ケイコ 目を澄ませてのレビュー・感想・評価
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人との距離
彼女が求める人との距離。
ボクシングを通し、(ジムの閉鎖も相まって)会長、トレーナーたちの想い、感情そして拳のぶつけ合いを通して徐々に想いを通わせる過程を丁寧に描いてた。
また手話(会話)を交わすことでの繋がりではなく人と人との触れ合いを基軸に、孤独を抱える女性の歩む姿を淡々と描くことで誰しも孤独を抱える人の日常の断片の如く捉え観るものの心の中にスッと入り込んできた。
そして主演の岸井さんの表情、特に目がとても印象的でした。
静かに流れていく川の如く
私はこの映画,好き
主人公ケイコは
無音の中に生きているのに
映画を見る私には
紙に鉛筆で何かを書く音,お茶をすする音など
いろんな音がしっかり聞こえてきて
私たちは普段いろんな音の中で生活し
情報を受け取っているんだということに
改めて気付かされた。
ケイコはアウトプットも困難が伴い,
自分の得意な言語である手話を通して
自分の気持ちを思うがままに語り
意見をもらえる相手は
家族以外では
分母が少ない上に限られている。
人とのコミュニケーションが
うまくいきづらいケイコだけれど
言葉を超えて心が通じ合う人たちや
大好きなものに
出会ってしまったんだろうと思う。
それがジムの会長を初めとするジムの人たちで
ボクシングだったから
練習にのめり込んだし
ホントは休みたかったのに試合にも出場した。
最後のシーンの
相手ボクサーの言葉を聞いて
相手を尊重しているからこそ
殴ったり殴られたりするボクシングは成立するし
弟さんが言っていたように馬鹿らしいものでなく
尊いスポーツなんだと私も思えた。
きっと
ケイコもボクシングの尊さを感じられたからこそ
また,縄の音が聞こえてきたのではと思った。
それにしても
三浦友和さんは
嫌な顔つきにならず
綺麗な心が映し出されたような
お年を召され方で
画面に清々しさを生み出すいい俳優さんだと思う。
静かな映画
渋い渋い渋い、渋過ぎるだろ!でも俺は好き
1941年から続く古いジムに所属し、難聴だがプロボクサーをしている小河恵子の、2020年12月から2022年3月までを描いた映画。演じるのは岸井さん(ゆきの)。
まずオープニングのジムの鏡で見せる背中。そしてコンビネーションでかわしては次々と打ち抜くミット。その心地よい音。
これだけの描写で、真面目に練習する、強いボクサーを表現しきる。うわ、かっこいい!!
鍛えたなあ、岸井さん。素晴らしいよ。
ボクシング雑誌のインタビューにジムの会長が答えて言う。
「聞こえないことは苦労じゃないかって? 聞こえないんだよ、レフリーの声も、セコンドの檄も。でもあの子は目がいいんだ。じ~っと見ている。・・・苦労じゃない」
「ボクシングする理由? 子供の頃いじめられて反動でぐれたって言ってたなあ。ボクシングしているとさ、頭が空っぽになるんだ。それがよかったのかな?」
「才能はないね。小さい、リーチがない、スピードもない。でも、人としての器量があるんだ。素直で、そう、まっすぐで...」
この映画の根底に流れるのは「硬」 な感じ。「硬」で「普通」な感じ。
繰り返し映し出される川。大してきれいではない、いや汚いといった方がおそらくあっている川が。そして電車の音。まさに下町。
