PLAN 75のレビュー・感想・評価
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焦燥感と行き場のない怒りで心が痛い。
合理的に考えると行き着く先はこうなんだろう。 携帯の勧誘のような「PLAN75」の販促と受付ブース。職員が顔色ひとつ変えず淡々と受付手続きを進める姿が恐ろしい。「貰える10万円は葬式費用に回される方もおられますよ~。」まるで旅行のプランニングや住宅ローンの説明のようだ。 藤子・F・不二雄の『SF・異色短編(1)』に出てくる 「定年退食」と「間引き」という2つの短編がオーバーラップした。「定年退食」では“定員法”というものが制定され73歳以上は年金や医療など国家による一切の保障が打ち切られる。「間引き」では人口爆発による食糧難で“カロリー保険”という早く死亡するほど遺族に食券が多く配布される商品が発売される。 NKHスペシャルの「終の住処はどこに~老人漂流社会~」には、1カ月毎に施設をたらい回しされる高齢者の現状があった。安心して居ることのできる場所がない。「定住できる安心感。心ある人が見守ってくれている安心感。これが最低限度の尊厳だがこれが損なわれている。」と専門家は言う。若いころは運送屋を営みバリバリ働いてきた老人が「家族とご飯を食べたい」と涙を流す。なぜ最後にこんな仕打ちを受けなければならないのか。 ボーヴォワールの『老い』も再読した。 ・この社会は彼らに「かつかつの余命」をあたえるだけで、それ以上は何も与えない。 ・独り暮らしの老人は「悪い健康と窮乏と孤独という三重の悪循環」に陥る。 ・老年の悲劇は、人間を毀損する。この人生のシステムはその構成員の圧倒的多数者にいかなる生存理由(いきがい)も与えない。 角谷ミチ(倍賞千恵子)の住まいが一人で暮らす私の母の住まいに酷似していた。 「団地」「台所の瞬間湯沸かし器」「布巾を多用」「藤の間仕切り」「コードのある昔ながらの電話機」「観葉植物」、、、。物は多いが小綺麗で慎ましやかできちっとしている。このぐらいの年代の女性ってこんな感じが多い気がする。こういう人たちの尊厳が脅かされる世の中だけは見たくない。 PLAN75の受付をしていた市役所の青年、申込者がその日を迎えるまで話し相手になるオペレーターの若い女性、安楽死した人の遺留品を処分する仕事に従事する外国人の女性。。 救いはこの3人の若者が最後に見せた人間的な涙。そこには確かに血が通っていた。 そしてもうひとつの救いは、最後の場面で丘からの風景をみていたミチがその場を去る時に見せた毅然とした横顔。 映画的にどうというより、大きな衝撃と問題を与えた点で重要な作品である。 明日は敬老の日、、、。
生死の選択をめぐる「ざわつき」
75歳に達すると自分の死を選択できる制度、「プラン75」。コロナの日々でワクチン接種や治療の優先順位を示されるようになり、命をランク付けをするようなこの制度も、妙な現実味を帯びている。冒頭、高齢者を襲った男は「国のために死ぬ考えは、この国ではきっと受け入れられる」と遺書を残す。「プラン75」のPR動画に登場する女性は「生まれてくるときは選べない。だから、死ぬときくらいは自分で選びたいの」と微笑み、PRは「次の未来のために」というコピーで締めくくられる。では、この制度を志願する人々の実際は、一体どうなのか。 ホテルの清掃係として働くミチは、つつましくも穏やかな生活を重ねていた。黙々と働き、同年代の同僚と他愛もないおしゃべりを楽しみ、時には歌う。ある日、同僚のひとりが職場で倒れたことで、彼女の生活は一変する。彼女たちは解雇され、途端に生活に行き詰まる。職探しや転居もままならない。ためらってきた生活保護受給さえハードルが高いと感じたミチは、とうとうプラン75の選択に至る。 本作には、モデルケースとなるミチを軸に、窓口担当として働くヒロムとその叔父、ミチを担当するオペレーターの瑤子、関連施設で働き始める、フィリピンに病気の娘を残してきた元介護士•マリアが、主要人物として登場する。けれども、ミチと瑤子、ヒロムと叔父以外は、ほとんど接点を持たない。それぞれに「ざわつき」を感じながらも、声を挙げることはなく、黙々とプラン75に携わっている。観客だけが、それぞれの「ざわつき」と、彼らのすれ違いを垣間見ることができるのだ。 本作の持ち味は「ざわつき」。冒頭ゆっくりと流れるピアノから、美しいけれどどこか不吉で、気が許せない。そして、繰り返し現れるミチの常に張り詰めた表情、内実を知ったヒロムのためらいと驚き、職場の会話を立ち聞きした瑤子の沈黙、高収入の仕事の「中身」を知ったマリアの静かな動揺。美しく整然としているゆえの違和感が、じわりじわりと描かれていく。 