ミューズは溺れない 劇場公開日:2023年3月18日
解説 インディーズ映画界の登竜門とされる第22回TAMA NEW WAVEと第15回田辺・弁慶映画祭の双方でグランプリに輝いた青春エンタテインメント。アイデンティティのゆらぎや創作をめぐるもがきなど、葛藤を抱えながらも前進しようとする高校生のひと夏をみずみずしく描いた。 高校で美術部に所属する朔子は、船のスケッチをしている最中に誤って海に転落。それを目撃していた美術部員の西原が「溺れる朔子」を題材に絵を描いてコンクールで受賞したうえ、その絵が学校に飾られることに。さらに新聞記者から取材を受けた西原は、朔子をモデルに次回作を描くと勝手に発表する。悔しさから絵の道をあきらめた朔子は、代わりに新たな創作に挑戦しようとするが、物事が思うように運ばない。そんなある日、美術室で西原と向き合った朔子は、なぜ自分をモデルに選んだのか西原に疑問をぶつけるが……。 監督は、大九明子監督などのもとで助監督を務めながら中・短編を製作してきた淺雄望。朔子役は主演作「この街と私」で注目された上原実矩、西原役は「ジオラマボーイ・パノラマガール」などで活躍する若杉凪。上原はTAMA NEW WAVEでベスト女優賞、若杉は田辺・弁慶映画祭で俳優賞をそれぞれ受賞。田辺・弁慶映画祭の受賞作品を上映する「田辺・弁慶映画祭セレクション2022」で上映され、2023年3月に単独で劇場公開。
2021年製作/82分/G/日本 配給:カブフィルム 日本初公開:2022年9月30日
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2023年3月26日
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映画が始まって先ず感じた事は映像が綺麗 これは油断成らんぞ!と挑みました 良い映画です、ストーリーは特別なものでは無いが構図、音楽の扱い方に新しいセンスを感じました、監督の次回作も観たく成りました。
2023年3月21日
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鑑賞方法:映画館
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去年の映画ですが、ようやく観ることが出来ました。すごく佳い作品ですね、今年の邦画の暫定1位かも。 女子高生3人の青春モノ。朔子は進路も、恋愛も、父が再婚して新しくなる家族にも馴染めない。西原は絵の才能があるも、コミュ障で周りと馴染めない。宏美は片想いの相手が好きな朔子や、才能のある西原に嫉妬し、ギクシャクする。そんな3人の成長譚。 まず、主役の朔子がどんどん綺麗に見えてくるのが素晴らしい。「映画は女優を魅力的に撮ればOk」というのはポンポさんのセリフだったと思いますが、その通り。始めは、なんでこんな子を使ったのかな?と思うぐらい死んだ顔をしていたのが、ストーリーが転がるにつれて、どんどん魅力的に見えてくる。 次に、伝えたいことが分かりやすい。ファーストシーンが港で動かない舟で、溺れる主人公。真ん中からは自分の舟を作り、西原と一緒に海へ。本作でデビューする監督の想いと重なっているのかもしれませんが、迷いや不安をてらうことなくセリフに乗せてぶつけてくれるので、ストレートに感動できます。 ポレポレで鑑賞後にトークショーがあり、監督にサインを頂く時に「朔子が舟を作り産み出すことで、出産する義母と通じ合えたのですかね」と感想をお話しする機会にも恵まれ、余計に楽しかったです。
2023年3月20日
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鑑賞方法:映画館
