怪物のレビュー・感想・評価
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当たり前のことに気付かされる作品
郊外の町で起きたビル火災。その日から地元の小学校でいくつかの人間関係が拗れ始める…。
是枝裕和監督作品。ひとつの事柄が複数の視点から描かれており、誰かの視点ではクズにしか見えない人がその人の事情を知ると見方が変わると言う、当たり前のことに気付かされる映画でした。
不確定要素一部自己解決残り勝手に考察してくれ作品。
不確定要素一部自己解決残り勝手に考察してくれ作品、とでも表現したくなる。 まあ私の好きな作風ではない。
タイトルは、人の心には誰でも "怪物" が存在するという漠然としたもので、予告編で「怪物だ~れ」を煽っているが、個別な表現ではないかと。
まず内容と違う視点から。
最近、「伏線の回収が見事」とか、「ラストで疑問シーンが一気に解決」とのレビューをよく見かけますが、
その作品はなぜ、"伏線" を張っているのか考えた事があります?
それは当初の脚本通りに通常時間軸で物語を進めただけでは、物足りない作品(見応えがない作品)になってしまうから。
それを補う為、後に起こるワンシーンを前半に持って来たり、その時点でわざと説明不足に描写して考察ポイントを作り、ラストに解説描写としてまとめて表現してる訳です。
(勿論、推理物や、追想シーン・過去の出来事説明シーン等は含まない)
それにより、見る者側は考えるポイントが増え、謎が解けた満足感が、作品全体への満足感に繋がる場合も多い。
が、歴史的名作には、その様な作風の作品はほとんどない。
さて本作。 まずよい点を。
出演陣はキャスティングが上手いせいもあり、皆存在感ある演技。 私は安藤サクラより、二人の子役と永山瑛太に目が留まった。 特に子役二人が怪しい雰囲気になるシーンは、(演出的にはこんな子供までマイノリティ性愛が?と気持ちよくなかったが)とても演技には見えない。
顔が接近してもミナトは目を見開いたまま、ヨリは2度ほど瞬きするがお互い目線を外さない。
その後気まずくなる表情まで抜群で、ベテラン俳優でも難しいと思うシーンをさらりと演じている。
瑛太はミナトに「なんにもしてないよね・。」と同意を求める様な笑顔から、冷めた表情への変化が絶妙だった。
あと「TVで見てるから嘘だと分かる・・」や「体中の力を全部抜いて、諦めます・・」等、その作品の重要点を暗示している言葉が多く、台詞はかなり練られている。
(特に後者はヨリが親から○○されている事を・・)
と、出演陣や台詞表現は文句なしだが、最初のパートの先生達へのクレームシーンで、長く頭を下げ続けたり、校長の鼻を指で押さえる等は過剰演出に感じ、感情がやや離れる。
さらにミナトの異常行動で、こんな作品かと・・今度は呆れる・・。
その後、時間軸が遡る進行に戸惑い、火事も2度目?等の疑問も湧く。 幸い配信視聴なので、疑問箇所のおさらいにもう一度見て、3つのパートが主人公を変えて、それぞれスタート地点に戻って描写されている事を認識・理解。
が、こいう作品こそ、最初のパート「母親」、次は「担任」、ラストは「子供達」など、章タイトル付けて見る者に分かりやするする事が必要と感じる。
でないと、映画を見慣れてない者には、ただ難解な作品とだけで片付けられてしまう。
タイトルを付けない=観客にさらに疑問を付加してやろうとの制作側のよこしまな思惑に感じる。
↓ ネタバレ含む
もし今作が時間軸通りに全ての描写が表現されていたと仮定して考えてみて下さい。
ラストは美しい描写でも、途中わざと誤解を生むシーンを何度も作ってない?と気付くはず。
そして今作で一番やっかいなのが、不確定要素を多く含めたままでエンディングを迎える点。
火事の犯人、校長事件の真相、ミナトとヨリの生死、等々。
これらは各自で考察してくれと言わんばかり。
ハリウッド作の「TAR/ター」も不確定要素が多く、類似していたなと思い出す。
