正欲のレビュー・感想・評価
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いなくならないから
映画を観て原作も読んだ「少女は卒業しない」の朝井リョウの原作映画化「正欲」を
TOHOシネマズ日比谷でポイント鑑賞。
磯村勇斗が給水器の流水を見つめるファーストカットの意味が後で判った。
TVの「逃げ恥」とは違う新垣結衣の目、眼差しに彼女の新境地を見た。
また、彼女が自分の部屋で水に浸るシーンは、邦画では珍しいイマジネーションの表現だと思った。
ノーマルとアブノーマルの境界は何処だ。
ラストの垣対決で新垣結衣が稲垣吾郎に言い放つ「いなくならないから」が強烈。
帰りに三省堂で原作文庫本を買った。
原作を読んでみて、映画の脚本の方が良いと思った箇所は新垣結衣がコロッケ買った時に稲垣吾郎と出会った事があった事になっていたところ。原作では最後に接見するまで接点がない。一度でも普通の主婦(?)の姿に接していた事が、最後の「いなくならないから」のインパクトを強めていたと思った。
生きずらさ
生きづらい、生きずらい、どっちだったか。
辛い(つらい)で 生きづらい
人それぞれ、誰にも言えない、言える人がいない
辛い悩みを抱えて生きている。
生きるとはこうあるべき
なんていう固定概念なんて捨てて
みんなが自由に生きれる社会になれればいいのに。
自分の悩みがちっぽけに感じられる映画でした。
“いなくならないから“
温度低めのラブストーリーだったけれど、吸引力は強かった。
この世の現実の世界を、
生きて行くことが難しい・・・
生きづらい・・・
そう感じている多くの若者たちに
観てもらいたい映画。
ショッピングモールの契約社員の夏月(新垣結衣)、
中学の時に転校して行った佐々木佳道(磯村優斗)、
2人は、“水“で儚く繋がっていた。
2人は10数年ぶりに再会する。
友人の結婚式で、
そして、
家でむしゃくしゃした夏月が車を河原にぶつけた時、
通りかかった佳道、
佳道はホームセンターで自殺一式を買い揃えていた。
自殺する決意でいた、
思い出話しをするうちに、
2人の共通項・・・
中学生の時、蛇口を壊して、水を噴射させて、
大目玉を食らった思い出、
2人には水飛沫に、心を開放させる性癖・・・
(その共通項を再確認するのだった)
抑圧した自我を解放するのが、
水
水しぶき、
水のほとばしり、
2人は水フェチ、と言う共通言語があった。
夏月と佳道の生命は、
固く絞められた蛇口に閉じ込められた“水“だった。
その狭いトンネルの中だけが息の吸える世界
2人が再び出会うことで蛇口を開け、
生命は息を吹き返し、
新しい居場所を見つける。
ある事件が起きる。
2人を引き裂く試練のような事件。
夏月は呟く、
きみの世界から、
“いなくならないから“
私の世界から、
“いなくならないから“
もう決して、
“いなくならないから“
呼吸のように必要な君
呼吸のように、私たちは必要
探していた“片割れ”なのかな?
愛することを欲する
夢見ることを欲する
自分であることを欲する
あなたがあなたであることを
欲する
それが“正欲“?
ラストに掛かるVaundyの「呼吸のように」
凄く内容を把握してマッチしている。
だけど、こんなに前向きに、ひたむきに、力強く
夏月と佳道は“求め合う”のだろうか?
