「この映画の本質とは?」LOVE LIFE komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
この映画の本質とは?
(完全ネタバレですので鑑賞してからお読み下さい)
この映画の本質とは、ものすごくイジワルな見方をすると
<例え相手がこちらを信頼のおけない裏切りの人物だとしても、助けが必要な人なら、あなたはそれでもその人に手を差し伸べられますか?>
だと思われました。
この映画が後味悪く私達に迫るのは、主人公の大沢妙子(木村文乃さん)が、耳が聞こえず在日韓国人でもある元夫のパク・シンジ(砂田アトムさん)を、同情からで手を差し伸べたのではないか?同情から結婚し子供をもうけたのではないか?の疑問をわき立たせる帰着をするからだと思われました。
大沢妙子の元夫のパク・シンジは、結局は妙子を裏切り父が危篤との嘘をついて、韓国にいる自分の別の元妻の息子の結婚式に出席します。
妙子はその光景を見るという、自らの子供(敬太(嶋田鉄太さん))を失っただけででなく、元夫にも裏切られるという終盤になります。
そこで妙子と観客の私達に突き刺さるのは、妙子は、耳が聞こえず在日韓国人という不遇な境遇のパク・シンジに同情からこれまで付き合ってきたのではないか?という偽善をはぎ取る事実の刃です。
そんな自分を裏切る相手であっても、あなたは援助が必要なその人に福祉の手を差し伸べることが出来ますか?との厳しい問い掛けの映画だと私には思われました。
そして、もちろん、その厳しい問い掛けに「イエスだ」と答える必要があるのだとも私には思われました。
この映画は、人に手を差し伸べる覚悟のリアルな刃を向けているように感じ、だからこそ、個人的には評価ある作品だと思われました。
しかし本当は、この回答は半分は間違っていると思われます。
妙子の元夫のパク・シンジは、韓国に戻るフェリーの前で妙子に、風呂場の事故で死んだ息子の敬太を君は忘れてはダメだと手話で伝えます。
例え、妙子のパク・シンジとの結婚が、彼への同情から出ていたとしても、2人のそこからの関係性と子供の敬太の存在は、同情を超えた確かなものとして存在していたはずだからです。
妙子が最後、パク・シンジを可哀そうな同情すべき自らが作り上げた存在から、相手をだまし卑怯で相手を裏切るどこにでもいる人間だと認識が変わった時に初めて、人間としてのパク・シンジに対峙出来たのだと思われました。
そして、だからこそ、子供の敬太が亡くなった事実が、同情という幻想が排除されることによって、むき出しの喪失感として妙子に迫って来るのだと思われました。
もちろん、こんなイジワルな映画を作らなくても‥とは個人的にも思われましたし、この映画が受け付けられない観客もいるだろうなとも思われました。
なので個人的にも人に勧めたり傑作の評価をするには躊躇も覚えます。
しかし、このどこまでもビターで厳しいまなざしは、どこか人間に対峙した時のシビアな現実を一方で示しているようにも感じ、個人的には評価出来る作品だなと僭越思われました。