それに細部を指摘すると、貸した靴と玄関に片方残った靴が色が違う。廃墟電車シーンが3度あるが、2度目シーンでは電車右側にトンネルの入り口が見えるのに、他のシーンでは見えない。(別の場所?との疑問も・・)
線路へ繋がる道で、最初シーンは雑草が二人の膝ぐらいの高さが、ラストシーンではミナトの身長ぐらいあり、閉まっていた鉄骨柵の所と同じ道だったのかも分からなかった。
(故に、真っ白にホワイトアウトしたシーン以後が、違う世界なのかリアルなのかの想像判断にも迷う・・)
ラストの走りシーンは、生き生きと子供本来の笑顔描写が素晴らしいのだが。
見たいからもう一度視聴するのと、謎解きの為に再視聴するのは、全く意味の違う行動。
前述はもう一度感動を味わえるが、後述は理解出来ただけで終わってしまう場合も多々。
今作も疑問点や確認の為、2度半も視聴したが、ほとんどレビューを書く為の作業で終わってしまい、自身「何をしてるこっちゃ・・」と・・。
PS
クィア・パルム賞はLGBTQの関連映画に与えられる賞だが、クィア(queer)とは、「妙な、変な、いかがわしい」等の意味もある。 小児性愛者もこれに含まれる為、性犯罪を含むマイノリティをも承認させてしまう事に繋がる懸念が・・。
子どもにも、色々ある。
とても良かったです。
前情報何にもなしに観る前は、大人中心の話なのかな?って思っていたけれど、実際はジュブナイル期の子どもの話を中心に、大人がオマケ程度で存在している感じ。
30年以上も前の自分の、小学生時代を酷く思い出しました。
あの当時の自分にも、恐らく、色々あったんだろう。
あの当時の大人にも、この作品のように、色々あったんだろう。30年も前の昔の話をするなよ…昔はこの映画ほどの事は実際あまりなかったんだよ、って誰かが言うかもしれないけれど、昔は今よりももっと閉鎖的だったから、実はもっともっと色々あったのかもしれない。
嘘をつく大人、保身に精一杯の大人、早とちりする大人、子どもが疎ましい大人…。ここら辺の一部は実に今風だけど、子ども自身の頭の中は昔から実はそうそう変わっていない。
見て見ぬふりする事への罪悪感、イジメの対象が自分に向けられる、助けたいけどどうにも出来ない、親にさえ話せない、秘密基地でのあの恐ろしく幸せな時間…。
子ども時代の無垢な心を、たぶん持っていた自分にも、イヤでつまらない大人になった今の自分自身にも、多少なりとも経験ある事があり、とても胸を打たれました。
子を持つ親なら観て損はない映画だと思う。
〜劇終〜
怪物は誰だ
幼少期に好ましいと感じる同性がいたとしても、それは性指向じゃない。
幼い時分には、女の子のような男の子がいるのは普通であって、そういう子と仲良しになったからといって、それはぜんぜんLGBTQとかの話じゃない。
まして柊木くんのようなくりくりした子に好意を寄せたとしてなんのふしぎがあるだろう。
あえてクィア値を含ませたのは是枝裕和と坂元裕二の戦略性か、もしくはカンヌが勝手にクィア値を読み取ってくれて脚本賞とクィアパルムに至った──とみていいと思う。
ごぞんじのとおりグローバル世界ではLGBTQなどクィア(性的マイノリティ)の話が、そうでない話よりも、おおよそ1.5倍ほどの歓迎と優遇が為される。
元来、怪物は少年を巡るマルチレイヤーなミステリーという感じのものだったが、賞レースではクィアの風味が有利に働いて、そっちで評価され獲得へ至った──という感じになった。
逆に言うとこの年代の子供の動向を性指向だと見なすのは危険なことだ。わたし/あなたにも、幼い頃、かまいたくてしょうがない同性の子供がいたはずだ。他愛ない衝動にすぎない。それをクィアだと言ってしまうことをクィアベイティングと言うのではなかったか。
ともかく麦野くん(黒川想矢)も星川くん(柊木陽太)も同性愛者ではないし同性愛が主題なわけでもない。
映画怪物は、麦野くんの母(安藤サクラ)と保利先生(永山瑛太)と子供らの三つの視点に、校長(田中好子)を含めた学校側の視点を加えたマルチレイヤーで進行する。