さらには、プラン75が、あくまで本人の選択で、10万円の支度金が支給され、合同葬であれば費用が掛からない、といった(一見)完璧な至れり尽くせりのサービスであることも、「何かがおかしい」と心がざわつく。「今、(本当は)何が起きているのか」、「彼らは(内心は)どう感じているのか」を感じ取ろうと、流れに身を任さず、ふと立ち止まりたくなっていく。カギとなる「何か」を見逃さないよう、聞き逃さないよう、心のアンテナを高く伸ばす。そのような「静かな牽引力」が、本作には満ちていた。 ミチが最後に見た光は、きっと、それぞれの場所にいる彼らにも、静かに降り注いだはず。「生まれてくるときは選べない。そのかわり、「死なない」で「生きる」ことを、人は日々選択している」と、自分なりの結論に至り、2時間弱の旅をひとまず終えることができた。
設定と演出とキャスティングの妙
勿論、間近に迫る日本の近未来を見据えた視点には震えるものがある。75歳を過ぎると自ら生死を取捨選択できる制度が導入された社会というのは、実際、年金制度の見直しが決定したこの国では、すでに近未来ではないからだ。 しかし、本作のリアルはより細部に宿る。ある日突然、高齢を理由に解雇された78歳のヒロインが、役所に出向いて『まだ、働きたい』と申し出ても、担当者は年齢を理由に彼女の意向を遮断してしまうシーンには、行政の冷酷さと、まだ生かせる労働力を適切に社会に還元できない政治の対応力の遅さがあからさまなのだ。そういう意味で『PLAN 75』がいかに短絡的な制度かがよく分かる。 細部がリアルなのは、演技者たちのスキルに負うところも大きい。政治への疑問や不満を声高に訴えられず、未来へのわずかな希望に縋って生きる主人公は、これまで、庶民の喜びと悲しみを映画を介して代弁して来た倍賞千恵子ならではの役どころだし、『PALN 75』の申請窓口で働く青年を演じる磯村勇斗の、老人たちに対する優しい目線には、思わず引き込まれるものがある。 すぐそこまで来ている厳しい現実が、俳優たちの魅力によってより身近なものに思える。本作の高評価は監督の演出力とキャスティングによるものだと思う。
想像と解釈を喚起する「余白」の巧みさ
これは、少子高齢化のような“正答”のない難題に直面したとき、誰もリスクと責任を取って解決にあたろうとせず、ひたすら先延ばしにしようとする日本的なメンタリティへの静かな抗議ではないか。本作を観ながらそんな風に思っていたのだが、鑑賞後に資料を読むと、早川千絵監督の意図は違うところにあったようだ。本作を着想するきっかけのひとつに、2016年に相模原で起きた障害者施設殺傷事件があり、「人の命を生産性で語り、社会の役に立たない人間は生きている価値がないとする考え方」への危機感が、映画を作る原動力になったとしている。 とはいえ、75歳以上が自ら生死を選択できる制度が施行されている近未来の日本を舞台にした本作は、特定の意見や主義主張を明示する映画ではない。登場人物らの苦悩や心の触れ合いを描いているが、彼らに思いのすべてを語らせるのではなく、観客のさまざまな想像や解釈を喚起する“余白”が大いにある。1983年のカンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作「楢山節考」で描かれた姥(うば)捨ての風習を想起する人もいれば、スイスやオランダなど一部の国で合法化されている安楽死と関連付ける人もいるだろう。この国では安楽死について口にすることさえタブーのような空気があるが、本作をきっかけに議論が活発化するなら良いことだと思う。 本作の主演に倍賞千恵子をキャスティングした点にも感心させられた。当たり役は「男はつらいよ」シリーズでの寅次郎の妹“さくら”であり、高度成長期に日本の国花の役名で知られた女優が、本作では衰退する日本、“日(ひ)没する国”を象徴するようなミチを演じているのだ。このアイロニカルな巡り合わせに思いをはせる観客も多いのではないか。
終活を考える
75歳以上の人は健康な人であっても、安楽死を選択できるという制度「PLAN75」。国も積極的に広報活動を行い、推奨しているという架空の社会を描いた話。 未来に希望が持てない毎日を送っている老人にとっては、利用したくなる気持ちも分からなくはない。 PLAN75に関わり、恩恵を受けている側のヒロムやコールセンタースタッフの瑶子、マリア。でも心のどこかでこの制度に疑問を抱いている。しかし、思ったところで社会は何も変わらない。最後にヒロムがおじさんのために行動を起こすシーンで、少し救われたような気持ちになった。 賠償千恵子がおばあさん役を若造りなど全くすることなく演じているのが印象的。美しくて上品で、80を超えていまだ主演をはることのできる人はなかなかいない。
これ、おもしろいの?
