怪物のレビュー・感想・評価
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ありのままを受け入れられない人間のサガ
怪物とは誰なのか?
誰が怪物を作るのか?
子供同士の他愛もない遊び、カードを額に充てて書いてあるものを予想させるゲームも、上手く伝わらないことが面白味になるゲームだが、生活の中で些細なすれ違いから疎遠になることもある。
疎遠になりそうなあの人に、今度こちらから声をかけてみよう、と思わせてもらった。
最後にいじめっ子の家が新聞配達をやっていて、ただの子供であることがわかる。
誰も怪物じゃないんだな。ちゃんと話そう。
誰が彼らを批判しているのか、我々は怪物か
怪物だれだ。 恐ろしい言葉である。 これほど鑑賞前後で感想の変わる言葉はない。 無邪気さを孕むだけでなく、芯にある大人への強い思いをぶつけられた気がする。 言葉は苦しい、その奥にある思いの方がもっと苦しい。 その思いに寄り添い、気づかずとも動くことができない我々はいずれ怪物となる。
怪物とモンスター
「怪物」ってタイトル日本語では重く、どれ程凄い主人公かな?と思いましたが、見るとナルホド・・納得。 全ての配役さんが素晴らしく、凄く楽しめました。特に子供達(オーディション)!!(良かったです)また、構成や展開(特に脚本)今までに無い是枝作品で進行変化が特に良かった。個人的には凄く面白い映画でした。
暗からはじまり明へ。徐々に明るい兆しが見えてくるようだ。
出だしから中盤辺りまでミステリー的な要素があり、一体なにか起きたのか、起こっているのかという謎に引き込まれた。 その後、陰湿な人間の性を見せつけられるようなシーンに心が沈むが、中盤辺りから、それら人間の陰湿さが誤解であったことが次第に分かってくる。 『怪物』という題名だけに、登場人物にただならぬ悪人が出でくるような予感がしたが、そうではなかった。 ストーリーは、多角的視点で進行するが、それらが進行するに連れて、不安な心の緊張がときほぐされて、終盤にあっては、この少年二人に、希望のようなものを感じる爽快な気持ちとなった。 また、それと同時に人間社会の複雑さ、辛辣さを感じさせた。 言わば、こうもうまくいかない社会の辛辣さのなかで、少年二人の同性愛的な友情が際だって綺麗に見えた。 鑑賞し終えたところ、実はみんなよい人であったことが分かる。 では、題名にある怪物とはなんだったのか、疑問が残っている。
いい親、いい先生、いい子供
すべり込みで劇場鑑賞。
ドラマで見たかった気もするけどまあ無理なんだろうな。。
正直、ネタ的に坂元裕二のカマトト節に絆されるのをなんだかんだ待ってしまったとこはある。からの子供パートで、まんまとキター!と。。
いやわかってる。そんなことだろうと思ってた。それでもすでに何も学ぶ必要がないほど賢いし、そのままでいいよ教えたくて仕方ない。永遠に見ていたいと思う反面、美しいと感じることそのものが後ろめたい。
しかしモヤモヤする。映画的にオチてない気がする。
安藤サクラ演じるあの健全そのものの母にすら自分をごまかすための嘘はあり、そのために弱い人間に不要な圧をかけたりする。
「人は見かけによらないから、一面的に断罪するのはやめるべき」というなら、逆に一見どんなにひどい行為にも一定の留保をするべき、となる。
ならば、あの悪ガキたちにも、教員にも、中村獅童演じる父にも、高畑充希にも、しかるべきバックグラウンドがあったんだろうか?
モスト悪質なピープルに見えた田中裕子ですら見方によっては…てことは、答えは言わずもがなだよね?
