梅切らぬバカのレビュー・感想・評価
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差別する人たちに付き合う時間はない
エンドロールにスタイリスト(加賀まりこ担当)、ヘアメイク(加賀まりこ担当)とあった。単独の担当者が付くとは、さすがに大女優さんである。
それはさておき、占い師にはある種の尊大さが必要である。意味不明の基準で一方的に決めつけられても何故か納得してしまうような、自信たっぷりの態度がなければ占い師は務まらない。
主人公の珠子さんは、自閉症の息子に限りない優しさを注ぐ一方で、占い師としての尊大さを見せる。こんなややこしい役を演じることが出来る女優となると、加賀まりこを置いて他に思い当たらない。まさにはまり役である。
人と人とは結局のところ、解り合えないものだ。それぞれに自我があるから当然である。歳を取ると、他人とは解り合えないと諦めて、どこかで折り合いをつける。つまり妥協するのだ。それは悪いことではない。
息子の忠さんが50歳になっても、珠子さんには忠さんのことがまだまだ解らない。きっと死ぬまで解らないのだ。しかし珠子さんは、解らないからこそ人生が面白いと達観しているフシがある。だから占い師みたいなことも出来ているのだろう。
自閉症の息子を抱えていても、珠子さんに悲壮感はない。何があろうと忠さんはかけがえのない自分の息子だ。一生背負っていく。自分が亡くなったとしても、忠さんはなんとかやっていけるだろうという楽観もある。それは占い師ならではの楽観かもしれない。
忠さんは自閉症の中でも意思疎通が難しい部類に入る。意思疎通が図れない人間は常に差別の対象だ。日本人は言葉の通じない「在日」を差別してきた。戦時中や戦後には殺された人も多くいたと聞く。差別はいまも続いている。忠さんへの差別も同じ精神性である。
珠子さんは、息子を差別する人たちとは戦わない。グループホームに対する反対運動で時間を無駄にしている人たちに付き合う必要はないのだ。
脇役陣は概ね好演。林家正蔵は人のいい役が似合うが、本作品では人の好さだけではなく、差別や役所の怠慢に対する怒りも見せる。なかなかいい。森口瑤子は偏りのない素直な精神性の奥さん、渡辺いっけいは自分本位ではあるが、他人の人格も尊重する気の弱いサラリーマンをそれぞれ上手に演じていた。
塚地の忠さんは、自閉症の中年としての悲哀が少し足りなかった感じがある。急に真顔になったりスタスタ歩いたりして、自閉症らしくないシーンもあった。そのたびに珠子さんが、塚地の演技にかぶせるようにして忠さんに話しかけたり、話を引き取ったりして、いくつかのシーンを見事に収めていた。このあたりの呼吸は流石である。加賀まりこはやはり大女優なのだ。
日常だわ
現実的で良かった
素朴。
心、温まる映画
先送り
身近な問題
年老いた母と中年の自閉症の息子、グループホーム、厩舎と何処にでもある問題を持ったある地域を象徴的に表しています。みんな自分の問題を解決したいだけなのに、周りから見ると大きな問題。それぞれの気持ちがわかるだけに、難しいですね。
たんたんとした内容。
当事者が身近にいるかどうかで
多分、住宅街というか自分の家の近くに障害のある方達のホームがあるかどうか、
叩かれたとか何かしらの実害を受けた側か、
自分の息子とか家族にそういう人がいるほうの側か
立場によってきっと障害者用グループホームの運営賛成反対の気持ちって変わるんだろうな、と思いました。
塚地武雅さんの演技が素晴らしかったし、加賀まりこさんの肝っ玉母さんぶり、渡辺いっけいさんの、当初とまどいながらも少しずつ理解していく隣人の演技、とても良かったです。
あとポニーが逃げて大騒ぎになりましたが、小学3年生くらい?の男の子1人と、おそらく鍵壊したりみたいな難しい侵入なんて出来そうにもない障害者の方1人、たった2人で簡単に侵入出来るようなセキュリティの甘さに問題があると思いました。むしろ住宅街にポニーの牧場を運営するほうがよほど不自然な感じがしました。まぁ映画の展開上、あそこにある必要はあるんですけど。。
私もわりといつも決まった改札とか道順で歩かないと、他が空いていてもすこし落ち着かないし、ルーティンに多少縛られて生きているほうが落ち着く気持ち、すこしだけ理解出来ました。
素敵な肝っ玉母さん
