正欲のレビュー・感想・評価
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いのちの形
原作者の朝井リョウはやはり着眼点が凄いと常々感心させられる。
世の中は少しずつ多様性を認める風潮にはなってきたが、本当に万人が生きやすいと思える環境にはまだなっていない。
どこか形だけの、よそよそしさを感じさせる包容力を持った社会。
本当に皆が多様性を受け入れているのか。形だけ理解しようとしているだけではないのか。
この作品はそんな世の中の違和感やひずみのようなものを上手く捉えている。
と同時に、時代が変わっても決して受け入れられないような部分も人間にはあるのだと教えてくれる。
人は誰しも多かれ少なかれ秘密を持って生きているとは思うが、特に特殊な性癖やフェティシズムは隠しておきたいと思うだろう。
誰からも理解されることはない。
どころか知られた途端に誹謗中傷を受けるような。
どうして自分だけがこんな生きづらさを感じなければならないのだろう。
どうして自分はこんなに孤独なのだろう。
世界が全て敵だと思い、心を閉ざして生きてきた、そんな人の前に、もし自分と同じ趣向を持った人物が現れたら。
自分はこの世界に居ても良いのだと肯定された時、人は世界と繋がることが出来る。
その形は様々だ。
夏月が発した命の形が違うという言葉がとても印象的だったが、形は違っても自分と似た命を持った人間は必ず存在する。
画面を通して息苦しい生き方しか選べなかった人たちの、世界と繋がった瞬間の喜びが痛いほどに伝わってきた。
同時にその息苦しさを理解しようとしない無神経な人たちが放つ言葉に傷つけられる彼らの心の痛みも。
検察官の寺井が不登校の息子に、逃げると生きづらいままだと突き放す場面が印象的だったが、彼の言葉は正論のように聞こえるだけで、自分の生き方を肯定したいだけの言い訳にも聞こえる。
何故なら逃げずに立ち向かっても、生きづらさを感じている人はたくさんいるからだ。
実は普通に楽しそうに暮らしている人も、そのように見えているだけかもしれない。
自分は幸せだと思いたがっているだけかもしれない。
だから、自分よりも不幸そうな人を見つけて、善意のふりをして悪意をぶつける人がいるのだろう。
普通とは何か、まともとは何か。
その境目はどこにあるのか。
観ていて色々と考えさせられ、苦しくなる場面もあった。
そして寺井が言うように、社会には本当にヤバい奴がいるのだということも事実なのだと思った。
夏月や佳道や大也や八重子の、息苦しさを感じる彼らの虚ろな目と、それでも世界と繋がろうと賢明に生きる姿が強く印象に残った。
どんな欲があってもいい、公共の福祉に反しない限り。
寺井夫妻の紛争は、世の子どものいる家庭では、あるあるかと思います。
うちも、ありました。
どちらも、子どもの今と将来を想ってなのですが、そもそも前提条件が違うから、コミュニケーションがかみ合わない。
家族だから分かり合えるという幻想がマイナスに作用して、壊れるところまで行っちゃいましたね。
2人が一番大切な息子君の将来が心配です。
人生のかなり早い段階で、人と人とは分かり合えないと諦めた私としては、夏月と佳道のあり方は、ほほえましく、羨ましかったです。
同じ星の人に出会えてよかったね。
いつまでも、お互いにいなくならないで欲しいです。
一番胸糞悪かったのは、少年を買春する教師 矢田部さん。
男の人って、性欲?征服欲?みたいなものに振り回される生き物なのかなーとゲンナリ。
ジャニーさんもこんな感じだったのかなと思うと、ホントに気分が悪くなりました。
無知に付け込んでの搾取は、大人が子どもにすることではありません。
そして、私が一番頑張ったねと言いたいのは、女子大生の神戸ちゃん。
盛大な告白は空振りになったけれど、彼女が大きく変わるきっかけになったんじゃないかな。
一番心が動いたシーンでした、若いっていいな~。
監督の岸さん、「前科者」の人だったんですね!