75歳になったらそのあとも生きるか、そこで人生を閉じるかを個人で決めていい。政府がきちんと面倒みますよ…と、そういう受け止めでいいのかな? ならぱ、趣旨はわからんでもないし、長生きを望まない人もいる。高齢化社会の防止にもいくらかは役に立つかもしれない。 でもねぇ…。 映画にメリハリなくってね。 淡淡淡淡と、風景描写が続くようで、誰かが退屈だって書いてたけど、アタシもそう思いましたね。
悲しい現実…
75歳になったら死を選べる制度と聞いて、「ギヴァー 記憶を注ぐ者」や「ミッドサマー」が思い浮かんだけど、この2つは選ぶのではなくてある年齢になったら強制的にあちらの世界に行かなくてはならない。 もしこの制度が本当になったら、同調圧力がなくともこのプランを選ぶ人は多そうだと思った。 こういう作品はわりと好きです。
おばあさんが今後どうなってしまうのか気が気ではない
作品自体のテーマに意見を投げかける構成・締め方ではなかったためストーリーにはあまり入り込めなかったが、社会的に示唆に富んでいる公開の意義のある作品でした。個人的には75でも長いのだけれど、PLAN 70くらいの制度が実際にあってくれないかなあ。
高齢になったら社会を支えて生きてきたご褒美に安らかに
75歳を超えたら自分の末路を決めることができ、10万円をもらって安楽死する。高齢化社会に国の施策が、ほんとにこうなりそうな気にさえもする。 サラリーマンなら60歳を近づくと定年後を身近に考えると思う。第一線を退いた後、社会では役割をなくし、厄介者になるのか。。。 それは悲しいことだ。それまでの社会を築いた人たちのおかげで今の私たちがいる。 全国の橋や道路を作って来たというおじいさん、当然いるわけです。 高齢になったら、それまで社会を支えて生きてきたご褒美に、すべての人が安らかに過ごせるような、そんな社会にして行きたいと、何かできる事はないかと、思いました。
ありえそうな未来
私自身も中年真っ盛りのため、老後のことを考えさせられた作品です。 老人に生死を選ばせるという、現実にありえそうな政策でした。安楽死ですら賛否がある中、この政策が可決されることはなかなかハードルは高いと思えますが、ただ意味もなく生き続けていいものかどうか等、難しい難題だなと感じました。
考えが変わる映画
「PLAN75?希望者のみなのね。だったら何も問題ないよね、賛成賛成」と思って映画を見ました。 もともと私は氷河期世代としての恨みつらみが強く、高齢者優遇政策に反対派です。 強制75なら問題ありだけど、希望者75なら、何が問題?ぐらいの気持ちでした。 そんな私が 見終わると「PLAN75には反対!」と、考えが変わりました。 このように自分の考えが視聴前後で変わる映画は初めてです。すごい映画です。 もともとこういう何の説明もなく、淡々とした話は苦手です。 それなのに! 「これはこういうことかあ~」という、「説明なくとも分かる」シーンが多くて、リアリティーがあって、怖い怖い! 主人公の孤独感、炊き出しの所PLAN75の案内、もらえる10万円、テレビニュースではPLAN65にするか議論開始、産業廃棄物処理場… 特に孤独感が怖くて。 これを見た人はきっと、結婚したり友人増やしたりしようって思うんじゃないでしょうか。 人付き合いが煩わしいと思ってる若い人に見てもらうと婚姻率が上がるのでは、少子化に効果あるのでは、とすら思います。
生きることと死ぬことについての内省の中で
正直、「PLAN75」を観たのはかなり前で、実を言うと未だに何を書こうか迷っている。 誰もが迎える可能性のある「一人で死ぬこと」について思うこともあれば、「一人で生きていくこと」について考えずにはいられない部分もある。 誰だっていずれは死ぬ。歳をとればとるほどその事実は確実に自分ごとになり、逃れられない未来の出来事に対し、自分なりに受け入れ、折り合いをつけながら、先に旅立っていった人たちの人生を噛みしめる。 大人になってから随分経ったからか、いつか自分が死ぬことについて、恐怖よりも忌避感よりも、諦念とも違う、もっと身近で当たり前のような、「風邪をひいたら熱が出る」、に近い感覚で「死」を感じるようになった。 