LOVE LIFEのレビュー・感想・評価
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オセロのように反転していく人間関係
すごい。驚嘆した。オセロの得意な息子が不慮の事故で死ぬ。プレイしかけのオセロ盤はそのままに団地の部屋に残される。くるくると白黒に反転するオセロが息子の死によって動くことがなくなったと同時に、今度は人間関係がオセロのようにくるくる反転し始める。結婚を認めず主人公につらくあたっていたはずの義父が孫の死で歩み寄り、同性の苦労を知るはずの義母が今度はつらく当たりだす。主人公の元夫がふらりとやってくると、彼を巡って今の夫との関係が反転し始める。夫の方も同僚の元恋人との関係を取り戻そうとするなど、こちらの人間関係にも大きな変化が訪れる。最後に強烈などんでん返しが待ち受ける。
現夫は、手話で会話する主人公と元夫の間に入れない(けれど、カメラは現夫を2人の間に捉えるのが上手い)。2人だけにわかる世界があることを示す。それだけわかりあっている2人と見せて実は何もわかりあっていなかったのだ。
舞台に団地を選んだのが良かった。新たな団地映画の傑作。
“ままならない生”を愛せるか、という問いかけ
深田晃司監督が本作のモチーフにした、矢野顕子の楽曲「LOVE LIFE」。loveを動詞とするなら、「命/人生/暮らしを愛しなさい」という解釈になるだろうか。
映画「LOVE LIFE」は、木村文乃と永山絢斗が演じる妙子・二郎の夫婦を中心に、過去と現在(および、かすかに示唆される近い未来)の人生のままならなさを、少し上から俯瞰するような、見守るでもなくそっと眺めるような映像で描いていく。それは出会いであったり、突然の別れであったり、思いがけない再会であったり。
登場人物らが一様に、物語で描かれがちな“善人”ではない点も興味深い。妙子と、再会した前夫・パクの関係。二郎とかつての交際相手・山崎の関係。子連れで再婚した妙子に対する、二郎の両親の態度や言葉。観客の心をざわつかせる、あるいは逆なでするようなエピソードが頻出するが、人生のままならなさがぎゅっと2時間に凝縮されたようでもある。
建前やきれいごとでなく、そんなままならない自分の人生と、ままならない身近な命(大切な誰か)を、あなたは愛することができますか。流れる矢野顕子の歌とともに、映画がそう問いかけてくるように思えた。
グーでパンチ
登場人物の移ろいやすさには当惑どころか不快感すら抱いてしまう。後部座席で始まる痴話喧嘩、前妻から蹴り喰らう展開はマンガ的。激しく降る雨に揺れる体。わたしバカよね。そんなバカどもを深く愛しむ。
いるようなあ、こういう人たち。
矢野顕子の楽曲「LOVE LIFE 」をモチーフにしたストーリーだそうですが、
どう結びついているんでしょう? 「どんなに離れていても愛することはできる」
「悲しみさえ よろこびに変わる」そんなフレーズが綴られていますが、
この夫婦の愛ではなく、前の夫との愛にも思えるのですが、どうなの?
登場人物は、自分の感情に従って行動する正直な人たちばかり、それを言い換えれば
まわりのことを考えない、自分勝手な人たち。嫌な言い方をすれば、
ダメな人間はダメな人間に惹かれるという、リアルでも見かけるよくあるストーリー。
おもしろい映画だとは思いましたが、出てくる人々はみんな嫌い(笑)
いい気分にはなれませんでした。
何か重い気分になってしまう作品。 義両親との関係があまり良くないの...
