わたしは最悪。のレビュー・感想・評価
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わたし最悪。なるほど。共感する
個人評価:4.0
ゴーイングマイウェー。それは少なからず周りを不幸にして今の自分がある。30代や40代で、今の自分を振り返り、誰にも見せない自叙伝を綴ると、いかに自分を保ち先に進む為に、周りを不幸にしていたかと気付かされる。
元カレの台詞で、過去の思い出に想いを馳せるか、未来だけを見るか。どちらも今ここに生きていないと禅の教えを感じさせる。
本作の主人公は、ある特殊なキャラクターを描いているのではなく、誰しも歩んできた人生論を描いていると感じた。
わたしは最悪。なるほど。共感する
私が最悪
昨年のアカデミー賞で『ドライブ・マイ・カー』と国際長編映画賞を競ったノルウェー映画。
主演のレナーテ・レインスヴェがカンヌ国際映画祭で女優賞を受賞、その他多くの映画賞や映画祭で絶賛。共感も必至と評判も上々で期待していたのだけれど…、
う~ん…、自分には合わなかったかな。
描かれている事は普遍的。全世界や個人個人にも通じる。
30歳を迎えたヒロイン。人生の目的が定められずにいる。
自分の人生はこれだ!…とスパッと決められる人なんてそうそう居ない筈。仕事を転々としたり、思い悩んだり、一応今の仕事や人生を歩んでいるけど、これじゃないと感じたり…。
誰にだってある。私もそうでした。それに、時折今も思っている。
ならばこのヒロインには共感必至…とはならず。何処にでもいる平凡なヒロインに見えて、なかなかクセあって、その考えや身の振り方に共感出来るか否か。
実は割りと才能に溢れているヒロイン。並大抵の事はそれなりに出来る。
故にあれもしたい、これもしたい…。当初は医学の道に進もうとするも、心理学に興味持ったり、かと思えば写真家になりたいと大学を辞めて本屋で働く。
かなりのあっちにふらふら、こっちにふらふら。
人生設計もそうなのだから、恋愛に関しても。
年上のコミック作家と付き合う。描いている作品は時々物議を呼ぶ風刺的なコメディが多いが、性格は穏やかで優しい。おそらく、仕事も含め一緒になったら安泰。実際、彼は結婚を意識している。
だけど…。今一歩、踏ん切りや決心がつかない。
そんな時とあるパーティーで、年下の魅力的な青年と出会う。
お互い急速に惹かれ合う。
年上の安定した男性か、年下の魅力的な青年か。
彼女が選んだのは…、後者。
人の色恋に良い悪いは無いし、本人が選んだ事だけど、この時ばかりはしっかりとした理性より、女性としての本能や欲が出た気がする。
絡みは激しい。こっちも求めたり、あっちも求めたり。
それで幸せを見出だしたのならいいんだけど、喧嘩もするし、何処か元カレとは違うズルズルとした関係な感じだし、いつもながらの考え。
これでいいの…?
このヒロインの言動で、本作に共感出来るか否かのポイント。
揺れに揺れ動く心情は誰の身にも置き換えられつつ、つまりそれは優柔不断。見てて結構イライラもする。
恋に仕事に人生に、迷いに迷っているが、実は結構自己チューな気もしない訳も…。
“わたしは最悪”なんて自虐的なタイトルだが、行き当たりばったりのゴーイング・マイウェイ。
そもそもこのヒロイン像に共感を求めていないかもしれない。
共感というより、突き刺さるか、否か。
突き刺さる人には突き刺さるだろう。特に女性で、同年代、似たような経験があれば。
普遍的な人生右往左往物語として作り、誰にも思い当たる設定や要素を込めているも、なかなかどうして突き刺さらない。響かない。あくまで個人的見解として。
性別や国、これまで歩んできた人生などから来るのもあるかもしれないし、単にヒロイン像や話の展開が好みじゃなかったのかもしれない。
作品的には優れていると思う。
巧みな章仕立て。
描写はリアル。
レナーテ・レインスヴェは魅力的。好演。
“陽”なロマコメの雰囲気から、“陰”をも感じさせる切なさ、悲しさ。
ヒロインの喜怒哀楽、苦悩、成長、進む道…。
秀作ドラマ。
人は時に悲観的になる。“最悪”と思う事もしばしば。
しかしそこから、自分の“最高”を見つけ出す。
あまり好みの作品じゃなかったかもしれないが、作品自体は最悪じゃない。
まだまだ人生経験が乏しい私が最悪。
ある意味、自分の無能っぷりを思い知らされる衝撃作だったのかも…??