ちょっと温度高めで、戸惑う
真平均の人間は存在しないが、乖離度の小さい者は親しまれやすく、普通の人間と呼ばれることが多い。
特殊な性的嗜好の人の話。
良い点
・テーマ
・ダンス
悪い点
・職選びが間違っている
・マイナーな動画で被る
・水と水着はかなり別物である
・何罪
・検事補佐がやや目立ちすぎている。複雑な感じはよいが。
・なんとなく終わる
その他点
・逆に教師の職選びは間違っているのか否か
・友人とも会えなくなる
・他の液体ではだめなのか
人はグラデーション部分に無意識に境界線を引いている。
マイノリティーと言うグループ分けが生ずるのもそれ故である。
原作を読んだ後に見るとガッカリする映画
原作では啓喜や夏月、佳道は各々自身が感じる他者との違いに違和感や違いを感じ悩むキャラクターとして生き、精一杯もがきながらも決して他人に直接攻撃的な言動、行動を起こす事が無い。映画では啓喜は嫌な父親かつ高圧的な検事となり、夏月は佳道への嫉妬?裏切りと感じた事により佳道宅の窓ガラスを割る行動をするなどの奇怪な行動を起こす。
恐らく原作では田吉が引き受けていた人間の嫌なところを思う存分発揮するキャラクターの要素を映画では引き受ける役所が無く(田吉は出てこない)各々に振り分けたからだと思う。
啓喜は自分の価値観では特殊性癖者を受け入れれないが、他者を思いやる検事だし、もう少し妻や息子への愛情を持ったキャラクターだと思う。夏月は自分の特殊性癖に対しての葛藤が映画での夏月のように自分勝手なキャラクターでは無いと思う。
正直、修は死なないと佳道と夏月の関係性を深めれないと思うのでシナリオ変更のミスだと思う。
しかし、他の方の印象はいい映画だと見受けられるので原作を読む前に観たかったと感じた。
八重子役の東野絢香さんの演技は凄く良かったと思うので彼女の他の出演作は是非見ようと思う。
シビアなレビューですが、原作通りに作るだけでは映画の良さも出ないと思うので、原作読まれる前に是非観てほしい作品だと感じました。
個人的に刺さりすぎて号泣
原作未読で鑑賞。
小説を原作にしている作品特有の、物語のガタツキとかちょっと引っかかる部分はあるけど、
個人的に刺さりすぎて号泣してしまった。
自分は、正しいとされるものに近い欲をもつ人間で普通に結婚しているが、
子供を持てとゆう圧力に強い嫌悪感を感じるし自分が結婚している理由が、上手く人生立ち回れないし恋愛結婚出産のレールを当たり前のように受け入れられない自分を許容してくれる存在が見つかったから結婚したんだよな〜。っと作中の2人が世間と上手く渡りあう為に手を組むってゆう気持ちとすごく近いとゆうことをこの映画を観て言語化できるような気持ちになった。
そしてガッキー演じる夏月の、世間の圧力が強すぎて、うざい死ね!ってゆう感情でキレてでも世間は死なないから
じゃあ死ねばいいのか?死んでやるよ!
ってゆう怒りかたの思考が共感ありすぎて泣いちゃった。
そして、死んだ目のガッキーが素晴らしいかった。そして後半普通の可愛いガッキーになってた。ガッキー身長大きくて可愛い。
映画としては群像劇ってのもあって、多分削られてる部分あるだろうな〜ってとことか、この描き方は微妙かもって箇所あったり、あと逮捕されるとこでただ着衣した状態の水遊びの映像しかないのに、あそこまで強制力のある拘束できるのかな?ってけっこう気になって、(こうゆう部分小説ならあんまり気にならないけど映画の場合気になる)
むしろそれぐらい熱心に警察には取り締まって欲しいけど。
あと、夏月のみ
あの水遊び会に行っていなかったので結果的には守られてるけど、「私も行きたい」に対して「大丈夫な人か分かってからね」
っていゆうのは、マイノリティな性癖を持つ物の弱者性と夏月の“女性”であるとゆうまた別のレイヤーの弱者性も描かれてる部分なんだろうなと思った。
この映画の中で田舎の結婚してないものの生きづらさがしっかり描かれていて
それを、みんなが大好きなガッキーが素晴らしい演技で演じているとゆうのが
地味に嬉しい。
いわゆる普通の人でもこんな風に生きずらい人はめちゃくちゃ多くいると思う。
実家暮らしなのも、嫌なら1人暮らしすればいいじゃんって言われるかもしれないけど、結婚するまで色々あって家出てなかった自分としてはリアルだなぁって思った。
映画で不足している点が多いという意見がけっこうあるので、原作読みたい!
映画館で鑑賞
すべての人が生きづらくない世の中とは?
先に原作を読んでから鑑賞しました。
まずは、わずかな動作や表情の変化で、微妙な心の動きを表現している、夏月役の新垣結衣さんの演技がピカイチでした。これだけでも観る価値があると思います!