「あしたのジョー」 の丹下ジムは山谷のそばの泪橋のたもとにあった。貧乏な中から、という話だった。一方、本作には貧乏といった表現はまったくない。舞台となっている荒川ボクシングジム(拳闘?楽部?)だって練習生は減っていくけれど、貧乏だと言う表現はない。ケイコの暮らしはけっこうこぎれいだ。
それでも、ボクシングと汚い川はよく似合う。下町が合う。なぜだろう。きっと、ボクシングも 「誰でもできる競技」 だからじゃないかな。サッカーと同じだ。誰でもできる? そうか? 劇中で弟が語るように 「殴り合うなんて信じられないよ」が多くの人の気持ちだろう。でもボクシングは誰でも始められる。これもまた真実だ。月謝握りしめてボクシングジムの扉を開ければ、誰でもボクサーだ。
だからこそ下町が似合う。荒川が似合う。(蒲田も、また似合う)
淡々と、ひたすら淡々と描かれる毎日。同じ場所、仕事、練習の繰り返し、繰り返し、繰り返し。
なぜ俺はこの映像に飽きないんだろう。ジムに行く短い階段。しばしたたずむケイコ。
ケイコの日常とボクシングが繰り返される映像。なんでもない絵。そして背景音。自動車の喧騒、電車の音、人のざわめき。
終盤でジムの会長夫婦が読むケイコの日記のモノローグ。「〇月○日、ロード〇km、シャドウ〇セット、サンドバック〇セット、ミット〇セット。もっと踏み込まないといけない」、「〇月○日、ロード〇km、シャドウ〇セット、サンドバック〇セット、ミット〇セット。△□×のコンビネーションを教えてもらった」 なんでだろう。日々の練習を淡々と振り返るモノローグを聞いていたら、ふと涙が出た。
ジムに入れば、ロープの音、ミットの音、サンドバックを叩く音。
この、"まったく何も起こらない99分の映画" のエンディングで感じる一筋の希望というか光。ふとしたことで、再び走り出すケイコ。そして、かすかに聞こえるロープの音を背景に閉じるスクリーン。なんてかっこいいラストなんだろう・・・
「百円の恋」の安藤さん(サクラ)、本作の岸井さん(ゆきの)。二大巨頭だ。
おまけ1
観終わったときに俺が感じたのは感動。しかし一方で感じたのは 「こんななにも起きない映画を、わざわざ観る人って多いの?いるの?」だ。しかし、ここのみんなのレビューみて、驚いた。なんだよ、みんな絶賛じゃん!!心配する必要、まったくなしじゃん! いやお恥ずかしい。
おまけ2
前半、街中で流れる放送の声 「不要の外出を自粛してください... 手洗いの徹底、マスクの着用をお願いします」。これが、この時代を象徴する 「街の音」 になるんだなあと、コロナの出口に近づいた今、ふと変なところで感心した。
おまけ3
をを。"電気ブラン" の神谷バーだ。浅草だなあ。
2023/4/1 追記
光陽さんのレビューを読んで気づいた。岸井さん、セリフないんだよね、当然だけど。演技だけで見せてたわけだ。やはり凄いな。(ということに気づかず観ていた自分も、ある意味ですごいな…あきれ…)
2023/5/6 追記
Uさんのレビューを読んで気づいた。
河原での3人でのシャドウのシーン、よかった。弟の彼女がダンスを教えるのも含めて、自分も好きなシーン。
人が共に近づき合うやり方って、こんな感じもあるよね〜、とすごく腑に落ちる場面でした。言葉じゃなくて、身体の動きをやりとりしあって、また一つ仲良くなっていく、という点が素敵でした。
生きるというのは・・・多分こういうことだよな
映画,テレビで最近聴覚障害者の世界をテーマにしたものが多く制作されています。私もCodaや、silentにはかなりはまった口です。何故なのかなと考えましたが、多分音で表現されるセリフというものが少ないので、その分観客は否が応でも映像や効果音のつながりに集中せざるをえず、それが心にダイレクトに染みこんでくるからなのかもしれないと思いました。
