正欲のレビュー・感想・評価
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カニクリームコロッケのシーンが好き
狭い世界が自分たちの生きられる世界
ひとりじゃないと安心できる場所
明日死んでも別にいいけど
ひとりがふたりになって
少し生きやすくなった
カニクリームコロッケをふたつ
パンにマヨネーズをたっぷりかけるあなた
きっと美味しいって食べてくれるはず
知らなくても あり得ないと思っても
マイノリティの人は存在している
誰もがみんなマイノリティ
人よりも強く思う対象のものはないだろうか
同じものを好いている者たちと
気持ちを分かち合うことはないだろうか
みんながみんな 存在を 理解し合えたらいい
それだけで生きるのを辞めてしまうひとが
少なくなって世界は平和になるとおもう
またひとつ ちがう愛のかたちを知った
冒頭の新垣結衣さんの演技に引き込まれた
うつろな目と透明感を封印したざらついた肌
肌から演技をしていてすごい
あのニキビは自前なのかメイクなのか
予告で観ていた自室の水浸しシーン
とても重要なので見逃しは厳禁
ここから感情移入をしてしまい
鑑賞中は自身もフェチズムになった
山田真歩さんの泣きの演技が自然
ユマニテ所属の俳優の涙はいつも印象に残る…
涙を手で拭う仕草がすごく好きなんだ
時間を感じさせない映画で観やすく
終わり方も好きだった
エンドロールをぼんやり眺めながら
人の数だけ偏愛や性癖があるものだ…と
熟考したりまた観たいなどと思った
レトルトのカレーは好きですけど
大きく分けると3つの物語になるが、正直中々共感はしにくい。男性にトラウマがある女子大生の役の子は、物凄くうまくリアリティがあったが、気になる男性への告白は残酷そのもの。気遣ったのに傷つけてしまう典型。
不登校の子供に関しては個人的には世にも奇妙な物語かはたまた笑うセールスマンか
磯村くんは確か渇水にも出ていた気がするが、水道水が出てきた際には若干笑ってしまった。
ラストシーンのガッキーのセリフから脚本作ったと思うくらい印象が強い。
レトルトカレーは好きだけど、疲れて帰ってきて毎日あれだと流石に萎えそう。
子供も大事だけど旦那も大事にして上げてください。
かなり共感出来ないしかなり強引だけど、面白かった。
今日的多様性化の突破の試みとして見た。
いわゆる「LGBT」を情報として理解して「寄り添ってる」つもりの人の罪深さ、世代の分断、価値観の分断、性善説の限界、パラレルワールドとしてのネット社会、、、、色々考えさせられました。
稲垣吾郎が一番年配という、昭和世代には感無量なキャスティング。
みんな演技が自然で良かったと思います。
映像化がすごく成功しているように思えたので、原作はどんな描写だったのか、読んでみたくなりました。
ある程度
シンパシーは感じる。
勉強は嫌いではなかったが、学校は嫌いだった。
責任感はあるが、協調性はないと通信簿にずっと書かれていた。
学校は勉強しに行くところなのに訳のわからない行事、
それに伴う同調圧力、心の底から嫌だった。
同級会にも自ら進んで行ったことはない。
若い(幼い)頃にたった2~3年過ごしただけの話で、
だから一生友達みたいなことを言われてもねぇと思う。
そう思いたい人はそう思えばいいが、押しつけは迷惑だ。
そもそもいじめとかは実際あって、ろくなもんじゃなかった。
だから、稲垣と異常小児性愛者以外の気持ちは分かる部分はある。
妻はいわゆる正常な人間なので全然分からないと言っていた。
さもありなん。
一方で、これを映画にしておもしろい?との観はある。
少なくとも私にはエモーショナルな心の動きはなかった。
ましてや稲垣演じるマジョリティの正常人に見せたところで、
妻のようにマイノリティの本質は理解できまい。
どういう落とし方をしたかったのだろうか。
投げかけるだけなら勘弁願いたい。
原作を読んでみたいと思う。
世界はそれを愛と呼ぶんだぜ
原作は未読。
他の人もレビューで書いているようだが、どうしても気になることが2つ。水に興奮することが社会的に許されないことなのかということと、子どもと水で戯れている動画を持つことが犯罪になるのかということ。
前者は理解されることは少ないとしても、社会に受け入れられることはないと絶望するような性癖やフェチには思えない。この性癖と社会から孤立することがどうしてもつながらなかった。
後者は、水に濡れた子どもたちと遊ぶ動画が児童ポルノにあたるのかどうかが問題になる。どうにも映画としてトラブルを作るための展開にしか思えない。
でも、かなり大事なことが気になっているくせに観た感想は悪くない。それは、あの二人がお互いを必要な存在として認めていく過程がよかったから。セックスの真似事をするシーンを観ながら、ハグのくだりで2人に「いいじゃろう!」と呼びかけたくなった。そして「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」と。
結局、特殊性癖の持ち主たちの生きづらさを描いていても、愛を描いた物語として仕上がっていたと言える。これ、原作はどうなんだろう。登場するのは水に興奮してしまう性癖の持ち主なんだろうか。もっとドギツい表現があったりするのかもしれない。映像化されると表現がマイルドになってしまう。そういうことだったのならまだ受け入れられる。
普通って言葉の意味は?