また、この作品が映画初出演という、八重子役の東野絢香さんの、いかにもコミュニケーションが苦手な、オドオドとした演技にも惹きつけられました。
一方、朝井リョウさんの作品で感動した分、やはり映像化したことで損なわれた部分もあったのかなと思いました。
大事なエピソードが省略されていたり、やや過剰な表現や余分なフレーズが加わっていたりしていたのは、少し残念でした。限られた時間で、わかりやすく、辻褄を合わせるために必要なことだったのかもしれませんが。
(この点は、原作を読まずに、純粋に映画だけ観て評価する際にはまったく問題ないのかもしれません)
稲垣吾郎さん演じる啓喜は、「観客の大多数が啓喜に感情移入して、最後に価値観を揺り動かされる」(パンフレットp35より)という流れを監督は意図されていたようですが、実際にはあまりにも多様性への理解がなさすぎる(あまりに時代錯誤過ぎ)点が鼻につき、私は啓喜に最初から「感情移入」することができませんでした。
その分、夏月をはじめとする「水フェチ」の登場人物たちには、最初から感情移入することができ、一つひとつのエピソードに胸が苦しくなりました。
(※ここからは、映画評というよりは、この作品が提示している課題に対する感想です)
この作品は、極めて少数派である性的指向を扱っているからこそ、大多数の性的指向(異性愛者)であっても、性的なことは「恥ずかしい」ものであり、「異常ではないか」と不安になるものであるという観点からは、何ら変わりはないということに気付かされます。
「ダイバーシティ」だとか「LGBTQ🏳️🌈」などと声高に叫ばずとも、人として生きている以上、様々な性的指向がある(あるいは「ない」)のはごく自然のことだということを。
そして、異性愛者が自分たちと「同じ」ことを求めることで、性的少数者が息苦しさを感じることと、夏月と啓喜ら同じ性的指向をも持つ者同士が肩を寄せ合うことは、やっぱり単なる一時しのぎであって、根本的な問題解決にはならないのでしょう。だからこそ「いなくならないから」と誓い合う必要がある(相手がいなくなった途端に、元の生きづらさに戻る)という、危うい状況は変わらない。
生きづらい世の中をアップデートするためには、やっぱり「自分と異なる世界があること」を想像し、「決して分かり合えないことを受け入れる」ということなのだろうと思います。
そう考えると、八重子と大也の関係こそに、未来への希望があるような気がします。
(と、思わせる関係性までもしっかり作品に描き込んでいる朝井リョウさんは、つくづく凄い!)
もう戻れない
夏月が佐々木に「もう戻れない」と言うシーンが良かった。
普通でない人の多くは、他人に理解されることを諦めているだろうから、夏月のように「もう戻れない」という心境に至ることは多くないのではと思う。
夏月はこの後、普通に生きられるのだろうか。。と考えながら映画館を出た。
他に印象に残ったセリフ
・生き延びるために手を組みませんか
・居なくならないから
・普通のこと
マジョリティに対しても説得力があった。
マジョリティ同士でも分かり合えないことが多いのに、ましてやマジョリティがマイノリティを理解することは当然に難しい。
それでも誰もが自分のことを理解して欲しいと願っているという描写は、誰に対しても十分に説得力があったと思う。
演技陣も皆良かった。新垣結衣はこの作品で一段と芸の幅を広げたと思えたし、磯村勇斗は評判どおりの当たり役だった。稲垣吾郎もマジョリティ代表として自然な演技を見せた。特に、ラストシーンの(自分が寄り添えていないことを)初めて気付いた表情はなかなか良かった。
マジョリティ側の私の素直な感想として、疑似セックスシーンは全裸でやって欲しかった (笑)。
自分がどんな人間か人に説明できなくて、息ができなくなることってありますか?