重いテーマを扱うも、ほの明るいラストを用意してくれるので、救われます。
次作も楽しみにしています(*^-^*)
欲とは…
”寺井が最初に置かれた理由について”
映画のエンドロールにせよ、食品の原材料名にせよ、説明の最初に置かれている名前がメインであると思う。今回エンドロールで最初に書かれていた名前は、「稲垣 吾郎 寺井 啓喜」であった。
それを見て、違和感を感じた。メインは桐生 夏月(新垣 結衣)でないのかと。寺井が最初に置かれた理由。そのことについて考えてみたいと思う。
稲垣が演じる寺井は、はじめから最後まで自分の常識に当てはまらない人間に対して、理解を示さない人物として描かれる。
映画を見終わって、自分は寺井に対して嫌悪感を抱いていた。もう少し歩み寄ればいいのにと。ただ、自分も歩み寄れているのかと疑ってみると、どこか、表面上で価値観を認めようと口ばかりで言っているだけになっているのではないだろうか。
本当に、自分と全く異なる価値観を持つ人を目の前にした時、その価値観を受け入れるこは出来るのだろうか。多かれ少なかれ、自分は寺井の側面を持っているのではないだろうか。
最も自分と照らし合わせて振り返るべき存在は、寺井であるからこそ、最初に書かれていたのではないかと考えた。
考えさせられる映画で、非常に満足できる内容であった。
原作既読
女子大生役の東野綾香さん良いですね
予告編を3回くらい見ていたから、もっとすごいのを期待してしまっていたかな。予告のガッキーのセリフがほぼラストシーンだったとは。
でもさらに後のセリフが良いですね。稲垣吾郎の奥さんはいなくなったけど彼と分かり合うガッキーはいなくならないね。
その後の捜査でスマホやパソコンの解析して犯罪に絡んでないことが証明されて彼は戻って来れると私は信じます。
この人たちのフェティシズムがただの趣味の範疇ではなくもっと深刻なんですよという事はベッドシーン?のおかげでよく伝わった。冒頭の新聞記事から始まって、なかなか想像がつかない世界をわかりやすく説明してくれてた。
でも人が絡まない性的嗜好だと被害者がいないから、そこまで深刻になるかなあ?と思ってしまった私はまだ理解が足らないのかな。
相当昔の話ですがダウンタウンの出てるテレビ番組で「夫が私の目でしかイカないんです」という視聴者電話相談があって結構衝撃を受けて、あれが私にとって「観る前の自分には戻れない」(予告編のキャッチコピー)だったかもしれない。中ではイケなくて毎回目に押し付けてイク男性。奥さんはまつ毛がこすれてなくなりそう。電話がヤラセじゃなければ、ですけど。
東野綾香さんを初めて見たのですが演技といいヒラメ顔好きということもあり今後が楽しみです。
わかってるつもりがわかってないことを知る
性欲について話すことは暗黙の了解でなんとなくタブーと思っていた
だから特殊な嗜好性があっても他人にバレなければそこまで苦しまなくてもと
思ったのですが
登場人物は人に欲情しない、水に反応する人たちで
それぞれの社会状況で苦しみながら生きている
それが死を考えるほどのことなのだと、そこまでの何が問題なのかわからなかった
人と自分は違うという思いと、一般的な人の体験談に全く共感できないことが
ここまでの孤独感を生むとは思わなかった
私がいかに無意識の連帯感の後ろ盾でいわゆる普通に生きてるのか考えた
性格的な面で言って細かく言えば誰でも他人と自分に違いなんて山ほどあるのだが・・・
映画の中では
性のことは逆に表立って他人に話さないから隠しやすいと思ったりするのと同時に
性は根源的な欲だから、ここが大きくずれて共感できる人がいないからあそこまで追い込まれるのか
変わった嗜好性が強い人には何らかの対処法があったほうが良いだろうし
今はSNSがあるのでそれが救いだなと
ただ心配してた通り、結末は後味悪く、こういう人がいてそうなるよねっていう
最後の子どもの目にカメラが寄っていって、それが怖かった
嗜好性の境目の難しさ
欲の止め方
解消法
結局、人は誰かと寄り添わないと生きてる意味ってないのかもしれない
パートナーという意味でなくても、理解者の気配を感じるだけでも
踏ん張れるのかもしれない
もし理解者が親だったとしても主人公のガッキーはあそこまで孤独だったのでしょうか
誰かがわかってくれたら良いということでないのか