四者からは、あきれるほど違う世界が見えている。逆にいうと当人から他者の世界はまったく見えていない。自分の息子のことがこれほどまでにわからないものなのか──と驚嘆するような眩惑のレイヤーだった。
レイヤーは順番に進むので母の視点では社会派の印象だったのが、保利先生から子供らへ移って校長の立場も語られて改めて重なり合ったレイヤーを俯瞰すると圧巻のミステリーになっていた。
怪物とは言い得て妙なタイトルだが映画怪物の中でほんとに怪物なのはただひとり星川くんのお父さん(中村獅童)だけである。
ほかの人物はただ学校や社会などシステムの陥穽に落ち込んでしまった人たちで、クィアは主題ではないし、それがあろうとなかろうと重厚なミステリーだったが、明確な結論があるわけではない。
ただし劇中、麦野くんと星川くんは額に動物をかざしてお互いに当てっこゲームをする。自分の額にかざしている動物は見えないが相手のかざした動物は見えるので、お互いにヒントをだしあって当てっこをするんだ。
そのことからそれぞれの視点(レイヤー)において、お互いにどう見えているのかわからないことを怪物である──と言っている映画なのかもしれない。
是枝監督は誰も知らない(2004)のときから子供の自然な見ばえに定評があったが、真実(2019)においても、海外の批評家に子供の自然な見ばえを称賛されていたことで、フランスの子供でも子役へのガイダンスが巧みであることが証明されたが、本作怪物でも子供の演技の自然さが際立っていた。
ネットに柊木陽太くんのインタビューがありそれによると監督から『自分の演じたいように演じればいいと言われたのがすごく印象に残っています』とかれは言ったが、続けて『依里は嫌なことをされても感情を表に出さないタイプの人でつかみどころがない人』とも言い、役作りに対する12歳なりの苦慮が伝わってきた。
とても賢い12歳で、目指している俳優さんはとの問いに『憧れは光石研さんで、お芝居の迫力がすごくて、そういう役者さんになりたいです』と言ったのだった。
imdb7.9、RottenTomatoes96%と92%。
邦画を代表する最高傑作のひとつ
いじめっ子といじめられっ子のいざこざが思わぬ方向に進んでいくヒューマン・サスペンス・◯◯映画。
あの賞で、大事な部分を知っていたから、序盤の伏線の何個かは分かってしまう。
ただこれが自然すぎて気づかない。見事な脚本すぎて驚く。
序盤の安藤サクラの異次元の演技は勿論のこと、鍵を握る(握ってしまう?)担任の先生役の瑛太もすごい演技。怒られているのに、なんで笑っていたのか?なんで飴なのか?あとで語られるその理由(しかも大したことはない笑)が演技に表れている。どちらともとれる、微妙な演技が上手すぎる。
※子役の二人も恐ろしく上手かった。演技力で言ったら怪物の域。
そーいえば、怪物は誰なのか?という観賞後あるあるのテーマはあまり気にならなかった。
人間誰しも怪物になり得るし,最初から怪物という稀有な人間はこの作品にはいなかったと思う。
個人的な1番の性悪は、あまり語られてないけど、とある人物の恋人だと思う。あーいう人は普通にいる。と思ってる😂
肝心な点。
核の要素が語られる後半に入ってから,少し泣いてしまった。勝手ながら自分は完全に親の立場として見て、自分の息子を想ったから。そして、エンドロールでは完全に泣いた。ただただ幸せを願う。その希望がある終わり方で感動泣きした。
いやーーー、ほんと良かった良かった😭
違和感
母親も教師も学校も子供たちも反応が極端過ぎる
死んだ夫を今も愛する良いお母さんの早織(安藤サクラ)、
母親にプレッシャーを感じて、だんだんと話さなくなる息子の湊、
「湊が大人になって、ちゃんと結婚して家庭を持つまで、
「お母さんは頑張る・・・」
その言葉を聞くなり走ってる車のドアを開けて飛び降りる湊、
担任の保利(永山瑛太)の苦情を言いに学校へ行く早織。
玄関で床のガムを削り取っている掃除のおばさん?
