怪物のレビュー・感想・評価
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3本の軸による物語
シングルマザーの沙織は息子の湊がある日、
担任教師に暴力を受けたと思い学校へ問い詰めに行く。
その後、担任の保里の物語へバトンが渡され
息子の湊へ受け継いでいきストーリーの本筋が明らかになる。
「怪物」だーれだ、と語る二人の子供。
思春期になる彼らは大人や周りの同級生たちに
知られたくない事実を大人を巻き込んで隠していく。
ラストシーンがどうなったのか、という部分が
この物語のキーになっているが湊がその答えを答えていると考えている。
ミスリードの多重構造として綴られ、途中までは
こうなんじゃないか、と思う部分が全て覆される。
ある意味、タイトルさえもミスリードを誘う文言であり
2時間という時間内で同じ軸の物語を3層で描くが
退屈することなく見事な演出力で進みきる。
人は自分でない誰かを悪者にして社会を生きていく。
決して一方向からの視点で判断してはいけないのだと考えさせられる。
アイドルタレント起用や漫画映像化の多い邦画の中において
今一番光り輝く監督である。
わからなかったです。
雰囲気でカバーしてる感じ。
視点を変えることで、見え方が変わる…
っていうのをいいことに好き放題やってる感じがした。
いやいや、さすがにそうはならなくないか?
みたいなシーンが多かったな。
時系列に全部並べ替えたら違和感を覚えたことの原因が究明できる気がする。
というわけであまり好みではありませんでした。
タイトルなし(ネタバレ)
「すごい」と感じさせるほどの普通の演技は映画の邪魔になるかどうか?
なぜなら、そういうことを考えながら観てしまうから。
クセがあるのも一周回って普通(リアル)になる。
ものごとの背景はカラフルでクセがあって怖い。
いつも目に入る人々やありふれた景色にも、きっと、なにか幸せや悲しみ、狂気も存在するんだろう。
誰から観て?
ここからの後半か。
すごいです。
映画、面白いなぁ
そしてそのセリフを校長に言わせる。
その人にとっての真実は、その人にしかわからない、なのだとしたら、
「誰にでも手に入る幸せ」とはなんなのか。
もとのまんまで、そして生まれ変わったよ!
是枝監督、坂本先生、全演者、スタッフの皆さん、今回も映画作ってくださってありがとう!という気持ち。
前半と後半の振れ幅
怖っ!
予備知識無しで鑑賞。
えっ、イジメの映画なんだ。教師の無表情怖っ!と思っていたら、途中から母親の表情も怖くなった。教師の態度おかしいだろと思ったが、途中から視点を変えて、時間も巻き戻しになると、母親にはあぁいう風に見えてたって事?
最後はやっぱり死んだんだろうなぁ。
しかし、なんでクラスメートの女子は嘘ついたんだろう?湊にむかついてたんだろうけど、教師を嵌める必要は無いだろうに。
田中裕子の校長には全然共感出来ないが、田中裕子の演技怖っ!