【1】 2日続けて2度観た。良く分からなかったからではない。良く分かったからこそ、そうせずにはいられなかったのだ。 これからこの映画を「内容」と「形式」の両面から論じる。 「内容」とは、小説で言えば世界観、キャラクター設定、あらすじまでである。小説本文に取り掛かる前に、決めておかなければならない事である。 小説の「形式」とは、小説のシーンを切り回して行く技術、情景描写、心理描写、セリフ回し、そして文体を指す。読者の目に触れる部分、いわば小説のインターフェースである。 プロットは良いんだが、萌えない小説。 美酒のようなレトリックを駆使するが、それ以外は何もない看板倒れの小説。 どっちも読みたくないでしょう。 批評家だって神様じゃない。 小説の「内容」だけ論じてオシマイなのを「テーマ主義批評」と言う。 逆に「形式」と戯れてばかりいるのを「印象主義批評」と言う。 どっちも時代遅れだが、これ以上は立ち入らず、「ミューズは溺れない」に話を戻す。 【2】 「ミューズは溺れない」のテーマは何か。 青春である。それも荒々しい青春である。激しい恋である。やめろと言われても、今では遅すぎたのである。 実際、暴力寸前のシーンもあるのだが、それも青春の苦悩のなせるワザである。 み~んな悩んで大きくなった。だから、これで良いのだ。 どうです?分かりやすい映画でしょう。 【3】 次に「ミューズは溺れない」のキャラクター設定およびあらすじについてなんだが、これには余り踏み込まない方が良い気がする。 解説を要するような難解な点はない。「後は観てのお楽しみ」と言う事で良いのではないか。 まあ、これでスルーしちゃうのも申し訳ないので、永遠の青春小説、梶井基次郎の『檸檬』を引き合いに出しておこう。 『檸檬』は、何だか良く分からんが、いい歳こいたオッサンがぶらぶら歩きの挙げ句、青春が爆発しちゃう短編である。 「ミューズは溺れない」でも、年端も行かない女子高生たちが大爆発する。 その爆発に何の意味があるのかは分からない。梶井基次郎の『檸檬』と同様に。 そもそも、それをやった事で、自分たちを取り巻く状況が、多少なりとも前進するか否かも、全ては今後に掛かっている。 この映画の時空に限れば、何もかもが無茶で無意味で無鉄砲なのである。 でも、私はその元気がうらやましい。おじさんは、もう生きるのに疲れたよ。 いや、失礼しました。 【4】 さて、お待ちかね、「ミューズは溺れない」の表現形式についてだが、これにはホントに驚いた。かなり手が込んだ、凝った表現が多い。 誠に残念ながら、映像表現に素人の私の目では、作り手の意図の全てを捉えきれなかった。 だから、以下に記すのは「おそらく間違っているであろう、素人の仮説」と受け取っていただきたい。 【5】 最初のシーンで度肝を抜かれた。 「これ、フィルム・カメラで撮ってるんじゃないか?30年も経ったら、退色して画面がまっ黒になってしまうんじゃないか?」 いや、そんな筈はないのだが、日陰の部分を暗めに、つぶし気味に画質調整しているのは確かだ。 ナントカ映画祭で、例のアレが欲しいなら、なるべく間接光を当てて、飛ばし気味に調整するのが通り相場だと思うのだが。 【6】 カメラワークも荒々しい。ハンディ・カメラ一つで、俳優の毛穴が見える距離まで肉薄する、まるで社会派ドキュメンタリーみたいなシーンもあった。 懐かしいな、この雰囲気。この緊迫感。小川紳介や大島渚みたいだ。 ただし、ナントカ映画祭で例のアレが欲しいなら、ここは小津安二郎みたいに、カメラをレールにベタッと固定してしまうのが無難だと思うのだが。 カメラは暴れん坊だが、うるさくは見えない。落ち着いて観ていられる。映画の中に、すんなり入り込める。最初に観た時は、これがフシギだった。 2度目に観た時、ようやく気が付いたのだが、「ミューズは溺れない」には長回しのシーンが一つもないのだ。俯瞰で撮ったのもラスト・シーンのみ。ただし、これも長回しと言うほどではない。 バサリ・バサリと短いシーンをつないで行く。その度に視点も動線もコロコロ変わる。時には逆光まで入る。だが、それをそうと意識させない。これが、この映画の作り手の力量なのだろう。腕前なのだろう。 小説に置き換えれば「文体がいい」のだ。美文調・星菫派ばかりが名文ではない。武者小路実篤の『友情』みたいな、ちぎっては投げ、ちぎっては投げの名文もあるのだ。 ただし(くどいようだが)ナントカ映画祭で、例のアレが欲しいなら、客が飽きようが寝ようがお構いなしに、タルコフスキーばりの長回しで圧倒すべきなのだが。 ついでに、もう一つ言い足しておくと、ピントの切り替えも思い切りが良い。私が記憶している限りでは、パン・フォーカスしたシーンはなかったと思う。 客は、作り手が「見せたい」と思った物を、強引に「見せられて」しまうのだ。 