多様性を頻繁に耳にするようにはなったが、メディアを通して見聞きするだけで現実はちっとも多様性を尊重する社会になっていません。
それは趣味嗜好、フェチと呼ばれる性的思考も含め自分の中だけでしか消化しえない。
ましてや同じ思考同士での繋がりがあれば幸せだが、なかなか他人に理解してもらおうと言動行動に移す事さえ憚られる。
多様性が普通とイコールになっていないから。
ただその事だけが全てととらえて人との繋がりを拒むことは個人的には理解できないししようとも思わない。
考え方だけでも多種多様にあるわけで、そんないろんな人と関わることこそが生きるということだと思ってるから。
ただ繋がりが欲しいからとネット社会のSNS やユーチューブ、インスタなどでコメントもらうことで繋がってると思うのも危険だと、繋がった気になってしまう錯覚に陥る。
多様性などと言われる前のネットのなかった社会のなかで、親友、友人がいた人は幸せなんだと思う。
そんな友は自分とはまったく違う趣味や考え方のの友こそ大切な友と言える。
同じ趣味嗜好、考え方の友だけと繋がっても狭い視界、社会になる、多様性とは異なる趣味嗜好、考え方のものが互いを理解、尊重しあうことこそが本当の意味で多様性社会と言えるのでは。
特殊と思われる趣味嗜好が理解され、そんな人も普通の人と言われるようになれば普通と言う言葉の意味合いも変わってくるのだろう。
それにしても服を着たまま正上位の形で体験したつもりと言われてもねぇ。
セックスも愛し合うことの一部であると思うし、スキンシップのひとつ。
ちゃんと肌を合わせてひとつになれば、相手への想いが互いに一歩進むと思うのだけれど。
まあセックスに興味がない、それも多様性なのか
圧殺される世界
素晴らしい視点で人間を描いた秀作でした。
誰に迷惑をかけるでもない水フェチという性的指向に世界を閉ざされてしまう佐々木(磯村勇斗)と桐生(新垣結衣)。LGBTQは徐々に認知されてきてはいるが、もっともっとマイノリティで、別に人に害を与えないし迷惑だってかけないけれども誰にも言えない指向、そして、言った途端「あり得ない」と全否定されてしまう世界。そんな窒息しそうな2人の状況を非常に良く出来た人物描写、一つ一つのセリフに凝縮させた秀作でした。
息苦しくさせる「普通」とか「マジョリティ」とか「一般常識」を化体させた人物である寺井(稲垣吾郎)と、佐々木・桐生が対峙するクライマックスで吐露される、それぞれの価値観や苦しみ。そして、基準の中で正しく生きてきたと信じる寺井が、桐生の「いなくならない」という言葉を食らったときに、自分自身に目を向けた瞬間の表情。
本当にセリフが素晴らしい。
水フェチは1つのたとえであり、マジョリティがマイノリティを追い込んでいる状況や、多様性と言いつつ、(何にも迷惑かけないものでも)マイノリティの中のマイノリティは圧殺されるということを見事に伝えていました。
そして、ゴローちゃん、ガッキー、磯村君、この3人の演技が素晴らしい!期待以上でした。ゴローちゃんは、SMAPの頃から、シュッとしたハンサムなのに、鼻眼鏡をかけた変な役をやるのとか大好きで、演技好きなんだな、上手だなと思ってましたが、クセつよではない、こういう役もうまいんですね。
ガッキーの無表情とこれという時の目力、磯村君の人生に疲れた諦めた目と喜んでいるときの表情の違い、本当に素晴らしい役者さんです。
佐々木が送検までされることはないというコメントや、ゴローちゃんとガッキーがバッタリ会ってることへのコメントも拝見し、確かにその通りではありますが、その部分は本作では重要ではないと思いました。そこが気になってしまうと、検察官と対峙させるためのご都合主義と思われる方もいるのかもしれません。
細部では、晩御飯がレトルトカレーとか扱いひどいのは、奥さんがひどいのか、あまりに話を聞かなくて愛想尽かされてるのか、夫婦の鶏卵問題を感じました。
一人ひとりの演技は良いけれど…
原作を読んでなかったら、展開についていけなかったかも。
笑いなく、手に汗握るのでもなく、泣けるのでもなく。
役者陣一人ずつの演技は魅せてもらえたのですが。
原作を読んだ時の、もうこれまでの自分に戻れないと感じたな。