それでもやはり、自らどこまで続くか分からない「生」を手放す気にはなれないと思う。良い死に方がしたい、それは「キレイな幕引き」のことではなく、「満足するまで生きたい」と同義だ。自分の肉体が限界を迎えていないのに、精神のエゴで自らに幕引きなどしたくない。 そういう意味で、もし現実にこの映画同様の法案が成立していたら、私はこう思うだろう。 「生き辛い時代になったな」と。 この映画では、初めて身近な存在の死を思う若者たちの姿も描く。若い頃私が感じたような、見知らぬ老いた人間の記号的な「死」ではない、自分が言葉を交わしたり、人柄に触れたり、その人の人生を垣間見たりした人の「現実に訪れようとする死」が眼前に迫ってくる、悲しさと淋しさと恐ろしさ。 高齢になって、たった一人で、つましい毎日を過ごすことは誰にでも訪れる可能性があるのに、自分も当事者なのだと感じられない。うまく想像できないから、今その状況の人々を数字や記号でしか捉えられない。それが形になって襲いかかってきたとき、どうしようもなく、ただ生きていてほしいと願わずにはいられない。 いつか見知らぬ誰かが消えるのではなく、今目の前に存在している人にもう二度と会えない、それが死なのだという衝撃が、「PLAN75」の若者たちにはある。 それはもしかしたら、現代の社会構造が近しい人を亡くす経験自体を少なくしていることの現れなのかもしれない。 見送る側と見送られる側、その両端から描かれる「生きること・死ぬこと」についての思いの中で、自分の死生観を見つめ直す。それが出来る映画はなかなか無い。
ディストピア
映画。と言えばわかりやすいが 大切な問題提供を行う映画。だと表現したら人はどう思うのだろうか? 死は国籍人種出自実績地位に関わらず等しく訪れる イベントである。この死の捉え方が歪んだ時代に生きると こう言う世界観に引き込まれるのだろうと思った。 つまりなにを言いたいかと言うと 死は決してネガティブで陰な世界に留まる出来事ではなく ある人にとっては最高の機会。改変ポイントであると言うことでもあるのだが、その死すら遠のき、生のみが幸福とされる実世界に縛られて囚われる事態に、実世界の不幸と救われなさ。を感じずにはいられない◎ と言う、それこそがディストピアそのものである。と言う 事実に、現代実世界に生きる人のどれだけが気づいているのか?と言うことだろう。 僕は一度死に接して死にきれなかった部類の人間である。 それ故に、自然な死に憧れ恋焦がれる毎日を過ごしているのだ。
PLAN75
冒頭のシーンに劇中どこからリンクするのだろう?と待っていたけど、なるほど「あの事件」のことかも?と思った私は正確だった。 全体的にカンヌで評価されやすい日本作品という感じ。暗くて辛そうで静かで人間味ある。 だけどね、劇場公開時ではなくNetflix配信で2024年に観たので磯村勇斗や河合優実が出てきた時点で「不適切にもほどがある」が脳裏をよぎりそこかしこに阿部サダヲを探してしまた。彼が出演していたらもっと違う作品になったかもね。あ、関係ない?そうね、でもこんな想像できるってやっぱ生きてるからこそ!死ぬまで楽しく生きていたいな。こころは自由だから。
自分なら…と思いながら観る
答えはなく、色々と考えたり 共感したり もし自分ならと想像する ただそれだけ まあ観てよかったとは思う 人に勧めるほどではないかな 河合優実ちゃんの電話のシーンはホロリでした
丁寧すぎる描写
日本を知らない外国人に見せるためにはこれくらい丁寧に描いた方がいいのかもしれないが、日本人の私はすでに知っている現実社会なので、冒頭で長々と描写されて、ちょっと辟易とした。最初の13分なんて1分でまとめられるし、そのあとも省いて、早めに核心に触れてこちらの興味を引いてほしかった。ifの世界の話なのだから。 ちなみに私は高齢者、同じぐらいの年齢の方で長生きしたいという人にまだで会ったことがない。みんな口を揃えて、長生きなんてしたくない、日本でも早く安楽死が認められるといいねと言っている。私もどんどん老化していく体で長生きは嫌だなあ。女優さんみたいにメンテナンスが行き届いていればいいんだろうけどね。
国会の決議はあなた個人の決意?
