わたしは最悪。のレビュー・感想・評価
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ただ、本能のままに突き進んだだけ……それって最悪ですか?
「わたしは最悪。」というタイトルを聞いて、どんな最悪な人間の物語かと思うかもしれないが、ただ自由に、自分の思う方向に突き進んだ女性の物語である。
男性の場合は、自由に生きることは許される社会なのに、女性が自由に生きようとすると、結婚して子育てしないで生きることが、最悪とまでは言わないかもしれないが、イレギュラーな人間と思われてしまう風潮にある。
これも必ずしもそうとは限らないが、風潮的だったり、社会からの目的なことをいえば、浮気であっても男性り場合は許されるのに、女性の場合は許されない。
ただ本能のままに、ただ自由に生きただけなのに……そんな社会からの女性の見え方、見られ方を捉えた邦題となっている。
人生の中の選択によって、それなりの幸せな生活ができたかもしれない。家族が作れたチャンスもあった。しかし、彼女は自分の本能と直感を信じ、素直に生きただけ。結果的なそれが誰かを傷つけ、不幸になる人がいたとしても。
人間というのは、群れる生き物でもありなら、同時に個々の生き物でもある。他社のことを考えないで自分のために突き進むことが、果たして「最悪」なことなのだろうか……。
そんな究極の問いを、全編を通して訴えかけてくる。だからこそ、観る人にとっては身勝手な女性だと思うかもしれないし、一方では自由に生きて何が悪いと思うかもしれない。
観る人にとって、価値観が真っ二つに分かれるだろうが、それこそが人間というもの。すごくシンプルな物語でもあるのだ。
最悪とは思わないが、興味がすぐ変わるわがままな三十路女
30歳になったユリヤは、医学部に通ってた学生だったが興味が無くなり、心理学に変えたがこれも続かず、カメラマンになったり、書店で働いたり、と仕事を決めれずにいた。40過ぎの恋人アクセルは漫画家として成功し、最近結婚願望を口にするようになった。ある夜、招待されていないパーティに入ったユリヤは、若く魅力的なアイヴィンに出会った。ほどなくしてアクセルと別れ、新しい恋人と同棲する様になったユリヤは、妊娠し、そして・・・てな話。
頭も良くて何をやってもそつなくこなすユリヤだからこそ、興味がすぐ変わり、自分がしたいことしかせず、男も次々と変え、みたいな、可愛いけど全く共感出来ない女性だった。
悩めるアラサーの物語だったのかな?
母は、祖母は、曽祖母は、なんてさかのぼるシーンが有るが、みんな悩みながらも子作りしたんだよ、ユリヤも・・・という事?
何を訴えたかったんだろう。よくわからなかった。
人生は選択。。
予告編で、時間の止まったオスロの街を疾走する映像を観て、観たい!と思った映画。本編でも、このシーン、良かったー。あと、マジックマッシュルームのシーンや、アクセルがエアドラムするシーンとか、とても印象的なシーンが散りばめられてました。章立てになっている構成も良かった。
仕事や、恋愛や、結婚や、いろんな場面でユリアに共感しました。人生の選択、後悔もあるし、人を傷つけたり、自分も傷つけたり‥切なくて愛おしい。
しかし、ユリア役の女優さん、いろんな表情を見せて、すごく魅力的だったなあー!