と思ったら校長先生(田中裕子)だった。
保利の手が湊の鼻に接触したと主張する学校側。
殴られたと息子から聞いている母親、
その暴力行為の有無の話し合いの話の途中で
飴を口に入れる保利、
違和感が半端ない。
小5の男の子が「大人になって結婚したら?」との言葉を聞いただけで、
自分はゲイだから・・・結婚なんて無理?嫌悪?
それで車から飛び降りる?
そんなにハッキリと、性的嗜好が分かっているだろうか?
(「レディバード」で、ソアーシャ・ローナンが車から飛び降りて
骨折してたな!)
校長が毎日床掃除をしていたら、
「校長!!やめて下さい、・・・」とならないだろうか?
それに65歳過ぎの校長先生って、とっくに定年している筈。
(田中裕子の校長役は怪物そのもので、凄かったが、)
暴力沙汰の本人の教師が父兄と先輩教師に囲まれて、
飴を口に入れる?
この教師が「豚の脳ではないか?」
この映画は3者の視点から描かれている。
1、母親の早織から見た息子・湊への保利の虐待。
2、保利の目から見た湊の真実の姿。
3、港と特別な友達になる星川依理たちの視点。
保利の暴力も星川を虐める友達に苛立った湊が備品や持ち物を
メチャメチャに投げ飛ばしているのを止めた保利先生の手が
偶然、湊の鼻にぶつかって鼻血が出ただけだ。
血が出るほど、耳を引っ張った、
給食を食べるまで帰さない、
「麦野湊の脳は豚の脳」と保利先生に言われた、
この3つの場面は湊の証言の伝言である。
実際の行為のシーンはない。
「豚の脳」発言はそもそもが星川依理の父親の発言で、
「アイツは怪物ですから・・」と言い、
依理を嫌っている父親は依理を遠ざけるために祖母の家へ
預けようとしていて、転校するも知れないのだ。
仲良くなって廃バスを秘密基地にして遊んだり、線路やトンネルを
憧れを持って見つめたり2人は離れられないような密接な関係を築いて行く。
これがカンヌ国際映画祭の脚本賞を受賞(坂元裕二の脚本)
そして更にLGBTやクィア
(性的マイノリティや既存の性のカテゴリに当てはまらない人々の総称))を
扱った映画に贈られるクィア・パルム賞も、ダブルで受賞している。
そして売れっ子プロデューサーの川村元気もこの映画に企画から
参加している。
(川村元気と聞くと、だろうな?と感じる)
坂元裕二と川村元気の企画が先にあって、有名監督の是枝裕和が監督を
依頼されたとの経緯を聞いた。
それで是枝監督らしくない作品なのだな。
違和感と書いたが、確かに力のある作品。
永山瑛太、安藤サクラ、田中裕子の演技は「怪物=モンスター」を
体現している。
クラスの子供たちはリトルモンスター。
保利先生なんかの手に負える子たちではない。
この学級は近々、学級崩壊する予感・・・だし、
心の裏を読めない保利先生は多分教師に向いていない。
そして湊(黒川想矢)と星川(柊木陽太)の演技は小悪魔的に魅力的だった。
2人ともハーフ的中性的な美形。
星川は湊を完全に虜にしている。
2人がどんどん社会の枠組みからはみ出して行くようなラスト。
しかし坂本龍一)のラストを飾るピアノ演奏は煌めき、
何処までも生命感に溢れて輝く未来を予言している。
2023年No. 1
うーん…
なんとも評価が難しい。
男らしくとか言う言葉がキーワードかなと思ったけど。言葉が少なすぎる。正直に話そうとは思わなかったのかな。そのせいで先生の人生めちゃくちゃになったのはどうなのかな?田中裕子の存在意味もいまいちよくわからず。安藤サクラの演技はほんま自然体やな〜すごい役者やなと思った。
