正欲のレビュー・感想・評価
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常識・既成概念で差別する「普通の人々」
原作を読んでないからあくまでも映画からの印象ですが。 ガッキーと磯村勇斗くんの「水フェチ」は、ある種の性的マイノリティであり、と同時に誰にも理解されない孤独に悩む人間。 彼らが、自分を理解してくれる人と共にいたいという感覚を表現したものとして、『流浪の月』に近い内容でありました。 ただ、『流浪~』と違うのは、主人公が被害者・容疑者側(ガッキーたち)ではなく、吾郎ちゃん演じる検事の寺井なんですよね(クレジットの順番的に)。 この検事を通して、常識・既成概念と言われる一般性にがんじがらめになっていることに自覚がなく、自分の考えと違うもの全てを「嘘」「まやかし」と切り捨て、理解しようとしない、「普通」の人間を描くことが主眼なのかと。 「普通」って実は、最も他人を理解しようとしない概念と思考法ではないか? 「他人の自分との違いを知ろうともしない」態度を、「常識」「普通」「良識」だとするなら、家族という一番近い存在すら理解できず、失うことになる。 この「普通」の残酷さ、無能さ、許容力の無さにより、世の中の不幸を招いているのではないかという提示をしているように思えました。 さらに踏み込んで、(ベストセラーとして話題になったときに目に入った書評で触れていた)容疑段階で佳道(磯村勇斗)を関係のないネットやマスコミが叩く、検事側に立った「正義の娯楽」をする人の悪意までを描くかといえば、それはなく。 たぶん、俳優陣からいって、マイルドな表現にしつつ、その「人の愚かさ」を一人に託したのかなと。 結果…… 映画賞狙いっぽくて、エンタメからは遠い感じの"文芸作品"臭が強かった印象。 海外、特にフランスとかには受けそう。 付け加えると、不機嫌で無愛想なキャラなので、起用した意味がないだろう、どうなるんだろうかと思いきや、後半で横浜に移ってからはもうガッキーの美しさ全開。 その点は安心して観にいってもらえればと。
いのちの形
原作者の朝井リョウはやはり着眼点が凄いと常々感心させられる。 世の中は少しずつ多様性を認める風潮にはなってきたが、本当に万人が生きやすいと思える環境にはまだなっていない。 どこか形だけの、よそよそしさを感じさせる包容力を持った社会。 本当に皆が多様性を受け入れているのか。形だけ理解しようとしているだけではないのか。 この作品はそんな世の中の違和感やひずみのようなものを上手く捉えている。 と同時に、時代が変わっても決して受け入れられないような部分も人間にはあるのだと教えてくれる。 人は誰しも多かれ少なかれ秘密を持って生きているとは思うが、特に特殊な性癖やフェティシズムは隠しておきたいと思うだろう。 誰からも理解されることはない。 どころか知られた途端に誹謗中傷を受けるような。 どうして自分だけがこんな生きづらさを感じなければならないのだろう。 どうして自分はこんなに孤独なのだろう。 世界が全て敵だと思い、心を閉ざして生きてきた、そんな人の前に、もし自分と同じ趣向を持った人物が現れたら。 自分はこの世界に居ても良いのだと肯定された時、人は世界と繋がることが出来る。 その形は様々だ。 夏月が発した命の形が違うという言葉がとても印象的だったが、形は違っても自分と似た命を持った人間は必ず存在する。 画面を通して息苦しい生き方しか選べなかった人たちの、世界と繋がった瞬間の喜びが痛いほどに伝わってきた。 同時にその息苦しさを理解しようとしない無神経な人たちが放つ言葉に傷つけられる彼らの心の痛みも。 検察官の寺井が不登校の息子に、逃げると生きづらいままだと突き放す場面が印象的だったが、彼の言葉は正論のように聞こえるだけで、自分の生き方を肯定したいだけの言い訳にも聞こえる。 何故なら逃げずに立ち向かっても、生きづらさを感じている人はたくさんいるからだ。 実は普通に楽しそうに暮らしている人も、そのように見えているだけかもしれない。 自分は幸せだと思いたがっているだけかもしれない。 だから、自分よりも不幸そうな人を見つけて、善意のふりをして悪意をぶつける人がいるのだろう。 普通とは何か、まともとは何か。 その境目はどこにあるのか。 観ていて色々と考えさせられ、苦しくなる場面もあった。 そして寺井が言うように、社会には本当にヤバい奴がいるのだということも事実なのだと思った。 夏月や佳道や大也や八重子の、息苦しさを感じる彼らの虚ろな目と、それでも世界と繋がろうと賢明に生きる姿が強く印象に残った。