自分の中にある妄想と重なる
館内は女性だらけかと思いきや
男性ばかりに挟まれての鑑賞で意外でした
自分ならつっかえたまま何もしないままモヤモヤしてしまうけど主人公は気持ちに正直、悩みながらも変化していくところが気持ちいい
こんな人生も送ってみたいと思った
北欧版『大豆田とわ子』と書いていたレビューには共感できない
『大豆田〜』と似ているのは台詞とモノローグの形式のみであって、中身全然違うと思うんですが…
ユリヤとほぼ同世代独身女性ですが、全然共感できなかったので。
子孫を残すことに私自身が全く興味がないからかもしれない…ドラッグの幻想によってその強迫観念を示したり、彼女の奔放な男性遍歴を見させられたりしても、説得力に欠けているので、殆どが「このシーン要る…?」と感じてしまった。
ただ、人生の脇役のままである・傍観者のままである、という焦燥感だけは理解できた。
18世紀の女性は35歳が平均寿命で、愛のない結婚をしてたくさん子供を産んでいた女性も多かったと聞くと、30歳にさしかかっても人生が迷子であること、子を持たないことへの彼女のこだわりやリミット感みたいなのはあるのかもと思った。
皮肉なのは、最後の彼氏、サーミ人の血が入ってた彼女とヨリ戻して、結局子どもが産まれていたことかな。子を持つことこそ「持続可能な生き方」から盛大に矛盾してると思うのですが。
まあ、人の考えは変わるし、生きるとは変わることと思うと、そんなもんかなと思った。ユリヤこそ変わりまくって生きているわけだし。
被害妄想
静かに見れる作品。
そこそこのスペックはあるが、物事の楽しみがよくわからない若い女性が主人公。
平和だからこそ目標が無い、現代にありがちな人間姿を描いている。
それはある意味当人にとっては最悪なのである。
良い点
・アートか否か
悪い点
とくになし
その他点
・無駄に目標を持ったりするのはいかに?
尊敬もするけど大っ嫌い。
30歳になって、年上の恋人との関係もまずまず、仕事については書店で働きながらまだ模索中のユリヤが、新たな若い男と出会い舞い上がる話。
タイトルが「わたしは最悪。」のように、間違いなく私はユリヤのこと最悪だと思うし嫌い。でも、自由奔放に踊ってる姿は可愛いと思うし、自分の主張をハッキリと伝えられる頭の良さは尊敬する。でも、死にかけの元恋人に自分の迷いを解消したい(と私は感じた)がために会いに行く感じ本当に嫌い。でも、パートナーの意見に流されない姿勢はかっこいい。こんな無限ループに陥った。
#Metoo以降、やたら女性の目線に寄り添ってくれる作品が多い中、今作は主人公に適度に距離を置いた「まぁ女だってこんなもんでしょ?」という姿勢が正しいなと思った。女性映画は過剰に共感して燃え上がっちゃいがちなので。
最近言われてるジェンダーとか多様性とかなんだかんだって100やろうとするから疲れる。アイヴァンの元カノが環境問題とかサスティナブルに100傾倒していくのは疲れるけど、ユリヤのように譲るところは譲って(アクセルの漫画の時代錯誤なジョークとか私は許せんな)突き通すところは突き通すのがちょうどいい。
