コーダ あいのうたのレビュー・感想・評価
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無音の世界へ誘う演出が秀逸
あの無音の演出がなければ、この映画がそこまで高い評価を得なかったのでないだろうか。
私たちが外側から見ていた彼らの世界へ、観客を一気に連れて行った。
ルビーの人生のハイライトであり、観客が一番観たいと思う映画のハイライト。
その大切な大切な瞬間を、共有できない家族。
少しでも観客がその立場を理解できたら。そういう創り手の思いが感じられた。
自分の娘が耳が不自由であってほしかったという、閉鎖的な性根の母親・ジャッキー。
自分の意気地なさを家族がいるからと言い訳にする娘・ルビー。
家族に頼られたいもどかしさを妹にぶつける兄・レオ。
快活な性格な割に、現状打破に重い腰の父・フランク。
しかし健常者も不自由な人も関係なく、自分の殻を破る勇気があれば、少し違う新しい日々を送れるかもしれない。
そんな風に背中を押してくれる映画だった。
現実には、こんなにお綺麗なことばかりではないかもしれない。
身体障害者を取り巻く環境は、もっと厳しいかもしれない。
でも、結局自分を幸せにするのは自分自身なんですよね。
最後のステージで手話を交えながら歌い上げる場面は、ルビーが本当に気持ちを伝えたい相手は誰だったのかよく伝わり、涙無くしてはみられませんでした。
興味深かったのは、前述したジャッキーのセリフで、自分の娘が健常者だとわかったときに落胆したというところ。「わかりあえないかもしれない」と不安になったの弁の裏に、自分が娘を妬むのではないか?という杞憂を垣間見た。
そこで気が付いたのは、私たちは彼らのことを勝手に「社会的弱者だから人の弱さに寛大で、優しい人々」と勝手にカテゴライズしていないだろうかということ。特に映画の中では。
それらが現実社会において、彼らを息苦しくさせているのかもしれない。
必要、依存、
アカデミー賞を取ったということで鑑賞。
とりあえず無音の演奏会シーンはグッとくるものがあるよね。
頼るという行為と依存の境界線。
誰のための人生か、何のための人生か、とか色々考えながら見ていた。
平等という言葉が謳われるようになった時代に、マイノリティの家族を描いた作品だった
お父さんが娘の歌を感じるために触れながら歌うシーンも良かった
なんか、いい映画見たって感覚。
自分は誰かに依存していないか、関係性に甘んじていないのか、枷になっていないのかってふと考えてしまった。
もう一度じっくり見たいなと感じました。
96/100
サイレント・マイノリティー
リメイクの元になった「エール!」は未見。“コーダ”というのは、てっきり交響曲なんかの最後でダダダーンとやるあれのことかと思っていたのだが、こういう意味もあったんですね。
「glee」や「ピッチ・パーフェクト」みたいな青春合唱部ネタと聴覚障害の話は、そのままではすんなりと結びつかないので、いささか無理をしている感はある。もちろんそういう境遇の人がいてもおかしくはない。ただ、最大の葛藤であった手話通訳がいないと漁の操業ができないという問題が解決しないまま、主人公を音楽大学に送り出すラストシーンは手放しで喜べないものがある。
合唱部の発表会の途中で突如、無音になるシーンは秀逸。ここで初めて聴覚障害者側からとらえた世界が鮮やかに立ち上がる。映画のそれ以外の部分はすべて耳の聴こえる人の感じる世界として描かれていたことに気づく。聴覚障害者にとっては初めから終わりまでずっと無音なのだ。
日本の映画館では英語の会話に字幕が付くが、手話にも字幕が付く。英語圏ではおそらく手話部分だけに字幕が付いているのだろう。その場合、聴覚障害者の観客はどうやって物語を把握するのだろう(テーマがテーマだけに本国でも字幕上映したかもしれないが)。
Both Sides Now
「エール!」 鑑賞済みです。
クソ兄貴かっこいい!