脚本が緻密すぎる
①麦野早織・湊の母(安藤サクラ)の視点、
②永山瑛太(保利先生)の視点、
③麦野湊の視点、
④星川依里の視点、
⑤田中裕子(伏見校長)の5つの視点を、
⑥是枝監督の6つめの視点で紡いでいく。
①は、③を見ている。次に②を見る。
湊が火事を眺めながら母親に投げかけた何気ない質問、「ブタの脳を移植した人間は…人間? ブタ?」。この情報は、星川依里が虐待するクソな父親から言われていた言葉の暴力だったが、母親にとってこの情報の出どころは、息子の湊が「先生が言ってた」とつぶやいたことで『情報源→星川の父親×、保利先生○』になった。ここで、「①→②を見る」状況が出来上がった。
②は、③④(生徒)を見ている。
保利は、蒲田のイジメから星川を救おうと湊が暴れたら星川も一緒に暴れたところ・トイレに星川が閉じ込められたとき湊とすれ違ったところ、『星川のそばに蒲田がいる』という状況より『星川のそばに湊がいる』状況にだけに出くわす。「蒲田と星川」ではなく「湊と星川」をセットで見る場面に遭遇することが多いから、湊がイジメに関わっているという印象を持つ。
③は、④を見ている。
④は、③を見ている。
⑤は、⑤を見ている。校長だけは、自己保身が強い気がする。学校のためといえば聞こえはいいが、孫の写真を自分にではなく来客用ソファに向けて見せるところ、教師に弁明の機会を与えず、親の意見をのらりくらりかわす姿勢は、世間体第一の利己的な一面しか感じられない。音楽室で湊に吹奏楽のレクチャーをしたところで(なんで自分はこんなになったんだろう)という悲哀は感じられた。
まさに劇中にある「怪物ゲーム」。
①が「私はモンスターペアレントですか?」と尋ねたら、②は「正解」というだろう。しかし①にとっては不正解。
②が「私は暴力教師ですか?」と尋ねたら、①は「正解」というだろう。でも②にとっては不正解。
③と④は、まだ何者かがわからない。だから電車の中で怪物ゲームをして遊ぶシーンがほのぼのしている。
⑤と⑤は、自問自答。もはや生きる意味を見出せない。下駄箱の下で掃除をして汚れを取る自分は、何者なのか。「校長」としての役割を持っていなければ、死にたい気持ちになる。だから、校長という役割を担うことで「自分」を保つ、職場復帰の早さも自分を失いたくないから。
怪物ゲームにカードの山のなかに、かたつむりやその他動物の他に「怪物」というカードがあった。多分このカードは、「あなたはコンクリートを食べますか?」「高いところに行けますか」「火を吹きますか」など、全ての質問に対して「はい」と答えられるカード。怪物ならなんでもできるはずなので。
つまり、『すべてに「はい」』とこたえられるのが、怪物。
という仮説を立てると、
①の質問『すべてに「はい」』と答えた校長は、怪物。
息子の話『すべてに「はい」』で応えた母親は、怪物。
ほぼ強制的ではあるが学校側の内容『すべてに「はい」』で応えた保利は、怪物。
子供たちは、抗っている。湊が星川の家にいったとき父親同伴で「引っ越す」「気になる子がいる」「もう大丈夫」と、星川依里が湊に強がるも、一度閉まったドアを開けて「嘘!」と告白する。その後、父親からおそらく折檻を受けている。
③と④は、互いに肩書きを見ていない。「モンスターペアレント」「孫が死んだ校長」「ガールズバーに行った先生」「同性愛」といったフィルター、怪物ゲームの札のようなものはなく、湊と星川として付き合っている。人間同士の付き合い。人間同士。
怪物とは、「人間同士ではない」だから「じゃあもう怪物だ」という意味なのだと思う。
ただ、保利先生が飴を食べるシーンは違和感があった。よっぽど学校のいいなりになっていて心底嫌気がさしていたのか、②の視点で物語が進むほど違和感が残った。(こんな人があそこで飴食うかな?)と思った。
あのラストをもってハッピーエンドと受け取りたい
もう、思い出しただけでも泣きそう。エンドロールが終わっても泣きっ面が直らなくて、油断すればまた泣きそうで…。とにかく素晴らしいの一言。是枝作品の中でも断トツの傑作かなと。