忘れられぬ、切ない言葉に胸が震える
※映画の内容を語っている部分と純粋な感想の部分で文体を変えています。
昨年封切られた『ある男』に少し味わいが似ているが、こちらは死んだ人の話ではなく、今生きている人たちの話。
この群像劇の主要登場人物たちはみな死んだように生きている。「明日が来なければいい」「ひっそりと死ぬために生きている」
普通と違う、枠からはみ出た人生はその人自身にも、周囲にも、両方から否定されている。
そんな悲しみや苦しみ、ない方がいいに決まってる。
そういう「辛さ」を分かち合える人に少年少女時代に出会い、一度は別れ、思いを胸にずっと秘めていた主人公の二人。そして、忘れられないその二人は期せずして再会する。
その再会が、つまらなくて無為だったお互いの(特に、新垣結衣扮する彼女の)人生を切り拓く。
忘れられない人とは「恋人」でないところから始まり、彼から「この世界で生きていくために手を組みませんか」とプロポーズ(提案)される。
好きとか嫌いとかでない、このプロポーズが、本当に切ない。今でも涙が出る。
そうして始まった、心穏やかで平和な二人の暮らし。彼との生活で「もう一人でいた頃に戻れない」とベッドで抱擁して呟くヒロインの夏月。
ようやく手に入れた幸せがずっと続いて欲しい、と映画見ながら心から思った。
もう一組の男女が織りなす「その人の前でだけ素の自分で居られる」「どうせ誰にも分からない」「男性への拒否反応があっても、好きになってしまう」どうしようもなさに苦しみ、お互いがそれを吐露する物語にも心震える。
こういう、周囲との違い、そしてそれを分かってもらえないことから来る「孤独感」(孤独でなく孤独感というところが厄介なのだ)と必死に折り合う人たちに対峙する形で、稲垣吾郎扮するもう一人の主要登場人物、寺井が物語に深みを与える。
普通でないことをどうしても受け入れられない、普通に生きることを矜持にしている人物。
夏月がこの寺井と対峙するラスト付近「あなたが信じなくても、私たちはここにいます」という台詞も、私の胸に鋭く突き刺さり、忘れられないシーンとなった。
この映画、本当に脚本が良い。「目を開き、胸に刺さる」台詞が散りばめられている。
人が持つ「辛さ」と「優しさ」が、このような心震える台詞で紡がれた脚本力に恐れ入リました。
『あゝ荒野』も『前科者』も深く感動した映画。岸善幸監督も港岳彦脚本も自分に合うと再認識しました。
主要登場人物を演じた俳優は皆本当に拍手喝采を送りたい程素晴らしかったです。
地味な映画ですが、内容は特濃だと思います。
今という時代
傑作です。
キャッチコピーが、「観る前の自分には戻れない」。
でも、わたしは、まったくそうは思いませんでした。
だって、人の幸せに傷ついたり、自分の入ることのできない暖かな家の灯りに窒息しそうになったり、この世から消えてなくなりたい時も、あの少年のように父親を見たことも・・・そのすべてに身に覚えがあります。
そして同じ様に、わたしも、人を傷つけ、浅はかな正義を押し付け、それに気づきもしないこともあるでしょう。
だからこの映画は、今という時代を生きる大人に向けたお伽話だと思いました。
苦しいことばかりの人生だったけれど、そのおかげで、この映画に心から涙できる自分でいられた。
過去を振り返り、これで良かったと。
SNSの片隅で、今日もたしかに人が息づいている。
いつしか、その剥き出しの欲望と混沌の中から、ほんとうの希望が生まれてくるといいな。
そう祈ります。
映画史と人権
本作を見ながら「ああ~、時代もここまで来たのか」って気分になり、「社会は発達するにつれ複雑になって来るのだなぁ」って考えさせられました。
個人的に“映画は考えるためのツール”としての役割を持たせているので、私向きの映画ともいえます。なので感想というよりも雑談をしたくなる様な作品ではありました。
まあ、映画を半世紀以上見続けていると、大まかな映画史というのも自然に頭に入っていて、映画史的な流れで作品を見る習慣も身ついてしまっています。
ある視点から言うと、映画って“人権”を提唱する手段でもあったような気がします。
要するに社会悪を物語として観衆の怒りの感情に訴えかける、良い意味での煽動ツールでもあった訳です。