無音のシーン 息するの我慢しそうなった(ToT)
家帰って「青春と光の影」検索しちゃうね😁
良い映画。 『コーダ』 てタイトル良いよね。
泣いた。
これは好きな映画♪
漁に出る少女。作業の最中音楽をかけ、大きな声で歌う。それでも何の反応もないままの父と兄。家族の中で耳が聞こえるのは彼女だけだった。
物心ついたときから家族と世間の橋渡しをして、自分だけが家族と違う事、それだけに家族と一つになる事を望んだが故に、自分を優先することが出来ない。
誰しもが通る思春期に起こる家族と、自分と、周りと、理不尽さとを心の中で葛藤しながら進んでいく物語。
自分に体験できない感覚や、経験できない気持ちを分かったように語るのは違うと思うのだが、
彼女の学校のコンサートを見に来た家族が周りに合わせて手を叩きながらも戸惑う。彼女のソロが流れた瞬間...。音が消え少女が口を動かす姿だけが映し出されたとき、涙がつたった。これは子を持つ親としてグッサリ刺さった。
テーマはハンデではなく『家族愛』。
凄く面白かったです♪
物語の進行とリンクする挿入歌 「ヤングケアラー」の歌姫は‶Both Sides Now"に魂を込める。愛する家族にも伝わるように
本作は耳の聴こえない家族のもとに生まれた唯一の健聴者の女子高校生が
唯一の生きがいである「歌」を通して人生を切り開いていくストーリー。
物語の進行とリンクするように挿入される劇中歌、エミリア・ジョーンズたちの歌声、
「ろう者」家族の無邪気なやり取りなどなど趣深い点は多々ある。
特に私が一番印象に残っているのは合唱クラブが在学生の家族にお披露目する「秋のコンサート」の一幕だ。合唱部のその一年の成果を出す晴れの舞台。心躍る歌声のセッションが響く中、突如場面は主人公ルビーの父親の「視点」に転換す・・・
一方で、この作品も例外なく数々の問題を提起している。
障がいをもつ人の社会生活上の困難、ヤングケアラーや貧困家庭の進学や進路、学校側の無理解、
母と子の関係の難しさなどなど・・・
物語は‶現実からおとぎ話のように″ハッピーエンドで着地した。
人生というものはいろいろなものの見方ができるし、正直のところわからない。
今が「底値」なのか、「高値」なのか、そもそも「上場」すらしていないのか。
本作の主人公ルビーはその誰もが抱える「葛藤」や「抑圧」から解放するように
歌声と手話で表現する。
・・・・だから、26億円での落札はちと安すぎじゃないかなんて思った。
ロッシ家のとった魚じゃあるまいし・・・
普通に感動します
1.主演が可愛い
ヒロインのエミリア・ジョーンズが良いです。だいたい、しかめっ面か忙しそうにしているのですが、ためらいの演技とか目をはらして泣いているシーンとか、めっちゃ可愛いです。
エマ・ワトソンみたいな感じですね、こういう系には本当に弱いです。
2.普通のストーリーなのに、、、
突飛な物語ではなく、普通に楽しめるストーリー。平凡な少女が才能を見出されて、家族との関係を取るか、自分の将来に賭けるか。最後は家族も将来もハッピー、でも恋人とは離ればなれで、初恋はちょっとビターに。
ろうあ、労働者階級、合唱や歌、家族って要素は、まあ映画賞を取るためのスパイスで、本筋は少女漫画的な分かりやすいもの。でも、なんだか、感動するんだわ〜、うるっときました。
3.楽曲がエモい
冒頭、ヒロインが漁船で歌うのがエタ・ジェイムスの“Something got a hold on me”で、主人公と初恋の男の子が歌うデュエットがマービン・ゲイ&タミー・テレルの“You're All I Need To Get By”ですよ!60年代のオンパレードです。