切ない気持ちになった
突然気が変わったり、100年の恋も覚めちゃうみたいな瞬間ってよくわかる。
そんな瞬間の表情がスクリーンに映し出されるたびに、切ない気持ちになる。
悲しいかな、どこまで行けども人間って孤独なものだってわかっていても切ないものだ。
1人が清々しくもあり、でも心を求めたり。
わたしは最悪ってよりも、わたしは厄介って方がしっくりくる。
それくらい特別なことでもない気がした。
後悔したくないです、人生は。したくないですけどねぇ・・・
やりたいようにできない。いや、なんやかんや理由をこじつけて「しないだけ」なのかもしれません。自分がやりたいようにやっている人は自分勝手、エゴイストなどなど言われちゃいますよね。相手からみたら、こちらの事情を加味してもらえないような行動をされたら憎しみしか持たれないかもしれません。自分以外の人(相手または第三者)には悪かもしれないけど、自身の心のままに、自身でたどり着いた判断と答えに従って生きることは自分自身にとってどれほど誠実か?1人で生きているわけではないこの人生でどれだけ自分自身に誠実でいられるだろうか?少しでも相手や環境、事象のため、、、、という判断基準があったとき、後悔なく死ねるのだろうか?なんて思っちゃいました。
ユリヤは無軌道で自分勝手、はたまたワガママみたいに映りますが、彼女なりの論理があってこそなんですよね。そして、彼女の言動・行動は自分自身に正直でありたいけど、できない人々の願望の具現化ではないでしょうか?しがらみから解き放たれる時のユリアの表情は最高にいい笑顔ですし、多くの方がこんな解放感を味わいたいはずです。
本作で描かれるのはユリヤの選択。彼女が自分に誠実に選択して、自分の足で歩いていく人生のお話。「自分らしく生きる」できるようでなかなかできないと思われるその生き方をときどきユーモラスな場面を差し込みつつ、軽やかに描いてくれています。人生って無数の選択肢とゴールがあると思います。その結果のエピローグでのユリア。彼女がどう見えるか?は人によって変わると思います。多分歩んできた人生の違いで捉え方が変わるような気がします。いろんな人の意見を聞いて見たいです。僕は「彼女の潔さが作った幸せ」を感じましたよ。「私はこれ"が"いい」って言っているようでした。こんな格好良い生き方憧れます。
そうそう、キッチンのスイッチ「パチンッ!」からの時間よ止まれ演出はサイコーでした。
僕は昔、付き合っていた彼女に青天の霹靂のような一言を唐突に言われたことがあるのですが、このシーンを見たら、「あぁ、そっかそーいうことだったのか!」って納得できましたww
このシーンだけで評点は+0.5です。見事なシーンでした。
『花束みたいな恋をした』みたいな
『世界で一番最悪な人間』とは一体誰のことなんだろう。新しい物を見るとすぐに目移りする主人公ユリアなのか?それともアングラコミック界で成功をおさめ、ユリアと同棲をはじめるアクセルのことなのか?GUARDIAN誌のピーター・ブラッドショーに言わせると、アクセルがその『世界で一番最悪な人間』らしいのだがどうもストンと腑に落ちない。全く個人的な意見で申し訳ないのだが、ユリアの誕生日に「腰が痛い」と言って姿も見せず、ユリアに使用済みのタンポンを夢の中で投げつけられる、母親と自分を捨てて別の家庭を持った父親こそ、監督ヨアキム・トリアーが“最悪“だと思っている人物像なのでは、と思ったりしたのである。旧態依然とした道徳や倫理にいまだ縛られてている保守的な方が見ると、定職にもつかず男を取っ替え引っ替えしているモラトリアム女子ユリアこそ最悪に思えるのかもしれないが、「そんな超テキトーなところが最高なのさ」と少なくともヨアキムは思っているに違いない。