又聞きですが、元々ハリウッド映画産業を興したのはユダヤ人であり、様々な差別への対抗手段として大衆が理解しやすく社会的効果も得られる映画が有効であるという事から“勧善懲悪モノ”“人情・恋愛悲喜劇”といった娯楽映画を量産したという事を漏れ聞いています。
そして時代が進み、貧富の差、人種差別、男女差別、LGBTQ、ポリコレと問題意識も変化してきて、ついには本作の様な特異なフェティシズムまでに至るのですが、今までの映画が果たしてきた問題提起に対する結果として社会(世界)はどう変化(改善)したのか?という事が一番の問題なのだと思うのですが、本作の場合はある意味その点についての問題提起をテーマにしていた様に感じられました。
なので、本作の場合オムニバス的に登場人物が多くいるのですが、貴方は現実社会ではどの人に一番近いですか?、若しくは一番感情移入出来ましたか?、若しくは誰も全く理解できないし気持ち悪いと感じましたか?それを自覚するための作品なのだと思います。
マイノリティ、マジョリティとは言っても、分類を細分化すれば殆どの人がマイノリティ側にいたりマジョリティ側にいる訳で、もっと簡単な識別法は分類の細分化を理解できる頭脳があるかないかの差でしかない訳です。
世の中がどんなに進歩しても、それの理解できる人と理解できない人の割合は変わりませんので、問題が無くなることは決してありませんし、社会のルールというものは最大公約数(若しくは普通)を基準にして作られる(言い換えるとそれでしか作れない)ものであり、個人的マイノリティの部分は自覚して生きるしか方策はありません。
自分のマイノリティ部分を自覚できる人は哲学者にもなれますが、自覚できない人はただの変人扱いされるだけで終わるのでしょう。
さて、冒頭に書いた映画は絶えず人権と向き合い作られてきた歴史があるのですが、果たして社会は良くなったのか?変わらないのか?は難しい問題ですね。
個人的見解だと、社会は大きく変化しているが、人間の根本は殆ど変化していない気がします。なので悲劇も絶えない。
本も読んだ方がいいかな
原作既読で鑑賞。少数派が持つ正欲(性欲)について、知ることは出来てもなかなか共感や理解までは追いつかず。上映時間をそれなりにとってはいるけど、各視点から事件に至るまでの経緯をもっと掘り下げてもいいんじゃないかと思ったのは、読後のせいか。
上映が終われば自分たちはまた擬態する
原作読了済です。原作が好きだったので、映画化と聞いたとき、
ああ、これも消費されてしまうんだ。。と絶望した記憶があります。
原作はキャラクターの心情が文字に全部書かれていますが、
映画では第三者視点と思っておけば大丈夫です。何個かオミットされている部分がありますので、個人的には原作を読んでから映画を見てほしいです。朝井リョウさんの痛烈なメッセージを浴びてほしい。
結論からすると、「作ってくれてありがとう」と思った作品でした。玄関の向こう側にいながら擬態せずにいられた作品でした。よかったです。
また、認知的不協和を発症させない寸前で描写を止めており、その塩梅も絶妙です。
新垣結衣さんと磯村勇斗さんの演技が素にしか見えなかったです。
気づけば2人の言葉に吞み込まれていました。ああ、この映画が終わるまでは擬態してないでいいんだ、と思うとセリフがまっすぐ心の中に入ってきて、
「ここにいていい」と監督から語り掛けられているような気分になりました。
作中気になったのは前半のダンスシーン。ゲイコミュニティが発祥の振り付けがある、と話していたが、本番の文化祭ではHIPHOP調の曲を流していた。あれは「多様性」への逆説的な皮肉なのか気になる。
歌詞もめでたいものだったので、余計わざとなのか、気になった。既存曲なら批判できないよなあと思ったが…。
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玄関を出ると、勝手に自分の中でスイッチが入る。
それは社会に溶け込ませていただくための擬態スイッチで、自分が不適合と分かっていながら、それがバレないように迷惑かけないように擬態する。
上映が終わったとき、ああスイッチを入れ直さないと。と思った作品でした。
