ケイコ 目を澄ませてのレビュー・感想・評価
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これは名作
近年稀にみる素晴らしい映画だった。
ケイコは生まれついての聴覚障害を持っていますが、それを健常者とのハンデだなんだと言い訳にしません。1つも。ただただひたむきに、日々のジム練習と向き合い、日々の仕事と向き合う事の美しさを見事に描いた名作でした。
自分探しとか、自己表現とか、そんなチンケなテーマではありません。頑固なほどに1つの事を愚直にやり切る事の美しさを、淡々と描き切っています。
ボクシング引退?を醸すシーンも出てきますが、そうではない。途中で弟が「心が軽くなるから俺に話してみろよ」も断固拒否。。まるで、人にペラペラ話して気分が良くなるような程度の軽い悩みなんて悩みではない!っとでも言わんばかりに、ケイコは1人で葛藤し、自分で答えを見つけます。ケイコは痛みも悩みも、自分でしっかりと受け止め、戦う強さを持っています。
ケイコは聴覚障害ですから、喋れませんし、喋りません。共演した俳優さんたちも含め、セリフは非常に少ない映画です。その代わり、街の喧騒や生活音がそのまま、気になるぐらいガヤガヤと流れていきます。ただ、ケイコはそんな街の喧騒も聞こえていないんですね。
ひたすらにミットと仕事に向き合うだけの音のない世界の中で、毎日毎日小さな体に不釣り合いなほど大きなドラムバッグを肩に下げ、ジムへとテクテク通い歩く彼女の姿は、他のどの映画のヒロインよりも凛とした美しさがあります。
下町の古い荒川ボクシングジム。。どんどん練習生も辞めて行ってしまいます。辞めて行く者たちは、男女がどうだの、設備の古い新しいだの、大体そんな事を言って辞めていきます。しかしジムに残る練習生たちは、ケイコと同じくひたむきで、真剣で、男女の違いなど気にもならない者たち。。これも良かった。
会長からジムの閉鎖を突然申し渡されても、しっかりと受け止め、またすぐさま自分のやるべき練習に戻っていく描写。。きっと、だからケイコは荒川ジムが好きだったのでしょうね。
モヤモヤと(ダラダラと)悩みだトラウマだなんだと、大した事でもない事をいつまでもこねくり回しながらあっちの女・こっちの男と分別のない目移りを人間ドラマ風に仕立てる軟弱映画に対する強烈なアンチテーゼです、この映画は。
ケイコは生まれてこのかた耳が聞こえてねーっつの!っです。彼女はその障害については葛藤すらしていない。葛藤してるのは、大好きなジムとボクシングに対する自らの姿勢と在り方だけです。素晴らしい・・・。
ひさしぶりに、映画で強い女性の美しさを観ました。
大満足です。
闘う女の肖像
この映画は美談ではない。
耳の聞こえない女性の「リアル」を正しく伝える映画。
障がい者の「悔しさ」、「憤り」、「不公平」、
それがケイコの硬い背中から聞こえてくる。
その鬱屈を、
「ボクシングで闘うこと」に見出したケイコ。
その不条理を岸井ゆきのは、完璧に表現した。
その小さい身体から怒りのマグマが噴き出して来る。
しかしその思いは時に埋もれていく。
ケイコはあまりに無力で非力だ。
彼女はなぜボクシングジムの扉を叩いたのだろう。
「強くなりたい」
「見下す奴らを見返してやりたい」
ただひたすら、痛みを感じ、
その痛みを相手に返す。
この映画は美談ではない・・・と同じに、
サクセスストーリでもありません。
職場のケイコは自信に溢れている。
仕事仲間とも良い関係。
ボクシングジムの会長(三浦友和)も、
ケイコを理解してるし、ケイコも信頼している。
ジムの先輩も優しい。
耳が聞こえないことを知っている人は、皆受け入れてくれる。
しかし通りすがりの人、
そして無理解な人はどうだろう?