実は有料配信を全く持っていないので、この映画が見たくても全くチャンスがなかった。しかし、チャンス到来。友達である、フランス語の教師が一緒に観ようと誘ってくれた。映画の最初からプラン75が「国会」で可決されたと。私は「閣議」じゃないんだねと心の中で思った。その時、友達が、『国家のために死ぬことを誇りにしている』と。だから、プラン75はその一環だと?国家のために死ぬこと?えええ!!!なんだそれと内心思った。そしたら友達は 「世界ではそう知られえている』と。そして、神風特攻隊や会社員の自殺など例にとって、私を納得させようとした。 若者が死ぬのはなぜだ?世界からも注目されている、政府のご都合主義に従う「従順な」国民? 政府の言いなりになって自分を見失っている? 国会の決議はあなた個人の決意? 友達はまた、先進国では若者の出産率が低いから、高齢者はこうなっていくんだよと。 昔の姥捨山だね。楢山節考」(今村昌平監督)を思い出したよ。でも、楢山節考」(今村昌平監督)には親子の愛があったよね。 「子供がいたって寂しいもんだ。」といって自殺をした高齢者がいるが、自分の寂しさを子供の言動行動と比べるのはもってのほかだねと思った。時々、子供がいるから幸せねと言う人がいるが、私の存在意義は子供のあるなしと関係ないと思う。関係あれば、皆さんが子供を生もうとすると思うよ。人との比較や人の恩恵で自分がどうなるか決めるのはちょっと理解し難いねえ。自分をまず見つめて分析してほしいね。 主役(倍賞千恵子)が生活保護をもらいに行きたくても躊躇っているシーンはジーンと来たね。また、その彼女の躊躇いを知ってか、いっぱいのうどんを持ってくれる人がいることも。主役のような人に生活保護を与えなきゃ誰に与えるのと思うが、本人が躊躇する。でも、身寄りがないなら、誰にも遠慮しないで生活保護がもらえると思えるが....彼女自身が許さない。 結局時間がなくて、全部見ることができなかったが、友達は全部見たようだ。彼女に、「75歳以上になって、プラン75を使う」と聞いてみた。 返事は「健康じゃなかったらそう思うと、でも健康だったらノー」と答えた。 彼女は62歳で独身で、まだ現役の先生だし、収入は無くなっても、年金は月に40万はあるだろうし、それに、確定拠出年金もあり、子供は独立して親とは住んでいないが、交流しているし.....精神的にも安定しているようだし.....健康、収入面ではプラン75を使おうとは思わないが、高齢化によって不健康になったら、考えると言うことだと思う。しかし、この世は彼女のように恵まれた環境の人ばかりではない。社会には、この映画に出たような立場の高齢者が存在するのだ。この高齢者はお荷物になったから少子高齢化対策として、国がプラン75を実施するという世の中では困る。コロナワクチンの接種で世界に『呉越同舟』の国だと証明したし、全体主義にはいりいやすい国だからね。批判的思考能力を伸ばす教育を。 現在、裕福な高齢者に対する、老人施設、旅行などで、経済の活性化を狙っているようだが、この映画の主人公のような一生懸命働いている薄給の高齢者にはどんなプランがあるのだろうか?お決まりの「自助」の一言では困るなあ。
かけがえのない日本のSF
少子高齢化が国の財政をひっ迫させ、そのツケが若者へ回っていくことで若者の生活までもがひっ迫化しているという近未来SF作品。 それが理由で老人たちが殺害される事件が多発し、政府はPLAN75という75歳以上の高齢者には死を選択できる法案を作ったことで起きる人々の生き方を描いた作品。 このサービスを申請すれば10万円がもらえる特典が付く。 葬儀費用等々は、合同葬儀にすることで無料化できる。 78歳の角谷ミチは、一人暮らしの掃除婦だが、仲間が仕事中に倒れたことで会社の信用問題に関わり、近しい年齢層すべてが引退させられる。 PLAN75のキャンペーンで翻弄する役所勤務の岡部ヒロムは、生活保護の仕事と叔父の訪問(申請)によって高齢者の生活を垣間見ることになる。 外国人の女性は日本に出稼ぎに来ている介護士。毎月の給与はわずか15万。心臓病の娘の手術費用が必要。 この作品は、この3名の登場人物たちの日常と変化を、ほとんど映像だけで描いている。まるで記録映画のようだ。 