欲とは…
色々と語れるほど見解は持っていないが、常識とは、普通とは何か?よく良く考えさせられた…。 がしかし、原作は読んでいないが、物語として あの終わり方は余韻を残して観客に考えさせているのか?物足りない気もした。 敢えて言えば、自分は普通の部類だと思うが、最後にガッキーが言った『居なくならないから』というのは、どんな人にせよ、必要な(言われたい)言葉だと感じた。
原作既読
と、言いつつ、ちょっとストーリー、忘れてしまってたのですが、あ、そうだった!思い出した次第。 私は、ゴローちゃん演じる検事にも共感できるし、ガッキーにも、磯村くんにも、共感できました。 フェチとゆうか、性的嗜好に目が向きがちですが、それは飽くまで一つのたとえであって 自分が正しいと思う世界が全てではないよ、というメッセージだと受け取りました。 無意識的にも社会のマジョリティと思ってるのか否か、明日も生きたいと思っているのか否か、によって、感じるものは違うかもなと思いました。 ダイバーシティって、色々矛盾もはらんでるし、難しいと改めて自覚する映画でした。
周りに理解してもらえづらい人たち同士が、 出会って、気持ちが通じ合...
周りに理解してもらえづらい人たち同士が、 出会って、気持ちが通じ合えて、 って、素敵ですね
わかってるつもりがわかってないことを知る
性欲について話すことは暗黙の了解でなんとなくタブーと思っていた だから特殊な嗜好性があっても他人にバレなければそこまで苦しまなくてもと 思ったのですが 登場人物は人に欲情しない、水に反応する人たちで それぞれの社会状況で苦しみながら生きている それが死を考えるほどのことなのだと、そこまでの何が問題なのかわからなかった 人と自分は違うという思いと、一般的な人の体験談に全く共感できないことが ここまでの孤独感を生むとは思わなかった 私がいかに無意識の連帯感の後ろ盾でいわゆる普通に生きてるのか考えた 性格的な面で言って細かく言えば誰でも他人と自分に違いなんて山ほどあるのだが・・・ 映画の中では 性のことは逆に表立って他人に話さないから隠しやすいと思ったりするのと同時に 性は根源的な欲だから、ここが大きくずれて共感できる人がいないからあそこまで追い込まれるのか 変わった嗜好性が強い人には何らかの対処法があったほうが良いだろうし 今はSNSがあるのでそれが救いだなと ただ心配してた通り、結末は後味悪く、こういう人がいてそうなるよねっていう 最後の子どもの目にカメラが寄っていって、それが怖かった 嗜好性の境目の難しさ 欲の止め方 解消法 結局、人は誰かと寄り添わないと生きてる意味ってないのかもしれない パートナーという意味でなくても、理解者の気配を感じるだけでも 踏ん張れるのかもしれない もし理解者が親だったとしても主人公のガッキーはあそこまで孤独だったのでしょうか 誰かがわかってくれたら良いということでないのか その性的嗜好を他人が理解してくれているということに孤独を消せるのか 理解と想像力 色んな人がいることをわかっているようでわかっていないことを 考えさせられた作品でした
カニクリームコロッケのシーンが好き
狭い世界が自分たちの生きられる世界 ひとりじゃないと安心できる場所 明日死んでも別にいいけど ひとりがふたりになって 少し生きやすくなった カニクリームコロッケをふたつ パンにマヨネーズをたっぷりかけるあなた きっと美味しいって食べてくれるはず 知らなくても あり得ないと思っても マイノリティの人は存在している 誰もがみんなマイノリティ 人よりも強く思う対象のものはないだろうか 同じものを好いている者たちと 気持ちを分かち合うことはないだろうか みんながみんな 存在を 理解し合えたらいい それだけで生きるのを辞めてしまうひとが 少なくなって世界は平和になるとおもう またひとつ ちがう愛のかたちを知った 冒頭の新垣結衣さんの演技に引き込まれた うつろな目と透明感を封印したざらついた肌 肌から演技をしていてすごい あのニキビは自前なのかメイクなのか 予告で観ていた自室の水浸しシーン とても重要なので見逃しは厳禁 ここから感情移入をしてしまい 鑑賞中は自身もフェチズムになった 山田真歩さんの泣きの演技が自然 ユマニテ所属の俳優の涙はいつも印象に残る… 涙を手で拭う仕草がすごく好きなんだ 時間を感じさせない映画で観やすく 終わり方も好きだった エンドロールをぼんやり眺めながら 人の数だけ偏愛や性癖があるものだ…と 熟考したりまた観たいなどと思った