坂元裕二氏がカンヌで語っていた「自分が加害者だと気づくのは難しい」視点、それを秀逸な点で浮かび上がらせる。奇妙な会話と不気味な輪郭におどろおどろしく感じていたはずが、その渦の中心から見える景色がこんなにも違うとは。足りない想像は簡単に創造出来ない。だからこそ、広がった景色に驚くのだと思った。
やはり今回も、というべきなのは、子供が持つ未熟を是枝監督は愛している点だと思う。小学生特有のイジり、といえばそれまでで、大人は年々それを拒む。それはきっと、単純化を求めすぎた大人故の弊害だ。それを3つの視点を繊細に描くだけでなく、三原色が重なった時に色が変わるように、その真実も変えてゆく。矛先に伸びた影はあまりにも残酷で美しく、圧倒されるばかりだった。
安藤サクラさん、永山瑛太さん、そして子供2人の視点から描きながらも、それぞれが抱えた正義も共鳴する所がまた突き刺さる。張り詰めた糸をそっと撫で下ろして観ていた分、涙腺となって溢れたのかもしれない。
ラストシーン、絶対に忘れることは無いと思った。怪物とは何か、カンヌの賞がこの作品に与えた意味も含め、僕はそれをハッピーエンドだったんだと受け取りたい。
子どもが傷つくのがただただ辛かった作品
誰でも手に入るものを「幸せ」って言うの
校長が「しょうもない、しょうもない」と言いながら、湊に語った「誰でも手に入るものを幸せって言うの」という言葉を考えた。
だとしたら、その幸せをみんな求めているのに、どこでボタンを掛け違えているのだろう。
母親は確かに湊を愛しているのだろうが、明らかにおかしなことがあっても、どうして遠慮してわかった風を装ってしまうのか。
保利先生は、一見異常に見える金魚も、異常ではないという感覚を持っているのに、なぜ子どもたちへの指導は表面的で通り一遍なのか。
うまく社会に適応しているように描かれる周囲の人々は、その攻撃性に対して無自覚に噂話や偏見を垂れ流すのか。
そこに共通するのは、自分にとって「訳のわからないもの」に対する恐れであって、それがすなわち「怪物」なのだろうと思う。だから「人物の誰が怪物なのかといった見方ではなく、自らの中にある怪物を自覚しましょう」という映画なのだろう。
依里と湊の2人も、この「怪物」に囚われていたが、ラストシーンでそこから抜け出したことが暗示されている。
で、どう思ったかなのだが、一回目に劇場で観た時には、様々な人物や出来事のステレオタイプな描かれ方が気になって、とてもモヤモヤが残った。今回の配信での視聴は、そこは気になったが、ちょっとは落ち着いて観られ、羅生門的なアプローチで、全体が破綻なくまとめられていることも確かめられた。
が、やっぱりモヤモヤは残った。
どうして、登場人物の誰もが、相手の話を聞こうとしないのか。自分の中のストーリーに当てはめて、わかった気になったり、相手を屈服させようとしたりするのか。
そりゃさ、障害受容(依里のLDを指してます)ができない親は山ほどいるだろうし、モンスターペアレント対応でガッツリ削られている先生たちも多いだろうし、自分が直接関係ない不幸は、無自覚にエンタメとして消費して記憶にもとどめないことだってたくさんある。
けど、当事者の相手の話を素直に聞くって、そんなに難しいことなんだっけ?…性自認と性的指向についても学校できちんと扱われる時代になってきている中、そこでとどまってしまうのか…と思ってしまった。
言い方が適切かはわからないが、一歩手前で煽られている感じがしてしまうというのが正直なところ。そうなる前に解決できるものを「どう?どう?」とずっと見せられている感じなのだ。
是枝監督、坂元裕二も好きなのにな。なんでかな。
ぐやじい
怪物誰だ
人の目線で怪物が変わる。
見える部分と見えない部分を照らし合わせて初めて真実がわかるけど、それは誰にもわからない。
嘘か本当かは誰にもわからない、怪物って誰なんでしょうね。
誰もが怪物になるし、誰も怪物じゃないし、
2人がどうか幸せでありますように。
そう思う作品でした。
長い長い小説をじっくり読んだような作品でした。
みんな苦しい
