怪物のレビュー・感想・評価
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怪物だーれだ?
自分が感じたことと同じ思いや感想、捉え方を
すでに大勢の方たちが述べているので、
敢えて、そんなには多くは投稿されていない(と思われる)感想を書くなら、
湊君と依里君が、ただ一言ずつ発しあいながら抱き合うときの色気!
これは、もう、日本映画史に残るほどの名演技だと思います。
(でもって、そんなこと誰にもいう必要や理由なんかないし、
今後、彼らがどうなっていくのかは誰にも分からないことだけど、
そんな、おぼろげで移ろいやすくも確かな世代の震えみたいなものが伝わってきます)
いずれにしろ、すべては、まさに『藪の中』であり、「怪物だーれだ?」って感じです。
子供たちのなんと眩しいことよ
坂本裕二の脚本がさすが。
藪の中、みたいに
登場人物のいろんな視点からある出来事が描かれ、徐々に真実が明らかになってゆく。
ちょっとした偶然や惰性が重なって取り返しはつかなくなってゆく。
子供たちのなんと眩しいこと。無垢で無邪気でそして残酷。
湊と星川よりくんだけの美しい日々。
いつの世も、真実が正しく語られるには、私たちの世界は複雑すぎるのだと思った。
もし星川よりくんがもっと大切に育てられていたら。
もし湊やその母がセクシャリティに関する広い知識を持って過ごせていたら。
小さなトラブルが起こったあの時、もっと深く立ち入って根本の問題に気づけていたら。。
湊の絶望感や行き詰まり感がわかって、やるせなくて辛い。
ラストシーンはとても美しかった。彼らは晴れた雨上がりの森を駆け回り、笑いあい、幸せそうにじゃれあいながら、かつては入れなかったトンネルへと向かってゆく。
とても切ない終わりだ。
大人たちを置いてけぼりにして、彼らは幸せそうに逝ってしまった。
彼らがとても幸せそうだったのがせめてもの救いであり、大人への罰だ。
重苦しい映画かと思いきや、是枝節の傑作
序盤では、共感できない「悪人」のような存在がデフォルメされており、奇妙なホラーのように感じる。テンポ感が早かったのもあり、是枝監督らしくないと感じた。しかし、この印象も映画全体の構成の一部であり、中盤以降で見事に覆される。「羅生門」式と言われる通り、それほど斬新な手法とは言えないと思うが、認識の死角を巧妙に突いていて、人は感情を持っているかぎり常に誰かを誤解しているということを効果的に知らされる。
完全に術中にはまったので、思わず2回観てしまった。
2回目に見てみて初めて、湊の「テレビで見てるから嘘だってわかるんだよ」というセリフがこの作品の手法を象徴していることに気づいた。保利先生が「僕も片親でした」から始まる何かを言おうとしたところを早織に遮られたのも認識できた。
役者たちの素晴らしい演技も、このミスリードをうまく機能させている。
早織は、子を持つ親なら過剰にヒステリックには見えないと思う。彼女の行動はリアルで熱心な女性として描かれている。
保利先生が序盤の職員室のシーンで完全なる悪役として怒りを感じさせるが、その決定打になった応接室で飴をなめたり母子家庭だからという反論も、一応それぞれ言動の動機が中盤で紹介されただけでなく、根は良い奴だが人の言う事を信じやすく、追い詰められるとああいう言動をしかねないキャラクターが上手く演じられていた。(それでも飴を口に入れたシーンはギリギリアウトだったと思うが)
そして、そこまでに表現されてきた事を忘れさせるぐらい、星川君と湊が心を通わせるシーンは胸を打った。個人的には最初に彼らが笑い合うケンケンのシーンは息が詰まるほど揺さぶられた。シナリオと音楽には日本を代表するアーティストの名が連なっているが、是枝監督が描く原風景は共通している。
ラストシーンでは、やはり星川君と湊は亡くなったと解釈した。救急車かパトカーのサイレンが鳴り響き、校長がびしょ濡れになり、星川君の父親もびしょ濡れになる。彼らが現世・社会から解放されたことで、いじめや嘘、セクシャルマイノリティに関する悩みや周囲からの期待から解放され、純粋に大切な存在と笑い合うシーンで締めくくられている。社会がなければ、それが愛情なのか友情なのかと悩む必要もないだろう。
そして、それをあそこまで美しく描き、子どもが疾走していて、光に溢れているのは、やっぱり是枝節だなと感じた。
それぞれの単体エピソードとしては良かったものの、、、
3部構成、それぞれのエピソードは面白かったが、これを一つに繋げた時に、果たして整合性はとれてるの?という印象。