デンマーク生まれのノルウェー人ヨアキム・トリアーは、本作をオスロ三部作の最終章に位置付けしているらしい。ノルウェーの首都オスロの都市化とともに、そこに暮らす人々がどのように変化し、そして映画監督としての自分がどう変わっていったのか、はたまた、変わっていくのかを、静かに見つめた三部作だったのでないだろうか。前二作はいまだ未見なので偉そうなことは書けないのだが、三部作に共通して出演している俳優アンデルシュ・ダニエルセン・リーや、本作の主人公ユリアにある程度自己投影している映画のような気がするのである。キャリアアップしていくパートナーの華々しい活躍を横目で見ながら、いまだ何者にもなれない自分にフラストレーションが溜まっていくユリア。「まだ硬くなっていないふにゃチンが好き、私がこれから硬くしてあげられるから」言い換えれば、(何者かになる前の)他人に何がしかの影響を与えられるインフルエンサーになることがユリアの夢だったのだろう。最後は写真家として生計を立てていきそうなユリアの姿に、そこはかとなくヨアキムの“残像”が重なるのである。
本作をみた某映画評論家が坂元裕二脚本の『花束みたいな恋をした』みたいな映画だと感想を述べていたが、大量の情報を与えられ生き方のチョイスを迫られるユリアは、まさに花束のようなコンテンツに囲まれ生き方を見失っていく日本の若きカップルそのもの。確かに、ポップカルチャーを武器に世間(この映画の場合はオスロという都市)と対峙しようとする麦と絹の姿は、アクセルとユリアの生き方に似ているのかもしれない。漫画家のアクセルが自分の仕事に埋没していく様子は麦のリーマン生活そのままだし、ユリアが都市をおし流していく時間の流れを一旦止めて不倫相手に会いにいくシークエンスは、絹がゴールデンカムイやゼルダの伝説にのめり込み現実逃避をはかる様子にそっくりだ。結局、麦と絹が世間という大衆社会に屈服し飲み込まれていくのに対し、フェミニズム的コンプライアンスに対決姿勢を崩さなかったアクセルは病死、ユリアはその遺志を継いで映画のスチールカメラマンになるのである。
ユーロ系の才能ある若き映画監督(アリ・アスター、ロバート・エガース…)が、スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマンの影響をそろって口にするのを最近よく見聞きする。ヨアキムもまた、無意識のうちにベルイマン作品に影響を受けていたことをインタビューで語っていた。どれが本当の顔かもわからないほど何枚もの“仮面”を被っては捨てていくユリア。そして、娘の生き方に全く無関心、訪ねてきた娘に再婚した女の娘と同じジャージをプレゼント、腰痛を理由にソファに座ったまま動こうとしないユリア父の姿に、沈黙する神との共通項を見出したからではなかろうか。そんな最悪の神に対峙するためには、アクセルのように一つの生き方にこだわった末に病死するのではなく、人生いきあたりばったりのユリアのようなフローティングする生き方がむしろ相応しいのではないか。女性の寿命が35歳までだった時代とは違って、人生の選択にかける時間はたんまり残っているのだから。そんな寓意を感じた1本である。
リアリティとロマンティシズムとファンタジックの見事な融合
優秀であるが故に自身の活かし方を見つけあぐね、理想とは遠い現状に焦りを感じつつも甘んじているアラサーのユリヤの、最後の自分探しの顛末。
物語の中で一貫しているのは、ユリヤが自分の気持ちを最優先に決断をしていること。
歳の差に躊躇する男に積極的にアピールして交際を始めたり、仕事で成功している彼に劣等感を感じたら酔った勢いで気のあった優しいだけが取り柄の男に乗り換えたり。
30歳になってもまだ自分探しの真っ只中。どうにか自分が自分の人生の主人公になりたいと足掻く彼女に、運命はあまりに手厳しい現実を突きつけ、結果それが彼女に待ち望んだ転機を与える。
物語は序章と12の章、終章の14の章で構成され、それぞれが彼女の人生の小さな転機であったり終わりだったり始まりだったりして、それぞれのユリヤの葛藤や希望や後悔を演じ分けるレナーテ・レインスベの躍動感とリアリティが素晴らしい。
監督の前作「テルマ」では終始不穏な空気が漂っていたけど、今作ではコメディの軽いテイストでありながらどこか不安定な危うさが感じられた。そして変わらぬ映像美はさすがトリアー監督。今回はロマンチック且つファンタジックな演出も。
ラストシーン、人生の勉強代と言ってしまうにはちょっと手厳しい経験を経て、ユリヤが選び決断した現在に、小さくエールを送りたくなった。
小便博覧会
作られた国こそ違いますが「リコリス・ピザ」がクソほどハマらなくて、同じように走ってるシーンがあり、アカデミー賞ノミネート作品、しかも同日公開と変に縁のある今作も警戒しながら鑑賞しましたが、残念ながら全然ハマりませんでした。