その性的嗜好を他人が理解してくれているということに孤独を消せるのか
理解と想像力
色んな人がいることをわかっているようでわかっていないことを
考えさせられた作品でした
カニクリームコロッケのシーンが好き
狭い世界が自分たちの生きられる世界
ひとりじゃないと安心できる場所
明日死んでも別にいいけど
ひとりがふたりになって
少し生きやすくなった
カニクリームコロッケをふたつ
パンにマヨネーズをたっぷりかけるあなた
きっと美味しいって食べてくれるはず
知らなくても あり得ないと思っても
マイノリティの人は存在している
誰もがみんなマイノリティ
人よりも強く思う対象のものはないだろうか
同じものを好いている者たちと
気持ちを分かち合うことはないだろうか
みんながみんな 存在を 理解し合えたらいい
それだけで生きるのを辞めてしまうひとが
少なくなって世界は平和になるとおもう
またひとつ ちがう愛のかたちを知った
冒頭の新垣結衣さんの演技に引き込まれた
うつろな目と透明感を封印したざらついた肌
肌から演技をしていてすごい
あのニキビは自前なのかメイクなのか
予告で観ていた自室の水浸しシーン
とても重要なので見逃しは厳禁
ここから感情移入をしてしまい
鑑賞中は自身もフェチズムになった
山田真歩さんの泣きの演技が自然
ユマニテ所属の俳優の涙はいつも印象に残る…
涙を手で拭う仕草がすごく好きなんだ
時間を感じさせない映画で観やすく
終わり方も好きだった
エンドロールをぼんやり眺めながら
人の数だけ偏愛や性癖があるものだ…と
熟考したりまた観たいなどと思った
レトルトのカレーは好きですけど
今日的多様性化の突破の試みとして見た。
ある程度
シンパシーは感じる。
勉強は嫌いではなかったが、学校は嫌いだった。
責任感はあるが、協調性はないと通信簿にずっと書かれていた。
学校は勉強しに行くところなのに訳のわからない行事、
それに伴う同調圧力、心の底から嫌だった。
同級会にも自ら進んで行ったことはない。
若い(幼い)頃にたった2~3年過ごしただけの話で、
だから一生友達みたいなことを言われてもねぇと思う。
そう思いたい人はそう思えばいいが、押しつけは迷惑だ。
そもそもいじめとかは実際あって、ろくなもんじゃなかった。
だから、稲垣と異常小児性愛者以外の気持ちは分かる部分はある。
妻はいわゆる正常な人間なので全然分からないと言っていた。
さもありなん。
一方で、これを映画にしておもしろい?との観はある。
少なくとも私にはエモーショナルな心の動きはなかった。
ましてや稲垣演じるマジョリティの正常人に見せたところで、
妻のようにマイノリティの本質は理解できまい。
どういう落とし方をしたかったのだろうか。
投げかけるだけなら勘弁願いたい。
原作を読んでみたいと思う。
世界はそれを愛と呼ぶんだぜ
原作は未読。
他の人もレビューで書いているようだが、どうしても気になることが2つ。水に興奮することが社会的に許されないことなのかということと、子どもと水で戯れている動画を持つことが犯罪になるのかということ。
前者は理解されることは少ないとしても、社会に受け入れられることはないと絶望するような性癖やフェチには思えない。この性癖と社会から孤立することがどうしてもつながらなかった。
後者は、水に濡れた子どもたちと遊ぶ動画が児童ポルノにあたるのかどうかが問題になる。どうにも映画としてトラブルを作るための展開にしか思えない。
でも、かなり大事なことが気になっているくせに観た感想は悪くない。それは、あの二人がお互いを必要な存在として認めていく過程がよかったから。セックスの真似事をするシーンを観ながら、ハグのくだりで2人に「いいじゃろう!」と呼びかけたくなった。そして「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」と。
結局、特殊性癖の持ち主たちの生きづらさを描いていても、愛を描いた物語として仕上がっていたと言える。これ、原作はどうなんだろう。登場するのは水に興奮してしまう性癖の持ち主なんだろうか。もっとドギツい表現があったりするのかもしれない。映像化されると表現がマイルドになってしまう。そういうことだったのならまだ受け入れられる。
普通って言葉の意味は?