レトルトのカレーは好きですけど
大きく分けると3つの物語になるが、正直中々共感はしにくい。男性にトラウマがある女子大生の役の子は、物凄くうまくリアリティがあったが、気になる男性への告白は残酷そのもの。気遣ったのに傷つけてしまう典型。 不登校の子供に関しては個人的には世にも奇妙な物語かはたまた笑うセールスマンか 磯村くんは確か渇水にも出ていた気がするが、水道水が出てきた際には若干笑ってしまった。 ラストシーンのガッキーのセリフから脚本作ったと思うくらい印象が強い。 レトルトカレーは好きだけど、疲れて帰ってきて毎日あれだと流石に萎えそう。 子供も大事だけど旦那も大事にして上げてください。 かなり共感出来ないしかなり強引だけど、面白かった。
今日的多様性化の突破の試みとして見た。
いわゆる「LGBT」を情報として理解して「寄り添ってる」つもりの人の罪深さ、世代の分断、価値観の分断、性善説の限界、パラレルワールドとしてのネット社会、、、、色々考えさせられました。 稲垣吾郎が一番年配という、昭和世代には感無量なキャスティング。 みんな演技が自然で良かったと思います。 映像化がすごく成功しているように思えたので、原作はどんな描写だったのか、読んでみたくなりました。
ある程度
シンパシーは感じる。 勉強は嫌いではなかったが、学校は嫌いだった。 責任感はあるが、協調性はないと通信簿にずっと書かれていた。 学校は勉強しに行くところなのに訳のわからない行事、 それに伴う同調圧力、心の底から嫌だった。 同級会にも自ら進んで行ったことはない。 若い(幼い)頃にたった2~3年過ごしただけの話で、 だから一生友達みたいなことを言われてもねぇと思う。 そう思いたい人はそう思えばいいが、押しつけは迷惑だ。 そもそもいじめとかは実際あって、ろくなもんじゃなかった。 だから、稲垣と異常小児性愛者以外の気持ちは分かる部分はある。 妻はいわゆる正常な人間なので全然分からないと言っていた。 さもありなん。 一方で、これを映画にしておもしろい?との観はある。 少なくとも私にはエモーショナルな心の動きはなかった。 ましてや稲垣演じるマジョリティの正常人に見せたところで、 妻のようにマイノリティの本質は理解できまい。 どういう落とし方をしたかったのだろうか。 投げかけるだけなら勘弁願いたい。 原作を読んでみたいと思う。
世界はそれを愛と呼ぶんだぜ
原作は未読。 他の人もレビューで書いているようだが、どうしても気になることが2つ。水に興奮することが社会的に許されないことなのかということと、子どもと水で戯れている動画を持つことが犯罪になるのかということ。 前者は理解されることは少ないとしても、社会に受け入れられることはないと絶望するような性癖やフェチには思えない。この性癖と社会から孤立することがどうしてもつながらなかった。 後者は、水に濡れた子どもたちと遊ぶ動画が児童ポルノにあたるのかどうかが問題になる。どうにも映画としてトラブルを作るための展開にしか思えない。 でも、かなり大事なことが気になっているくせに観た感想は悪くない。それは、あの二人がお互いを必要な存在として認めていく過程がよかったから。セックスの真似事をするシーンを観ながら、ハグのくだりで2人に「いいじゃろう!」と呼びかけたくなった。そして「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」と。 結局、特殊性癖の持ち主たちの生きづらさを描いていても、愛を描いた物語として仕上がっていたと言える。これ、原作はどうなんだろう。登場するのは水に興奮してしまう性癖の持ち主なんだろうか。もっとドギツい表現があったりするのかもしれない。映像化されると表現がマイルドになってしまう。そういうことだったのならまだ受け入れられる。
普通って言葉の意味は?