そこまでの関係になるまでが、困難なのだろう。
馬鹿にされ、見下され、無視されてきたことだろう。
もっともっと感涙にむせぶような映画に出来たはずなのに、
敢えて監督の三宅唱はそれをしない。
「感動してほしいのではない」
耳の聞こえない女性が生きる上での困難、
そして憑かれたようにボクシングに打ち込む日々を、
ドキュメンタリーのようにフィルムに刻んだ。
映画のラスト近くにある「試合のシーン」
小川恵子(ケイコ)があご下の急所に一発食らって、
ノックアウトされる定石破りのシーンで終える。
負けて終わる。
どう考えても、勝って終わるのが、
《セオリーというか、ふつうは、感動の場面で終わる》
ところがリングに這いつくばって悔しさの頂点で終わる。
底辺で這いつくばる。
でも、ここの所は公平である。
耳が聞こえたって、聞こえなくたって、
不公平なことは世間に無数にある。
ケイコに困難でないバラ色の未来など、
容易くは手に入らない事を、
私たちは誰よりも知っている。
そうなのだ、この世は不公平で報われない世界なのだ。
ジムの会長(三浦友和)との交流はとても良かった。
会長の奥さん(仙道敦子)が病室で横たわる会長に
読み聞かせるケイコの日記。
某月某日晴れ
ロード、10キロ
シャドー、3ラウンド
サンドバッグ、3ラウンド
ロープ、2ラウンド
来る日も来る日も、
走る、
打つ、
闘う、
日記は、言葉は、やはり心を伝えるには雄弁だ。
はじめて生のケイコの声が聞こえた。
しかし、
無言の岸井ゆきのの演技は、
言葉以上の感情を伝えていた。
そこがこの映画の肝(きも)だ。
荒川の土手、
隅田川は大きく太い、
古ぼけたボクシングジム、
見上げる中高層ビル群、
変わりゆく光景、
16ミリフィルムの映像に、とても味があり、
暖かい。
ゆきのちゃん、凄い女優さんだわぁ
2本立て2本目。マニアック臭漂う作品。 オープニングタイトル、BG...
あの三人で頑張るシャドウのシーンが
一つ一つ普通のシーンを積み重ねていくことで、自らと言うよりも、何かに突き動かされて続く「生」を描いた作品と言うことでしょうか。聴覚障害を持つ女性ボクサーの物語ながら、二度出てきた試合のシーンに突出したインパクトはなくて、ケイコの強弱様々な息遣いや視線、荒川の河川敷、足立の町並みなど、敢えて言うなら物語の背景のような日常が丁寧に描かれた。
生きていくことは、それ自体が大変なことであるが、大袈裟に構えたからうまくいく訳でもない。そう判っていても、入れ込んだら必ず見返りがあると願ってしまう。その願いを胸の奥にしまったケイコは、息を吐いてシャドウを続け、やや息を荒くして走り、息を整えて内なる声を発する。
歩みや走りを止めた時にいったん現れたりする結果は、道端の石塊に過ぎないこともある。しかし、諦めるか続けるかの両方の答えを抱えたボクサーの脇を、人生は傍観者のように無情に通り過ぎる。
ケイコが心に抱くものは、例えば「継続は力なり」と言う意思でもあったろうし、あるいは彼女が何かがきっかけで感じてしまった、運命とかだったかも知れない。ケイコを突き動かしてきた大きなもの。ただ、その手がかりをこの作品の中から推し量ることは、私には難しかったです。
ジムの会長から貰った帽子を、愛おしむように被って走るケイコ、自分を打ち負かした相手から挨拶されて一瞬、戸惑うケイコ。そうしたシーンは、観る者の心地を緩ませてくれました。特に、街灯に照らされながら、弟とその彼女と3人でシャドウにいそしむケイコの微笑み。このシーンの温もりこそが、私にとって最高のシーンだったと思います。
ギッシリ詰まった胸の内を危うく堪えている、岸井ゆきのの演技は素晴らしかったし、三浦友和の本当に喋るのが苦手で、若い頃は口より手が先に出て相手を殴っていた(かも知れない)オヤジ感も見事だと思いました。
「そば煮るね」以来の岸井ゆきのさん、好きです。
助演男優賞
人との距離
彼女が求める人との距離。
ボクシングを通し、(ジムの閉鎖も相まって)会長、トレーナーたちの想い、感情そして拳のぶつけ合いを通して徐々に想いを通わせる過程を丁寧に描いてた。
また手話(会話)を交わすことでの繋がりではなく人と人との触れ合いを基軸に、孤独を抱える女性の歩む姿を淡々と描くことで誰しも孤独を抱える人の日常の断片の如く捉え観るものの心の中にスッと入り込んできた。
そして主演の岸井さんの表情、特に目がとても印象的でした。
静かに流れていく川の如く
私はこの映画,好き
主人公ケイコは
無音の中に生きているのに
映画を見る私には
紙に鉛筆で何かを書く音,お茶をすする音など
いろんな音がしっかり聞こえてきて
私たちは普段いろんな音の中で生活し
情報を受け取っているんだということに
改めて気付かされた。
ケイコはアウトプットも困難が伴い,
自分の得意な言語である手話を通して
自分の気持ちを思うがままに語り
意見をもらえる相手は
家族以外では
分母が少ない上に限られている。
人とのコミュニケーションが
うまくいきづらいケイコだけれど
言葉を超えて心が通じ合う人たちや
大好きなものに
出会ってしまったんだろうと思う。
それがジムの会長を初めとするジムの人たちで
ボクシングだったから
練習にのめり込んだし
ホントは休みたかったのに試合にも出場した。
最後のシーンの
相手ボクサーの言葉を聞いて
相手を尊重しているからこそ
殴ったり殴られたりするボクシングは成立するし
弟さんが言っていたように馬鹿らしいものでなく
尊いスポーツなんだと私も思えた。
きっと
ケイコもボクシングの尊さを感じられたからこそ
また,縄の音が聞こえてきたのではと思った。
それにしても
三浦友和さんは
嫌な顔つきにならず
綺麗な心が映し出されたような
お年を召され方で
画面に清々しさを生み出すいい俳優さんだと思う。
静かな映画
渋い渋い渋い、渋過ぎるだろ!でも俺は好き
1941年から続く古いジムに所属し、難聴だがプロボクサーをしている小河恵子の、2020年12月から2022年3月までを描いた映画。演じるのは岸井さん(ゆきの)。
まずオープニングのジムの鏡で見せる背中。そしてコンビネーションでかわしては次々と打ち抜くミット。その心地よい音。
これだけの描写で、真面目に練習する、強いボクサーを表現しきる。うわ、かっこいい!!