極め付けはラストの音楽学校のオーディションで熱唱するのが「青春の光と影」(原題: Both Sides, Now)。ジュディ・コリンズがオリジナルで、アン・マレー版もあったかな。この曲、アリーマイライブで使われていますよね〜。すごく覚えていたので、結構使われていたと思ったら、シーズン2の22話で使われていただけ、らしい。それでも、アリー好きとしては、うぁ〜となります。
ヒロインが通うことになる音楽学校はボストン。アリーの舞台と同じですね。このシーンから、「ヒロインはボストンで音楽から法律に転向して、弁護士のアリーになるのか〜。ってことは、別れたボーイフレンドはビリーで、この映画はアリーマイラブの前日譚だったのか〜」一人で妄想していました。
すごく良い映画です。唯一の欠点は、あいのうた、というダッサイ日本語のサブタイトル。
生き生きして眩しい
自分が一番共感したのは兄貴ですが、主人公や両親、先生や友達、出てくる人がほぼ
精一杯自分の人生を楽しんでるのが眩しいですね。
両親のファンキーさが何ともね、愛すべきなんだけども、自分の親だと思うとキツいかな。
でもそのファンキーさが家族の核というかパワーになって、障がいなんかぶっ飛ばせ!
となってるから娘が歌えるのかなと思った。最後の方でリアルな世界をこちらに追体験させる所が素晴らしいですね。こちらが楽しんでる程ショックを受ける仕組みになっております。良く出来てます。
愛のうたというタイトル
あまり納得する日本語タイトルの少ない今日この頃。愛のうたという表現は肌にあった。
どうしてこの作品に感情移入できたのか、それは私がヤングケアラーだった過去があるからだと思う。主人公は聾唖者の家族を支えるために自分を時間を使う。姿は異にするが、祖母の背中の垢を風呂の中ヘチマで落とす自分に重なる瞬間があった。彼女は(いや、我々は)世間が思うより幸せで、自分の置かれた状況を十分に理解している。ただ、私も、彼女も、家族から解放されるタイミングがあり、それは同様に幸せなのだ。
作品を見た方ならわかると思うが、家族に寄り添うことはは決して間違ったことではない、という表現をされている。家族に寄り添い、支える人生もまた、美しい。彼女がひたむきに自分の好きなこと(歌であったり、家族であったり、パートナーであったり)に向き合っているから。ただ、時間は有限で身の回りの全てに取捨選択が必要となる時は必ず来る。選べる立場にあった彼女は幸せだった。才能に気づいてくれた人、愛してくれる人、そして背中を押してくれる家族がいることは何よりの幸福なのだと感じた。
最近勉強を始めた手話をじっくり見ることができたのも面白かった。「綺麗」「嬉しい・楽しい」と言った単語は日本のものと酷似していた。また、口に出すことが憚れる単語たちも見ているだけで理解できるし、そこにユーモアを持って行った脚本にも拍手を送りたい。これをきっかけに(ドライブマイカーの時も思ったが)違う言語として手話を身近に感じてくれる人が増えることを切に願う。
合唱祭の演出も映画を見ている我々を違う世界に誘うタームになっていた。父親が「俺のためにもう一度…」と歌をねだるセリフに愛を感じた。
久々に出会えた洋画の名作
率直な感想としては、久々にストーリーをじっくり堪能できた洋画作品でした。
何年経ってもストーリーが頭に浮かび『あの作品、面白かったな』と思えるような心に残る作品だと思います。
※以下、ネタバレ
両親と兄はまったく音を聞き取れない聴覚障害者。家族で唯一の健聴者である娘のルビーは家族の耳(手話通訳)となり、家族の仕事や生活を支えながら仲睦まじく暮らしていた。
そんななか、ルビーには類稀なる歌の才能があることを合唱部の顧問に見い出される。しかし、それによりルビーや家族のなかには様々な葛藤が生まれ、軋轢が生じていく。
合唱部顧問はルビーの才能を開花させるべく、親元を離れ名門音楽校に通うことを勧める。しかし、家族はルビーの手話通訳なしには仕事が成り立たない。家族にとってルビーを失うことは死活問題だった。