多様性を頻繁に耳にするようにはなったが、メディアを通して見聞きするだけで現実はちっとも多様性を尊重する社会になっていません。 それは趣味嗜好、フェチと呼ばれる性的思考も含め自分の中だけでしか消化しえない。 ましてや同じ思考同士での繋がりがあれば幸せだが、なかなか他人に理解してもらおうと言動行動に移す事さえ憚られる。 多様性が普通とイコールになっていないから。 ただその事だけが全てととらえて人との繋がりを拒むことは個人的には理解できないししようとも思わない。 考え方だけでも多種多様にあるわけで、そんないろんな人と関わることこそが生きるということだと思ってるから。 ただ繋がりが欲しいからとネット社会のSNS やユーチューブ、インスタなどでコメントもらうことで繋がってると思うのも危険だと、繋がった気になってしまう錯覚に陥る。 多様性などと言われる前のネットのなかった社会のなかで、親友、友人がいた人は幸せなんだと思う。 そんな友は自分とはまったく違う趣味や考え方のの友こそ大切な友と言える。 同じ趣味嗜好、考え方の友だけと繋がっても狭い視界、社会になる、多様性とは異なる趣味嗜好、考え方のものが互いを理解、尊重しあうことこそが本当の意味で多様性社会と言えるのでは。 特殊と思われる趣味嗜好が理解され、そんな人も普通の人と言われるようになれば普通と言う言葉の意味合いも変わってくるのだろう。 それにしても服を着たまま正上位の形で体験したつもりと言われてもねぇ。 セックスも愛し合うことの一部であると思うし、スキンシップのひとつ。 ちゃんと肌を合わせてひとつになれば、相手への想いが互いに一歩進むと思うのだけれど。 まあセックスに興味がない、それも多様性なのか
圧殺される世界
素晴らしい視点で人間を描いた秀作でした。 誰に迷惑をかけるでもない水フェチという性的指向に世界を閉ざされてしまう佐々木(磯村勇斗)と桐生(新垣結衣)。LGBTQは徐々に認知されてきてはいるが、もっともっとマイノリティで、別に人に害を与えないし迷惑だってかけないけれども誰にも言えない指向、そして、言った途端「あり得ない」と全否定されてしまう世界。そんな窒息しそうな2人の状況を非常に良く出来た人物描写、一つ一つのセリフに凝縮させた秀作でした。 息苦しくさせる「普通」とか「マジョリティ」とか「一般常識」を化体させた人物である寺井(稲垣吾郎)と、佐々木・桐生が対峙するクライマックスで吐露される、それぞれの価値観や苦しみ。そして、基準の中で正しく生きてきたと信じる寺井が、桐生の「いなくならない」という言葉を食らったときに、自分自身に目を向けた瞬間の表情。 本当にセリフが素晴らしい。 水フェチは1つのたとえであり、マジョリティがマイノリティを追い込んでいる状況や、多様性と言いつつ、(何にも迷惑かけないものでも)マイノリティの中のマイノリティは圧殺されるということを見事に伝えていました。 そして、ゴローちゃん、ガッキー、磯村君、この3人の演技が素晴らしい!期待以上でした。ゴローちゃんは、SMAPの頃から、シュッとしたハンサムなのに、鼻眼鏡をかけた変な役をやるのとか大好きで、演技好きなんだな、上手だなと思ってましたが、クセつよではない、こういう役もうまいんですね。 ガッキーの無表情とこれという時の目力、磯村君の人生に疲れた諦めた目と喜んでいるときの表情の違い、本当に素晴らしい役者さんです。 佐々木が送検までされることはないというコメントや、ゴローちゃんとガッキーがバッタリ会ってることへのコメントも拝見し、確かにその通りではありますが、その部分は本作では重要ではないと思いました。そこが気になってしまうと、検察官と対峙させるためのご都合主義と思われる方もいるのかもしれません。 細部では、晩御飯がレトルトカレーとか扱いひどいのは、奥さんがひどいのか、あまりに話を聞かなくて愛想尽かされてるのか、夫婦の鶏卵問題を感じました。
一人ひとりの演技は良いけれど…
