正欲のレビュー・感想・評価
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そのひと、ひとりじゃなかったらいいね
結局のところ、人は誰にも明かすことのできない嗜好があるのだと思う。そしてそれは説明できない類のものであることが多い。
わかってほしいのだけど、わかったふりはしてほしくない。ひっそりと自分の嗜好とともに世界の片隅で、息を潜めて行きて行くことが自分が傷つかずに済む方法だとわかってはいるのだが、「共感」「理解」の幻影に騙されて淋しさに押しつぶされそうになる。
自分だけが違うと思って生きている人も世間一般の常識で生きていると思っている人にもそんなに差はないと思う。「生きる」ことをどの角度から見ているかが違うだけ。でも手に持ってる「信頼」とか「愛情」とかってプラスのアイテムをいくつ持ってて、それがハイスペックなものかどうかで「生きる」ことは受け入れやすくもなるし、受け入れがたくもなる。生きにくさこそが普遍的なものかもしれない。
多様性を語ると実は答えはシンプルなものになるのではないだろうか。
生きていくうえでの苦しみや辛さはひとりで抱え込めないからオーバーフローしちゃう。
もし奇跡的に「同志」が見つかったときは、いなくならないでほしい。お互いに。
普通に生きていく事がほんとはレアなのだから。
集中力のある構成で、佳作だ。これは日本でしか作れないタイプの作品。
八重子役をされてた東野絢香がいいと思った。「貞子」感溢れる動きや仕草、眼差しが印象的。
「多様性」と言いながら一つの方向に導こうとするのは誰か
原作は未読だが、朝井リョウらしさを感じさせる群像劇。「噴出する水に性欲を感じる」という超少数派な性的指向を持った孤独な人間たちが、ようやく繋がりを見出すものの、不運な出来事が彼らに起こって、といった話。
「普通の人たち」の悪気のない傲慢さや、彼らの「普通」な姿を見る時の夏月(新垣結衣)の肩身の狭さが繰り返し描写される。立ち入ったことを聞いてくる職場の妊婦の先輩、売り場でたまたま出会う親子連れの同級生。大也(佐藤寛太)のダンスサークルの女の子が主張する「型通りの多様性」。寺井(稲垣吾郎)が家族に対して繰り返し示す、子供の教育の「普通」。
「普通」に固執する(ように描写される)寺井が最後には家族を失う一方、佳道と異端の絆で結ばれた夏月は対照的に、佳道の元から「いなくならない」ことを「当たり前のこと」として寺井の前で宣言する。まるで、同調圧力で「普通」を押し付けてくる多数派への、少数派の意趣返しのようだ。
「性欲の対象が水」という設定は、ちょっと綺麗すぎて、あまりグサっと刺さってこなかった。夏月と大也の自慰描写がかなり抑え目だったこともあり、見た側が受け入れられるか問われてつい逡巡し、己を振り返ってしまうようなインパクトには欠ける。「水への欲情」は、マジョリティの「人への欲情」となんら干渉しないので、変わってるなあとは思うが、拒否感は起こらない。
既存の倫理観から逸脱するかどうか紙一重の指向の方が、観客が試されたのではないか。超マイノリティの疎外感といえば「流浪の月」を思い出すのだが、あちらの孤独の方がヒリヒリしていた。
寺井の家庭の描写はどう解釈するか迷う部分があった。
確かに、頭ごなしに否定するかのような寺井の態度はよくない。しかし一方で、息子は不登校の理由もよく分からないし(父親への説明の第一声が子供YouTuberからの影響、動画を見せるだけで自力で説明しない)、妻は夫を責めてやたら感情的になるわ息子に片付けのしつけもしないわ、安易に右近先生に依存するわで、何だかどっちもどっちのように見えてしまった。
私が寺井の立場だったら、最初は彼に近い反応をしてしまうかな。息子が学校に行きたくない理由をまず確認して、妻の話も聞くようにはしたいけど。YouTubeで有象無象の視聴者のリクエストに答えるよりは、学業を修める方が大事だから。学校が無理ならフリースクールで。
終盤、水を愛でる集まりに紛れ込んだ性犯罪者の逮捕に佳道(磯村勇斗)たちが巻き込まれ、検察官の寺井は彼の主張した「水への関心」を誰かの入れ知恵と決めつける。しかしこれはある意味仕方のない展開にも見えた。
何故なら、仲間の1人の矢田部が性犯罪者であることは事実で、その矢田部から子供の映った画像を受け取っていることも残念ながら事実だからだ。同じ場面で「子供に関心はありません、大人の女性が好きなので」とマジョリティ的な受け答えをしたとしても、上記の状況がある以上寺井は簡単には信じなかっただろう。