かつては異質、変人、変態と鼻つまみにあっていたものが、今の世の中、フェチとか多様性とかという言葉に置き換えられてその存在を認められるようなった。その嗜好はけして犯罪でもないし、本人にとってはそれこそが紛れもない「自分自身にとっての普通」のこと。
この映画にも、何人もの「多様性という枠の中の世界」に生きている人が出てくる。彼らは一般社会で生きることに苦しみ、絶望さえし、影を潜ませるように怯えている。その生きづらさに共感できるかどうかで、この映画への共感度もちがってくるのだろうな。たとえば、稲垣吾郎演じる寺井検事のように、「世の中の普通」という尺度でしか物事を判断できない人間にはいつまでたっても無理だろう。正論を振りかざす大人、建前から抜けきれない世間体、その象徴として寺井検事はいるのだから。ただ、悲劇としては、佐々木の無実を証明するにはその寺井検事の理解が不可欠という難ハードル。おそらく、どれだけ夏月が言葉を変えて説明をしても理解できはしまい。それを悟ったからこその夏月の最後のひとことなのだな。そんな夏月と佐々木は、たしかに不幸でもある。だけど、唯一無二の理解者がいるということは幸福でもある。大丈夫、私はここにいますよって、これほど力強い励ましはないな。
しかしこの伝えにくいテーマをよく二時間で収めたものだと思う。タイトルの「正欲」は、ノーマルという意味で捉えるのだろうけど、性欲ともとれる。フェチの感情としては。だけど、見終えてその意味は、明日も生きていこうと思う生きる欲からくる「生欲」でもあるなと感じた。
(追記)
この映画の世界に、随分前よく聴いた曲のどれかに既視感のようなものがある気がしていた。ようやく思いだした。RCサクセションの「君が僕を知ってる」だった。清志郎はこう歌う。
今までしてきた悪いことだけで 僕が明日有名になっても
どうってことないぜ まるで気にしない 君が僕を知ってる
誰かが僕の邪魔をしても きっと君はいいこと思いつく
何でもないことで僕を笑わせる 君が僕を知ってる
何から何まで君がわかっていてくれる
僕のことすべてわかっていてくれる
はなればなれなんかなれないさ
コーヒーを僕にいれておくれよ 二人のこの部屋の中で
僕らはここに居る 灯りを暗くして 君が僕を知ってる
何から何まで君がわかっていてくれる
僕のことすべてわかっていてくれる
上から下まで全部わかっていてくれる
僕のことすべてわかっていてくれる
わかっていてくれる わかっていてくれる わかっていてくれる
映画自体は想像できる範囲の展開
主人公に対比する形で出てきた対人恐怖症も異性恐怖症の登場人物が中途半端な描き方過ぎる
恐怖症とは日常生活を普通に送る上では困難なハンディキャップでしかないしそれに第一水や児童やその他に快楽を求める特殊性癖ではないのだ
恐怖症は日常生活を送る上で困難を極めている特性でそれを主人公たちの求めるような“生活の質”としての快楽や悦楽と同視しないでほしい
何を根拠にしてこの作品の登場人物として恐怖症のキャラクターを登場させたかったのだろうかと最後まで否、見終わって今ですら疑問は残るのだった
原作のようにある一定の分量を持って描くなら分からなくもないが浅い人物描写に題材を軽く扱う商業作品に怒りのようなものが芽生えた
映画自体は想像できる範囲の展開で目新しくもないのだった
誰もが繋がりを求めている。
原作読ませて頂いて足を運びました。省略、改変した部分が多く無理やりすぎた部分もありましたが、決められた時間での作品なので仕方がありません。どんな作品でもこのような場で自分が感じたことを誰かに共感してもらいたい、自分以外にも同じ考えを持っている人がいて欲しいと思っているからコメントをしているのではないでしょうか。良い評価も悪い評価も結局はこの映画のように繋がりを求め、受け止めてくれる人を見つけないと辛いんです。私たちが到底理解できないような性癖でもその部分だけは皆共通だと感じる作品でした。
嗜好の多様さを学んだ。
久々にガッキーをスクリーンで拝めると知ってかなり楽しみにしていた作品。しかも相手役が磯村くんでこれは観るしかない、ということで。
最初はその嗜好について理解しきれず、けどだんだん分かってくると彼らのやっと手に入れた幸せが続いて欲しい、と応援するような感覚にいつの間にかなってた。佐々木くんが桐生さんのもとに戻れる日がきていてほしい。
理解されるのが難しい、そして一部は批判されてしまうような嗜好を持っている人はたくさんいるんだと知った。自分も映画の前半では理解できなかったように。
なんで2人が主役じゃなくて稲垣さんの役が主演なんだろうって不思議だったんだけど、パンフレットに稲垣さんの役は観客目線の人物になってるって書いてて腑に落ちた。この映画を見る前に現実世界で水に嗜好を持っているって言われたら、確かに自分も稲垣さんの役みたいな反応になってしまっていただろうなと。
余韻たなびく、いろいろ考えさせられる映画だった。
欲望のあり方
性の欲望は人それぞれ違うことは分かる。
それぞれの性(欲望)のあり方について、ここ数年での変化は映画化までの時間より早かった様に思える。
そのため水という流動的なものから得られる欲望があるとしてもよいだろうし、欲望が一つだけとは限らない点も理解できる。その欲望を満たすことは何処にあるのだろうか?