特に小学生のメイン2人が、瑛太のことについて嘘をつくのは理解できるが、なぜ他の子たちまでもが瑛太のことを悪くいう(あるいは味方してあげない)のか、全く理解できなかった。視聴時は、きっとメイン小学生2人のどちらか、あるいはやけに存在感のある女の子のうちの誰かが、クラスを(陰で)牛耳ってるのかなと思ってたんだけど、そんなこともなく。
作品の行間に雰囲気が感じられる脚本と演技はよかったが、なんか消化不良てあった。
純粋な子供達に振り回される大人達
世にも尊い物語
日常に潜む「怪物」の正体
ジャンルは特撮でもホラーでもないのに、『怪物』というタイトルが意味深だ。
本作の主軸となるのは、小学校教師の児童への虐待疑惑。学校を追及する母親(安藤サクラ)から、非難に晒される教師(瑛太)へ、そして渦中の子供(黒川想矢)へと、視点が切り替わって描かれている。
「怪物」がこの映画のキモには違いないが、その怪物とは一体何か、もしくは何を示唆しているのか。その答えを探しながら観たとしても、怪物の正体はそう簡単には暴けない。主観となる人物が変わるたびに、1つの出来事への認識が異なってしまうせいで、観客が知りたい答えは一転二転し、寸前でかわされ逃してしまう。
「怪物、だーれだ」とつぶやきながら、夜道を1人歩く少年。学校で子供たちの明るい声が響く中に、紛れて聞こえる怪物の咆哮を思わせる寂しげな楽器の音。
怪物は登場人物たちの日常のいたる所に潜んでいて、嘘を飲み込んで大きく育っていく。自己保身に走る大人たちはもちろんのこと、大人の庇護を求める無力な子供も、生きるために意図せず自分の中で怪物を飼っている。
鑑賞後は冒頭からの全てのシーンの捉え方が変わり、最初から見直したくなること必須。結末のシーンも観客に解釈を委ねられた感があり、一度観ただけでは味わい尽くせない奥深さがある作品だ。
本作は第76回カンヌ映国際映画祭コンベンション部門に出品された是枝監督の作品で、最優秀脚本賞(坂本裕二)、クィア・パルム賞(LGBTQに関した作品に与えられる賞)を受賞した。音楽は坂本龍一が担当。
居るけど
「怪物だーれだ」
怪物=人の深層は必ずしも見えないことによる認知の「歪み」のこと?
映画作品としては、時間軸を前後させながら、少しずつ真相を明らかにしていく手法が、面白いと思いました。
そして、切り継ぎされる関係者の供述は多岐に別れて、容易に真実が浮かび上がってこない-その意味では、本作も、いわゆる「羅生門形式」の一本であるのかも知れません。
作中では「かいぶつ、だ~れだ。」という湊川と依里との歌声が、折に触れて繰り返されるのですけれども。
そして、本作に登場する主な人物では、
○いわば「独り取り残されて」、湊との関係性だけに生きているかのような早織
○一見すると「能天気」にしか見えないような保利先生
○実のわが子を「病気」と決めつける依里の父親
○妙に世慣れていて、学校の体面や保身しか考えていないような伏見校長
「個性の重視」というのか「個人主義」というのか、それの行き過ぎというのか…「他者との関係性を築けない」というのか…「他者との関係性を理解できない」という人は、いつの世にも、一定割合では、存在するんだろうなぁとは思います。(そういえは、「縁なき衆生は度しがたし」という言葉もありましたっけ。)
そう思いました。評論子は。本作を観終わって。
それらを「怪物」と言うかどうかは別として。
否、むしろ、そういうものとしてステレオタイプに決めつける方が、よっぽど「怪物」もどきだと思うのは、評論子だけではないことと思います。
結局のところは、本作の登場人物の、誰の、どこが、どのように「怪物」と一概に決めつけることはできないと思うのですけれども。
あえて「怪物」というならば、受け止め方の多様性ができないこと…人の心理の深層を人は必ずしも認知できないことからくる認識の「歪み」を理解できないことは、「怪物」に見えるのかも知れないと思いました。
評論子は。
そして、まるで「荒波の海の上を漂う小舟」のように、そういう大人たちのせめぎ合いに翻弄される湊と依里の姿も、胸に痛い一本でもありました。
本作は、2022年間に札幌地方で公開された作品から、評論子が参加している映画サークルで、年間ベストテンに選ばれ、また同サークルの「映画を語る会」でもお題作品として取り上げられた一本として観賞することとしたものでした。
上記のような人間関係を浮き彫りにしようとした一本としては、充分な佳作であったと思います。
評論子は。
(追記)
人との心の中にあるもの―否、むしろ明確に外部には析出はせず、本人も意識はしていないが、人の心の奥底に潜んているもの―「人の心の闇」を描いたという点では、『福田村事件』と同一事案を角度を変えてみせたのが、本作」という、評価子が入っている映画サークルの先輩会員の評は、外れてはいないのだろうと思います。
(追記)