時間が止まったり、風景を見て泣くユリヤ、ヘッドフォンをしてドラムを叩く真似をするアクセルなどなど色んな印象的なシーンはあるけど、私はアクセルがフェミニストと口論になってる様子を見てるユリヤのシーンが印象的だった。今まで自分も感じた違和感を代わりに行ってくれて清々してるようにも見えるし、話せば話すほど失言をするアクセルへの同情か、久しぶりに彼を見れたことへの嬉しさにも見える。
ユリヤのチャーミングたるや。
ノルウェーのお国柄もあるのかもしれないけど、振り返ってみると「子供」が真ん中にあったドラマだったようにも思う。だからこそ、あくまでも女性起点で描いたということなのだろう。楽しかった。
時間が止まりオスロの街中を入るユリヤのランニングフォームは力みがなく、とてもキレイだった。手足も長くカッコいい‼︎いち一般ランナーとして見惚れたしまった。
30代が一番惑った
私は仕事も恋愛も30代が一番惑っていました。だから、ユリヤの気持ちが良く分かります。
紆余曲折あり、アクセルは亡くなり、ユリヤは流産し、アイヴィンには子供が誕生した。ユリヤに関係があった人達の生と死が見事に対象的に描かれており、私を含め全ての人に当てはまる実に普遍的なテーマを扱っていました。作品のメインはここかな?と思います。
生と死は刹那。人生は不確かで不条理。
ボヤボヤするなわたし❣️
“私の映画”では無かったけれど
本作も凄く評判が良いので観たかった作品です。
何故、評判が良いのかは観終わってよく分かりました。所謂映画好きが、観終わって色々な事を語り合いたくなる様な作品だと思います。
ジャンルは30代になった女性の自分探しの作品であり、それを時代性と普遍性を見事に重ね合わせ表現した優れた作品でした。
しかし、充分に優れた作品と認めながらも“私の映画”とは思えませんでした(苦笑)
まあ基本“女性映画”ですし、描かれているのは才能も容姿もの上層の(“上の下”か“中の上”)意識の人達の物語であって、中以下の意識の私の層ではない時点で“私の映画”にはなり得ないのは仕方ないのでしょうね。
この程度で“最悪”と言ってる時点で意識高い系の人達であり、特に欧米文化的な(パーティーからの煙草・アルコール・ドラッグ・SEX)シーンが必ず入るというのも“私の映画”から引き離す要素の一つになっています。
ただ面白いと思ったのは、よくあるこの手の“女性映画”にある成長(覚醒)物語というより、諦観というかあるがままの自覚というか(まあ、これも一種の成長であり覚醒なんだけど)そちら方向の作品だったのが、ある意味新鮮で面白かったです。一つでも強烈な個人的共感があれば、もっと好きになれた作品だったと思います。
秀逸な会話劇!
ノルウェー版大豆田とわ子、と書かれているのを鑑賞後に見たが確かにその通りだと思った。秀逸な会話劇が現代を生きる私たちに刺さるのだと思う。私自身、坂元裕二脚本のファンなのでこの作品はどストライクだった。音楽も場面に馴染みながら映画のテンポを良くしていて、見やすく、とても良かった。見てよかった!