観た後に、頭の中がぐわんぐわんする映画。
登場人物それぞれの苦しさが伝わってくる。
まず、湊の母親。
夫が浮気旅行の際に事故死したという事実を封印し、夫を美化しながら生きている。
湊に対する愛情はたっぷりあるし、子どもを守るための行動力もある。
でも、ラガーマンの男と結婚しただけあって、男という生物をステレオタイプの男の枠の中でしか見られない。
それが湊を追い詰めるのだけど、湊が何に苦しんでいるのか理解できないので、勘違いして突っ走ってしまう。
湊が苦しんでいることだけは理解しているので、母親として苦しくてたまらないことは分かる。
保利先生は嘘がつけない人。
だから、学校を守るために謝罪させられる時もうまく喋れない。
教師としては誠実に子どもと向き合おうとしていたことが第二部で分かる。
にも関わらず、不器用さゆえにどんどん追い込まれていく。他の同僚達もすべてを保利先生に押し付け、ことなきを得ようとする。
湊と依里も、自分達を守るために保利先生を悪者にしてしまう。
子ども達は敏感だし、察しが良い。アンケートには、大人達が期待している答えを察して回答する。
湊は多分保利先生のことが嫌いではないけれど、何かというと「男だろ」「男らしく」と口にするため、男らしさがない自覚のある依里は保利先生に心を開かない。だから2人は自分達を守るために保利先生を悪者にしてしまったのだろう。
とても気の毒ではあるけれど、LGBTQの生徒がいる可能性に気づかなかったという点で、保利先生はやはり加害者でもある。
校長も最初は存在自体が胸くそ悪かったけれど、音楽室のシーンで本当は教育の現場が好きな熱い先生だったことが伝わってくる。
孫を誤って引き殺し、夫を身代わりにして刑務者に入れるだなんて、苦しくないわけがない。
夫が身代わりになったのは、校長を守るためではなく、校長が勤める学校を守るためなのだろう。
分かっていても、苦しくて苦しくてたまらないのだろう。でも、そのことは誰にも言えない。
音楽室のシーンで初めて校長の苦しみが分かる。
湊は感受性が強くて人の気持ちに敏感だ。
湊の苦しさが一番ヒリヒリ伝わってくる。
是枝監督は、本当に子役を活かすことが上手い。
友達として好きなのか、恋愛感情なのか、自分でもよく分からなくて混乱し、苦しんでいる。
そのうえ、依里が父親から虐待されていることやいじめに遭っていることにも心を痛めている。だけど、自分もいじめられることが怖くて、いじめから依里を助けることができない。
依里は湊のそんな葛藤を全て受け入れている。
この映画の中で、一番大人なのは、一番幼く見える依里だと思う。
依里はディスレクシアで、性自認も曖昧で男らしくはない。
でも、おそらく知能は高い。美的センスやアイディアにも優れており、天才肌だと思う。
依里の父親は、自分のセクシュアリティーを封印し、自分を誤魔化して生きてきたのだろう。
庭のゴミは気になるが、家はおしゃれだし、植物も好き。依里が花の名前をたくさん知っているのは、父親譲りで植物好きだからだと思われる。
この映画は依里の目線では描かれないので、詳しくは分からない。
きっと依里の父親は、ありのままの自分を受け入れている依里を否定することで自分自身を肯定しようとしている。でも、虐待で自分自身を肯定できるはずもなく、酒浸りになっている。
依里の父親もまた、苦しくて苦しくて仕方ないのだろう。
唯一、最も不遇な立場に置かれているはずの依里だけが、そこまで苦しんでいないように思う。
それは、依里が自分を否定せずに生きているからではないか。
そして、湊という存在に救われたからではないか。
愛されると人は強くなれる。
依里は、湊が自覚しているよりももっと強く湊の愛を感じているのだろう。
ストーリーも徐々にパズルのピースがハマっていって引き込まれるのだが、ストーリーを知った上で登場人物達の心の動きを見返したくなる。
苦しいけど、心に引っかかってしまって、何度も繰り返し観たくなる。そんな映画だった。
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