なんてったって主人公ユリヤが好きになれません。恋愛映画は魅力のある人物であって欲しいんですけど、「リコリス・ピザ」同様そこそこのクズ且つ自己中で自分を否定しない傲慢女と、個人的には1番嫌いなタイプでした。
歳の差を気にしつつもユリヤを気にかけてくれてるアクセルが良い奴すぎるのもあって、よりユリヤの悪質さが目立っているように思えました。新しいもの、ときめくものがコロコロ変わって、八つ当たりなんかしちゃって、お前何様だよーって思ってしまいました。自分は否定しないと言いつつ、とにかく上からねじ伏せるスタイルがキツかったです。時を止めて会いに行くという流れや、ドラッグを効めて変な幻覚を見たりとぶっ飛んだ展開に着いていけなかったのも楽しめなかった要因の一つです。
1番引いたのはトイレでお互いの放尿シーンを見せ合ったシーンです。ユリヤとコーヒーショップで働くアイヴィンが浮気か浮気じゃないか論争をしている最中トイレで小便ちゃ〜としているのを見せ合うとかいう物語の品をドカンと落とすようなシーンにはドン引きでした。なんでこれがアカデミー賞に?と思えるくらいでした。お国柄でこういう事は普通に映画に組み込まれるんでしょうか?日本じゃまずAVでしか見ないようなものでした。あとセックスシーンにモザイクがかかっていたのも萎えました。見せないスレスレのラインで煽ってくれるのが性描写強めの作品の勝負どころだと思っていますが、そこを放置した罪はデカいです。
終盤も取っ替え引っ替えな展開でユリヤの優柔不断さが露呈しており、病人であるアクセルのベッドに潜り込む流れもはぁ?って感じで鳥肌が立ちました。
絵作りとかが綺麗だっただけに価値観の違いが思いっきり出たなって感じです。今年のアカデミー賞との相性はかなり悪いです…。うぅ…。
鑑賞日 7/11
鑑賞時間 19:05〜21:20
座席 C-12
なぜこのタイトル?
のびのびと自分の気持ちに正直に生きる姿は、観ていて気持ちがよかった。私にも主人公と似たところがあると感じた。
こういう生き方に対し、呆れる人もいるのかもしれないけれど、自分の人生を悔いなく生きることに私は共感した。
「わたしは最悪。」ではなく「自分らしく生きるのは最高!」というタイトルにしてほしかった位です。
女の人生の充足は自立でこそ得られる
高い能力と魅力的な容姿を持ちながら、自分にしっくりとくる行き場所ややりたいことを見つけられない…という主人公。
医学部→心理学→カメラマン…と転々とした挙句に、男性と恋に落ちたところからドラマが始まります。
自立していない女性にとっての恋愛って、自分の人生を放棄して男の人生に乗っかってしまう形になりがちですよね。
漫画家としての才能を開花させている彼の隣で、彼女は次第に焦燥感を覚えるようになります。
自分の人生なのに脇役な感じ、というのは、先天的な能力の高さ故の葛藤でしょう。
でも、自分の人生を生きる、を実現する方法が次の男との恋愛…ということがまずかった。
外的な要素に幸せを期待しても、自分は満たされない。キャリアや人生に対する不安や不満は拭えず、優しくて相性のいい彼にも50年後もコーヒー売ってんの⁉︎とバカにして八つ当たりします。
彼女の男性に対する甘えや依存は、父親との関係に難がある女性によく見られるものなので、キャラ造形にとてもリアリティを感じました。
父親とも決別し、流産し、彼とも別れ、男ありきの人生を捨てて自立の道を歩み始めたラストシーン。
彼女が描いていた未来ではないにせよ、そこには充足があるのでらないかと希望が持てました。
人生って難しい
タイトル…、人生は選択。でもいいよね。
でも最悪なのに、笑顔で走ってるポスター見て、そのギャップにやられて、見たくなったから結果としてはオッケー?
みんなこれが正しい!と思って突き進むことなんてできてないと思うし、(私も迷いながらあーじゃない、こーじゃないと進んでいる。)みんな思うことは同じだと思う。
妥協しないって言ったらかっこいいけど、
その先に、後悔があるかもしれないって考えると、ついつい、楽な方を選んでしまうよね。
人生って難しい。
人生の分岐点でまた観たい映画のひとつ!