そしてああいうラストだと結局、贖罪のために努力したり、赦しを請う必要もない、というメッセージにならないか…?それ以前に、下手すると知るための努力すら無意味な場合がある=知る必要もない、となりかねないこんな世の中じゃ。
最終的に2人は行き止まりにぶつかって、生まれ変わった後でその柵を乗り越えた先へたどり着く。彼らの見た景色は画面には映らない。
だけど私は彼らが互いを知った時点で救われたと思ったので、1人でも現実の時間に帰ってくるべきだったんじゃないかと思う。なにしろ彼らの彼らとしての人生は今がスタート地点だし、画面のこちら側にいるたった1人を応援したいんだ、というならなおさら。
こちとら「ムーンライト」とか見てるしさあ。やっぱり余韻の深さが違うじゃん。。
うーん…「万引き家族」の時とはまた状況が違うんだろうけど、やっぱりオチをつけないのがいいオチだ、とは思えないんだよな。
子供には子供だけの世界がある
大きな湖があるとある街(劇中で諏訪とは特定されない)で雑居ビルで火事が起こる。 その火事を家のベランダから眺めるシングルマザーの早織(安藤サクラ)と小学生の息子の湊(黒川想矢)のシーンから物語が始まる。 映画はこの火事のシーンを起点に1つの出来事、時間軸を3者の視点で描く。 黒澤明監督が「羅生門」で用いたことが有名で、映画や小説でもよく用いられる手法だ。 今作品は是枝裕和監督では珍しく、自身の脚本ではなく、今作品でカンヌ国際映画祭で脚本賞に輝いた坂元裕二氏の脚本による。 第一幕は冒頭のシングルマザー、早織の視点で描かれる。 息子の不可解な行動から学校でのいじめを疑い、学校に乗り込んでいく。 そこでの校長の伏見(田中裕子)や担任の保利(永山瑛太)、教務主任の対応は誠意が感じられず、早織は不満を募らせていく。 ところが保利に息子がいじめの加害者だと言われるあたりから潮目が変わる。 第二幕で担任の保利の視点に変わると事は単純ではなく問題は多層的であることがわかってくる。 第三幕は当事者の子どもたちの視点に移る。 湊といじめの相手とされている依里(柊木陽太)の関係性が描かれるが、思春期の少年の危うさ、儚さ、瑞々しさが丁寧に描かれ、出色の出来。 特に依里役の柊木陽太の繊細な感情の表現には驚いた。 終盤は宮沢賢治の幻想的かつ謎めいた童話を想起されるような子供達の世界が描かれる。 1点気になったのは、視点の違いを分かりやすくするためか、第一幕でかなりのミスリードがあること。この映画ではその描き方はしなくていい。 音楽は坂本龍一が手がけ、1998年に発表されたピアノ曲「Aqua」が流れるエンディングの光景の美しさが脳裏に焼きつき余韻に浸った。
意味合いが変わっていく怖さ
自分だったらどうだったのか。 その時どう行動するか、してしまうか。 立場で、瞬間で、全てが変わってしまうのだな。 「怪物、だーれだ」の意味合いが どんどん変わっていく怖さ。 自分が正しいと思っている怖さ。 誰にでも当てはまる一瞬があると思えた。
潜在怪物。
さて、どういう視点で受け取ろうか。
はて、どういう角度で語ろうか。
家庭、学校、社会、人間関係、ジェンダー、仮想社会、世の中の問題が全てこの2時間の作品に詰まっているといっても言い過ぎにはならないほど、盛りだくさん。
おそらく多くの人は、この作品を見ながら、「誰が怪物なのか」と思いながら、、「怪物」を探していたのではないだろうか。
担任の先生?校長先生?学校の先生?
2人の子ども?クラスの男子たち?クラスの女子たち?
麦野くんの母親?星川くんの父親?