鍛えたなあ、岸井さん。素晴らしいよ。
ボクシング雑誌のインタビューにジムの会長が答えて言う。
「聞こえないことは苦労じゃないかって? 聞こえないんだよ、レフリーの声も、セコンドの檄も。でもあの子は目がいいんだ。じ~っと見ている。・・・苦労じゃない」
「ボクシングする理由? 子供の頃いじめられて反動でぐれたって言ってたなあ。ボクシングしているとさ、頭が空っぽになるんだ。それがよかったのかな?」
「才能はないね。小さい、リーチがない、スピードもない。でも、人としての器量があるんだ。素直で、そう、まっすぐで...」
この映画の根底に流れるのは「硬」 な感じ。「硬」で「普通」な感じ。
繰り返し映し出される川。大してきれいではない、いや汚いといった方がおそらくあっている川が。そして電車の音。まさに下町。
「あしたのジョー」 の丹下ジムは山谷のそばの泪橋のたもとにあった。貧乏な中から、という話だった。一方、本作には貧乏といった表現はまったくない。舞台となっている荒川ボクシングジム(拳闘?楽部?)だって練習生は減っていくけれど、貧乏だと言う表現はない。ケイコの暮らしはけっこうこぎれいだ。
それでも、ボクシングと汚い川はよく似合う。下町が合う。なぜだろう。きっと、ボクシングも 「誰でもできる競技」 だからじゃないかな。サッカーと同じだ。誰でもできる? そうか? 劇中で弟が語るように 「殴り合うなんて信じられないよ」が多くの人の気持ちだろう。でもボクシングは誰でも始められる。これもまた真実だ。月謝握りしめてボクシングジムの扉を開ければ、誰でもボクサーだ。
だからこそ下町が似合う。荒川が似合う。(蒲田も、また似合う)
淡々と、ひたすら淡々と描かれる毎日。同じ場所、仕事、練習の繰り返し、繰り返し、繰り返し。
なぜ俺はこの映像に飽きないんだろう。ジムに行く短い階段。しばしたたずむケイコ。
ケイコの日常とボクシングが繰り返される映像。なんでもない絵。そして背景音。自動車の喧騒、電車の音、人のざわめき。
終盤でジムの会長夫婦が読むケイコの日記のモノローグ。「〇月○日、ロード〇km、シャドウ〇セット、サンドバック〇セット、ミット〇セット。もっと踏み込まないといけない」、「〇月○日、ロード〇km、シャドウ〇セット、サンドバック〇セット、ミット〇セット。△□×のコンビネーションを教えてもらった」 なんでだろう。日々の練習を淡々と振り返るモノローグを聞いていたら、ふと涙が出た。
ジムに入れば、ロープの音、ミットの音、サンドバックを叩く音。
この、"まったく何も起こらない99分の映画" のエンディングで感じる一筋の希望というか光。ふとしたことで、再び走り出すケイコ。そして、かすかに聞こえるロープの音を背景に閉じるスクリーン。なんてかっこいいラストなんだろう・・・
「百円の恋」の安藤さん(サクラ)、本作の岸井さん(ゆきの)。二大巨頭だ。
おまけ1
観終わったときに俺が感じたのは感動。しかし一方で感じたのは 「こんななにも起きない映画を、わざわざ観る人って多いの?いるの?」だ。しかし、ここのみんなのレビューみて、驚いた。なんだよ、みんな絶賛じゃん!!心配する必要、まったくなしじゃん! いやお恥ずかしい。
おまけ2
前半、街中で流れる放送の声 「不要の外出を自粛してください... 手洗いの徹底、マスクの着用をお願いします」。これが、この時代を象徴する 「街の音」 になるんだなあと、コロナの出口に近づいた今、ふと変なところで感心した。
おまけ3
をを。"電気ブラン" の神谷バーだ。浅草だなあ。
2023/4/1 追記
光陽さんのレビューを読んで気づいた。岸井さん、セリフないんだよね、当然だけど。演技だけで見せてたわけだ。やはり凄いな。(ということに気づかず観ていた自分も、ある意味ですごいな…あきれ…)
2023/5/6 追記
Uさんのレビューを読んで気づいた。
河原での3人でのシャドウのシーン、よかった。弟の彼女がダンスを教えるのも含めて、自分も好きなシーン。