事実この「PLAN75の概念」は世界中で議論されており、いつか日本でも議論されると作者は考えたのだろう。そうなったらどうなるのか? あなたはどう思いますかと私たちに問いかけているのだ。 ミチは仕事を探しても見つからず、友達の孤独死を発見したことでとうとうPLAN75を申請する。死を選択した彼女には先生と呼ばれるカウンセラーが付き、毎日15分だけ会話することができる。 長年叔父と合っていなかったヒロムは、両親の離婚や母の再婚と父の他界を経験したことで、そういうものに心を動かされやすくなっている。 外人看護師は、パーティで仲間が手術資金をカンパしてくれ新しい就職場所を教えてくれる。それがPLAN75が執行される施設だ。やがて彼女は路上で仲間に出会うが彼女の自転車の子供を乗せる場所には子供は乗っていない。 ヒロムは車で叔父を迎えに行き、あてもなく車を走らせているように感じた。とある食堂で食事をしているとき、ヒロムが叔父に酒をすすめる。車酔いした叔父。彼をどこかで降ろした後、急に顔色が悪くなりUターンするヒロム。 ミチと会うことが禁止されているカウンセラーの女の子は、ミチの申し出を受けボウリング場で彼女と楽しむ。ミチは先生にお小遣いを与える。おばあちゃんが孫にしてやりたいことの一つだ。彼女の友人は、娘が来ることはないし孫を見たこともないという。老人たちが楽しむ場所にあるのは、捨てられていそうな古びれたものしかない。 ヒロムが向かった先にあったのがPLAN75の施設。叔父への最後に一緒に食事をしたのだ。しかし叔父はすでに死亡していた。ヒロムは彼ら死を選択し執行された者たちがごみ処分場で廃棄されることをつかんでいた。だからせめて人間らしく火葬にしたいと火葬場へと向かったのだ。スピード違反で捕まる映像についてはよくわからなかった。 叔父の隣で執行を待っていたのがミチだ。彼女は叔父の目を閉じる姿を見て執行されるのを止めたのだろう。 そして外国人女性は、遺留品のバッグの中から大金を発見する。しかし、彼女にとってそれはあまり意味がないものになっていたのだ。そして不審者であるヒロムの手伝いをしたのは、このPLAN75に携わったことで感じたことがそうさせたのだろう。 生きるということに選択を変えたミチは散歩をしていた。 そこで見た雲の間から差し込む朝日に生きているという感覚を覚えたのだろう。 カウンセラーの女の子は、食堂でこの仕事に関し講義する上司と新人の会話を聞きながら、大きな違和感を覚える。規則を破りミチと外で会った彼女は、ミチとの最後の会話で涙声になっていることが伺える。こんなことがあっていいのか? 彼女の思いは募り、帰宅後に満ちに電話するが、彼女は電話に出ない。自分のしていることとそれが正しいのかということに動揺が止まらなくなっているのだ。 この問題は身近に迫っている。SFではない。しかしながら財政が破綻することもない。すべては森永卓郎氏の「ザイム真理教」に書かれている。今我々は、昨年ダボス会議で決定した「炭素税」に対抗する準備が必要だ。完全に余談です。
終わり方が微妙
考えさせるようなエンディングを意図したのでしょうか、少し消化不要に思えました。このテーマは超高齢化社会である日本の一つの選択肢であることは間違いないと思いますが、大変難しい問題に切り込んだ良い作品だと思います。 例え高齢であっても、親族であれば(そんなことはないのですが)もしかしたら明日画期的な治療法が見つかって、元のように元気になるかもしれない、元の様ならなくてももう少し生きていられるかもしれない、もっと生きていたいと願っているかもしれない、などと考えてしまうのが当たり前だと思います。 この映画の主人公のように働く意欲もあり、元気で病気もしていないのであれば、都会ではなく過疎地で暮らすことで職を得られる可能性が大きくなると思いますが、環境をなるべく変えたくないと思う人も多いのでしょうか。 また、他に身寄りもなく孤独であれば、ただ生きている時間を長くすることに意味を見出せなくなることもわからないではありません。 いろいろ考えさせてくれる良い映画でした。
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