何か重い気分になってしまう作品。
義両親との関係があまり良くないのに追い打ちをかけて息子が事故で亡くしてしまう。
そこに失踪していた元旦那が突然戻ってきて今の夫婦生活にも亀裂が入る。
主人公の女性は元旦那を選んだにも関わらず、よく戻って来られたものだ。
心ざわつく深田ミステリー
愛はとても危なっかしいもの。
深田作品を観ていると、それを強烈に感じる。
コツコツと築き上げても、ふとしたひょうしで崩れ去る。
崩れ去ったと思っていたら、ふとしたひょうしで復活する。
予測がつかないから、感情がぶつけあってはじける。
愛にはいつも違和感がつきまとう。
だが、時として血が繫がっているかいないかで、愛を推しはかろうとする。
人間の哀しい性か。
妙子と息子の敬太と再婚した二朗の間にも、その関係は存在する。
二朗の両親のふと漏れ出る言葉に、血の繋がりが一番という価値観が顕わになる。
そこに、息子敬太の突然死、妙子のろうあ者の妙子の前夫の出現で、家族をめぐる愛の行方が混沌としていく。
ミステリー作品ではないのに、登場人物が、愛の在り処をうまく掴めないまま、内なるミステリーを有している。
「淵に立つ」に次いで、深田ミステリーに心ざわつく。
う〜む
敬太の母妙子の人間がわからない。
しっかり者ぽくて気が強く
義理父の言葉にも躊躇なくすぐに反応して
臆せず言い返す。
そんな面と
風呂の湯を抜き忘れ蓋もしない面が合致しない。
もちろん、誰にでもウッカリはあるにしても、不自然。
義理父の誕生日会を部下が来て外からの
あんな祝い方する人いるかな?変。
そもそも上司の誕生日を祝うか!
後半元夫が登場してくるがますます
わからない。なぜあの夫と結婚したのか。
韓国人で聾唖者とどのように知り合ったのか。
妙子の仕事上とこじつけているのか。
元夫に惹かれる要素が無く理解できない。
また、義理両親の空き家を提供するのも
身勝手すぎる。義理両親が気の毒に思えた。
二郎をほっておき、
元夫の後を追い韓国まで行く、って
現実離れ過ぎ、
パスポート持っていたの?
元夫、以前にも妻をほって逃げてる、
どうしようもないヤツ。
帰ると二郎普段と変わりなく。
何を言いたいのかわからない作品だった。
物語を物語りきる勇気の欠如。
夫婦、親、子、職場の複雑な人間関係下で悲惨過ぎる事故が起こる。
複雑さ悲惨さで見る者の感情移入を拒んでどうする。
そうなのね、大変ね、で幕。
どうせ安寧救済は無理と踏んで2時間付き合った感。
この監督の典型たる客に委ねる系の幕切れは、
物語を物語りきる勇気の欠如に見える。
一種のコメディ
むしろそこに陥るほうが難しいと思える状況に陥らせて哀切や情感をつづっていくのが深田晃司監督だと思います。
これもわりとインポッシブルな話だと思います。よこがおはコメディだと思いましたがこれもコメディだと思います。連れ子が不慮の死を遂げるにもかかわらずコメディというのは不謹慎かもしれませんが、矢野顕子のLOVE LIFEからこういう話をつくってしまうほうが不謹慎だと思います。
楽曲はモチーフなんだし、そこからどんな想像を拡げていこうと個人の自由ですが、甘いソフトな歌に、実は暗い悲しみが込められていると言いたい根性がイヤです。
淵に立つだって、そんな突拍子もない話ありますか──という話であって、なんでみんな揃いも揃って闇や奇禍へ落ちて行かなきゃならんのでしょう。
よこがおにしたって、レビューにわたしは──
『わたしの勘違いでなければ、この映画は、事件と甥のズボンを下ろしたという日常会話を伏線させ、モラトリアムな基子に、甥のちんちんにいたずらをした──と報道されてしまった叔母さんが、それを期に社会から爪弾きにされる話である。
火の無い所に煙は立たぬ──とは言うが、悲劇がないところに力技で悲劇をつくり出している。
しかも息子じゃなくて、甥だよね?なんか勘違いしているのかな。甥のわいせつに、しかも未遂に、なぜ叔母が、芸能人の不倫かと思えるほど多勢の報道から追いかけ回されるのか──解らない。
筋だけならコメディといって差し支えない──と思った。』
──と書いてますが「悲劇がないところに力技で悲劇をつくり出して」からの、あたしゃ虐げられた者ですよアピールたっぷりの叙情描写がイヤです。
星里もちるの本気のしるしにしたって、まるで深田晃司監督が書いたみたいな話で、深田晃司がそれを監督するのは合理だったと思うのです。
悲劇を描くのがダメと言いたいのではなく悲劇がないところに力技で悲劇をつくり出す手法に“作りもの”を感じてしまうわけです。