134分間だけ玄関の向こう側にいながら擬態せずにいられた時間は、とてもよかったです。
いなくならないから・・・‼️
ダイバーシティ、マイノリティ、アイデンティティを描いているという事でしょうか。新垣結衣さんと磯村勇斗くんの人間関係構築が不得意な似たものカップル‼️学校に行かないでユーチューバーを目指す小学生の息子と妻から別居される稲垣吾郎の検事‼️自分のアイデンティティーを見失いそうになってる大学のダンスサークル部の学生、佐藤寛太‼️この3つの物語が途中チョコチョコと交わりながら並行して描かれます‼️そして終盤、ある事件をきっかけに、この3つの物語が一つにつながる‼️そして観客に丸投げのエンディング‼️多分、新垣結衣との会話で、稲垣吾郎は磯村勇斗を不起訴にするんだろうなぁと思うんだけど、もうちょっと物語的にカタルシスというか、光が欲しかった・・・。ただ新垣結衣ちゃんは周りに馴染めず、一人浮いてる感の演技はリアルで良かったと思います‼️素なんだろうね‼️
原作を読んだ本好きとしての感想を添えて
はじめに、作品名である『正欲』の意味が正確にわかるのは小説であることを伝えたいです。私の発想力がなかったためかもしれないが、小説で読んでやっと『正欲』の意図することがわかりました。
映画として、入りの部分から「おっ?!」と思わされたので、最初から作品の世界に引き込まれました。そのシーンが何を意味しているのか最初はわかりませんでしたが、徐々に明確になっていき納得することができました。
内容の趣旨に関しては、今自分たちの世界を取り巻く内容であるが、自分たちが知っているものが全てでないことを突きつけられました。この作品を通して、自分の知らない世界で生きている人たちを理解するきっかけを与えてくれたので、とてもよい機会になりました。
お気に入りのシーンは“プロポーズ”(この表現で正しいかはわかりません)のシーンです。
単純に「こういった関係性に憧れるな」と思いました。でも、登場人物たちがこのような状況下にあるからこそ心救われる素敵な、大きな希望を象徴するシーンになったのだと思いました。
最後に、本作品の趣旨とは少し違うかもしれませんが、自分の他者に対する言動を振り返り、改めるよい機会になりました。自分の“あたりまえ”を相手に押し付けるような言動は起こさないように些細なことにも配慮をもって、考えて過ごしたいと思います。
※小説を読んだ者として、より生々しく、重く、深く作品を感じたい方は小説をおすすめします。周知のことと思いますが、映画は大衆向けに簡略されている部分が多々あります。
ガッキー=可愛いと消費してきた我々に突きつけてくる
前半説教くさいな〜とか既視感ある雰囲気映画で終わってしまわないかな〜思ったけど、冒頭のモノローグを相槌込みで繰り返すシーン(ここから第二幕と言って良いでしょう)から物語が急加速していき、胸にこびりつくシーンの数々にやられた。誰かと話をすることで世界が広がっていく映画はやっぱり素晴らしいよね。
大変申し訳無いけど、最近「ミッドナイトスワン」を観て激情してこともこの映画をより良く見れた要因の一つだと思う。いわゆるマイノリティーとされてる側の消費の仕方とか、「マイノリティーの人たちかわいそう…こうはしちゃダメだよな…」で片付けない(そういう意味では車の突っ込みまではいらなかったかも)。
多様性って枠組みじゃなくて自然に元々あるべきものだよなという再確認。LGBTQとフェミニズムに触れておけば、多様性を“勉強して”いると思ってしまう世間の浅はかさへのカウンター。やっぱり異性愛前提で会話してしまってるなと自分を省みる。
性的嗜好は、欲望はどこまで許されるのかを突きつけてくる。水フェチに関しては、誰にも迷惑かけてないし、映画的に綺麗に撮れていて受け入れやすい反面、小児性愛は… 綺麗に撮れているからこそ実際水フェチを受け入れられたとしても、多くの場合稲垣吾郎演じる役のように「あり得ない」と無意識に断罪してしまう可能性もある。
今年公開された映画でも「渇水」「波紋」「アンダーカレント」など印象的なものが多いけど、一番水を美しく撮れている。新垣結衣演じる役が寿司屋に行くのも、カニクリームコロッケも水と繋がってきてる??