最後は夢の世界なのかはたまた現実なのか…あのバスの中を覗いてたからあのとき発見できたと思うんやよね。現実ならね。
話題にはなったけれど、最後の解釈も丸投げしている感じがしてあまり好きな映画ではないなと正直思ってしまった。
余韻
思ってたものとは、ちょっと違ったかな…?
前半はすごく面白かった。
久しぶりに観る是枝作品だと、身が震えるような感じで「この先どういう展開が待っているのだろう?」と、ワクワクしながら鑑賞していた。
しかし、中盤以降になってガキ2人の友情話にすり替わってしまった。ここでジュブナイルものが好きな人には申し訳なく思うのだが、当方は興味ないジャンルなので、正直なところ、だんだんウザく感じるようになってしまっていた。
そして途中から浮かび上がってくるBL色……相手役の子役を女の子っぽい外見と声にしていたのは、こういう同性愛が色濃くなっても下品に見えないよう最低限、観客に気を遣ってくれていたのかなとも思える。事実、BL系ドラマを苦手として避けてきた僕でも、何とか視聴に耐えられた。そういう節度を保ってくれていたのは、是枝監督の配慮ある采配なんだろうと感謝したい。
後半から僕はかなり興味が薄れてきて、どうでもよくなっていたのだけど、ラストシーンを観てハッとした。
子供2人は、すでに死んでいたのかと。
はっきりとした描写や演出的な明示もなかったが、そんなような美しさを感じさせるラストシーンだったのだ。
もし、これが2人が死んでいたとされるのなら、僕はもうちょっとBL色の表現にも許容できていただろうし、むしろ増やしても良かった。いや、もっと死の匂いを前半から伏線的にチラリズムさせても良かったのではないかと思う。そのほうが文学性も高まったし、2人が合い言葉のように「○○の夜」とか記念日のように指折り数えて待つような、その日に向かっていく高まりがあっても良かった。
それだけ死という表現は、生きてるときに生々しかった表現をすべて浄化させてくれる作用があるからだ。
子供たちは心身を「純化」させないと、2人同時に「死の夜」の高みにはいけないだろうから、それをお互いに守るため約束しようと誓いを立ててもいい。それを邪魔する同性愛的な性交への誘惑とかなら、僕もかろうじてBLシーンを許せる……。
「禁じられた遊び」的な感じで、性器の見せ合いっこから、互いに自慰のやり方を見せ合うなどのチラリズムも許せる。それは死という浄化が最後にあるから許せるのだ……。
こんなことを書いてしまうのは、ラストシーンで子供2人が死んだかどうかわからないような「観客の判断にお任せします」的な終わり方をしたからだ。正直、もうこういう終わり方は飽きたな。このパターン、そろそろやめませんか、と是枝監督にちょっと言いたい気分になってしまっていたので、こういう「死の匂い」をもっと出して欲しかったと書かずにはおられなかったのだ。
……というわけで、映画としては物足りなかった。
スクリーンから迫ってくるようなもの、心を抉ってくるような感覚、見てはいけないもの的な非日常の何かを覗いてしまった後ろめたさなど……求めていたものの何かひとつでも発見できれば良かったのだけど……拾えなかった。心には届かなかった。届きそうだったけど、そんなエグさは途中で消えていた。
とはいえ、映画としての節度は保てていた。
この映画を観たあとで、とある批評家のレビューを読んだが、まあ政治的にLGBT方面にこの映画を利用したくてたまらないといった内容で、非情にキモかった。