自分の中に潜んでいる怪物
他人の中に潜んでいる怪物
誰の中にも怪物はいて、それを呼び起こすのは、身近な人だったり、社会だったり、関わる人や環境。
仮に「潜在怪物」と呼ぶが、この潜在怪物は、個々人の中にもいるし、社会全体が潜在怪物といっても良い。
様々な視点で描かれるわけだが、この映画を見ながら、初めは担任や校長に対して、「クソだな、バチ当たれ、やめてしまえ」などと思ったりしたわけだが、そんなふうに思える心をもっている自分こそ「怪物」なのかもしれない。
見ている観客の中の「潜在怪物」さえも呼び起こされる作りに感服した。
本当に「大人」という無自覚な怪物というか、「良かれと思っている時点で、正義感丸出しの偽善怪物というか、そんな怪物にいつからか自分もなってしまったなと感じた。
自分のやっていること、思っていること、考えていることは、自分の立場だからこそ、見えてくることで、照らす位置を変えると、他人からは不可解で理不尽な怪物しかなくなる場合もある。
自分は他人の「潜在怪物」を呼び覚ましてしまう怪物である自覚も必要だし、
関わる他人は自分を壊し得る怪物であるということも忘れてはいけない。
「誰が怪物なのか」がレベル1の見方(個人)だとしたら、
レベル2は「すべての登場人物が怪物で、誰によって怪物にされたのか」(人間関係)になるのかな。
となると、レベル3の見方は、「社会全体が怪物そのもので、どんな社会の影響によって登場人物は怪物になってしまったのか」(社会)
レベル4は、「自分の中にも怪物はいて、どんな人や環境によって潜在怪物を呼び起こされる可能性があるのか」であるとか、「自分のどんな面が他人を怪物にしてしまうのか」(自己反芻)であるとか。
というか、観客によってももつ感想は変わる。これほど、今置かれている状況次第で、見え方が変わる映画もないだろうから。
見る人によって印象は変わる
作品の中の主題でもあるし、この作品そのものを観て観客が感じること。両方の意味に取れるなぁと思いました。
主役の男の子、母親、担任教師、校長。それだけ誰もが色々な仮面をつけて生活している。それが過剰なまでに描写されているのが、瑛太演じる担任の保利先生だったかなぁという印象でした。「自分」だと思って何気なく振る舞っているところが、他人のフィルターを通して「怪物」に見えることがある。
今回は学校を主な舞台にしてますが、自分の職場なだけに振る舞いには気を付けんとなー、と肝に銘じました笑
多くの方が指摘している通り、考える余地を残している描き方ですね。
冒頭から何度も(視点を切り替える意味で)出てくる、ガールズバーのあるビルの火災。火をつけたのは星川くんなんでしょうけど、なぜなのか?お父さんが常連客だったのでそれが気に食わなかったことは言及されてましたけど、明確には描いてないですよね?
それから、ラスト。麦野くんと星川くんは死んだのではないのか、そうではないのか。レビューを拝見したところ、どちらも頷ける理由だったのでこれまた観客の解釈に委ねるってことなんでしょうね。
観たいと思いつつ仕事が忙しくてなかなか機会に恵まれず諦めてましたが、ようやく観られてよかったです!
もう一度観たら、また感じることは違うんでしょうね〜。
流れるような伏線回収
素晴らしい、ただセリフでの遊びが邪魔してるところもあったような… 演出では母親パートとそれ以外での先生のキャラが違いすぎた感はあった でもメインテーマといい、様々なテーマを盛り込んだ脚本は凄すぎる やっぱり愛なんでしょうね
暗そうな話だなぁと敬遠していたものの、公開も終盤ということで鑑賞し...
暗そうな話だなぁと敬遠していたものの、公開も終盤ということで鑑賞しました。 結論を言うと、こんなに面白いならもっと早く観に行けばよかったです。 同じ出来事を複数の視点で振り返りながら、物語の全容が見えてくる作りになっているのですが、各々の目線によってまるで見え方が変わってくるのが肝 そして、その始まりは純粋な想いだったというのが、なんとも切ない気持ちにさせられる名作でした。
ずっと心がザワザワするような映画だった。 わたしたちは自分の正義で...
ずっと心がザワザワするような映画だった。
わたしたちは自分の正義で物事をみていて、その正義に反してしまうとある対象を自分の中の"怪物"としてつくりだしてしまう。
自分の見たもの全てが本物なんて言えないし、自分の何気ない言動、行動が誰かの中に怪物を生み出してしまう要素になってしまう可能性もある。
これまでの偏見、固定概念とかすべて解放して、多角的に物事を見えるようになりたいな
怪物探しは疲れる・・・でも、それは「逆さ舟(騙し舟)」であり稚児遊戯である
最初から、怪物探しが仕掛けられていて、いささか疲れる。 多分、この人だろう、いやこの人じゃない、きっとこの人だ。 って思っているうちに、全員が怪物でいいやんっていうことになる。 本物の怪物は校長やろ!でもこれはある意味で正解。 そんなに多い場面に出ているわけでもないにもかかわらず、 それにセリフだって「陳腐」すぎるにもかかわらず、 すべては「逆さ舟(騙し舟)」に持って行かれたね。そう、これが「怪物」そのもの! 大人から見て怪物、子供から見て怪物、組織の中で怪物、社会的な怪物、家族内怪物。 「俺は怪物君だ!怪物ランドの王子だぞ・・・」なのか! 誰もが、自分にとっての怪物。 しかし、このように時系列を錯誤させる見せ方も、うーん、今の時代、ありきたりかな。 少年の中に見られる愛情の傾向性。これもそうだし。 どうも、現代的なテーマを盛り込み過ぎのような気がする。 それぞれの登場人物の視線のベクトルの違いは描かれていたんだけど、クロスする視点を探すのが大変かもしれない。それも、怪物は「逆さ舟(騙し舟)」でしかないから、その視点を探すことさえ難しい。あえてヒントを探そうとすれば、不協和音的協和音のトロンボーンとホルンの通奏低音だろうか。 校長と湊はそれでいいかもしれないが、麦野早織と保利道敏の視点が最後にどうだったのだろう。雨の中、少年たちを探しに行く場面で、それは十分に描き切れていたのかな? それとも、映画の最終場面、彼らの目を通して、少年ふたりの「その後」を描いていたのかな? 行手を遮っていたものがなくなっていた廃線をいろいろ解釈することはできると思うんだけど、それまでの母親の視点と教師の視点がうまく交わらず、なんか放り出されたような感じがした。 # 湊ちゃんもそうだけど、依里ちゃんも、めちゃかわいいやん! やばい、梨園的稚児遊戯へと至ってしまうやん。。。 あ、俺、「怪物」だ・・・・目覚めてしまったというのか!