キャンパスのシーン、「好きだから」じゃなくて「大事だから」で入るの本当に素晴らしい。マイノリティーが分かってもらう側前提でいるのはおかしいというのは、アップデートされてるなとも思う。
マイノリティーの気持ちを「地球に留学しているよう」と良い、分かり合える同志を見つけると「地球の中心にいれる」と表現する美しさ。
稲垣吾郎が急にキレると本当に怖い。
確かに正常位って何が正常なんだ??と思いたくなる擬似性交体験があまりにも滑稽で笑えた。
仕事柄、不登校ユーチューバーに夢見て不登校ユーチューバーになる流れは心苦しく見た。自分も絶対許せないタイプだろうなあ。「普通」に縛られる稲垣吾郎演じる役柄の、分かり合おうどころか分かろうとしないところが他のカップリングとの対比として美しい。
ラストシーンが本当に本当に最高。『普通』に縛られる稲垣吾郎から『世間から“普通”とされない』新垣結衣から『普通のこと』と語られる分かり合えた者同士の強み。
”水“を性的嗜好として死んだ目で自慰(自らを慰めるって凄い言葉だ)行為を嗜むパブリックイメージからはかけ離れた役柄。「ガッキー=かわいい」と消費してきた我々にも突きつけてくる。女優:新垣結衣の代表作の一本に刻まれる。
正しいなんてない何でも良いじゃんと思うと小児性愛者を野放しにしてしまう。法?理屈?結局分からないけど、自らで何もかも枠組みを作って理解できないものを切り捨てるのはせめてやめれる人間になりたいと思った。そして、理解できなくても理解しようとはしていたいし、傷つけたくないと改めて思った。
新垣結衣さんの演技が素晴らしい傑作!
一番印象に残ったのは新垣結衣さんの演技
いつもは可愛らしく柔らかい印象ですが、本作ではかなり特殊な嗜好を持つ役回りです
初登場シーンから回転寿司での目が据わったアップで登場し、お節介に話しかけてくる客にキレたり、嫉妬のあまり人の家に植木鉢をぶつける、それ以外にもこれまで絶対にNGとしてきたであろう”シーン”までも熱演していて、とても良かったです
アップも多く、あらためて可愛いい人だなあとしみじみ思い観てました
キャスティング面でいくと磯村勇斗さんも良かったです、最近 特に重いキャラクターの作品に出ることが増えて来ましたね、将来有望な若手実力派俳優の一人である事は間違いないでしょう
先日、「月」を見たばかりなので、普通にしていても、どことなく不気味さを感じたのは私だけでしょうか(苦笑)
人は一人一人 生き方も嗜好も違って当たり前だし、それを他人がああだこうだ言う権利は無く、”人に迷惑をかけていなければ”全く問題ない
さらに自分と全く同じ嗜好・価値観の人とずっと一緒にいられることほど幸せなことはない
主人公の新垣結衣さん演じる桐生夏月と磯村勇斗さん演じる佐々木佳道も他人には理解してもらえないであろう”水フェチ”として生きづらい人生を送っていて、そんな同じ嗜好を持つ者同士でずっと一緒にいようと決め、支え合い生きていくことを決めるが、”人に迷惑をかける嗜好の持主”達のためにささやかな幸せが奪われていく悲劇が描かれていき、とても切ない気分になりました
特にラスト、夏月が稲垣吾郎さん演じる検察官・寺井にトラブルに巻き込まれて拘留中で会えない佐々木へ頼んだ伝言、”私はいなくならないから”というくだりがとても辛く悲しい気分になりました
