基本的人権」も看板にしていません。そうした中国の態度を念頭に、上記の安倍演説があると解説されている訳ですが、当の日本、しかも安倍氏の演説において、どちらかと言えば中国風のことをやっているとすれば、羊頭狗肉そのものでしょう。
勿論安倍氏銃撃や岸田首相襲撃というあってはならない事件が起きたことは事実なのですが、本作に登場する専門家による解説によると、これらの事件の犯人は、ヤジを飛ばすどころか気付かれぬようにターゲットに近づいて犯罪行為に及んでおり、ヤジを排除すれば防げた事案とは到底思えないとのこと。テロ行為を事前に察知して防ぐというのは当然目指すべきところですが、ヤジを飛ばしたら即排除というのは、チト違うのではないかと思うところです。
この辺りの解釈は人によって様々と思いますが、「自由、民主主義、基本的人権、法の支配を基本的価値とする」ならば、軽々に排除などすべきではないし、逆に体制維持のための秩序を最上の価値とするならば、現在の「基本的価値」という看板を取り下げるのが筋と言うものではないかなと思った次第です。
あと、本作はHBC(北海道放送)という地元テレビ局が制作したとのことで、その点で大いに価値があるものだと思いました。とかく権力に阿るのが昨今のメディアであり、特に放送法の許認可権を握られているテレビ局は、委縮しがち。それがこうした作品を世に出したというのは、称賛に値するものであり、今後も続けて貰いたいものと思います。
そんな訳で、評価は★4とします。
襲撃事件以降をもう少し掘り込んで欲しかった。
札幌で安倍氏応援演説時に起きた道警のやらかし事件のドキュメンタリーです。
HTBの食い付きを激しく評価したい。
映像みると道警が全く法律をわかってない、またはただ上から言われた通りやってるのは明白。
しかし安倍氏殺害、岸田襲撃事件以後が司法もぶれがでて怖い。
女性が言っていたが、、、こういう言論封殺、全体主義的な権力行使の結果として岸田襲撃事件は有るかもなと思う。もっと大規模な爆破や核施設への襲撃などパンピーを巻き込み大規模な事が起こる事を私は一番恐れている。
企業との関係、アメリカとの関係、宗教との関係で肥大した与党にどうやら自浄作用はもう無い。
庶民舐めると怖いでー、血見るどー。
不満は溜めるとまずいよ、小出しにさせないと、、。
安倍氏の件は根本が私的な恨みなんで少し違うが、要人警護と人権の落とし所探しと言う問題はある。
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