かつてのサイレント映画の魅力はそうしたところにあって、中には、あえて「浮き雲」のように、セリフを極端に少なくして成功している映画もありますが、身体的条件としてそうせざるをえない場合と、そうでない場合とでは、むしろ自然さという意味では前者のほうに分があるようにも思います。
本作でもそうした特徴がよく生かされていて、ケイコが無言でひたすらサンドバックを叩き続ける音が、脳裏に焼きついて離れません。いろいろな思いがこみ上げてくる場面では、思わずもらい泣きをしてしまいました。
実話をベースにした作品。
そして、誰かと闘うということではなく、自分自身と闘ってゆく、それが多分人が生きてゆくことなんだろうなと、改めて思わせてくれる作品でもありました。
人間としての器量
昭和の面影が色濃く残るボクシングジム。
会長は、ケイコについてこう語る。
「彼女には人間としての器量があるんですよ。素直で率直で。凄くいい子なんですよ」
才能とか素質はないと言う。
器量という言葉の意味に従えば、ボクシングにふさわしい能力や人徳があるということか。
耳が聞こえないというハンディ。それを克服して不屈のボクサーになったという話ではない。
さして強くもならないしさして弱くもならない。
勝った負けたではなく、楽しい苦しいではなく、笑いも涙もない。
素直で率直なケイコ、会長、トレーナーの三者の信頼関係を、カメラはただひたすら追う。
居場所を与え合う、彼らの心の鼓動だけが、ずっと波打っている。
「私映画が好きなんです。まだ上映されてるのでぜひ観てください」
ケイコ(岸井ゆきの)は、日本アカデミー賞の授賞式で、のらりくらり語った。
そこに、素直で率直なケイコの意気地がよぎった。
一人の人間の揺れ、ただそれだけを描く覚悟
ケイコという一人の人間の感情に焦点があたる。そこにあるものをありのままに映し出す。誇張しない。感情を誘導されない。障がいを持つ人がプロボクサーになる成功を描いたドラマチックな作品ではない。その物語のピントの当て方に覚悟を感じる作品だった。
ケイコは耳が聞こえないし、しゃべらない。だけど岸井ゆきのが表現する目や手話だけで揺れを描くことが成立していた。
リズミカルな音がクセになる冒頭のミット打ち。数分見ていられる画があの音と動きでつくり出される。劇中音楽は流れない。ミットを打つ音、電車の音、ペンを走らせる音、際立つ環境音。フィルムの質感や画の切り取り方もよかった。
言葉を発しないケイコの感情を追いかけたくて、目を澄まして彼女の目を見てしまう。
周囲に「強い」と思われていることとは裏腹に、ケイコの繊細さを垣間見ているという時間でもあった。弟の交際相手の自分への無関心さに釈然としない、母の一言にひどく動揺する、ジムの危機には心ここにあらず。退こうにも会長のある姿を見てすぐに揺れてしまう。これらのシーンに感情の説明もなければ言葉もないはずなのに。
徐々に浮かび上がってくる会長(三浦友和)とケイコの関係性と、その描き方がすごく好きな作品だった。
心で繋がっているのだと、言葉がなくとも。
最後がまたいいのよねー
あまりにも期待外れでショックだった
アカデミー主演女優賞を受賞されたと知り、勇んでわざわざ銀座まで観に行ったが、
あまりにも期待外れで腹が立ちショックだった。
話題作はひと通り親子で観に行く映画好きだが、これはあまりにも酷い!!