一方で伝言を頼まれた寺井はというと、自分はいつも礼節をわきまえ、常に正しい言動と行いでマジョリティと思っているはずなのに、妻と息子に愛想をつかされ別居状態になり孤独な状態に陥っている男、水フェチのカップルをなじっておいて、自分の方が彼らより不幸な人生を送っているという皮肉な展開も印象的でした
と、いろんな意味で考えさせられ、見ごたえのある、観て良かったと思える良い作品でした
ガッキーは大画面で
よかったです。
元々新垣さん好きなのでバイアスかかってるかもしれませんが。大画面で観るべき映画だと私は思いました。
原作は読んでました。ストーリーは朧げに記憶。
他者とは基本わかり合えない。わかり合える人を見つけたらラッキー。結婚して子どもを産んで心から幸せを感じ生きている人は超ラッキーだと思います。「はじめてのおつかい」を両親と見たくないのとても共感しました笑
新垣さん以外にも、佐藤さん、東野さん、新垣さんの子ども時代役の方など、素敵な演技されてたと思います。
濡れる=水浸しなのかと思いきや
水フェチという(100%ないとは言い切れないけど)架空のフェティシズムを性的マイノリティの比喩として提示しながらダイバーシティをモチーフに描いた話で、見応えがあっただけでなく、鑑賞後もいろいろ考えをめぐらせたくなる作品だった。
「普通」というぼんやりした枠の外側にある多様性を想像しつつも「多様性」という枠組みを作った時点で、そこからもはみ出す外側があるわけで、そこにいる夏月や佳道や諸橋らの孤独感は想像するだにしんどいし、だからこそ同じフェチを有する人間を見つけたとき心の高揚は計り知れないのだろうと思った。終盤の展開は、怪物だーれだのマイノリティの悲劇的ファンタジーな結末とそれへの批判を想起させるが、今作では「普通」を強調する寺井検事の家庭状況と対比させながら、夏月の「いなくならない」というラストの一言が救いをもたせていた。
…と、しかし。そもそもこれはマイノリティとマジョリティ、多様性と画一性、アブノーマルとノーマルとかの話なのだろうか。たとえ相互の理解は望めなくとも、大切なのは相手の気持ちに向き合うという、実は人と人とのコミュニケーションの話なのではないだろうか。
寺井が家庭不和に陥ったのは、妻や息子に普通を押し付けたからではなく、不登校の息子やそれを案ずる妻の話に耳を傾けなかったからなのであり、その意味でラストの、質問はするけど夏月の問いには答えないという一方通行の質疑応答は象徴的だ。また、夏月や佳道は特殊な性的嗜好もあって人との交わりを忌避していて、それゆえさらに自らの孤独感を増幅させていた。他方、取り付く島がなく拒絶を続ける諸橋へ、男性不信の八重子がそれでも素直に思いを伝えることで、孤独に閉ざしていた諸橋の心はわずかに開き、ありがとうという言葉が引き出される…。そのように見ていくと、他人との濃厚なコミュニケーションであるセックスを起動する性欲を話の中心に据えているのはなるほどと思えた。
映画としても、ベッドルームが水で満たされていくシーンなど邦画にはないレベルの演出はよかったし、いずれの俳優も役にぴったりとハマっていたと思う。元J案件の吾郎ちゃんが児童買春事件を担当するのはたまたまだろうけど、東野絢香のおどおどキョドった演技は特に見事だった。人々を結びつけるのがYouTubeというのも今時だし、中学生のガッキー役(つーより小松菜奈風味)の滝口芽里衣も目をひいた。
そんなわけでオレもガッキーと模擬性交をして一緒に回転寿司が食いたいと思える(そこか?)見どころの多い作品だった。
全374件中、201~220件目を表示