だから、終盤の流れは彼ら超マイノリティへの世間の風当たりを表現する方法としてはちょっとずれている気がした(違う意図があるのかな?)。
「時流に乗って多様性を称揚しているあなたたちは、こういった人々のことまで想像して多様性を論じているか?」という問いかけが、本作の眼目ということだろうか。しかし、そもそも少数派へ想像力を持つとか、知ってどうすべきかという発想自体、自分は多数派であるという認識、そう思いたいという願望から来るものだという俯瞰の視点も必要なのかもしれない。
これは私の個人的な考えなのだが、「多様性を肯定する」とは自分と違う人間を否定しない「わきまえ」を持てばそれでいいと思っている。言い換えれば「多様性を”否定する態度を取らない”」「他人が多様であることを邪魔しない」くらいでいい(とはいうものの、相手が身近な人間だったり、自分の価値観と干渉する時はこんなことでさえ難しい)。互いの生き方の邪魔さえしなければ、内心で「水に興奮するとか変わってる……わからんわ」とか、逆に「セックスってトレーニングみたい……滑稽だ」程度のことは考えたって別に問題ない。そこで「理解しなきゃ、受け入れなきゃ」と内心を押し殺す時、あるいは「理解しろ、受け入れろ」と変容を強要する時、多様性賛美は欺瞞に変わる。
ガッキーの新境地的役柄が話題の本作だが、私は東野絢香の「こういう人いる」感が印象的だった。あと、磯村勇斗は「月」のさとくんからのこの役でなかなかヘビーな仕事の流れだなと思った。「月」の撮影終了後5日ほどで本作の撮影に入ったそうだ。さとくんで得たものが佳道に通じるところもあり、それをベースにして役に入っていったという。
メンタルコントロールも俳優の技術のうちなのだろうが、何だかすごい。
今作られるべき映画
発売当時に原作小説を読んで凄い作品だと思っていたが、まさか映画化されるとは思わなかった。この性的欲望に映像でいかに説得力を持たせるのか、この作品が描くものはシンプルなエロスではない。あまりにもレアで多くの他社に理解されないがゆえの苦悩を描く作品だが、まさに多くの観客にとって普通に提示されても理解が難しい題材だ。
現代社会のキーワードに「ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)」がある。ポリティカルとコレクトネスと2つの単語が構成されているこの言葉は、「ポリコレ」と省略されて使われることが多いが、2つの単語から成るものだと意識した方がいい。
コレクトネスという観点で本作を観ると、本作で描かれた人々を犯罪者扱いするのは「正しくない」はずである。しかし、ポリティカル(=政治)な議席の数には限りがある。全員がその椅子に座れるわけではない。政治を社会をスムーズに営むための統治で多数決を原則とするなら、多くの人が理解できない性癖の持ち主は排除されるべきとなりかねない。この作品に描かれたものは、ポリティカルとコレクトネスに引き裂かれており、この単語の矛盾を的確に指摘している。
多様な人間が暮らす現代社会は、多数決の原則で動かざるを得ない政治的な正しさだけでは包摂しきれない。だから、マイノリティは政治運動を展開し、政治的なパワーを得ようと努力してきたわけだが、現実問題として、どんな属性でも政治的なパワーを持つことが可能かというと、そんなことはないかもしれない。皆が平等になるのが正しいが、政治の椅子の数は決まっている。今作られるべき映画だったと思う。
透明感のある生々しさ。現代社会を捉えたひとつの写し鏡として。
不思議な、得体の知れない手触りを感じさせる作品だ。透明感のある生々しさは「水」のイメージからくるものだろうが、水と言っても、澄み切ったものから濁りきったもの、澄んでいるけれど危険なもの、さらには性的なものまで実に様々だ。おそらく我々はこの「かっこ」的な部分に自分なりの様々な要素を当てはめて捉えることができる。「自分を理解してくれる人なんて誰もいない」という孤独感や、同じ嗜好性を持った誰かと奇跡的に出会うことの喜び(およびその反作用)は何も今に始まったことではないが、しかし本作はあえてギリギリの淵に立った者たちの繋がりに焦点を当てる。その上で、共に気づきや安らぎを重ね、いつしかふと相手を愛おしいと感じたり、守りたいと感じたり、つまりは知らぬ間に壁が融解し、「私」が「私たち」となっていく過程に寄り添おうとする。新垣の徐々に変わりゆく表情に心奪われる。それは対極的な軸を担う稲垣においても同様だ。
欲望や嗜好に“正しさ”はあるのか
