クライ・マッチョ 劇場公開日:2022年1月14日
解説 「許されざる者」「ミスティック・リバー」「アメリカン・スナイパー」など数々の名作を生み出してきたクリント・イーストウッドが監督・製作・主演を務め、落ちぶれた元ロデオスターの男が、親の愛を知らない少年とともにメキシコを旅する中で「本当の強さ」の新たな価値観に目覚めていく姿を描いたヒューマンドラマ。1975年に発刊されたN・リチャード・ナッシュによる小説を映画化した。かつて数々の賞を獲得し、ロデオ界のスターとして一世を風靡したマイク・マイロだったが、落馬事故をきっかけに落ちぶれていき、家族も離散。いまは競走馬の種付けで細々とひとり、暮らしていた。そんなある日、マイクは元の雇い主からメキシコにいる彼の息子ラフォを誘拐して連れてくるよう依頼される。親の愛を知らない生意気な不良少年のラフォを連れてメキシコからアメリカ国境を目指すことになったマイクだったが、その旅路には予想外の困難や出会いが待ち受けていた。
2021年製作/104分/アメリカ 原題:Cry Macho 配給:ワーナー・ブラザース映画
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正直言うと、途中まではもう劇場を出てしまおうかと思うくらい、雑なプロットに困惑した。ビシッと決まる絵も編集の妙も感じられず、さすがにイーストウッドも老いたのか、そりゃ老いるよな、おじいちゃんだもんなと自分を納得させようとしていた。ところが、メキシコの村にたどり着いた辺りから、「チェイスものでもロードムービーでもなく、これがやりたかったのか!」と霧が晴れたような気がした。お膳立てが冗長だったことはさておき、この村でのシーンに漂うロマンチシズムとラブの香りと若者への継承とセリフにもある謎のドリトル先生感は、盛りだくさんすぎて異様ですらある。しかしシーンが俄然生き生きして見えることは確かで、変なバランスだけど不思議と納得させられて、イーストウッド良かったねという気になる。90過ぎてモテモテなラストに何を観させられたのだろうと狐につままれた気持ちだが、不思議と読後感は爽やかという厄介な快作。
クリント・イーストウッドは馬が似合う。そんなことはわかりきっていたのだけど、この年になってもものすごく様になっていてすごい。冒頭、イーストウッド演じる主人公がメキシコに入り、車を走らせている横を、数頭の馬が平行して走っているシーンがすごく良い。馬と一緒に同じ方向に走っているのが、なんというか、馬とともに生きてきた男の姿っぽい感じがあっていい。物語は、少年と老人の疑似家族的な関係構築の話だが、馬と車が媒介となって進んでいく。 車が駄目になったり、盗まれたりするので、何度か車を乗り換えていく。少年は時々、車を運転したがるが、未成年なので主人公はそれをさせない。代わりに、馬の乗り方は教えてやる。同じ脚本家の『グラントリノ』は車の継承の話だったが、今回は馬の乗り方を継承する話になっている。何かを継承する時に、運ぶものである乗り物を用いるのが、この脚本家は好きなんだろう。そして、それがイーストウッドにとても合っている。
2022年1月18日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:試写会
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ひとり暮らしのマイクは、「息子のラフォを連れ戻してくれ」という恩人からの依頼を受けてメキシコへと向かう。まだあどけなさが残る少年ラフォは奔放な母との乱れた生活を嫌い、マッチョと名づけた闘鶏とストリートで暮らしている。突然現れたマイクを少年は警戒するが、マッチョなカウボーイへの憧れと、父との新しい生活に心を動かされていく。 90歳を過ぎたクリント・イーストウッドが演じるマイクと14歳のエドゥアルド・ミネットが演じたラフォ、歳の差も境遇も考え方も異なるふたりはアメリカ国境に向かって旅を始める。それは、互いを必要とする発見の旅であり、ふたりの人生を大きく変えていく。 クリント・イーストウッドが新型ウィルスの渦中で撮り上げた最新作『クライ・マッチョ』には、映画人として生きてきた彼のエッセンスが凝縮されている。 自分の流儀で生きること。他人には期待しないが、示唆することは忘れない。恩義をには必ず報いる。微笑みを安売りはしないが笑顔には応じる。決して自分を買いかぶらず、誇張もしない。不寛容なことには正しく憤り、身をもって立ち向かう精神を忘れることはない。 カウボーイハットで荒馬を乗りこなす。車を運転する。もてなしに対する礼を尽くす。目の前に障害があれば、慌てずに迂回する。必要とあれば後戻りする。生き急ぐことが理想ではない。人生には、回り道することだってあるのだから。 我が道を行くことで、小さなコミュニティが生まれていく。ひとりだけれど孤独ではない。人の外観 (人種)ではなく、人の本質を見つめる過程で、血のつながらないの疑似家族のような関係が育まれていく。悔恨は尽きることはないが、くよくよしても始まらない。人生に終わりはない。生きていれば、素敵なことだってあるはずだ。彼はいつも旅の途中にいる。人と人とのつながりの中で“今”を生きている。 Make it Yours、自分のことは自分で決めろ。 この科白は、半世紀分以上もの生きた軌跡を隔てた少年に向かって放たれる主人公の言葉だ。 “マッチョ”=“強い男”に憧れ、幼さが残る家族の愛を知らない少年ラフォは男らしく生きたいと願っている。かつて“マッチョ”としてならした男は、もはや自分は強くないと認めている。だから、その言葉は説得力を伴って心に染みる。 無理がきかなくなったが、許容範囲はわきまえている。いたずらに逆らおうとは思わないが、許されざることを黙認することはしない。映画を観ている僕たちは、ふと気づかされる。マイクがラフォに放った言葉は、彼自身に向かうと同時に、紛れもなく観客のひとりひとりに向けられているのだ、と。 監督イーストウッドは、説明することが大嫌いだ。冗長な描写も好まないし、過剰な演技は排除する。濁った水を湛えた川であっても、その流れは淀むことがない。映画という話術において、主人公たちと同じように時と場合をわきまえているのだ。研ぎ澄まされた描写であるが故に、演出家の意図に気づかないことすらあると言っては褒めすぎかもしれないが、素直にそう思う。 同時に、映画におけるカタルシスを見定める力が緊張感を生む。観客が望む決めのシーンを放つタイミングも絶妙だ。 愛犬の調子が思わしくない夫婦の相談に、「残念だが歳にあらがうことは出来ない。のんびりさせて、一緒に眠ってやると良い」と告げる。先に引用した「自分のことは自分で決めろ」同様、その言葉はブーメランのように自分に向かって放たれている。もはや老い先は永くはない、だからこそ出来ることがあるのだ、と。
イーストウッドが馬に乗って現れるシーンで涙。 おじいさんになってもモテモテのイーストウッドに笑。 ラストにかけて尻すぼみですっきりせず。 イーストウッドが見れただけで満足。