家族を見捨て自分の夢を追い求めるのか、夢を諦め家族の耳となり続けるのか。一生を左右する人生の分岐点に立たされ、ルビーは苦悩する。
仕事のために娘を手放したくない両親、『家族の犠牲になるんじゃねえ!』と進学を勧める兄、『私にだって人生がある!』と夢を追い求めるルビー…その進路を巡り、仲睦まじかった家族にも軋轢が生じるようになる。
しかし、当初は進学に反対していた両親も娘の強い気持ちと才能に気付き、次第に理解を示し背中を押すようになる。そして家族が苦しむ姿を見て一度は夢を諦めかけたルビーも両親に背中を押され、夢を追う決意をする。こうして家族は再び娘の夢のために団結する。
ざっくり書くとこんな展開です。
身体的ハンデを抱えながらも明るく前向きに生きる家族、そんな家族の中で唯一の健常者である主人公の苦悩や葛藤、そして互いに支え合って生きる家族の絆、そんな家族に突如として訪れた子供の巣立ち、それを見送る両親の複雑な親心…派手さはないけど、非常に良質で見応えのある人に勧めたくなる作品です。
けっこう重苦しいストーリーに感じるかもしれませんが、家族の会話が非常にユーモラスで、聴覚のハンデを感じさせない、良い意味で弾けた明るい家族なので、全体としては重苦しさは感じず、いいバランスに仕上がっています。
あと余談ですがルビー役のエミリア・ジョーンズがめっちゃかわいい(普段のバッチリメイクの彼女より、映画のナチュラルな彼女のほうが断然かわいい。笑)
聾唖の苦悩と希望を描く傑作
特質すべき点は多々あるが、多くは語らない。
子を持つ父親である自分が、一番胸に響き、泣いてしまったシーンについて。
終盤。
歌の発表会で、主人公のルビーが、大勢の観客と聾唖の家族が見守る中、その歌声を披露するシーン。
歌い始め、その美声にうっとりした瞬間、突然、映画の全ての音がシャットダウンする。
耳が痛くなる程の静寂。
ルビーの美声に酔いしれる観客の映像とは裏腹に、不気味なほど不釣り合いな「沈黙」だ。
ここで映画を観ている我々は、ハッと思い知らされる。
そうだ、聾唖の家族の世界では、常にこの「沈黙の世界」なのだ。
結局我々映画の観客も、「分かったつもり」でこの作品を観ていなに過ぎない。
声も歌も音楽も聴こえていた前半は、聾唖者の気持ちなど分かりえなかったのである。
父親は娘の歌声に感動する人々の表情をじっと見る。
皆、娘の歌声に涙している。間接的にしか分からないその歌声に、父親の表情は暗い。
誰より娘を愛している筈の自分は、その声が聴こえないのだ。
その日の夜、父親はルビーに「自分の為に歌ってくれ」と言う。
そして歌うルビーの頬を、喉を指で触り、聴こえない娘の声を感じようとする。
最も愛する子供の声を聴けない絶望と悲しみを、まるで今初めて思い知ったかの様に。
聞こえる筈のない声を必死に聴こうとするその父親の気持ちに、自分は涙を禁じ得なかった。
誰も悪くないストーリー
外野からみれば、マサチューセッツの漁村に生きる彼らの世界は美しいと思ってしまう。
それは外野だからで、実際の彼らは、魚の臭いをまとっていたり、生活もぎりぎりで、余裕なんてとてもない。リアルは生々しいはずだ。
この家族だって、外からみれば、ただ温かいだけのストーリー。でもリアルはもっと生々しく、愛だけでは割り切れない現実がある。家族を愛していても、家族が困るとわかっていても、自分の才能をのばして違う環境で羽ばたきたいって望みは抱いたっていいはず。そして家族はそれを手放しで応援してやりたいけれど、現実は手放しとは言えない。
演奏会で歌がきこえないからと手話で会話する両親。その後で、彼らの世界を体感させられることで、彼らの感覚にちょっとだけ近寄れる、あくまでちょっとだけ。
よくある優しいストーリー。ちょっと切なく、ちょっと温かい。
久々号泣した
まず主役のルビーちゃんの歌声の沁みること!
