今作は、いわゆる「モリウッド」映画である。『ジャリカットゥ 牛の怒り』や第34回東京国際映画祭で上映された『チュルリ』と同じく、南インドにあるケーララ州が舞台となり、マラヤーラム語映画のことだ。
南インドの保守的な家庭の物語であり、実際にケーララ州ならではの宗教的概念や、女性蔑視は色濃く反映されているものの、今作で描かれている「家庭」「キッチン」という名の呪縛の中で苦しむ女性の姿は、何もインドに限ったことではない。
韓国や日本の映画でも嫁姑問題として、散々ネタにされ続けている普遍的な、どこにでもある物語。だからこそ、今作には主人公夫婦には名前が付けられていない。
ひとりの人間として評価されるのではなく、どれだけ働くか、主人や家族のために尽くすことができるのか……といった、まるで召使いや奴隷のような生活であるというのに、それが当たり前だと思うしかない環境。生ごみや水道の汚水が溜まっていくように、妻の不満も溜まっていく。
一方でそういった、揺るぎない概念において、ある流れが少し事情を変えようとしている。それはネットの普及による、デジタル化の波だ。
急激なデジタル化、グローバル化の波というのは、南インドも例外ではなく、原始的な風景の中にも、スマホを欠かせない状況が出来上がってしまっている。今作の中でも老人がスマホで動画を視聴している。
主人公が勇気を出して、自分を主張しようとするきっかけも、実はネットからの情報によるものだったりする。
これは伝統や風習という側面からは、悪いことのように感じられるかもしれないし、実際に間違った感情を芽生えさせてしまう危険性も秘めている。
しかし、世界を知ることで、自分の選択肢の幅が広がるという意味では、良い点も多いと、改めて気づかされる。特に極端に文明が乗り遅れているような地方や村の人々の変化には、かなりの説得力があるといえるだろう。
何よりこれを映画として製作したこと自体に意味がある。今作で描かれている問題が、そもそも一般的で当たり前のこととして、捉え続けているのだとしたら、今作は誕生していない。
今作で問題定義できているということは、ケーララ州の人々が、女性の権利について、徐々に気づきはじめているという証拠なのだ。