高校を舞台にした「桐島、部活やめるってよ」、就活生たちの関係を描いた「何者」といった具合に、映画化された朝井リョウの代表的な小説を並べてみると、作家としての成長に並走するかのように登場人物らの年齢層が上がり、描写される内面もまたより深くより複雑になっている。さらにこの「正欲」では、小学生の息子を育てる夫婦、かつて中学の同級生で15年後に再会した30がらみの男女、大学生らといった具合に平均年齢が一層上がり、マイナーな性的嗜好、価値観の相違、対人関係の悩みといったテーマが交錯する群像劇となっている。
水をめぐる性的興奮と快感を鮮烈に描くシーンがいくつかある。たとえば、ベッドに横たわる夏月(新垣結衣)が水に浸されていく心象風景(映倫区分がGで大丈夫か、親が未成年の子と観たら気まずそう、などと余計な心配をしてしまった)。交通事故に性的快感を覚える人々を描いたデヴィッド・クローネンバーグ監督作「クラッシュ」や、ヘイリー・ベネットが異食症の女性を演じた「Swallow スワロウ」のように、特殊な嗜好を観客に想像させる一面はあるものの、より強い印象を残すのは、ある事件の事情聴取を行う検事・寺井(稲垣吾郎)と夏月との“かみ合わなさ”だ。自分に理解できない嗜好を否定し常識で物事を決めつけようとする寺井を反面教師に、さまざまなレベルでの多様性を受け入れるには想像力と柔軟性が必要だと映画は示唆する。他人に迷惑をかけたり法を犯したりしないことが大前提とはいえ、欲望や嗜好に正解も間違いもないのだ。
八重子と大也がよかった。
性欲の対象が水である。
この設定は社会異常と設定された性欲の例えとして置かれたのかなぁと思って観た。
理解されなかったとしても、水に欲望しても他人に実害はないし。でもそれが、子どもだったり、動物だったりすると、欲望を抱くことさえ異常視されるかも知れない。
役者について
磯村勇斗さんは、月でもハードな役を演じていたし、連ドラではジルベール・渡となり、わさビーフを食べて狼コスプレとかして、本当に振り幅の大きい役者で、今回も素晴らしいなと思った。
新垣結衣さんは、パブリックイメージとかけ離れた正気のない感じがすごくよかった。
稲垣吾郎さんは、怒鳴るところ初めて見たかも…嫌いなタイプの人を演じてたので嫌いになりそうだった(褒めてるつもり)。
まぁこのお三方は実力もキャリアもある折り紙付きの役者であり、今回も良かったなと思ったわけです。
で、びっくりしたのは八重子と大也役のおふたりでした。わたしは初めて観たふたりだと思います。
大学の大教室でふたりが対峙するシーンは、すごかったです。
とくに八重子役の東野絢香さん。電車の壁際で身を縮こまらせていた登場シーンから、こういう人いるっていうイメージがぶわっと湧く姿をされていて、すごかった。視線の定まらなさ、唇が窄んでいる感じ、猫背…
重い過去を思わせる表現が素晴らしく、大教室のシーンで大也にぶつかってゆき、彼の正気のない眼に光を浮かび上がらせたシーンは本当にすごかった。
大也役の佐藤寛太さんも初めましての方で、ガッチガチに踊ってはったけど劇団EXILEの人らしくなるほどです。彼も珍しい性的嗜好ゆえに人を遠ざけ絶望を抱えて生きてるんです。その彼が八重子の不器用な叫びに呼応して、束の間眼に光を灯すんですが、とても素晴らしかったです。
立ち上がりが遅い
多様性は普通、普通は多様性
新垣結衣さんのなどの俳優の演技、場の空気がリアルでハラっとしたりイラっとしたり、共感できるところが少しありました。
終わり方が物語の途中なのにモヤ感がなくて、どっちかというと続きはどうでもいい、なんでもいいなと感じました。物語の結末は想像がつくとかではなく。
でも稲垣吾郎さんが演じる役の仕事が検事だということが納得いかなくて、役の心情、考え方がその職業に合わない、向いていないと思いました。
それも自分が 多様性を重視されてきているこの時代に生きているから、合わないと感じたけど、昔の人は考えの「一般的」がその時代と今の時代で違うから、実際稲垣さんの役みたいな人もいて当然だと考えました。
多様性は普通 普通は多様性 このように捉えれた映画でした。
多様性ではなく作者の自己満足と自己顕示欲が表れた作品
映画というより作品そのものに対する評論。
水に対する性欲をマイノリティとか、多様性とか呼ぶだろうか。いや、呼ばない。
何でもかんでもマイノリティとか多様性と美化して表現すれば正当化できる、受け入れられると思うのはお門違いだ。若い作者はその点を大きく誤解している。
少数民族やLGBTなどマイノリティが擁護、評価される点には理由がある。