「俺って最悪」・・・口には出さないが心密かに“自分って最悪”と思うことがある人に寄り添う秀れたコメディ(人生悲喜劇&讃歌)
①大変感心した。人生の色んな断面・人間の心の揺れ動きを様々な映像手法を駆使して綴っている。例えば、周りの全てが静止している中でユリアがアイヴァンに向かって走ってゆく(そして戻ってくる)一幕。今まで色んな映画で観たことのある手法だけれども、ここではスイッチが入ったらもう恋に向かって走ってゆくしかない(物理的な距離という意味だけではなく)気持ちを見事に伝えている。ホント、恋のスイッチが入っちゃったら周りの人も目に入らないし周りで話していること(それも私に対して話しているのにですよ)耳に入らない。恋する相手の事しか頭になくなるんだもの(経験者は語る)。“俺って最悪”と思いながらも、その裏で一生でそんな恋に巡り合えた自分は実はとても幸せ者だと思っている・・・ってやっぱり俺って最悪だわ。②お互いの放尿を観察したり(屁もこくし)、相手の腋臭を嗅いだり、吐き出した煙草の煙を吸い込んだり等々結構変態ちっくな描写が却ってリアリティーがある。どんな人間だって1つか二つフェチは持っているもの(実は自分の腋臭や足の匂いが好きだったり。人には言わないけどね)。そういうところを然り気無く挿入してくるのが巧いね。③ヨーロッパ映画らしく考えることは結構しつこい。「#Me Too時代のオーラルセックス」なんて笑っちゃうけど、なかなか日本ではこういう発想は出てこない。「ボブキャット クリスマスをぶち壊す」のアクセルとフェミニズム活動家(?)のラジオでの応酬合戦もなんか面白い。人間を描くと言うことでは(人間を描くということと人間社会を描くということとは違います)、昔から日本映画やアメリカ映画と比べて一日の長があるヨーロッパ映画だけれども今でもそうみたいだな。特に最近の日本映画ってマンガの実写化かTVのヒット番組をスクリーンに引き伸ばしたようなものばかりで、その時その時楽しかったら良いというものばかり。まあ、それも活動写真の一つの形だけど。④近代高等教育を受けて“自我”と言うものを教えられた我々は否応なく自意識過剰になっちゃうし、ミスしたりポカしたり空回りしても(仕事だけじゃなく)周りの人は自分が思うほど注目してくれていないのに“自分て最悪”だと勝手に内省しちゃうもの。⑤さて、話は変わって自分が「大人」というものになったと疑いもなく言える人ってどのくらいいるのだろう。仕事を持っているから、家庭を持っているから、親だから、社会というものの規範の中にちゃんと収まっているから、常識(これもよくわからん言葉ながら)があるから・・・だから「大人」なのか?でもこういうものって結構簡単にひっくり返るし、私の周りでも上のような人々が“いい大人(ここパラドックスですけど)が”ということを時々しやはります。⑥ユリアは(視覚の人らしいから)映画のラストにスチール専門の写真家になるが、それまであっちを見たりこっちを見たり軸が定まらない生き方をするけれども、私も日本社会という暗に同調圧力で人を枠に嵌めようとする社会に生きていなかったら、もう少しフラフラしていたかもしれない。(日本は失業者保険が最大1年しか出ないけれども、スウェーデンは最大600日、フランスは最大36か月月、デンマークも最大2年、そら人生に少し余裕はあるわ)。同調圧力社会のお陰で世間的には良い大学・良い会社に入って30数年模範的な社員として真面目に働いて来ましたけど(社会にどれだけ貢献できたかどうかわからないけれど)、それなりの性体験も積んだけど果たして自分が所謂「大人」というものになれたのか未だに良く分かりません。⑦ただ、「自分探し」は学生時代から引き続き社会人になってからも続けていたので、同期の中の何人かの様に“趣味もなく、定年後何をしたらよいか分からない”と言う風にはなっていないだけマシかと。「自分探し」なんて何歳になっても出きるもんだし。日本の様に圧倒的大多数が「先ずは就職、先ずは結婚、先ずは・・・」、と言うような同調圧力が暗にかかってくる社会になら、定年して子育ても終わってから本当の「自分探し」が始められるのかも。俺もこの歳までまだ独りなのはまだ自分探しを続けているのかも知れないし、此れが俺の自分探しの終点かもしれない(結局独りが好き)。⑧人生は幾つになっても選択の連続、一見運命や周囲に決められているようでも結局決めるのは自分。誰も責められないし自分で選択したのだから受け入れるしかない。それで良いんじゃない。⑨それに、もしかしたら、“自分は最悪だわ”と自分を冷静に見つめられる人こそが真の「大人」というものかも。⑩ヒロインの女優さんは、ダコダ・ジョンソンとジュリアン・ムーアを足して2で割ったような感じだけど、アバのフリーダといいこういう顔がノルウェー美人なのかしらね。⑪映画館が激減しちゃった奈良県だけど、もう少し上映してくれるみたいだから又観に行かなくちゃ。
