鑑賞後、1週間経って、
このドキュメンタリー映画の味わいを思い返してみる。
【母と娘】
取りよう かもしれないが、
他のいくつかのレビューで言われているほどお母さん=泰子さんは、悪くは描かれていないのではないかな。
この映画はもちろん金澤翔子さんを主役にしているのではあるが、
年齢が近いせいもあるだろう、僕はたっぷりとお母さんの金澤泰子さんの生き様を目で追い、一挙手一投足、その眼差しとお姿を心に刻ませて頂いた気がする。
それは
赤ちゃんの翔子さんを抱いてお地蔵様に “御百度参り” し続けた母親の姿と、
夫を失った妻の姿と、
書道教室で奮闘するひとりの女の姿だ。
書道の師範として、徹底して門下生を一人前に鍛え上げる責任がある「徒弟制度」の世界と、
そして母としての顔。
この二つの輪だち、その二本の足跡で、あのお母さんを取材しつつ弟子の金澤翔子さんが同時に紹介されているのだ。
師匠だけど母。
母だけど師匠。
子離れ出来ない親だったとしても、口出しや手出しの多い親であったとしても、それは けして悪いことじゃない。
いろいろな親がいて いいのです。
師匠でありつつ、大成する娘に掛けるその母親としての脱線した喜びようにも、僕は (ちょっとだけではなく)本心から寄り添いたいですね。
【専門家たちからの評価】
千住博の優しさといたわりの言葉がたいへん良かった、
「頑張れと言われて芸術作品は出来るものではない、
むしろ『もう書かないでいいのだ』『無理することはやめていいのだ』と本人を止める言葉がアーティストに対しては必要。
しかし制止されてなお書きたくなるのが芸術家なのかもしれない」。
・・この千住の、“同業者”、否、“同労者”に向けての敬愛のこもったコメントは胸を打った。書家金澤翔子に対してはもちろんのこと、その母親として頑張ってきた金澤泰子にも向けられている“やんわりとしたブレーキ”と、温かいねぎらいだろう。
そして数人のアーティストや僧侶が劇中のインタビューで興奮を抑えつつ語っている。彼らはプロとして作品を、作品そのものだけを見ている。
そしてどこの会派からも自由で、笑顔で筆を振るう彼女に羨望している。
そして仏教者は般若心経の具現に、書を通しての仏の慈愛を見ているのだ。
【芸術家はその作品で勝負】
すでに彼女の作品は家族血縁から独立・離陸しており、
その作品は、どんな境遇にあった人間の手に依るものかという二次的な背景よりも、そこに打ち立てられた書の芸術性で、堂々と三千世界に輝いていると思う。
僕は音楽をやっていたので、わかるのだ、「良い作品だけが後世に残る」ということ。
先年鑑賞した音楽映画「パガニーニ」では、演奏家を支配しマネージメントを握る「見世物興行主」という存在に首をかしげた僕。くだんの興行主はパガニーニを喰い物にして、儲けるための商売道具としてバイオリニスト=ニコロ・パガニーニを利用した。
モーツァルトに対する父レオポルトの関係も似たようなものだ。
しかし、興行主や過干渉のステージパパが死んでも、パガニーニの作品もモーツァルトの作品も残った。
百年経ってようやくその価値が認められる作家もいるだろうが、書く先から衆人の目を奪い、その墨跡が取り合いになる時代の寵児もいる。
思いがけずとんとん拍子で有名人になってしまった金澤翔子さん。
知名度でも収入の面でもすでに師匠を超えて、師匠を養う存在となったことだろう。
まさに「共に生きる」だ。
あの母親がどうだって?
心配しなくても作品は残る。
ミロのヴィーナスを見るが良い。
作者も親も死んだあと、
作品だけが更に“迷信”や“伝説”を脱ぎ捨てて
かつて音楽や絵画・彫刻や文学がそうであったように
本物であったならば、人類の宝として、文明の嗣業として それは残っていくはずだ。
・ ・
白い半紙、黒い墨、赤い落款。
目にも鮮やかな「風神雷神」の大屏風・・
激しく胸を打たれて、前の座席の背もたれを掴み、思わず身を乗り出してスクリーンを観ている自分がいた。
感謝。
合掌。