漁業という異色の組み合わせも面白い。
そして手話で語られる言葉と感情の幅広さと深さ。どこまでリアルかわからないが驚かされる。
そして聾唖の家族の逞しさよ。
父母兄と全員聾で、かつ家族に健聴者もいるからこそ仕事も成り立ち、家族の中では怯えることなく、遠慮することなく、明るく生きてこれたということなのか。きっと日本ではこんなに前向きにいられる環境はあまりないのでは。。と思った。かといって周りも優しい訳ではなく、ひどいイジメや中傷に晒される。なのに強く生きている。
うるさい兄の頼もしさ。後半の怒りの台詞が心に響く。かわいそうと色眼鏡をかけてみていなかったかと省みる。助けているつもりが本当に彼の頑張りの横槍になっていたのかと。
コンサートのシーンの演出は予期していたものの、感情移入して涙が止まらなかった。なのに静寂の中泣けない鼻噛めない辛さ。。合わない手拍子を見るステージ上の娘の気持ちはどんなだろう。
映画としてもとてもテンポ良かった。膝に乗せた荷物を後で床に置こうと思ったままひきこまれて気づいたら終わってた。手話シーンが多く、字幕を見るのに忙しかったのもあるか。
実際日常の手話は伝えたいことをもっと端的に伝わるよう表現しているのだと思う。けど、愛の言葉や卑猥な言葉、怒りや複雑な感情まで映画のように手話で表現できるとしたら、本当に大事な手段。今はテクノロジーも寄与するとしても、もっと健聴者にも浸透するようにできないかと思う。
大好きな映画になりました。
映画館のロビーで予告が流れていて気になっていました。
公開期間中に観にいけず、映画館で観ることを諦めていましたが、アカデミー賞後に上映を再開する劇場があり今日行ってきました。
予告みて泣きそうになっていたので一応ハンカチを持っていきましたが、持っていって正解でした◎
ルビーがオーディションで「青春の光と影」を手話をつけて歌う場面が本当に良かったです。
学校の合唱クラブの発表会で、お父さんが周りの人の表情や様子を見て娘の歌の素晴らしさを感じているのも良かったです。
愛は家族と歌声の中に
祝!本年度アカデミー賞作品賞受賞!