原作を読んでなかったら、展開についていけなかったかも。 笑いなく、手に汗握るのでもなく、泣けるのでもなく。 役者陣一人ずつの演技は魅せてもらえたのですが。 原作を読んだ時の、もうこれまでの自分に戻れないと感じたな。
忘れられぬ、切ない言葉に胸が震える
※映画の内容を語っている部分と純粋な感想の部分で文体を変えています。 昨年封切られた『ある男』に少し味わいが似ているが、こちらは死んだ人の話ではなく、今生きている人たちの話。 この群像劇の主要登場人物たちはみな死んだように生きている。「明日が来なければいい」「ひっそりと死ぬために生きている」 普通と違う、枠からはみ出た人生はその人自身にも、周囲にも、両方から否定されている。 そんな悲しみや苦しみ、ない方がいいに決まってる。 そういう「辛さ」を分かち合える人に少年少女時代に出会い、一度は別れ、思いを胸にずっと秘めていた主人公の二人。そして、忘れられないその二人は期せずして再会する。 その再会が、つまらなくて無為だったお互いの(特に、新垣結衣扮する彼女の)人生を切り拓く。 忘れられない人とは「恋人」でないところから始まり、彼から「この世界で生きていくために手を組みませんか」とプロポーズ(提案)される。 好きとか嫌いとかでない、このプロポーズが、本当に切ない。今でも涙が出る。 そうして始まった、心穏やかで平和な二人の暮らし。彼との生活で「もう一人でいた頃に戻れない」とベッドで抱擁して呟くヒロインの夏月。 ようやく手に入れた幸せがずっと続いて欲しい、と映画見ながら心から思った。 もう一組の男女が織りなす「その人の前でだけ素の自分で居られる」「どうせ誰にも分からない」「男性への拒否反応があっても、好きになってしまう」どうしようもなさに苦しみ、お互いがそれを吐露する物語にも心震える。 こういう、周囲との違い、そしてそれを分かってもらえないことから来る「孤独感」(孤独でなく孤独感というところが厄介なのだ)と必死に折り合う人たちに対峙する形で、稲垣吾郎扮するもう一人の主要登場人物、寺井が物語に深みを与える。 普通でないことをどうしても受け入れられない、普通に生きることを矜持にしている人物。 夏月がこの寺井と対峙するラスト付近「あなたが信じなくても、私たちはここにいます」という台詞も、私の胸に鋭く突き刺さり、忘れられないシーンとなった。 この映画、本当に脚本が良い。「目を開き、胸に刺さる」台詞が散りばめられている。 人が持つ「辛さ」と「優しさ」が、このような心震える台詞で紡がれた脚本力に恐れ入リました。 『あゝ荒野』も『前科者』も深く感動した映画。岸善幸監督も港岳彦脚本も自分に合うと再認識しました。 主要登場人物を演じた俳優は皆本当に拍手喝采を送りたい程素晴らしかったです。 地味な映画ですが、内容は特濃だと思います。
映画史と人権
本作を見ながら「ああ~、時代もここまで来たのか」って気分になり、「社会は発達するにつれ複雑になって来るのだなぁ」って考えさせられました。 個人的に“映画は考えるためのツール”としての役割を持たせているので、私向きの映画ともいえます。なので感想というよりも雑談をしたくなる様な作品ではありました。 まあ、映画を半世紀以上見続けていると、大まかな映画史というのも自然に頭に入っていて、映画史的な流れで作品を見る習慣も身ついてしまっています。 ある視点から言うと、映画って“人権”を提唱する手段でもあったような気がします。 要するに社会悪を物語として観衆の怒りの感情に訴えかける、良い意味での煽動ツールでもあった訳です。 又聞きですが、元々ハリウッド映画産業を興したのはユダヤ人であり、様々な差別への対抗手段として大衆が理解しやすく社会的効果も得られる映画が有効であるという事から“勧善懲悪モノ”“人情・恋愛悲喜劇”といった娯楽映画を量産したという事を漏れ聞いています。 