いわゆる「羅生門構造」で、登場人物のセリフだけからは、容易には真相に辿(たど)り着けないような感じが、作品の全体を通じて漂います。
その点が、本作を通底する、ある種の「不気味さ」になっているのではないかと思います。評論子は。
そして、火災のシーンや、現場に急行する消防車のサイレンも、本作を通底する「不安」の、一つの要素として、効果的にも使われていたと思います。
(その意味では、安藤サクラも田中良子も、けっこう不気味なキャラクターで、ちょっと怖かったのは、評論子だけだったでしょうか)。
(追記)
「…してくれなかったら、お母さん、暴れるよ。」
あまりに単純(単細胞?)で、直情径行的で、お世辞にも「思慮深い」とは言えないところをみると、豚の脳と入れ換えられていたのは、案外と早織の方だったような気がしないでもありません。評論子は。
(追記)
湊と依里との関係性も、微妙でしたね。本作では。
いわゆる「LGBTQ」の「Q」は、最近は、不明(Question)を表すのではなく、もともと「不思議な」「風変わりな」「奇妙な」などと訳される「Queer」(クイア)(を意味するものだという考え方もあるようです。
かつては同性愛者への侮蔑語だったということですが、現代では、規範的な性のあり方以外を包括する言葉としても使われているとのことです。
湊と依里との関係性も、そんな関係性だったのかも知れないと思いました。評論子は。
(追記)
是枝監督は子役の使い方が上手いという、多くのレビュアーのご意見に、評論子も賛成です。両手を挙げて。
そして、子供には「自分の証言(発言)」が、どういうふうに事態に影響を与えるかを正確に判断することがまだできないので、重要な事実を言い漏らしたり、未熟なな表現で断定的な物言いに受け取られてしまったりもする。
そういう判断能力の充分な大人からみると、子供は嘘つきに見えたり、反面、真剣に訴えているのにいい加減な受け答えをしているかのように受け止めてしまう。
湊と依里と、他の大人たちとの関係性については、そういう問題もあり、それが本作のストーリーを混迷させている―そういう要素は、あったのではないかと思います。評論子は。
(追記)
本当に、余談の余談ではありますけれども。
本作の中に「豚の脳を移植された人は、人間か豚か」というセリフが幾度となく出てきますけれども。
ヒトに豚の脳を移植するかどうかは別として、ヒトに豚の膵臓(正確には豚のランゲルハンス氏島)を移植する臨床研究(ヒトを対象として行う医学研究)が始まると、今日(令和6年4月10日)付けの読売新聞で報じられていました。
豚の膵臓を移植されたヒトは…ヒトであることには間違いはないのだろうと思います。
レビュアー諸賢のトリビアまで。
怪物だーれだ?
とにかく謝って済ませてしまいましょう、ていう学校の体制が悪い。担任からも、当事者の子供からもきちんと話を聞こうともしない。結局ただ謝らされて学校を辞めさせられた先生がなんか気の毒。だって担任の先生は湊を殴ってないし、豚の脳みそとも言ってないのに。
湊が学校で暴れたのは、星川くんを守るためで、そこを担任ももう少し理解できていれば状況も違ったかも。湊が豚の脳みその話を、星川くんがお父さんに言われたことだとお母さんにきちんと話せていたら、とも思うが、そこはまだ子供、、、湊は湊で仲良しの星川くんを助けたいけど、他の子から仲間はずれにされたくない、ジレンマでいっぱいいっぱいであっただろう。
校長が頼りない。星川くんのお父さんが酷い。校長は湊と楽器を吹きながら、言えないこと、なんて吹いていたんだろう。なのラストは?現実?それとも、、、?
観ていて辛い、観終わっても辛い。ただ役者さんはみんな的役。みんな上手い。子供達も。この子達、どんな俳優さんになっていくか、楽しみ。みんなで暖かく見守りたいですね。
人生も世の中もこの映画の評価も人によって様々。
タイトルがミスリードな気がして
怪物というタイトルが少しミスリードする印象。事実は一つではなく、それぞれの立場によって何通りもあり、人は自分に良いように解釈し、事実を捻じ曲げる。人の持つそういう特性が怪物ということなのかな。小学生にセクシャリティの要素まで盛り込んできたのは、少しやり過ぎたかな?と思ったけど、親からの虐待しかり、親や教師、他の人には言えない秘密を抱えざる得なかった子供を描く為には必要な要素だと思えた。最後、子役の二人が明るい草むらを楽しそうに走るシーンを見て、ああ二人は亡くなってしまったのだなと。あれだけ再生を口にしていながら、最後の台詞、生まれ変わらなくて良かった!に、決して死ぬことを望んではいなかった気持ちが切なくて泣けました。
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