本公開は1月21日だったけど(ちなみに私の誕生日)、隣町ではロングラン上映しており、オスカー受賞した事もあって、ミーハーながら観に行ってきた。
公開時からの評判の良さは聞いており、勿論気になっていた作品だったので、絶好のタイミング。
にしても、本作のオスカー作品賞は驚きだった。当初は本命でも何でもなかった。
だって、作品賞を狙うのに絶対候補を落としてはならない監督賞や編集賞にノミネートされず。ノミネートされたのはたったの3部門(作品・助演男優・脚色)。おまけにフランス映画のリメイク。
なのに、徐々にダークホースになってきて、オスカー直前の組合賞を受賞してからは本命視に。その勢いのままオスカーもかっさらっていっちゃった感じ。
まあオスカーでは度々ある番狂わせとは言え、如何にこの作品が愛されたかという事だろう。
実際作品を見て、納得。
今回の作品賞ノミネート作で、(まだ全部は見てないが見た中では)、一際インパクトあったのは『パワー・オブ・ザ・ドッグ』。個人的に推していた。
紛れもなく傑作で2021年公開作の中でもBEST級だが、見る人を選ぶ。支持する人は支持するが、支持しない人からは拒絶される。それほど異質な作品。
2018年の『ROMA/ローマ』vs『グリーンブック』と似ている。実際、“2021年の『グリーンブック』”とも形容された。
誰からも愛される作風。よほどのひねくれ者か感動やハートフルが嫌い、はたまた全く映画を観ない人でもない限り、本作を嫌いになる人はそう居ないだろう。
“聾唖”を題材にしている以外、非常に普遍的な作品。砕いて言えば、ベタで王道。
耳が聴こえない家族(両親・兄)と、唯一耳の聴こえる娘ルビー。
ずっと周囲との“通訳”として家族を支えている。家業の漁も手伝う。実に孝行娘なのだが…、
学校では孤立。“コーダ”であるが故に。“コーダ”とは、耳の聴こえない親の下に産まれた子供を指すという。
歌う事が好き。合唱クラブに入る。動機は片想いの男子が入ったからなんだけど…。
顧問から歌の才能を認められる。コンサートに向けての個人レッスンと音大への薦め。
家族の事を思って留まるか、開けた才能に向かって進むか。
少女の葛藤、青春。
夢。
家族愛…。
話的にも題材的にも特別目新しさは無い。
が、それを実に巧く語っていく。
まるで、素敵な歌が心にスッと入っていくかのように、心地よく。
2時間があっという間。もっとこの素敵な歌声に浸っていたかった。
ルビーはまだまだ10代なのに、苦労や悩みが絶えない女の子だ。
荷が重いほど、色々なものを背負っている。
自分の事、漁業の事、家族の事…。
家族が大事。何より家族の事を思っている。
だから心配。私が居なかったら周囲とコミュニケーションが取れない。
漁以外何も出来ない。唯一出来る仕事。聾唖者の上に無職なんて、酷。
漁業組合でトラブル。金だけ搾り取っていく国の寄生虫に頼らず、自分たちで独立。尽力。
だけど、自分にもやりたい事がある。歌いたい。
どれが一番大事?…なんて優劣付けられない。どれも大事。
だから、悩む。悩む。悩む。
その姿に我々も一緒になって悩み、共感し、“エール!”を送りたくなる事必至!
母にとって娘はまだ“ベイビー”。が、父は“昔から大人”。
親の手を借りないと何も出来なかったら、“ベイビー”と呼ばれて致し方ないだろう。が、ルビーは真逆。寧ろ一人で、あれこれこなしている。
“ベイビー”なのは家族の方かもしれない。
娘が居ないと何も出来ない。周囲とのコミュニケーション、漁で娘不在時の通訳の手配など。
何もかも娘任せ。頼りっきり。
ルビー本人は家族を支えなければならない責任や役割を自覚しているだろうが、束縛や依存は双方にとっても良くない。
ルビーにも自分自身の人生や夢を追う自由がある。
本作は聾唖者であっても健常者と変わらぬ生き方(漁業で生計を立てる)やユニークさ(いんきんたむしになろうともSEXしたい!)を描きつつ、全肯定ではない。
ルビーが同行しなかったある漁で、沿岸警備船からの無線に気付かず、免停。
この時の無線は注意勧告だったが、もし急な嵐の接近とか、命に関わる報せの無線だったら…?