この映画でも、妙子(木村文乃)はわたしやっぱりあのひと一人にできないとか言ってパクについて韓国へ行ってしまいます。あほかおまえ。むろん役者さんたちに罪はないのですが。なんかこういうわざとらしさとあざとさのある悲劇をまじめな顔でやられているのがやっぱコメディだと思うのです。それだし田口トモロヲが演じている60代の男性にプラカードでサプライズするもんですかねえ。なんなんこのひとたち──という描写が諸処にあってやっぱコメディだと思うのです。
これがコメディではないというなら深刻ぶっていると思うのです。河瀬直美もそうです。すべての創作って、なにかからインスパイアされているわけでしょ。したがって深田晃司が矢野顕子のLOVE LIFEが好き──だからなんなのよって話。
クリエイター自身が深刻ぶるんじゃなくて、是枝裕和や濱田竜介みたいに技量や台本でペーソスを創り出すのが正道で、それが「ある視点」とパルムドールの違いだと思います。
愛の本質
2023年度のGUARDIANSベストムービーにランキングされている邦画(実写)は、是枝裕和監督『怪物』と深田晃司監督の本作だけである。♪どんなに離れていても 愛することはできる♪これまた懐かしい矢野顕子の同名タイトルソング『LOVE LIFE』に触発され書き上げたオリジナルのシナリオだそうだ。深田といえは、カンヌの批評家からは“怒りの監督”というイメージを植えつけられているようだが、本作については非常にエモーショナルでありながら乾いた作品に仕上がっている。
監督インタビューによると「人間はひとりでも愛することができるのか」というテーマに従って作られているという。木村文乃演じるタエコの姑の台詞「(結婚して夫や子供がいても)みんな一緒に死ねるわけじゃないのよ」。考えてみれば生まれる時も死ぬ時も人間はひとりぼっちなわけで、死ぬ時に誰かが側にいてくれるなんて状況の方がむしろ例外的なのではないか。そんな死の瞬間に限らずとも、生きている間も「人間はひとりである」と深田監督はどうも考えているようなのである。
団地の別棟に両親が住んでいるジロウ(永山絢斗)とタエコの夫婦には連れ子敬太がいる。そのタエコは、結婚をジロウの父親に認めてもらうまで敬太を養子に入れないと心に決めていた。両親を自宅に招いたパーティの最中敬太が事故死してしまったことから、登場人物それぞれの“おひとりさま”ぶりが様々な形で表出していく非常に技巧的なシナリオになっている。自宅と両親宅の微妙な距離感、敬太が死んでも涙を流せなかった夫のジロウと自責に苛まれるタエコとの心理的隔たり、敬太の死を新聞で知って現れた元夫は聾唖の韓国人だった。
深田は登場人物の間に様々な楔をうちこんで、人間関係の分断を演出していくのである。息子の葬儀に突然現れた元夫がタエコの頬を思い切り叩きタエコが泣き崩れる場面、そして元夫の帰国に同行したタエコが雨の中一人で気の抜けたオッパーダンス?を繰り広げる場面が印象的だ。「私が助けてあげなきゃダメなの」と勝手に思い込んでいたタエコの信念が脆くも崩れ去っていく、とても映画的なシーンといってもよいだろう。敬太のことをけっして忘れるなといったその人が、真っ先に忘れようとしていたのだから。
息子を殺したという自責の念にかられるタエコ、息子の死を既成事実として受け入れるなと言い残した元夫、ノコノコとまた自宅に舞い戻ってきたタエコに何も聞かずに「おかえり」とだけ声をかけるジロウ。元来ひとりぼっちである人間たちが孤独であることを忘れ片時自分についた“嘘”だったとしても、やはりそれは“愛”と呼ぶにふさわしい感情だったのではないだろうか。いやむしろ、それこそが“愛”の本質ではないのか。そんな深田監督の問は、個人主義の発達した欧米人の心に刺さったようなのである。
良作
みなとシネマフェスタにて。作品についてあまり知らなかったのですが、かなりの良作でした。これは掘り出し物!複雑な感情が見事に描かれています。
鑑賞中は登場人物達の行動にイラつき「なぜ?」の連続、見終わった後にはザラリとした印象が残ります。
バリアフリー上映素晴らしい!沢山の人に良作を味わってほしい。。
人生、山あり谷あり
愚かな行動をして、人を傷つける言葉を吐く。
それが人間です。
心が波立ち、ザワザワして、イライラする映画でした。
が、余韻は残る、そして後味も良かったです。
深田監督は矢野顕子の「LOVE LIFE」から発想したと聞きます。
「どんなに離れていても、愛することはできる。
「もうなにも欲しがりませんから、そばに居てね。
「ほほえみくれなくてもいい、でも生きていてね、ともに。」
発想から遠くへ発展したのかな?