飴舐めるのはやりすぎだなぁ、、、
母親と担任が最初に対面するときに、飴舐めるシーンあるけど、あそこがミスディレクションなのはわかるけど、後半のネタバレパートでの担任の人間性と合致してないよね。本当はちゃんとしてる先生なんだろうから、あの飴はやりすぎだと思った。彼女とのシーンで「飴」回収してるけどさ。
「怪物」ってタイトルもちょっとピンとこないというか。確かにモンペっぽい親も嘘つく子どもも、対応が保身的な教員も「ある視点」から見たら「怪物」風ではあるけどね。もっと「子どもの世界観」に焦点を当ててもよかったな。
ちょっと謎めいた言動が多くてすべての伏線を回収できていない感じがしてやや消化不良かな。
面白い着眼点ではあるし、作品全体も飽きずに観ることできたけどね。うーん、でもやっぱ、
消化不良感
があるんだよなあ。
ラストは2人は天国へ行ったのかな?先生と母親が雨の中叫ぶシーンと晴れた空の下を走る少年たちはつながらない感じがしたしさ。
「豚の脳」っていうのもインパクトある割には回収はされてないよね。
うーん、惜しい感じだなあ。
坂本龍一の音楽は、音符が少ないけど、印象的でいいよね。
怪物たちと湖
僕は是枝さんの映画はあまり好きではないし、今回の作品も内容的にいって好きな話ではないけれど、それでも本作の完成度の高さには唸らされるものがあった。 冒頭から観客をぐいぐいと物語の中に引き込んでいく力、そして複雑なストーリー構成の妙に感服した。 脚本のディテールにもキラキラ光るものがあり、「巧いなぁ」と思った。もちろん役者たちの演技も素晴らしかった(安藤サクラは、こわいほど良かった)。 真相はどこに? 真実とは何か? 芥川龍之介の『藪の中』と、それを下敷きにした黒澤の『羅生門』を思い浮かべた方も多いだろう。 そして、「怪物」は誰なのか? ときおり映し出される、陽光に照らされた湖。 その、広がりをもった美しい姿は、諍いが絶えない愚かな我々人間――“怪物”たち?――の世界を静かに見守っているようであり、また、閉塞的で陰鬱に傾くこの物語に、解放感と安らぎを与える一服の清涼剤のように感じた。 追記 鑑賞後、監督のインタビューを読んでみると、湖を登場させた意図は別のところにあるようだとわかったけれど、僕は上に書いたように感じたんだから仕方がない。「誤読」もまた観客の特権ということで、よろしくお願いします。 それから、教授、長いあいだ素敵な音楽を届けてくれてありがとう。
マイノリティのエンタメ消費という意見について
作品自体は素晴らしかった。
不明点や不明瞭点を解消するために考察や感想などを探したところ、表題のような意見が散見され違和感を覚えた。
ある批評サイトでは「人間の思い込みや認識の誤謬が本作のメインテーマであるならば、登場人物がマイノリティである必要はない。」という評価がされていたが、その価値観こそ、怪物である。
マジョリティ、マイノリティ関係なく存在することが自然であるという前提があれば、上記のような批評は発生しないはずだ。
うるせえな。
裏を取らずに時事を消費する大衆、矯正されるべきは誰か?