感動する前にいきなり終わった。
寝ないでピークを待ってたのに、さらっと終わった。
え?終わり?!と思わず声が出て呆気にとられた。
確かに岸井さんの演技は、ひたむきなろうあ者を演じ、プロボクサーとしての役作りは大変であっただろうことはわかる。三浦さんも安定の名演技である。
だけど、本当にそれだけ。
これは、ろうあ者で女性プロボクサーである女性の日常を、ただただ90分観せられたドキュメンタリー映画に過ぎなく、結局なにを言いたいのかも薄すぎる。
大概の映画を簡単に感動する娘ですら、時間が勿体なかったと、呆れていた。
90分なのに長く感じた。
なぜそこまで評価される映画なのか、逆に不思議でたまらない。
これなら「ラーゲリより愛を込めて」を何十回も観るべきだった。
あちらは脚本も主題歌も俳優の名演技も全てが圧巻であり素晴らしかった。
北川景子さんこそ主演女優賞がふさわしい。
映画だから表現できる特筆すべきボクサー映画
「ケイコ 目を澄ませて」。
岸井ゆきの。”やはり”と言うべきか、見事に日本アカデミー賞の〈最優秀賞主演女優賞〉に輝いた。2023年度の女優賞ノミネートは皆、素晴らしい演技をみせたにも関わらず、彼女はその上を超えていった。
”耳が聞こえないボクサー”という役柄はセリフがない。手話を挟めばいい、というものではない。主演がひたすらスパーリングに打ち込む姿だけで状況、喜怒哀楽の感情を観客に届けなければならない。主人公のケイコは、試合ではセコンドの声も聞こえないのだ。
共演した名優・三浦友和をして「そこにボクサーがいた」とクランクイン前から岸井ゆきのの仕上がりに感服したという。
生まれつきの聴覚障害を持つケイコは、プロボクサーとして下町の小さなボクシングジムで鍛錬を重ねている。愛想笑いができず、何事もまっすぐな彼女は、聴覚障害というハードルもあって悩みが尽きない。ボクシングジムをやめようとするが、そんなときにジムが地域の再開発で閉鎖されることになる。耳が聞こえない元プロボクサー・小笠原恵子の自伝「負けないで!」を原案にしている。
この作品は、映画の素晴らしさを最大に示すことに成功している。セリフがないため舞台演劇には極めて難しい。映画でも音がほとんどないことはハードルとなる。それでも本作は劇伴(BGM)に頼ることなく、環境音だけで状況を表現している。首都高速の高架からのクルマの往来音、工事現場からの音、ケイコがペンを走らせる音。いずれも通常レベルより強調された音量で
本作を2回見たが、初日の舞台挨拶上映が「字幕付きバリアフリー上映」というのは、本作ならではである。筆者はバリアフリー上映に異議を唱えるつもりはないし、むしろ多くの人が楽しめる環境はウェルカムだ。しかし作品自体を楽しみ尽くすのは別問題だ。
健常者なら「通常上映」で観ることをオススメする。オープニングから静寂のシーンが長く続くのだが、字幕版は音を解説してしまう。本作のバリアフリー字幕は全編にわたって、映像を汚す無駄な要素でしかない。だから字幕はきらいだ(むろん洋画の字幕も同様だ)。また本作はアスペクトがヨーロッパビスタである。配信ではなくぜひ通常版を劇場で観てほしい。
2022年は岸井ゆきのイヤーだった。『ケイコ 目を澄ませて』の主演のほか、『やがて海へと届く』(共演・浜田美波)、『神は見返りを求める』(共演・ムロツヨシ)、『犬も食わねどチャーリーは笑う』(共演・香取慎吾)と、いずれもメジャー俳優を相手にしての主演。日本アカデミー賞をステップにこれからが楽しみになる女優だ。
ちなみに、ここ10年の日本アカデミー賞の最優秀俳優にはボクシング映画が多い。『百円の恋』(2014)の安藤サクラ、『あゝ、荒野』(2017)の菅田将暉。そして2022年の岸井ゆきの。いずれも俳優自身が身を削った肉体改造を成し遂げており、これからボクサーを演じる俳優は必ず比較されてしまう。少なからず基準となってしまう。
(1回目:2022/12/17/テアトル新宿/H-14/ヨーロッパビスタ)
(2回目:2023/1/4/ヒューマントラストシネマ有楽町/Screen1/G-11/ヨーロッパビスタ)
偽りのない映画作り
劇伴音楽が全くなし。
