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消化し切れない何かが、観た後にもやもやと残る。自然に共感出来て後腐れない感動を得られるような類の作品の対極だ。
主人公レダの不穏な行動について直接的な動機の説明はないし、作中で肯定も否定もされない。彼女の過去の描写とオリビア・コールマンの表情が謎解きの鍵だ。
解釈の余地が多いという意味では、見応えがある。
レダは一人旅のリゾート地で子連れの若い母親を見かけ、幼い娘を育てていた頃を思い出す。それはどうもつらい記憶のようだ。その後遭遇する、リゾート地ではよくありそうな小さな不愉快の数々が、回想でセンシティブになった彼女の心をますますささくれ立たせる。
浜辺でイタリア系アメリカ人の陽キャ大家族に場所を譲るよう言われても、レダは譲らない。正当な意思表示だと思う反面、頑なすぎるようにも見える。
そして行方不明になった子供を見つけて感謝される出来事の陰で、レダは人形を盗む。昔彼女は、自分の大事な人形を娘が粗末にしたことに激昂した。窓の外に投げた人形は粉々に割れてしまった。その時の心の傷か自責の念か、何かを癒すように彼女は盗んだ人形を慈しむ。
知的で犯罪とは無縁に見える彼女が何故、そんなことをしたのか。
レダは自分自身の母親から愛情を受けられなかったのでは、というのが最初の率直な印象だった。
回想シーンの後半で、育児の協力をレダの母親に頼もうとした夫に彼女は「復讐なのね。母に預ければ2人が泥沼に落ちる。私が必死で抜け出た泥沼に!母は学校も出ていないのよ」と言い放つ。
どのような泥沼かは知る由もないが、親の学歴への言及や、序盤にライルから先生かと問われ教授だ、と答える時の微妙なニュアンスを思い返すと、レダは母親の無学がその泥沼の要因のひとつだと思っているように感じた。(ただ、この母親はその後夫と協力して3年間育児をしており、娘たちも特に問題なく大人になっているようで、客観的に明らかな問題がある母親なのかは分からない)
そうすると、彼女が研究に打ち込む姿やリゾートに本を持ち込む姿が、ただ単に研究が好きだからというより、無学な母親の轍を踏まず泥沼から抜け出すための彼女の足掻きのようにも見えてくる。教授の肩書は泥沼から抜け出たことの証しだ。
それでも母の愛の欠乏による心の穴は埋められない。自分が愛に飢えた経験しかないので娘の愛し方が分からず、むしろ自分が抱えたままの欠乏感を誰かに満たしてほしいという思いが募る。家庭では母としての振る舞いを求められるので、家族と無関係な立場の男性たちに癒しを求める。
リゾート地で見かけた若くて一見奔放な母子の姿に、最初は無学な母親の影を見出し、幼い娘に自分を投影して、その子の持つ人形にあの日壊した自分の人形を重ねる。しかし母ニーナが育児に疲れ果てていること、ウィルと不倫をしていることを知り、今度はニーナが自分に近い人間のように思えてきて、辛い過去を打ち明ける。さらにニーナと娘に対する罪まで打ち明けてしまう。
それが常識的に考えれば当然嫌悪される告白であることも分からなくなるほど、レダの心の古傷が開き、自分と似た精神状態のニーナなら分かってくれると思い込んだのかも知れない。罪を打ち明けた時のレダは、どこか幼児退行しているようにも見えた。
ラストで、レダは海岸で娘に電話し「生きてるわ」と言うが、原作では娘からの電話に答えてこう言うそうだ。「死んでるわ、でも元気よ」
ただ、愛情を知らない子が愛のない母親になる、という因果の話と言い切るにも違和感があった。そこでもうひとつ思い浮かんだのは、母性神話への疑問だ。レダは自分には母性がないと言ったが、母性の強さや育児における精神的キャパシティには本来個人差があり、相対的に人より早く限界に達してしまうこと自体にはいいも悪いもないのではと思う。
そうなった時に周囲や公的機関などに助けを求め負担を分散したり仕事量を調整するという割り切った行動を出来るか、またはそれが可能な状況にあるか、周囲が注視して母親を助けるか、といった要素の方がはるかに大切だ。本作はそのあたりの歯車が何らかの事情でうまく回らなかった女性が自身の母性のなさそのものを呪う、悲しい話であるようにも思えた。
書ききれなかった部分にも気になる描写が多々あった。つらつら書いたがこの解釈が合っているのかどうかもよく分からない。休暇に来ておいて独り相撲で余計疲れ果てた話という見方もありだし、母親失格の女の不愉快な話と、切って捨てることも自由だと思う。
ただ、登場人物を善悪で断罪することを避け曖昧な結末にすることで、見る側の価値観をあぶり出しさまざまな想像をさせる、触媒のような作品であることだけは間違いない。