とりあえず、呼ばれてないパーティに飛び込みで参加する主人公の強気な姿勢は大好きだし笑、
そのポジティブさでなんとかなってるし、
色気のシーンの色気がはんぱなくて、こちらも照れながら見ました。
余談だと、元嫁のインスタ面白かった。
いいね押しちゃったやつも笑いました。
1つのシーンがすべてを変える
主人公ユリヤはアラサー女子。
彼女は、映画の冒頭では外科医を目指す医大生だったが、「身体より心に興味がある」と言って、医学部をやめて心理学を学び始める。
もちろん、医学部に入る困難さは承知の上で。
ところが、ほどなくカメラを学びたいと言い出して心理学もやめてしまう。
その頃、ユリヤはマンガを描いている恋人アクセルと出会い、同棲を始める。年上のアクセルは子どもを持つことを願うが、ユリヤにその気はない。
あるときユリヤは偶然出会った若いアイヴィンに惹かれる。そして彼女はアクセルと別れ、今度はアイヴィンと暮らし始める。
本作はプロローグと12の章、そしてエピローグからなる。
終盤の第11章、ユリヤは、アクセルがガンに冒されていることを偶然知り、病院に見舞いに行く。
邦題「わたしは最悪。」は英題「The Worst Person in the World」(世界で最悪の人間)の、ほぼ直訳である。
ここまで見る限り、ユリヤは自分で選んだのに簡単に心変わりして、フラフラと生きているように見える。
でも、本人は絶対に自ら「わたしは最悪。」なんてことは言わないだろう。もちろん、「世界で最悪の人間」という自覚もない。
では、このタイトルの意味は、どう理解すべきか?
アクセルの見舞いに行ったとき、ユリヤは妊娠していた。だが、彼女には産む覚悟もなく、アイヴィンも、そのことを望んでいない。
そしてアクセルには死期が迫っている。皮肉なことにアクセルは、ユリヤとの子どもを持つことを望み、彼女と一緒に人生を歩みたいと思っていたのに。
病室でアクセルはユリヤに「君は最高だった」と言う。
病院の食堂のような部屋でテーブルに座り、2人は話している。ユリヤがアクセルに手を伸ばす。
そのときカメラのアングルが変わり、天井から見下ろすショットになった。こんなショットは、本作では、ここしか出てこない。
ユリヤとアクセルを俯瞰するカメラ。
このショットは、初めてユリヤが自分を(見下ろすように)客観視した、ということを表しているのではないか。
自分のお腹に宿った新しい命。
そして死にゆく元恋人。
命に関わる事態に直面して、このとき初めて彼女は悟ったのだ。
「わたしは最悪。」だ、と。
このとき、ようやくユリヤは自分自身を振り返った。
「君は最高だ」と言ってくれたアクセルに、ユリヤは応えない。
が、このとき心の中で呟いたであろうセリフがタイトルになっているのではないか。
例えば、アクセルと暮らしながら、ユリヤがアイヴィンのもとに走ったシーンでは、ユリヤとアイヴィン以外はすべてが静止していた。
それほど周りが見えておらず、それほど身勝手だった、ということだろう。
アイヴィンに出逢った日、同棲する恋人がいながら一緒にトイレに入り、「これは浮気じゃない」と言うのも同様だ。
終盤には、もう1つ気になる演出がある。
ユリヤの心情を説明するナレーションが入り、ユリヤが、その心情を表すセリフを言う場面がある。
ということは、この映画の中の時間はリアルタイムで流れているわけではない、ということだろう。
未来のどこかの時点から、過去を振り返って描いているのだ。
エピローグ、ユリヤは写真家の仕事をしている。
第12章とエピローグのあいだでユリヤはものすごく変わったはずだ。
第12章で初めて自分自身を振り返り、自分を見つめ、自分がほんとうに目指したいものは何かを本気で考えたはずだ。そしてユリヤは写真家になっていた。
だから、エピローグでのユリヤは、それまでの彼女とは全然違うということが分かる。
そして本作は、時系列としてはエピローグからの視点で作られているのではないか?