自己責任の国に生まれて
珠子とその息子忠さんは二人で暮らしている。珠子は占いの仕事で生計を立てながら自閉症の息子の世話をしてきたが、息子が50を超える年齢になり、自身の老いも考えてグループホームに預けることにした。
しかし、そのホームは以前から地域住民とのちょっとしたトラブルにより疎ましく思われており、忠さんも慣れない集団生活からトラブルに巻き込まれてしまう。
地域住民と施設側との仲裁を頼んでも役所はただ傍観するのみで頼りにならず、結局忠さんはホームを出ることになる。
元の二人暮らしに戻った珠子と忠さん。自助には限界があると、共助である地域コミュニティーに頼ったがうまくいかず、公助である役所も頼りにならず、元の自助を強いられることとなる。
自助、共助、公助というどこかの国の元首相の言葉は当事者たちにとってはある意味当たり前の言葉だった。
自分の子供の世話を自分でするのは至極当然。しかし、その子供に障害があり、ほかに頼る家族親族もいない状況となれば地域コミュニティーに助けを求めるべきだし、また公的補助にも頼らざるを得なくなる。
ただ、現実はこの言葉の順序が示す通り、自助は近いが、共助、公助の順に当事者たちにとって遠い存在となっている。
新自由主義が蔓延する現代においては先の元首相の発言が出てきたのはある意味必然的だったし人々にとっても自己責任がいまやデフォルトとなっている。
自分のことは自分で責任を持て、経済活動においては至極当然のことを言ってるようだが、福祉の分野において行政側がこれを押し付けるのはいかがなものか。
2005年に施行された障害者自立支援法の応益負担の規定は障害が重いほど障害者に自己負担を課すもので、まるで障害を持って生まれてきたのがその当人の責任と言わんばかりのものだった。自己責任論を福祉の分野にまで拡張する障害自己責任を押し付けるようなまさに悪法だった。
そもそも自由競争を促進して経済を活性化させる新自由主義が自己責任論を定着させる以前から障害者世帯は自己責任を強いられてきた。
それは社会の障害者への理解が足りず、障害者であることの負い目などから当事者たちはそうせざるを得なかったからだ。
今でこそ多少は理解が進み地域コミュニティや公的補助を頼ることもできるようになったが、時にはそこから零れ落ち孤立して不幸な結果を招くこともある。
そんな不幸な結果を招かないためにも孤立を避け、地域とのつながりを保つことが大切だ。しかしかつて日本はOECD加盟国の中で平均の4倍もの精神病院病床数を指摘されており精神障害者を社会的に隔離しているとまで言われた。障害者たちが彼らの住む地域で受け入れられる土壌ができてない証拠だった。本作でもその部分が問題として描かれている。
本作では結局地域の理解を得られず元の親子での生活に戻ったところで幕を閉じる。一見救いのないラストだが、唯一希望が持てるとしたら隣人の里村家との交流だろう。酔っぱらった勢いで珠子たちの家をグループホームにすればいいという父親の一見無責任な発言に珠子もそうしようかしらと翌朝返すが父親は憶えていない。
まずは近隣住民との交流から障害者への理解を深めそこから地域コミュニティの輪が広がってゆく、地域コミュニティ再生を予感させる点だけが本作の唯一の救いなのかも。
桜切るバカ梅切らぬバカ。専門家によれば桜も梅も剪定によりむやみに枝を切り落とせばそこから病気になるのはともに同じ。丁寧な気配りが樹木の成長には不可欠。それは人や社会にとっても同じだ。
能力主義がまかり通る時代、生産性がないなどとして不要な枝葉をバッサリ切り捨てるような社会が人にとって住みよい社会だと言えるだろうか。これは障害者に限ったことではない。健常者だろうがいずれ年を取り社会のお荷物として切り捨てられるかもしれない。
誰もそんな社会に住みたくはないはず。障害者にとって住み心地が悪い社会は健常者にとっても住み心地が悪い。生産性などとほざいてる人間は自分が天に向かって唾を吐いてることにも気づかないのだろうか。
本作は人気芸人を起用して一見ほのぼのとした雰囲気の作品だが、結局何ら問題は解決されず幕を閉じる。この方が観客に問題を丸投げして考えさせるにはちょうどいいのかもしれない。
2021年12月劇場にて鑑賞
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