少数化だからという点で理由なく擁護されたり評価される事はない。
朝井リョウは性格的に「あまのじゃく」。だから、誰もマネしない、マネできない独自性にこだわる。水に対する性欲を題材にしたのは、ほとんどの人が「性欲」として想像を超えて認める事ができない対象だからだろう。
実際のところ、「水に対する性欲」ではなく「水ファン」「噴水フェチ」という意味あいであれば、世間にいくらでもいる。しかし、それでは「マイノリティ」ではないし、そこらへんの噴水ファンを題材にしても小説にならない。だから、無理やり「水に対する性欲」と性欲に結び付けたように見える。
これが、作者(朝井リョウ)が本当にその性癖(水に対する性癖)があり、水の画面を見ながら自慰行為を行うような習慣があるのであれば、作品としての価値を認める。しかし、自分がその性癖がないにも関わらず、極めてレアな性癖、それも、性癖とはいえないような「癖」を描くのは、単なる作者の空想や想像を文字や映像にしたに過ぎず、何の意味もない。
この作品は超少数派を描く事によりあまのじゃくの作者自身が自己満足し、陶酔するため、単に話題性が評価される事を狙った薄っぺらい作品としか評価する事はできない。
読むだけ、見るだけ時間の無駄だ。
生きづらさを感じている人たちの眼が…
「いなくならないでね。いなくならないから。」 もう何年も、他人に心...
HSPの方が作ったHSPの方に向けた映画
普通だと思っていた自分には戻れない
セリフでもあったように、世の中には想像もできない人達がたくさんいるのかもしれない。
途中、諸橋が言っていた『思っちゃいけない感情なんてない』みたいなセリフはその時すごく納得できたけど、終盤の子どもを傷つける事件とかも起きてしまうことを考えると、肯定できなくなってしまった。
感情や指向に対して100%な回答が映画からは得られず、鑑賞している私達が考えなければならない。
行きづらさを感じる場面演出が細かくていろいろ描かれているが、それぞれのセリフもすごい。
・やっぱり“人間”とは付き合えない。
え、この2人って宇宙人か何かの設定ってこと?と勘
違いするくらい佐々木は自然に語っていた。
自分は“人間”になれていないということか。
・地球に留学しているみたいに感じる。
これもさっきのセリフ同様、みんなと同じ星に生まれ
ていないように感じる、という例えとしてすごく腑に
落ちる表現だった。留学して自分とは言語も文化も違
う世界で生きる生きづらさはキツいけど、それが毎日
続いているのかもしれない。
検事の寺井にマジョリティの人間をやらせたのが面白い。寺井自身も不登校の子どもの親であり、息子のことを理解できないでいた立場。
そして繋がるあのラスト。桐生や佐々木、諸橋は分かり合える人達とともに生きていき、逆に1人になってしまったのはマイノリティを異常者だと罵った寺井だったというオチはすごく良い。
原作を読んで、映画があることを知ったので……
普通ってなんですか、っていう物語増えたな
いろんな人がいるのは構わないし
多様性でもなんでもいいんだけど
どうしたって多数決なんですよ世の中
私だって少数派の立場になることが多いんだけど
別に理解は求めてませんよ
多様性を受け入れよう
みたいな世の中はあんまり好きじゃありません
別に普通に生きられますよ
少数派だって
あ、普通って言っちゃった笑
多様性の時代
明日が来なくていいと思ってる人たちの群像劇。
「あり得ない」「普通じゃない」「常識がない」日常的によく聞く言葉。
そういう言葉を使う人は言われた相手がどれだけ傷つけているのか全く気づいてないようだ。
もちろん人を傷づけたり、犯罪行為はダメだが、どんな人に対しても人権を尊重する世の中になってほしい。
同じ価値観の人とだけ生きていけたら幸せだけど、現実はそうはいかないから世の中は厳しい。
寺井の夕飯がオムライスとかレトルトカレーとか手抜きメニューなのことに違和感。食に興味がないのか本人も気にしてない様子。妻の夫への冷めきった気持ちを表しているのか。
そして、本来すごく華のある人なのに、同一人物とは思えないほど、目も窪み、虚ろなガッキーは新鮮だった。東野絢香も感情を爆発させる難しい役どころをリアルに演じていて良かった。
でも、人と関わりたくないはずなのに、同級生の結婚式に参加したり、セールスの仕事したり、私だったら避けるけどな。
マイノリティの気持ち
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