そのとき、映画としては、第12章とエピローグのあいだのユリヤを描くという選択肢もあったはずだ。
この間、ユリヤはアクセルの死に向き合い、そして真剣に悩み、やがて写真家こそが自分の生きる道だということを見い出した。そしてアイヴィンとは別れた。
だが、本作はそこを描くことは選択しなかった。
第11章までの“最悪”の期間を丁寧に描くことで、第12章のターニングポイントと、エピローグでの変化を鮮やかに際立たせて見せたのだ。
なかなかに巧緻な構成に唸る。
では、この「仕掛け」を用いて本作が訴えたかったメッセージは何か。
第10章までのユリヤはモラトリアムだったと言っていいだろう。でも、本作は第10章までの彼女を決してネガティブには描いておらず、むしろ肯定しているようにも見える。
自分で「わたしは最悪」とまで言っているにも関わらず、だ。
エピローグのユリヤは写真家を職業としているが、ここまでにくるには相当な苦労があったはずである。
(思えばアクセルと付き合う直前までは、彼女は写真を学んでいた。だが、アクセルと付き合っている間に写真からは離れたようだ。アクセルと参加したパーティで彼女は何をしているかを訊かれ、ためらいながら「本屋でバイト」と答えている。おそらく、せっかく始めた写真をやめてしまったことへの罪悪感からだろう。そしてユリヤは、死を間近にしたアクセルを撮影することで写真を再開する。ここまで彼女が写真を撮っているシーンはなかった)
他人は、「どうせ写真家を目指すのなら、もっと早く、その道を選べばよかったのに」とか言いがちだ。
でも、人は神様じゃないんだから、未来のことなんか分からない。だから、いつも人は迷いながら生きる。判断ミスをしたり、他人に流されたりして、選択を失敗することだってある(アクセルと別れ話をしているとき、彼女は雰囲気に流され彼とセックスしてしまうが、終盤の病院では、求めるアクセルの手を払いのけている。こうした対比も上手い)。
でも彼女はいつだって自分が信じる道を選んできた。彼女にとって選択してきたことは、すべてが、そのときどきで「必要なこと」だと言えるのだ。
だから彼女は、ラスト近く、偶然目撃したアイヴィンが結婚していて、子どもがいたとしても温かい眼差しで、その光景を見ることが出来る。
ラストでは、彼女は好きな写真を仕事にして生きている。だが、本作は、そこに至るプロセスは描かず、一見、遠回りしたようにも見える道筋を描く。
ということは、本作のメッセージは遠回りの肯定だろう。いや、人生に遠回りなんてない、とまでユリヤは言っているかも知れない。わたしを見て、そもそも、最短距離を行くなんてムリなんだから、と。
人生に失敗は付きもので、僕たちはとかく悔やんだり、悲しんだりしがちである。
でもユリヤは、そんな僕たちのことをどこまでも肯定し、背中を押してくれるようだ。
手遅れ感の表現かな?
すべてを失ってから、やっと「やるしかない」とキャリアが始まるのは、(重要性に気づかないまま死ぬ人間もいるので)いいんだけれども、「遅い」「手遅れ感」がすごいです。
そういった「失敗」を見せるのが目的ならば、成功した作品かもしれません。
軽く「なんかちがうな」だけで、仕事や恋人や家族を放り出して、自分探しに興じられるのは、恵まれた環境があるから。
許してくれる周囲の人間の存在や、社会福祉面の補助、金銭的に太い関係などが揃っているからで。
依存し甘ったれて、よりラクな方へ乗り換えしてるだけの人間は、幸せを目の前で逃がしていると言いたいのかな、と思いました。
行動力★5 忍耐力★1
行動力★5 忍耐力★1のユリア
幕開けから彼女の天真爛漫なペースに持ってかれて彼女に釘付けになる。
アイヴァントのパーティーでの秘密の言い合い。
勃つ前が好き。勃たせてあげられるのは私だから。
見られながら尿を出すのが好き?見るのが?