批評というより、政治系の活動家による印象操作、誘導、洗脳系で吐き気がした。
この映画が、そのようなプロパガンダに屈しなくて良かったと思う。それは映画の敗北だと思うからだ。
韓国で公開されたので
担任の先生が受難過ぎw
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主人公の小学生がある日、怪我をして帰って来た。
他にも靴が片方ない、夜に近所の洞窟で一人で歌う、
走行中の車から突然飛び降りるなど奇行三昧。
母が問い詰めると、担任に侮辱され殴られたと言う。
学校に怒鳴り込むと、穏便期待満載の機械的な謝罪のみ。
担任本人も反省してる様子などまるで無かった。
そして主人公が星川くんをいじめてるとも言った。
やがてこの一件はマスコミに取り上げられる。
こうして担任は大勢の前で謝罪会見し、クビ。
これが原因で女にも振られた担任は主人公と話しに来る。
でも逃げられた末、担任に突き落とされたとか言われる。
担任は絶望し、自殺しようと屋上へ。
そこへトロンボーンだかの音が聞こえて来る・・・・。
で後から、カメ止め的な種明かしが始まる。
まず担任はいい先生だった。怪我も偶然で、殴る気も無し。
でも責任を認めないと保護者を怒らせるということで、
認めて謝罪するよう校長らから指示されただけだった。
星川君は主人公以外の生徒達からいじめられてて、
いじめっ子のいない所では2人は仲良しだった。
というか互いに恋愛感情を持ってた。
奇行と思われたことは、全てこの関係が故に起こってた。
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「怪物」なる黒幕がいて裏で糸を引いてるのかと思いきや、
決してそういう訳ではなかった。
「怪物」は単に、2人がやってた遊びに出て来る歌。
裏事情も、それによる主人公の奇行も大体分かったが、
全く分からんかったことがある。
それは何故、主人公や星川が担任を陥れたのか?
彼らのことを思ってくれる、いい先生なのに・・・。
同性愛を隠すためだけに、そんな嘘までつくかなあ?
主人公は賢く分別のある子供として描かれてたけど、
そこだけ異常に幼児性が高くない?って思った。
あと高畑充希が担任の彼女役で中盤に出て来て、
疑惑を晴らす重要な存在なのかと思いきや・・・
出番も少ないしストーリーにもほぼ関係がない。
しかも薄情。こんなの駆け出し女優がよくやる役やん。
出演者に名を連ねさせて集客狙い?と思ってもたってのw
ホラーかと思ってた🙂↔️
怪物は誰なのか?そしてラストの解釈は観た人に委ねられている
是枝監督の最新作、楽しみにして観に行きました。
ネタバレを目にしないように気をつけながら観に行ったので、こういうテーマだったのかという驚きと、この映画を自分の中でどう咀嚼するかの答えがすぐに出ず、数日余韻の中にいた気がする。
怪物は誰なのか、すでに議論し尽くされていますが、その答えは観た人に委ねられており、ラストの解釈も同じく委ねられているのだなと思う。
私は希望を感じました。
是枝監督の起用する少年たちは、いつも目が印象的ですが、今回の二人もその期待を裏切らず、難しいテーマをよく演じていて、将来が楽しみ。
大人の俳優たちは、やや過剰な演技というか、ある種の型にはまっているような印象もありましたが、その描き方もあえてなのかもしれません。
「怪物」というのもまた、型のひとつであるから。
全955件中、161~180件目を表示