《2022.08.21 ユナイテッド・シネマ橿原にて2回目の鑑賞》
⑫やはり良くできた映画だと思う。どの台詞もとてもリアル。その中で、アクセルの友人夫婦達との家族パーティで子供以外で雑談をしていた時の会話も好き(自然に男女の性の話を出きるなんて羨ましいな。それも下品じゃなくて知的な猥談みたいな・・・その中で耳慣れない単語があったのでWikipediaで調べたので少し長いけれど下にそのまま引用。)読んでみると、俺も無意識でやっているみい(蘊蓄たれるの好きなんで)・・・やっぱり俺って最悪だわ・・・
※「マンスプレイニング(英語: mansplaining」男(man)と説明する(explain)という動詞の非公式な形のsplainingのブレンド語)は、「(男の)見下したような、自信過剰な、そしてしばしば不正確な、または過度に単純化された方法で女性や子どもに何かについてコメントしたり、説明したりする」という意味の批判的な用語である。作家のレベッカ・ソルニットは、この現象を「自信過剰と無知」の組み合わせだとしている。『アトランティック』紙のリリー・ロスマンは、この現象を「説明を受ける者が説明者よりも多くのことを知っているという事実を無視して説明すること、多くの場合、男性が女性に行うこと」と定義している。
本来の使い方では、男性が女性よりも知識が豊富であることを前提にしていると言われていた点で、他の見下しとは異なっていた。しかし、現在ではより広く使われるようになり、年齢や性別を問わず、男性が誰に対しても見下したような口調で説明することを指すことが多くなっている。
⑬人間って自分の考えている事や言いたい事の半分も言葉に出来ないか、伝えられないよね。逆にいま言わねばならない事を言えなかったり言わないでも良い事を言って“なぜ言って上げなかったのだろう。何故あんなこと言ってしまったのだろう。相手はどう思っているだろうか。”なんてくよくよと悩んだり。私も若い頃はそれを大分苦にしたものだが(歳を取ってくると人はそれ程他人の言うことに気を配っていないということが分かって悩むのが馬鹿馬鹿しくなってくるけど)、レナーテ・レインスベは、そういう言葉にはなかなか出来ない想いを表情で上手く表現していたと思う。⑭それと、アクセルの出版記念パーティからユリアが先に一人で帰ったとき、途中で街の風景を眺めながら涙ぐむシーンがある。ああいう事って・・・あるよね。
時間を止めて会いに行きたい
「わたしは最悪」って言うほど、最悪じゃないやん、って言うのが第一印象ですよ。医大から心理学へ転身し、物書きに中途半端に手を出したり、カメラを手に取ったり。年上の彼との同棲から情動に任せて浮気しーの。その浮気相手とも別れて、物語りの最後ではカメラマンとしての生活を送っている。
途中に妊娠や母親になることへの怖れ、何ての織り込んで来たりするんで、こりゃありがちな、女性の自分探し&自立物語りであって、「最悪」ってほどの話でもなく。
と物足りなさの残る映画なんですが。
不思議と。奇妙なことに。
「The Worst Person in the World」と言う原題フィルターを通して物語を眺め直すと、印象が変わります。"Person"なんっすよ。”Woman”でもなく、「私」でもなく、客観的に”Person”なんですよ。
確かになぁ。主人公は、いくつかの場面で、最悪の選択をしてしまう最悪の人物、って言えなくも無く。流れに沿って、一人の女性の生き方として見ればですよ「ただ自由に生きてるよね」って言うだけの物語りですが、局面局面では最悪の選択を積み重ねてたりして。
脚本が技巧的、って、見終わってから感心することしきりです。
と言うか、邦題、酷いね、地味にw
ユリヤ役のレナーテ・レインスベのカンヌ主演女優賞には納得です。128分の間に、よくも、これだけの表情を見せてくれたなと。それにも感心致しました。
人間って迷うもの。
人間って、気が変わるし、選択を迷うし、迷ってもいい結果が得られるとも限らないし、決めて安住するのも辛い、えいやって捨ててみても、結局もとのままじゃない、とか、今さらどうしようもないなあ、でも切ないなあ、といったことの繰り返し。そういう気持ちがみなにあるから共感できる。ヒロインの愛嬌あるか可愛さも、この映画の強みか。
女は上書き保存、男は別名保存
と誰かが何かに書いていた。
現実はどちらでもあり、
どちらでもない。
アクセルが言ってた、
何でもモノがあって、
触れて体感をフィジカルで、
物差しにしてる世代と、
全てはデジタルで概念をメンタルで、
レーダーにしてる世代。
だから意見が合わない。
意見が合わないのは、
世代間ではなく、
お国柄間でもなく、
個人間のちがいでは?