聾唖者だから無線に気付かないのは無理もないが、だからこそ尚更彼らにとっては生き辛い。
酷な言い方かもしれないが、最低限の準備や手配は自分たちでしなければならない。
いざって時、社会は助けてくれない。貧困層の障害者家族の事など殊更。
言葉で訴えが伝わらぬなら、行動で示す。例えそれが大荒れの海原への船出であっても。
まさに“ルビーの輝き”。エミリア・ジョーンズの等身大の魅力と好演。
手話と歌を学びに学び、取得。通常ならどちらかだけでも大変なのに、その二つを器用にこなす。
クライマックスは歌と手話を同時に。圧巻のパフォーマンス。映画史に残った名歌唱シーンと言っても過言ではない。
周りも実にいい。俳優組合賞のアンサンブル・キャスト賞受賞は、こりゃ当然。
『愛は静けさの中に』以来の当たり役で魅せてくれたマーリー・マトリン。ちょっと心配性でちょっとウザい母親を、いるいると思わせる。
気軽に手話で貶す呼び合いしながらも、度々本当に衝突する兄。妹は特に両親から頼られ、これでも“兄”という立場上うっすらジェラシー。それは同時に、妹を足枷から解放してやりたいという陰ながらの思いやりもある。
顧問の“ミスターV”も良かった。指導はかなり風変わりで型破り。しかし、“見る目”と“聞く耳”は確かで、指導者としての才能の引き出しは確か。ルビーにとっても夢へ進むきっかけを与えてくれた恩師。(やりようによってはルビーとミスターVだけでも、教え子と恩師の一本の作品が出来そうなくらい)
そして、本作の“大黒柱”は言うまでもない。
トロイ・コッツァー。
誰もが彼に魅了される。
誰もが彼に笑わせられ、目頭熱くさせられる。
名演。熱演。体現。見る者の心を揺さぶる、助演の鏡。
ちょっとのお下品さ(いや、ちょっとどころではないかな…?)や不器用さは憎めず、チャーミング。
“海の男”としての逞しさ、荒々しさ。漁師たちと組合が集まった話し合いの場で、いつもなら耳が聴こえない故発言などしなかったが、溜まりに溜まり兼ねて発言。その内に込めた“言葉”に、皆賛同。それほど漁師として漢として、熱いのだ。
滲み出る家族への優しさ、愛…。
特筆すべきシーンがあった。クライマックスのルビーの歌唱シーンもいいけど、個人的に本作のハイライトだと思っている。
娘も出演するコンサートを鑑賞。コンサートの途中、無音になる。我々観客も父親と同じになった視点の演出で、
自分は耳が聴こえないから娘の歌声も聴こえない。が、周りの観客は娘の歌声を聴いて感動している。娘がどれほど素晴らしい歌の才能を持っているか…この無音になったシーンで実に分かる。
それを目の当たりにした父。支えられていた立場から、これをきっかけに娘を支え、夢へ応援。
名演も役回りもシーンも、全てが美味しい。
アカデミー助演男優賞は、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』の“実は真の主人公”だったコディ・スミット=マクフィーを推していたが、こうして見てしまうと、コッツァーに一票投じたくなるのも分かる。と言うか、両人とも素晴らしくて決め切れないほど。2015年の『クリード』シルヴェスター・スタローンvs『ブリッジ・オブ・スパイ』マーク・ライランスに匹敵する頂上決戦であった。
コッツァー自身も聾唖者。彼が役者を志したのは、『愛は静けさの中に』のマーリー・マトリンを見て。そのマトリンと本作で夫婦役。
もう何て言ったらいいのだろう。数奇な運命、奇跡、巡り巡って至った必然…。
それはきっと、本当にある映画の不思議な力他ならない。
俊英女性監督シアン・ヘダーの温もり溢れた演出、優しい眼差し。
オリジナルは酪農らしいが(オリジナルの『エール!』はまだ未見)、漁業に変更。監督が海辺の町で育ったらしく、自身の思いを美しい海辺の町の風景に込めて。
コッツァーやマトリンら実際に聾唖者をキャスティングしたこだわり。昨年度の『サウンド・オブ・メタル 聞こえるということ』共々、今後の聾唖を題材にした作品へ多大な影響を与え続ける事になるだろう。
それは同時に、障害者だからと言って不可能な事はない、何にでも挑戦出来、活躍の場が与えられ、自由に羽ばたけるメッセージが込められている。
オチも分かり切っている。分かっていても、いい。
やがて子供は巣立つ。それが大人になった子供というものだ。
家族はそれを見送る。それが家族というものだ。
「行け」…父親が唯一発した一言がまた泣かせる。
支えて、支え合って。
例え離れようとも心はいつも繋がっている。
家族は変わらず一緒。
家族ももう自分たちだけのフィールドに留まらず、きっとやっていける。
愛娘も自分の夢をさらに目指していける。
そんな勇気に励まされて。
そんな愛に包まれて。触れて。
そんな家族の下に産まれて。
この上ない幸せ。
素敵なうたをありがとう。
音をみせる凄い映画
家族愛や歌の上手な主人公…きっと感動するだろうと思い見に行った。しかしそんな簡単な映画ではなくて『音』について考えさせられた作品だった!