複数の視点から描かれているので、まとめ方はいろいろ。
大人目線なら、モンスターペアレントが若い教師を潰す話。
麦野湊目線なら、性指向への戸惑いと開放。
少年2人目線なら、小さな恋のメロディ。
👨🏫
1. 大人目線
母(安藤サクラ)の息子を護る熱意に嘘はないが、明らかに担任が悪いと決め付きすぎ。謝ってやり過したがる学校側の事なかれ主義が、事態を悪化させる。似たような傾向は、ワイドショーやネット民にもある。いじめや教員の不祥事が報道されると、悪者認定された者を人肉検索し、社会的に制裁するのが日本の流儀。制裁する側が、皆現場で取材し裏を取っているならまだしも、ネット民は報道と流言を区別できない生半可な状態で、手前勝手な正義感をぶつける。これまで制裁を受けた者の中にも、 永山瑛太演じる教員(保利道敏)のような冤罪が紛れているかもしれない。
🏫
2. 「麦野湊」目線
自分は不幸にも、放映時間を確かめようとして、性的少数者を扱った映画という記事に遭遇してしまった。無論内容は読まず、表題を見ただけだが、「普通にに結婚して幸せになってほしい」という母の言葉に、息子(湊)が車から飛び降りる意味が序盤で分かってしまった。なので、自分にとって最大のハイライトは、車から飛び降りる序盤のシーンだった。
自分は異性愛者なので、湊の気持ちを完全には理解できないが、自分は異常なのか?何故生まれてきたのか?と思い悩む姿に胸が、苦しくなった。依里とじゃれ合って生じた勃起に慄いて逃げ去る姿も哀しい。しかも、母が伝える愛の言葉こそが、彼を追い詰めていくなんて、皮肉すぎて可哀想。
🎒
3.「湊+依里」目線
いじめっ子に囃し立てられ、乱暴に振る舞ってしまう場面もあるが、本当に2人だけでいるシーンは微笑ましい。少年少女の素材を活かしきる、是枝監督の手腕が遺憾なく発揮されている。これくらいの年頃なら、男女でも性的な関係には至らない淡いもの。なので、男の子同士が仲良くしていても、性的志向の云々を心配せずに、暖かく見守っていて欲しい。異性愛者の自分も、少年時代は同性間の方が気が置けず、けっこうベタベタもしながら遊んでいた気がする。
異性愛者に矯正しようとする依里の父もどうかしているが、全く気付かずに湊を追い詰めてしまう母にも足らない処があるのだろう。
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4. 矯正されるべきは誰か?
初見では、仲睦まじいラストを微笑ましく感じていましたが、小説版の「未知の世界に行った」との記述等から、ラストは死後の世界だったようです。ある意味、ギレルモ・デル・トロ監督のパンズ・ラビリンスのような終わり方。少女オフェリアは異世界(夢?)では幸福に満ちるが、現実世界では死んでしまう。本作でも、ラストは2人は幸福に満ちていましたが、現実ではバスに流れ込んだ土砂に埋まっていたようです。性的指向を矯正する親やいじめっ子、あるいは性的指向に気付かず「普通」を押し付ける親や教師がいる現実はディストピアでしかなく、それらの障害がない世界でしか2人は幸せになれないという事。これはBad endなのか? それとも、幸福に満ちたまま逝ったのなら Happy endなのか? 重要なのは、矯正すべきは2人ではなく、彼らを幸せにできない社会の方だろうというメッセージな気がします。
難しい。この時代だから評価されている作品
性的嗜好に配慮した作品。それが故に必要以上に高評価されている印象。少年たちの冒険感はでている。見終わった後も結局この映画はなんだったのかうまく説明できず複雑な感情を抱く。
ホリ先生は一見すると可哀そうだが、いじめに気づけなかった(性格的に気づいたら放置はしなさそう)点で責任がある。湊はそこも分かった上でホリ先生を学校から追い出そうとしたのでは。純粋な悪は星川くんの父親とクラスメイトのいじめっ子。この2人がいなければこのような展開にはならなかった。角田はいらない。ゲイだから星川君の父親はあんなに強く息子に当たっていたのか。息子に幸せな家族観を押し付ける麦野母親にも罪がある。
良い点
演技がうまい
展開が読めない
音楽が良い
悪い点
よく分からない
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