人が共に近づき合うやり方って、こんな感じもあるよね〜、とすごく腑に落ちる場面でした。言葉じゃなくて、身体の動きをやりとりしあって、また一つ仲良くなっていく、という点が素敵でした。
生きるというのは・・・多分こういうことだよな
映画,テレビで最近聴覚障害者の世界をテーマにしたものが多く制作されています。私もCodaや、silentにはかなりはまった口です。何故なのかなと考えましたが、多分音で表現されるセリフというものが少ないので、その分観客は否が応でも映像や効果音のつながりに集中せざるをえず、それが心にダイレクトに染みこんでくるからなのかもしれないと思いました。
かつてのサイレント映画の魅力はそうしたところにあって、中には、あえて「浮き雲」のように、セリフを極端に少なくして成功している映画もありますが、身体的条件としてそうせざるをえない場合と、そうでない場合とでは、むしろ自然さという意味では前者のほうに分があるようにも思います。
本作でもそうした特徴がよく生かされていて、ケイコが無言でひたすらサンドバックを叩き続ける音が、脳裏に焼きついて離れません。いろいろな思いがこみ上げてくる場面では、思わずもらい泣きをしてしまいました。
実話をベースにした作品。
そして、誰かと闘うということではなく、自分自身と闘ってゆく、それが多分人が生きてゆくことなんだろうなと、改めて思わせてくれる作品でもありました。
人間としての器量
昭和の面影が色濃く残るボクシングジム。
会長は、ケイコについてこう語る。
「彼女には人間としての器量があるんですよ。素直で率直で。凄くいい子なんですよ」
才能とか素質はないと言う。
器量という言葉の意味に従えば、ボクシングにふさわしい能力や人徳があるということか。
耳が聞こえないというハンディ。それを克服して不屈のボクサーになったという話ではない。
さして強くもならないしさして弱くもならない。
勝った負けたではなく、楽しい苦しいではなく、笑いも涙もない。
素直で率直なケイコ、会長、トレーナーの三者の信頼関係を、カメラはただひたすら追う。
居場所を与え合う、彼らの心の鼓動だけが、ずっと波打っている。
「私映画が好きなんです。まだ上映されてるのでぜひ観てください」
ケイコ(岸井ゆきの)は、日本アカデミー賞の授賞式で、のらりくらり語った。
そこに、素直で率直なケイコの意気地がよぎった。
一人の人間の揺れ、ただそれだけを描く覚悟
ケイコという一人の人間の感情に焦点があたる。そこにあるものをありのままに映し出す。誇張しない。感情を誘導されない。障がいを持つ人がプロボクサーになる成功を描いたドラマチックな作品ではない。その物語のピントの当て方に覚悟を感じる作品だった。
ケイコは耳が聞こえないし、しゃべらない。だけど岸井ゆきのが表現する目や手話だけで揺れを描くことが成立していた。
リズミカルな音がクセになる冒頭のミット打ち。数分見ていられる画があの音と動きでつくり出される。劇中音楽は流れない。ミットを打つ音、電車の音、ペンを走らせる音、際立つ環境音。フィルムの質感や画の切り取り方もよかった。
言葉を発しないケイコの感情を追いかけたくて、目を澄まして彼女の目を見てしまう。
周囲に「強い」と思われていることとは裏腹に、ケイコの繊細さを垣間見ているという時間でもあった。弟の交際相手の自分への無関心さに釈然としない、母の一言にひどく動揺する、ジムの危機には心ここにあらず。退こうにも会長のある姿を見てすぐに揺れてしまう。これらのシーンに感情の説明もなければ言葉もないはずなのに。
徐々に浮かび上がってくる会長(三浦友和)とケイコの関係性と、その描き方がすごく好きな作品だった。
心で繋がっているのだと、言葉がなくとも。
最後がまたいいのよねー
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