画面から聞こえてくるのは、電車の音、車の音、パンチング・ボールを叩く音、ミットを打つ音、弟が奏でるギターの音、携帯の着信音、周りの人の会話、自らに話しかけられる言葉、、、、、。
そのすべてがケイコには聴こえない。
淡々と丁寧に描かれる、そして終盤の試合。
セコンドの指示、レフェリーの呼びかけ、カウント、ゴングの音。そのすべてもケイコには聴こえない。
聴こえない者にとってボクシングをするということがいかに大変なことか。
そして、全部聞こえている岸井ゆきのにとって聴こえない主人公を演じることがいかに大変なことか。
会長役の三浦友和も、トレーナー役の三浦誠己も、ボクシングジムの会長とトレーナーにしか見えない。
偽りのない人たちの、偽りのない人生が、偽りなく演じられ、偽りなくスクリーンに映し出せされる。
こうして真面目に作られた作品が高く評価されるのは嬉しい。
会長の妻役の仙道敦子がケイコの日記を読むシーン。
この美しい声での朗読を聞かせるために、久々にひっぱり出されたのだろうか。
昨年公開されたメーテレ制作の作品、すべて良い作品だった。もっと宣伝すれば良いのに。
(朝夕の情報番組もメーテレばっかり見てるけど、ほとんど自局制作のことに触れないなぁ)
ボクシングの映画ではない…⭐︎
岸井ゆきのが好きで、もともと鑑賞予定の映画だったが、なかなか上映時間合わずに行くことが出来なかった。
キネマ旬報で、主演女優賞を獲得したとのニュースもあり今回ようやく見ることに。
ここでの評価の高くて期待していたのだが、イメージしていた作品とはとこなり、ボクシングの映画というよりは
もっと下町のジムでの日常と岸井演じるケイコの日々が丁寧に語られる作品となっていた。
16ミリフィルムとのことだか、映像に独特な美しさがある。
ケイコが聴覚障害者であるということにそれほど視点が置かれていないことが、むしろ好感を持つくらい
自然で、何より岸井ゆきのの演技(聴覚障害者として、ボクサーとして)が素晴らしいの一言。
手話もボクシングの型などもとても自然で、良い意味で岸井とは思えないくらいだった。
三浦友和などケイコの所属するジムも人達の様子を丁寧に描かれて、東京の下町の閉じられるジムの雰囲気が
良く伝わってくる。
でも、全体的に何か盛り上がりかけて ボクシングの試合のシーンも現実にはあのようなものなのかも
しれないが、地味な演出になっていた。
ラストにケイコが負けた対戦相手が仕事着のまま、土手で休んでいるケイコに声をかけるシーン。
二人の表情が印象に残った。
雄弁な映画 岸井ゆきのあっぱれ
目を澄ませた世界
ボクシングを題材にした物語というと、真っ先思い浮かぶのが『あしたのジョー』、映画では『ミリオンダラーベイビー』だが、これらの物語に共通するのは主人公のボクサーを影で支えるトレーナーが存在することである。ボクサーとトレーナーは固い絆で結ばれ時には肉親以上の関係が育まれる。
この映画でもケイコとジムの会長は、言葉は交わせなくても心で通じ合うことができる絶大な信頼関係を築いていた。ジムの閉鎖が決定し、他のジムに移籍するという話が持ち上がった時も「家から遠いので難しいです」という理由で断ってしまうくらいケイコは会長と過ごした荒川の古いジムを大切に思っていた。
この映画からは音楽は全く流れず日常発生する自然音だけが聞こえる。それだけでも珍しいことなのに、ケイコにとってはその自然音すら聞こえない。嘘が付けず愛想笑いができないという性格は、外界のつまらない雑音を遮って生きてきたからこそ、心が無垢で純粋なままだからなのか。音のない世界に生きると他の感覚が研ぎ澄まされるというが、ケイコにとってそれは視覚ということになるのであろう。体を鍛えて目を澄ませればボクシングは上達できる。
この映画は『あしたのジョー』や『ミリオンダラーベイビー』のような劇的なラストはない。ジムはなくなってしまったが、ケイコの日常は変わらない。荒川の土手で休憩をして、会長の赤い帽子を被ってストレッチをして走り出す。下町の平和な風景はケイコの目にいつまでも焼き付いていく。
閉塞した社会下で、心に響いてくるもの
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