と、
ユリア。
狼たちの午後は、
何度も観ないといけない、
と、
ユリア。
こちらは永久保存しときます。
ウインターボトムの
『ひかりのまち』を再見したくなった。
よかった
評判が高かったので見たのだけど、自分は女性ではなく、子どもが好きなのであまり共感できるところがない。
せっかく医学部に入ったのなら医者の資格を取ってから別の道に進むのがいいのではないだろうか。その道の枠のなかで自分に合う方向を目指せれば、それが精神科でもいいし、途中で道がそれ過ぎだ。カメラなんて極端な話、中卒でも関係ない商売だ。もともと教養の高い層に所属している人は、そこに価値を感じないのだろうか。僕はヤンキー高校の出なので、賢い人たちとそうでない人たちの違いがすごく分かる。もともと教養の高い層の人なのだろうそこも共感できない部分だ。
正確に難ありと言ってもそもそも美人だし、持たざる者ではなく、それほど最悪ではない。僕の知っている若い人は、本当に見てくれが悪くて友達もいなくて親ともうまくいかず、お金もない。その人に比べると全く最悪じゃない。
勝手に見知らぬ人たちのパーティに入っていくところはハラハラする。
共感したくなかったけれど
この作品のレビューを読んでいると、沢山の「主人公が我儘すぎて共感出来ない」「自分探ししすぎ」「思いやりがない」というコメントに出会う。
主人公のユリア、良く言えば自分に正直で魅力的だけど、本当に自分勝手で甘ちゃんですよね。
私はこんなにモテても優秀でもなかったけど、ダメなところはめちゃくちゃ身につまされてしまった。
歳上で才能ある恋人が好きだけど、一緒にいると自分の何者でもなさがコンプレックスになってしまう。妻や母親の役割を引き受けるのも受け入れがたい。
それなら仕事や自分自身にもっと向き合えばいいのに、居場所を次の恋人に求めてしまう。
作中でいちばん「あちゃー、最悪だな」と思ったのは、ゴミ箱にあった原稿を拾って褒めてくれたアイヴィンに、八つ当たりで怒るシーン。
「落ち着いて50歳になってもコーヒー淹れてれば?」
自分が何者にもなれてない焦りとプライドと、アイヴィンのことそんな風に見てたんだ…っていうのが合わさったひどいセリフ。
いちばん「甘えてるなー」と思ったのは、病気のアクセスに「いい母親になるよ」って言ってもらうところ。自分が浮気して振っていて、相手は余命わずかで辛いのにね。でも、この友情がちょっと救いでもあるんだけど。
ひどいひどいと書きましたが、ここまで主人公の勝手さや子供っぽさを描きだしたのは本当にすごいと思う。
この映画に限らず、30前後の女性の焦りや葛藤を描いたストーリーはとても多い。妊娠出産のリミットが迫り来ることと、未熟でも若くて魅力的だった時期が過ぎていくことの焦りは、世界共通なんだなと感じた。
ユリアはエピローグでようやく腹をくくって自立していた。この先はどうやって幸せに生きていくんだろう?
答えはないだろうけど、知りたいと思った。
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