多様性を頻繁に耳にするようにはなったが、メディアを通して見聞きするだけで現実はちっとも多様性を尊重する社会になっていません。
それは趣味嗜好、フェチと呼ばれる性的思考も含め自分の中だけでしか消化しえない。
ましてや同じ思考同士での繋がりがあれば幸せだが、なかなか他人に理解してもらおうと言動行動に移す事さえ憚られる。
多様性が普通とイコールになっていないから。
ただその事だけが全てととらえて人との繋がりを拒むことは個人的には理解できないししようとも思わない。
考え方だけでも多種多様にあるわけで、そんないろんな人と関わることこそが生きるということだと思ってるから。
ただ繋がりが欲しいからとネット社会のSNS やユーチューブ、インスタなどでコメントもらうことで繋がってると思うのも危険だと、繋がった気になってしまう錯覚に陥る。
多様性などと言われる前のネットのなかった社会のなかで、親友、友人がいた人は幸せなんだと思う。
そんな友は自分とはまったく違う趣味や考え方のの友こそ大切な友と言える。
同じ趣味嗜好、考え方の友だけと繋がっても狭い視界、社会になる、多様性とは異なる趣味嗜好、考え方のものが互いを理解、尊重しあうことこそが本当の意味で多様性社会と言えるのでは。
特殊と思われる趣味嗜好が理解され、そんな人も普通の人と言われるようになれば普通と言う言葉の意味合いも変わってくるのだろう。
それにしても服を着たまま正上位の形で体験したつもりと言われてもねぇ。
セックスも愛し合うことの一部であると思うし、スキンシップのひとつ。
ちゃんと肌を合わせてひとつになれば、相手への想いが互いに一歩進むと思うのだけれど。
まあセックスに興味がない、それも多様性なのか
圧殺される世界
素晴らしい視点で人間を描いた秀作でした。
誰に迷惑をかけるでもない水フェチという性的指向に世界を閉ざされてしまう佐々木(磯村勇斗)と桐生(新垣結衣)。LGBTQは徐々に認知されてきてはいるが、もっともっとマイノリティで、別に人に害を与えないし迷惑だってかけないけれども誰にも言えない指向、そして、言った途端「あり得ない」と全否定されてしまう世界。そんな窒息しそうな2人の状況を非常に良く出来た人物描写、一つ一つのセリフに凝縮させた秀作でした。
息苦しくさせる「普通」とか「マジョリティ」とか「一般常識」を化体させた人物である寺井(稲垣吾郎)と、佐々木・桐生が対峙するクライマックスで吐露される、それぞれの価値観や苦しみ。そして、基準の中で正しく生きてきたと信じる寺井が、桐生の「いなくならない」という言葉を食らったときに、自分自身に目を向けた瞬間の表情。
本当にセリフが素晴らしい。
水フェチは1つのたとえであり、マジョリティがマイノリティを追い込んでいる状況や、多様性と言いつつ、(何にも迷惑かけないものでも)マイノリティの中のマイノリティは圧殺されるということを見事に伝えていました。
そして、ゴローちゃん、ガッキー、磯村君、この3人の演技が素晴らしい!期待以上でした。ゴローちゃんは、SMAPの頃から、シュッとしたハンサムなのに、鼻眼鏡をかけた変な役をやるのとか大好きで、演技好きなんだな、上手だなと思ってましたが、クセつよではない、こういう役もうまいんですね。
ガッキーの無表情とこれという時の目力、磯村君の人生に疲れた諦めた目と喜んでいるときの表情の違い、本当に素晴らしい役者さんです。
佐々木が送検までされることはないというコメントや、ゴローちゃんとガッキーがバッタリ会ってることへのコメントも拝見し、確かにその通りではありますが、その部分は本作では重要ではないと思いました。そこが気になってしまうと、検察官と対峙させるためのご都合主義と思われる方もいるのかもしれません。
細部では、晩御飯がレトルトカレーとか扱いひどいのは、奥さんがひどいのか、あまりに話を聞かなくて愛想尽かされてるのか、夫婦の鶏卵問題を感じました。
一人ひとりの演技は良いけれど…
忘れられぬ、切ない言葉に胸が震える
※映画の内容を語っている部分と純粋な感想の部分で文体を変えています。
昨年封切られた『ある男』に少し味わいが似ているが、こちらは死んだ人の話ではなく、今生きている人たちの話。
この群像劇の主要登場人物たちはみな死んだように生きている。「明日が来なければいい」「ひっそりと死ぬために生きている」
普通と違う、枠からはみ出た人生はその人自身にも、周囲にも、両方から否定されている。
そんな悲しみや苦しみ、ない方がいいに決まってる。
そういう「辛さ」を分かち合える人に少年少女時代に出会い、一度は別れ、思いを胸にずっと秘めていた主人公の二人。そして、忘れられないその二人は期せずして再会する。
その再会が、つまらなくて無為だったお互いの(特に、新垣結衣扮する彼女の)人生を切り拓く。
忘れられない人とは「恋人」でないところから始まり、彼から「この世界で生きていくために手を組みませんか」とプロポーズ(提案)される。
好きとか嫌いとかでない、このプロポーズが、本当に切ない。今でも涙が出る。
そうして始まった、心穏やかで平和な二人の暮らし。彼との生活で「もう一人でいた頃に戻れない」とベッドで抱擁して呟くヒロインの夏月。