子連れで再婚した妙子と初婚の二郎。
二郎の両親ははじめ反対したが押し切る形で結婚式を挙げて、
3人(6歳の啓太と、)は仲良く暮らしていた。
義父の誕生日の日、啓太は風呂場に落下して溺れて死ぬ。
啓太のいない夫婦はギクシャクしていきます。
二郎は悲しいことは悲しいけれど、妙子と抱き合い共に
泣くことは出来なかった。
後になって、
「早く2人の子供を持とう」
そう思った自分を人で無しだと思った・・・。
そう言う。
義父の何気なく発した「中古」
啓太の遺体の安置を、
「私の思い出の家だから嫌」と拒む義母。
葬儀では4年も蒸発していた妙子(木村文乃)の元夫のパク
(砂田アトム)が現れて、イキナリ妙子を殴りつける。
パクは韓国籍の韓国人で聾唖者だ。
(何故、韓国人でしかも聾唖者?)
この設定は後に韓国へ渡るラストで意味が分かる。
(実際にパクを演じている砂田アトムは聾唖者の俳優です)
パクは生活困窮者で生活保護の申請に二郎(永山絢斗)
の役所に現れる。
そこでの手話通訳を妙子が手伝うことになる。
「放っておけない」「私がついていないと・・」
妙子は夫の留守の自宅にパクを上げて泊める。
入浴しながら、
「殴ってくれて良かった。お風呂の水を抜かなかった私を
「叱ってくれたんだね」
妙子とパクには絆があると知れるシーン。
(入浴シーンは不要と思うが、お風呂場が必要だったのかな?)
妙子と二郎の住む団地の真向かいに、二郎の両親が転居した団地が
向かい合って建っている。
妙子とパクが仲良く洗濯物を干し、ふざけたパクはシーツを被る。
はしゃぐ2人。
それを向かいの団地から二郎が目撃する。
血相を変えて駆け込む二郎。
(妙子も無防備過ぎる。衆人環視なのに・・)
パクに電報が来る。
「父親危篤の報せ」だった。
パクは二郎から旅費を借りてフェリーに向かう。
送る二郎の車を降りて、パクは手話で妙子に話す。
「啓太の死の悲しみから、立ち直らなくてもいい」
「いつまでも、いつまでも悲しんで忘れないで、絶対に!!」
泣かせる台詞で私も凄く感動したのだけれど、
ここからがコメディ。
パクの息子の結婚式からの顛末は詳しく書きませんが、
2度も妻子を捨てていたパク。
ラストに向かい監督はよくもこう大きく舵を切ったものです。
この振り幅の大きさが深田監督の腕前なのでしょうね。
パクの明るさに救われる。
観ている私もすっかり心が軽くなるラストでした。
雑さもあるがセンスが光る
2022年劇場鑑賞65本目 秀作 68点
予告からしっとりした人間ドラマ感が伝わり結構楽しみにしていた作品
振り返ってみると一番印象的だったのは、夫婦役の二人の会話の無い空白が凄く素敵で、それがお互い冷め切っているからなのか、木村文乃が元旦那をまだ想っているからなのか、永山絢斗がそれに耐え切れず若い子に言い寄られ揺らぎ不倫してしまったからなのか、亡き息子に思いを馳せて時が止まってしまっているからなのか、どれも正解だからこそ全シーンの空白が凄く自然で、観客に想像力で解釈を促すのが素晴らしい。
昨今若者が配信等でセリフがないシーンはスキップしたり劇場では2時間耐えきれないなど、映画を冒涜している風潮が満映しており、それに伴い才能ある監督でも商業的に売れないと、監督としての生命線が途絶えてしまうので、時代に順応すべくセリフ過多で表現が一辺倒な作品が増えています。当方まだ二十台前半で、比較的若い方ですが、昨今の作品作りで排出された興行映画が表現がわかりやすすぎて胃もたれしてしまい好みが極端に分かれてしまいますが、今作は観客をある程度限定にし、伝わる人には伝わる表現がされていて、凄く好みでした。
是非
人間それぞれで結局自分で前に進まなきゃ。
女は雨に立ち尽くていた。