この点についても、ナントカ映画祭で例のアレが欲しいなら(以下省略) 全体として「ミューズは溺れない」は、昭和50年代の日本映画と、良く似た雰囲気を漂わせていると思った。長谷川和彦や大林宣彦だけではない。「必殺仕事人」や「蒲田行進曲」も含めての昭和50年代である。 これはまあ、私の思い込みに過ぎなかったらしい。印象主義批評には、こういう落とし穴がある。 淺雄望監督は、増村保造の映画がお好きとのことである。 【7】 これも2度観て気が付いた事なのだが、「ミューズは溺れない」の画面構成は象徴的な表現に富んでいる。エイゼンシュタインの『イワン雷帝 第1部』みたいだ。(黒澤明の失敗作、『影武者』の元ネタである。) 今どき、イワン雷帝じゃ「意味わかんない」と言われそうだから、ベタな言い方をすると、「ミューズは溺れない」は、どこでストップ・モーションしても、スチール写真みたいに絵ヅラがバチッと決まっているのである。 これは、ものすごい事だ。映画は動きを追うもの、移ろうもの。スチール写真は瞬間を切り取って、「停止した時間」の中に封じ込めるものだからだ。だから映画はエロス(生命の躍動)を志向し、写真はどうしてもタナトス(死の影)を写し取ってしまう。 もう余り見かけなくなったが、映画館のショー・ウインドウに貼り出されたスチール写真は「フィルムが捉えなかった映画のアナザー・ストーリー」みたいで、見ていて飽きなかった。 「ミューズは溺れない」の象徴性の高さについては、これは私の思い込みなどではない。 ウソだと思ったら、TVドラマでも、映画のDVDでも良い。どこかで一時停止してみれば分かる。俳優の表情は時々刻々変化する。たまたま止めた所で、俳優は口をポカンと開けていたり、両目を閉じていたり、体のバランスを崩していたりする。「決め顔・決めポーズでバシッと止める」のは、俳優ではなく、モデルの仕事なのだ。 「動いているのに、絵になってる映画」と言うのは、ありそうでない。 私の頭にパッと浮かぶのは、タルコフスキーの『ノスタルジア』、そしてシャンタル・アケルマンの『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』と言った所か。 両作とも、観客のエネルギーをスポンジみたいに吸い取る催眠映画・拷問映画である。 さて、淺雄望監督は「ミューズは溺れない」の制作に当たり、どんな「弁証法的絵コンテ」を切ったのだろうと思っていたら、監督いわく、 「絵コンテも字コンテも切ってはいないが、俳優とは画像イメージを共有した。また、リハーサルには通常の倍以上の時間をかけた。」 とのことである。その割には俳優が好き勝手しているように見えたが、それは「素人には、そう見えた」と言うだけの事だろう。これ以上は踏み込むまい。 【8】 実は2度目に観た時は、もうストーリーを追わず、セリフも上の空で聞き流していた。 もしも「ミューズは溺れない」を、私の知らない言語(ロシア語でもアラビア語でも良いが)で吹き替えて、字幕も付けないまま観せられたとしても、さほど違和感なく、映画の中に入って行けそうな気がする。 ストーリーが語るよりも、セリフが語るよりも、この映画は絵ヅラが語っているのだ。まるで『戦艦ポチョムキン』みたいに分かりやすい。いや、誰も階段から落ちませんけど。 ここら辺の映像マジックに、淺雄望監督の「四次元ポケット」が隠れていそうなのだが、もう私には良く分からない部分である。 実はYouTubeには、淺雄監督の初期作品が2編、アップされている。 ・ドキュメンタリー『アイム・ヒア』【東京レインボープライド2018インタビュー&パレード】(2019年、41分) ・セミ・ドキュメンタリー『躍りだすからだ』(2020年、22分) 私は「ミューズは溺れない」を観て、それから上記2作を観て、それから「ミューズは溺れない」をもう1回観た。 色々発見があって面白かったが、上記2作と「ミューズは溺れない」の間には、連続性もあるが、不連続性もある。大きな飛躍があるのだ。ここら辺の事情が、やっぱり良く分からない。 まあ、野暮な詮索は、これ位にしておこう。全ては、淺雄望監督の次回作以降をフォローすれば分かる事なのだから。 (以上)
2022年12月25日
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