それは自慰行為も含むことだけど。
登場人物たちそれぞれのそれも含め描いて欲しかった。
描いたキャラもいるのだけど。
そして導入部がとても長く感じ、点と点が結ばれ線になってから結末に至るまでの展開が坂を下る様に早く感じられ、もう少し起伏を付けても良かったんじゃないかと思えた。
拘束されるまでの心理描写とか。
あと警察署内であそこまで冷静に居られるのだろうか?何か他人事の様に描かれてる様にも感じられた。
見た目ではわからないけど様々な性的指向があるということがこの映画で...
見た目ではわからないけど様々な性的指向があるということがこの映画でよくわかりました。
「普通」ということばが作中に出てきますが、その「普通」というものの言葉の残酷さを認識しました。
正欲 深い!
一つひとつをみれば、正当な人としての多様性だし
建前では直接的に攻撃あるいは言及する人もいるとは思えない
今の日本にゴマンとある1事例なんでしょうが、それがこうして小説として評価され、映画化されるという現実
もうネタばれにもならないと思うが水フェチは、分からないでもない
タイのソンクラーン(水かけ祭り)も私も好きですしね 笑
それにしても磯村君の疑似◯◯◯スにはある意味浮世離れしたフェチの原点見るようだった 今年の多出演作でも白眉!
何をいいたかったのか…
結局何を言いたいのかわからなかった。自分らしさを持っていきたい佐々木や人に心を開く習慣がなかったダンス部の男が小児性犯罪者に巻き込まれた事に関して、自己実現をしたというよりバッドエンドに感じてしまった。結局、自分らしく生きることは悪だといいたいのか、監督や筆者の意図が汲み取れなかった。それともよく知らない人と会うことが~という話なのか。正欲といっても小児ポルノは犯罪。水フェチは犯罪じゃない。というか水フェチは主人公二人に関しては思い出に紐付けられたフェチシズムな気がするので純粋に思い出を想起するものでフェチでないと思う。この2つを関連付けた犯罪者が事態をおかしくしてる
あと、時系列に一度混乱した。子供の父が持っている藤原の記事はその当時最近のものなのか、佐々木と桐井が中高生のときに起こった事件なのかわからなかったからタイムスリップ要素あるの?と思った。
佐々木
彼が生きる希望を持てない理由が明確に描写されていなかったため、共感できなかった。桐井との対話では、親がなくなったがよかったと思った、おれは冷酷だと言っていたが彼は心が弱いタイプな気がする。やや感情に流されやすい気がした。ネットの関わりで事件に巻き込まれているのが彼にとって幸せかというとそう思えない。彼は元々こういうタイプなの?
子供
佐々木と同じようなタイプな気がする。父母が異なる欲を持って対立しているのであれば、家のがしんどくないか?と思ってしまった。背景描写が甘すぎる。いじめにあっているなら細かい描写が欲しかった。
桐井
彼女は中学生以降の記憶しかなく彼への執着が見え隠れしていたことが彼女の欲だと読み取れた。よってあれこれと遊んで婚活やセックスしたくない。執着心から彼の窓を割ったからこそ免罪は弁解したい正義感が働いたのか。
ダンス部の男
子供の父とは別の冷酷さを感じた。ただ生来持ってるものだろう。男性恐怖症の女の子に最後共感する気持ちが芽ばえたのはビックリした。その女の子は別の女と理解しているだろうし、藤原を名乗ってる男に騙されてるとは思わなかった。
追記
ジェンダーの話とは思わなかった。ただ人生のレールに乗るか否かという大きいくくりであって、セクマイやアセクシャルとは関係がないと受け取ってしまった。エリート検事稲垣の家庭に関しては「育て方、生き方規範」でありジェンダーだの関係ないだろう(父と母の典型例っぽいが)。水フェチはガッキーと佐々木くんの絆の間に生まれたものであり、少なからず恋愛感情はあるように受け取った。「水」はハンドルネーム藤原と佐々木とダンス部男が繋がるきっかけであって趣味のようなものだと受け取ってしまいました。
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