韓国という異国で。
あるモノをなくして、あるモノを取り戻そうとして、
あるヒトを手放して、あるヒトを救おうとして、
信仰みたいなものを抱いて自惚れもして。
そして、時に、自分を嘲笑うように、異国で。
愛という感情もそれにまつわる葛藤も、たくさん。
不意に振り返ってみたら、全てが独り言。
人生は自分で選んで進むもの。それだけが寂しみであり、唯一の救いでもある。
『ドライブ・マイ・カー』と共通しているところもある
昨年9月のベネチア国際映画祭でノミネートされ、NHKニュースや『ハートネットTV』"#ろうなん"という番組での取り上げられ方は、当事者俳優が演じたことを強調していた。本作を観てみると、その俳優は主役ではなく、途中から出演し、主役たちの生活に波風を起こす役割を果たしていた。主演の二人は、役所の福祉課と別棟の社協のようなホームレス支援事業を担当している部署に勤務していた。エンドクレジットによると、抱樸の協力を受けているという。妻は連れ子と夫にきかれたくない内緒話を手話で行っていた。妻は夫の両親から認められておらず、息子の事故死にも感情的に拒否を受ける面があった。警察でも虐待死を疑われる面があった。妻の元夫が突然現れたが、韓国手話を使うため、コミュニケーションを取れる者が妻しかおらず、現夫も理解を示す。そのうち妻は現夫に内緒で元夫を守らなければならないと思い込むようになってしまい、韓国に帰ると言い出した元夫についていく。現夫は元夫に背を向けたまま、妻が元夫のことを心配して探し回る活動をしてきたかを説明するが、元夫にはきこえていないというコミュニケーション断絶が表現されていた。釜山行きフェリーが発着する町という設定なのだろうか。しかし、韓国に行ってみると、元夫には家族がいて、妻が付き添う必要性はなかった。韓国手話が多様なコミュニケーションの一つとして使われ、登場人物が韓国に行ってしまうという展開は、確かに『ドライブ・マイ・カー』と共通していると思った。事後に監督の深田晃司氏とアナウンサーの笠井信輔氏のトークがあり、出発点は、深田氏が20代のときに矢野顕子氏作の同名の歌を知ったときに構想をもちながら、中途で保留しておき、近年『淵に立つ』を制作したことから本作脚本の展開を考え、主演二人をオファーしてから、二人と違う言語を使う人物としてろう者に行き当たり、障がい者が出演することの必然性や当事者の考え方を取材してつくりあげていったという。笠井氏は、木村氏の気の強さの表れる場面を評価し、本人に取材して、出産後、映画での子を失うショックよりも、生まれてきた子を大事にしたいという、まさに歌詞の表すような心情を書いてくれたことを報告していた。
覗き込むカメラワークが語りかけてくる
目黒の家族特集で鑑賞。
幸せな雰囲気から一転、二転、三転としていく。
夫婦、親子関係を通じて、血のつながり、人は何に惹かれるのか、何を選択するのか、自分の境遇と重ね合わせて考えられる。
たぶんそれぞれの人生のステージで感じることも違ってくる。映画のタイトルの通り。
カメラワークがとてもよかった。
遠目なアングルからの俯瞰、窓の外、のれんのこっち側など、感情移入というより、ある家族を覗き見している感覚になる。
さらに、冒頭のサプライズの画角を出すことで自然とその視点になるのも上手い。
一見ドロドロな関係になるところに、主題歌の矢野顕子の優しい曲が包み込み、なんとも不思議な感覚になる。
聾唖の人に対して背を向けて話すシーン
結婚式のなんとも言えないシーン
など、印象に残る演出も多い。
飽きない展開、カメラワーク、そして観た後、決してスッキリはしないが考えさせられるとてもいい映画だった。
2023年劇場鑑賞10本目
この映画の本質とは?