といった楽しいことを何でもできるアイヴァン。
でも文学やアートについては話せない。それを話せるのはアクセル。
年齢が離れすぎると、人生のステージ違いすぎて求めるものが異なる。
身を固めて子供が欲しいアクセルと、いつかは欲しいけど今ではないユリア。
結局はないものねだり。自分の欲のままにいきるユリアが1番素敵。
30歳のリアルを描いていてとても共感できふ部分が多かったけど、結局なんで写真だったんだろってちょっと疑問。
あと、時間止めたり薬でラリってる非現実的なシーンもいいね。
最初の黒いドレスでタバコを吸って立っている姿が、美しくて、惹き込まれました。
聡明な女性良いね。
映画の良さより主人公の価値観への嫌悪が勝った
ユリヤの周りの人は包容力があって良い人ばかりだったから許されていたけど、自己中心的で人を裏切ったり傷つけたりしてる所が、自分の中にも少なからずある嫌な部分だと思って、だからこそ彼女に対して強い嫌悪感・不快感をおぼえた。アクセルは本当に人が良すぎてその分可哀想だったけど、彼の運命を思うとユリヤくらい図太く生きた方が、一度きりの人生楽しいのかもしれないなどと思った。
わたしは私
タイトルは最悪ですが、中身は生き生きとした女性の自立物語としては、最高点をあげたくなる。今までいろんなタイプの女性像を映画で観てきましたが、こんな共感できるヒロイン像を作り上げるとは、この監督はかなりの切れ者とみました。
職業を転々とする自分探しは、あくまでも軽やかにすっとばし、me tooや環境問題等々を絡め、男が望む女性の姿は自分にはしっくりこないと言い放つスタイル等、「最悪」とは思えない位の吹っ切れ方ではありませんかね!?
古くは私は好きだったんですが、「欲望という名の電車」のビビアン・リーが演じた主人公。「草原の輝き」のナタリー・ウッドが演じたヒロイン等、ほんとうの女性の姿が描かれていたのかはギモンかな???
映画的に観たらあの時代はあれがベストのドラマツルギーなのかもしれないけれど、今は違いますよね。監督もいいし、脚本も素晴らしい。もちろん主役の彼女はベストな役作りで魅力的でした。
新しい時代の新しいヒロイン誕生ですね!
主人公を反面教師として行きたい
周りが結婚し子供のいる家庭を望む
さらに出版が成功し夢に向かっている彼
その中で主人公は孤独を感じる
なんで自分は中途半端なのだろうかって
だからこそ自分と価値観の合う同じような人を見つけて
好きになる、安心する
と思ったら妊娠をきっかけに関係は破滅
現実逃避したい、そしてその刺激に耐えてる私カッコいいでしょ!!!?
そんな感じが伝わってきた
でも最後、
元彼がベビーカーを押し奥さんといる姿を見て
逃げてるのは自分だけだと気づいたんじゃないかな
それと同時に
あいつはそんなもんか、私はまだ自由でいたいわ
とか思ったのかもしれない
自分は自分らしく生きたい!
そう言ってるけどひたすらに甘えている主人公
こんな30歳にはなりたくない!
でも
タバコの煙を吸い合うシーンすんごく美しかった…
痛みのない決断は無い
30歳という節目となる年齢の女性が主人公。
彼女のあらゆる決断を章立てた映像表現でいっしょに体験ができる作品。
そろそろ結婚しないと、子どももね
という周りからの声に対して、
あくまで自分自身の選択を尊重しようとする姿から
現実世界においての女性ならではの居心地の悪さがあるのだということに改めて気がつかされた。
男である私はこの女性の居心地の悪さについて今までに無い解像度で感じることができた。
作中、彼女があらゆる決断をするが
その決断は、自分の気持ちを尊重するためのものだが、必ず痛みは伴うものとなっている。
やはり痛みなくして前進はしないのだという
現実の厳しさを学んだ。
愛してるけど、愛してもいない。
基本自分大好き。感動している自分大好き。私はイケてる。
見た目は大人だけど頭は子供のような。
容姿が良く勉強もできるが世間知らず。
分からないことは否定する。苦手なことは認めようとしない。
向上心があるようで努力はしない。
相手を思いやるより自分の感情が1番最優先。
異性には積極的だが人には興味なし。
空気は読めるが気は利かない。
好き嫌いで選んでいる人生。
同じことを繰り返す成長しないタイプに見えてしまう。
できれば関わりたくないタイプだったりする。
こいう人いますよ身近に。好きにしてって感じ。
実は自分のことだったりする…
The worst person in the world
世界で一番最悪の人
なるほど…納得。
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