背中かゾクっとして金縛りにあった様な感覚を映画館で味わったのは初めて。ある一瞬数秒だが体感した無音の耐え難い感覚はこれからも残るだろう。
ゼログラビティの時とは反対。
あの時は息が出来るとか緑が綺麗だとか嬉しい感覚が後から来たが今回は広い映画館で初めて味わう孤独で海の中にいるような静けさ。主人公の明るい家族たちとも対照的な孤独。こんな無音な中で生活をしている人たちが実際にいるのだと言う現実を思い知らされた。
観て本当に良かった!
一人で観に行くのがベスト。良い映画だった
主人公の家族がとても下品で最初最後まで見れるだろうか?って思いながら見てました。
知人とそういったシーンを一緒に見るのが苦手なので一人で行ってよかった。
ある種下品なそのやり取りも慣れてきて、最終的にとても感動しました。
父親の生き方には全然共感できないけど
耳が聞こえないが故に我が子の歌がステージで周囲を感動させているのに
他者の様子からでしか、それを感じ取ることが出来ない。
見てて切なくなったし、すごいシーンだなって思いました。
その後の野外で歌うシーンで少しでも我が子の歌を感じ取ろうとする父と
その父のために歌うシーンがドストレートに突き刺さりました。
泣いた泣きましたよみっともないくらい泣いた。一人できてよかったよ。
僕が見た時はエンドロールで誰ひとり立たなかったですね。
リメイクなのを知らないくらい不勉強な僕ですが、
すごくいい映画だったと思いました。
特殊性から考える普遍性
「耳の聞こえない両親のもとで育った子ども」というのは、あまりない環境だと思う。そういった環境に名前があることも、この映画を見るまで知らなかった。映画には、こう言った自身の知らないことを教えてもらえるという良い面がある。
しかし、この映画が素晴らしいのはそこだけではないように思う。この映画の中に描かれていたのは、伝える手段を持たない相手に、どうやって伝えるかという普遍的な「相互理解」だったのではないか。「歌うときどんな気分だ?」と聞かれたとき、彼女は「気持ち」という抽象的な概念を伝える「言葉」を持たない。そのとき彼女がたどたどしく表現した「言葉」がかくも美しく、感動的だったのは、苦しみながら紡ぎ出すように生み出されたものだったからだ。娘の歌を「聞く」ために、すがるように喉元に手を伸ばす父があんなにも悲しく美しかったのは、決して叶うことのないものを理解したいという渇望があったからだ。自分の気持ちや家族という、一番わかっていると思い込んでいるものに対して、わかり合いたいという人間の本質が描かれている素晴らしい映画だった。
I've looked at life from both sides now
I really don't know life at all
私は耳の聞こえない世界を本質的に知ることはできない。それでもその世界を理解したいと思う。私は何も知らない。それでも想いを伝えたい、想いを理解したいという気持ちは普遍的なものだ。この映画は決して自分と違う境遇の人間の話ではなく、私の話だ。アカデミー作品賞、伊達ではない。
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