(完全ネタバレですので鑑賞してからお読み下さい)
この映画の本質とは、ものすごくイジワルな見方をすると
<例え相手がこちらを信頼のおけない裏切りの人物だとしても、助けが必要な人なら、あなたはそれでもその人に手を差し伸べられますか?>
だと思われました。
この映画が後味悪く私達に迫るのは、主人公の大沢妙子(木村文乃さん)が、耳が聞こえず在日韓国人でもある元夫のパク・シンジ(砂田アトムさん)を、同情からで手を差し伸べたのではないか?同情から結婚し子供をもうけたのではないか?の疑問をわき立たせる帰着をするからだと思われました。
大沢妙子の元夫のパク・シンジは、結局は妙子を裏切り父が危篤との嘘をついて、韓国にいる自分の別の元妻の息子の結婚式に出席します。
妙子はその光景を見るという、自らの子供(敬太(嶋田鉄太さん))を失っただけででなく、元夫にも裏切られるという終盤になります。
そこで妙子と観客の私達に突き刺さるのは、妙子は、耳が聞こえず在日韓国人という不遇な境遇のパク・シンジに同情からこれまで付き合ってきたのではないか?という偽善をはぎ取る事実の刃です。
そんな自分を裏切る相手であっても、あなたは援助が必要なその人に福祉の手を差し伸べることが出来ますか?との厳しい問い掛けの映画だと私には思われました。
そして、もちろん、その厳しい問い掛けに「イエスだ」と答える必要があるのだとも私には思われました。
この映画は、人に手を差し伸べる覚悟のリアルな刃を向けているように感じ、だからこそ、個人的には評価ある作品だと思われました。
しかし本当は、この回答は半分は間違っていると思われます。
妙子の元夫のパク・シンジは、韓国に戻るフェリーの前で妙子に、風呂場の事故で死んだ息子の敬太を君は忘れてはダメだと手話で伝えます。
例え、妙子のパク・シンジとの結婚が、彼への同情から出ていたとしても、2人のそこからの関係性と子供の敬太の存在は、同情を超えた確かなものとして存在していたはずだからです。
妙子が最後、パク・シンジを可哀そうな同情すべき自らが作り上げた存在から、相手をだまし卑怯で相手を裏切るどこにでもいる人間だと認識が変わった時に初めて、人間としてのパク・シンジに対峙出来たのだと思われました。
そして、だからこそ、子供の敬太が亡くなった事実が、同情という幻想が排除されることによって、むき出しの喪失感として妙子に迫って来るのだと思われました。
もちろん、こんなイジワルな映画を作らなくても‥とは個人的にも思われましたし、この映画が受け付けられない観客もいるだろうなとも思われました。
なので個人的にも人に勧めたり傑作の評価をするには躊躇も覚えます。
しかし、このどこまでもビターで厳しいまなざしは、どこか人間に対峙した時のシビアな現実を一方で示しているようにも感じ、個人的には評価出来る作品だなと僭越思われました。
愛し、愛され、振り、振られ
私が観た深田晃司監督の中では、ひょっとしたら一番面白い作品だったかも知れません。
深田監督作品ではいつものことなのですが、登場人物の誰にも自分との共通性を見つけられないし感情移入もしないのだけど「ああ~、こういう人いる」という感じは常にあります。
本作の主人公夫婦などはどちらも公務員であり、世間的には優秀に思える(見える)人達なのに、(これも当たり前だけど)何か人間として完璧さからは程遠く欠点も多く垣間見える人達であり(それは全ての登場人物も同様)、その大きな原因として大なり小なりそれぞれの“後ろめたさ”を隠し持ちながら生きている部分にあり、本作ではある事件でそれが明らかになった人達の後始末の物語でした。
隠していたものが表出することにより人間はどう進むべきか?という、どんな人間にも当てはまる結構大きなテーマを扱った作品だったと思います。
まあ人間、嘘や隠し事のない人なんていないとは思うけど、大切だと思える人には重要なことは知っておいて貰う方が良いのでしょう。それが中々出来ないからこそ、星の数ほどドラマが生まれるのでしょうけどね。
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