ようやく手に入れた幸せがずっと続いて欲しい、と映画見ながら心から思った。
もう一組の男女が織りなす「その人の前でだけ素の自分で居られる」「どうせ誰にも分からない」「男性への拒否反応があっても、好きになってしまう」どうしようもなさに苦しみ、お互いがそれを吐露する物語にも心震える。
こういう、周囲との違い、そしてそれを分かってもらえないことから来る「孤独感」(孤独でなく孤独感というところが厄介なのだ)と必死に折り合う人たちに対峙する形で、稲垣吾郎扮するもう一人の主要登場人物、寺井が物語に深みを与える。
普通でないことをどうしても受け入れられない、普通に生きることを矜持にしている人物。
夏月がこの寺井と対峙するラスト付近「あなたが信じなくても、私たちはここにいます」という台詞も、私の胸に鋭く突き刺さり、忘れられないシーンとなった。
この映画、本当に脚本が良い。「目を開き、胸に刺さる」台詞が散りばめられている。
人が持つ「辛さ」と「優しさ」が、このような心震える台詞で紡がれた脚本力に恐れ入リました。
『あゝ荒野』も『前科者』も深く感動した映画。岸善幸監督も港岳彦脚本も自分に合うと再認識しました。
主要登場人物を演じた俳優は皆本当に拍手喝采を送りたい程素晴らしかったです。
地味な映画ですが、内容は特濃だと思います。
今という時代
傑作です。
キャッチコピーが、「観る前の自分には戻れない」。
でも、わたしは、まったくそうは思いませんでした。
だって、人の幸せに傷ついたり、自分の入ることのできない暖かな家の灯りに窒息しそうになったり、この世から消えてなくなりたい時も、あの少年のように父親を見たことも・・・そのすべてに身に覚えがあります。
そして同じ様に、わたしも、人を傷つけ、浅はかな正義を押し付け、それに気づきもしないこともあるでしょう。
だからこの映画は、今という時代を生きる大人に向けたお伽話だと思いました。
苦しいことばかりの人生だったけれど、そのおかげで、この映画に心から涙できる自分でいられた。
過去を振り返り、これで良かったと。
SNSの片隅で、今日もたしかに人が息づいている。
いつしか、その剥き出しの欲望と混沌の中から、ほんとうの希望が生まれてくるといいな。
そう祈ります。
映画史と人権
本作を見ながら「ああ~、時代もここまで来たのか」って気分になり、「社会は発達するにつれ複雑になって来るのだなぁ」って考えさせられました。
個人的に“映画は考えるためのツール”としての役割を持たせているので、私向きの映画ともいえます。なので感想というよりも雑談をしたくなる様な作品ではありました。
まあ、映画を半世紀以上見続けていると、大まかな映画史というのも自然に頭に入っていて、映画史的な流れで作品を見る習慣も身ついてしまっています。
ある視点から言うと、映画って“人権”を提唱する手段でもあったような気がします。
要するに社会悪を物語として観衆の怒りの感情に訴えかける、良い意味での煽動ツールでもあった訳です。
又聞きですが、元々ハリウッド映画産業を興したのはユダヤ人であり、様々な差別への対抗手段として大衆が理解しやすく社会的効果も得られる映画が有効であるという事から“勧善懲悪モノ”“人情・恋愛悲喜劇”といった娯楽映画を量産したという事を漏れ聞いています。
そして時代が進み、貧富の差、人種差別、男女差別、LGBTQ、ポリコレと問題意識も変化してきて、ついには本作の様な特異なフェティシズムまでに至るのですが、今までの映画が果たしてきた問題提起に対する結果として社会(世界)はどう変化(改善)したのか?という事が一番の問題なのだと思うのですが、本作の場合はある意味その点についての問題提起をテーマにしていた様に感じられました。
なので、本作の場合オムニバス的に登場人物が多くいるのですが、貴方は現実社会ではどの人に一番近いですか?、若しくは一番感情移入出来ましたか?、若しくは誰も全く理解できないし気持ち悪いと感じましたか?それを自覚するための作品なのだと思います。
マイノリティ、マジョリティとは言っても、分類を細分化すれば殆どの人がマイノリティ側にいたりマジョリティ側にいる訳で、もっと簡単な識別法は分類の細分化を理解できる頭脳があるかないかの差でしかない訳です。
世の中がどんなに進歩しても、それの理解できる人と理解できない人の割合は変わりませんので、問題が無くなることは決してありませんし、社会のルールというものは最大公約数(若しくは普通)を基準にして作られる(言い換えるとそれでしか作れない)ものであり、個人的マイノリティの部分は自覚して生きるしか方策はありません。
自分のマイノリティ部分を自覚できる人は哲学者にもなれますが、自覚できない人はただの変人扱いされるだけで終わるのでしょう。
さて、冒頭に書いた映画は絶えず人権と向き合い作られてきた歴史があるのですが、果たして社会は良くなったのか?変わらないのか?は難しい問題ですね。
個人的見解だと、社会は大きく変化しているが、人間の根本は殆ど変化していない気がします。なので悲劇も絶えない。
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