そして時代が進み、貧富の差、人種差別、男女差別、LGBTQ、ポリコレと問題意識も変化してきて、ついには本作の様な特異なフェティシズムまでに至るのですが、今までの映画が果たしてきた問題提起に対する結果として社会(世界)はどう変化(改善)したのか?という事が一番の問題なのだと思うのですが、本作の場合はある意味その点についての問題提起をテーマにしていた様に感じられました。 なので、本作の場合オムニバス的に登場人物が多くいるのですが、貴方は現実社会ではどの人に一番近いですか?、若しくは一番感情移入出来ましたか?、若しくは誰も全く理解できないし気持ち悪いと感じましたか?それを自覚するための作品なのだと思います。 マイノリティ、マジョリティとは言っても、分類を細分化すれば殆どの人がマイノリティ側にいたりマジョリティ側にいる訳で、もっと簡単な識別法は分類の細分化を理解できる頭脳があるかないかの差でしかない訳です。 世の中がどんなに進歩しても、それの理解できる人と理解できない人の割合は変わりませんので、問題が無くなることは決してありませんし、社会のルールというものは最大公約数(若しくは普通)を基準にして作られる(言い換えるとそれでしか作れない)ものであり、個人的マイノリティの部分は自覚して生きるしか方策はありません。 自分のマイノリティ部分を自覚できる人は哲学者にもなれますが、自覚できない人はただの変人扱いされるだけで終わるのでしょう。 さて、冒頭に書いた映画は絶えず人権と向き合い作られてきた歴史があるのですが、果たして社会は良くなったのか?変わらないのか?は難しい問題ですね。 個人的見解だと、社会は大きく変化しているが、人間の根本は殆ど変化していない気がします。なので悲劇も絶えない。
本も読んだ方がいいかな
原作既読で鑑賞。少数派が持つ正欲(性欲)について、知ることは出来てもなかなか共感や理解までは追いつかず。上映時間をそれなりにとってはいるけど、各視点から事件に至るまでの経緯をもっと掘り下げてもいいんじゃないかと思ったのは、読後のせいか。
上映が終われば自分たちはまた擬態する
原作読了済です。原作が好きだったので、映画化と聞いたとき、 ああ、これも消費されてしまうんだ。。と絶望した記憶があります。 原作はキャラクターの心情が文字に全部書かれていますが、 映画では第三者視点と思っておけば大丈夫です。何個かオミットされている部分がありますので、個人的には原作を読んでから映画を見てほしいです。朝井リョウさんの痛烈なメッセージを浴びてほしい。 結論からすると、「作ってくれてありがとう」と思った作品でした。玄関の向こう側にいながら擬態せずにいられた作品でした。よかったです。 また、認知的不協和を発症させない寸前で描写を止めており、その塩梅も絶妙です。 新垣結衣さんと磯村勇斗さんの演技が素にしか見えなかったです。 気づけば2人の言葉に吞み込まれていました。ああ、この映画が終わるまでは擬態してないでいいんだ、と思うとセリフがまっすぐ心の中に入ってきて、 「ここにいていい」と監督から語り掛けられているような気分になりました。 作中気になったのは前半のダンスシーン。ゲイコミュニティが発祥の振り付けがある、と話していたが、本番の文化祭ではHIPHOP調の曲を流していた。あれは「多様性」への逆説的な皮肉なのか気になる。 歌詞もめでたいものだったので、余計わざとなのか、気になった。既存曲なら批判できないよなあと思ったが…。 --- 玄関を出ると、勝手に自分の中でスイッチが入る。 それは社会に溶け込ませていただくための擬態スイッチで、自分が不適合と分かっていながら、それがバレないように迷惑かけないように擬態する。 上映が終わったとき、ああスイッチを入れ直さないと。と思った作品でした。 134分間だけ玄関の向こう側にいながら擬態せずにいられた時間は、とてもよかったです。
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