メタモルフォーゼの縁側のレビュー・感想・評価
全208件中、41~60件目を表示
年齢を超えた友だち
漫画(BLとは知らなかった)を通して高校生と老女が交流を深める話
というトレーラーを 公開前から時々見ていて面白そうだなあと思っていた。
何事にも自信のないうらら。
もーーー。なんで?
せっかくそこまでやったのに?
せっかく印刷屋さんが製本してくれたのに?
ひゃ ひゃくえんなの? 安っす!
という まったくそういうJKにしか見えない芦田愛菜を見ていると演技である事すら忘れる。
おばあさんは あれ誰だ? 宮本信子?
あんなおばあさんな訳はないので ほんとに圧巻である。
BLというジャンルは知ってたし、そういう需要がティーンエイジャーに限らずあるという認識もある。
まあだとしても私は苦手だわ というのが本心なのだが、それでもそれを超えた良さはちゃんとあって 二人の関係が微笑ましく ほのぼのと心地よい。
この夏 元としまえん跡に ハリーポッターのスタジオツアーが完成し 7月半ばに行ってきたのだが、
そこに集う人々はみな ハリーポッター好きの老若男女だった。
一人で参加している人もあった。
こういう(一人だけで完結してしまう)趣味の場合、自分と同程度以上それに思い入れのある相手と行きたい訳で、「ハリーポッター?あんまりよく知らないけど?」という相手とは行きたくない、知り合いにいないならいっそ一人でいいのだ。
そこがディズニーランドとは決定的に違うのだが
そう思って見ると 彼らはみな どこか育ちの良い(金持ちかどうかではない)善良さを持った人々のように思った。
こう言った ある意味でニッチな(でも世界的な)世界感に浸るための場は 来よう と思うだけで 人選される。
コミケなどはまさにそうで、無関係で無関心な場合は
「へぇ、、、」と言って行列を横目で見て通り過ぎるのみである。
音楽においても (それがジャニーズなどでも) ひとたび熱烈なファンになったりすれば それだけで心が通じ合う。
同年代のクラスメイトよりも 同趣味の違年代の方が、シンパシーは得られる。
実は四年ほど前
本場イギリスのハリーポッタースタジオツアーに行ったのだが 同行者は当時高校生だった男の子だった。
同じ物を好み同じように感動し喜びを共有出来る相手は 年齢など なんの障害でもない。
そういう事を思い出した。
登場人物全員いい人。
原作未読にて。
最近のお姿を拝見していないのですが、
かなりおばあちゃん役の大女優さんと。
立派な俳優になられた、
元天才子役の。
とってもいい映画。
最初から最後まで、
胸の奥がじんわり温まって、
じんわり温まったままいい気分で
観終わりました。
縁側の。
ひなたぼっこの。
カレーのにおいの。
漫画をめくる紙ズレの音の。
インクと墨汁のにおいの。
2人の俳優の演技とも思えない
素晴らしい演技の映画でした。
その空気感を作っているのは
脚本(原作?)のおかげ。
ストーリーに奥行を持たせるなら、
ライバルや、嫌な奴や、ケンカや、悲しみ
のような負のエネルギーが必要なのだが、
この映画にはそれがほとんどない。
そしてそれがいい。
※コミケに雪さんも一緒に参加して、
先生がお忍びで「遠くから来た人」を買っていく
そんなほっこりバージョンも見てみたかった。
うん。
良い映画でした。
その縁側は、彼女らをメタモルフォーゼする。
漫画を一巻だけ読んだことがあり、かなり面白かった記憶があるので見た。映画館にはいく機会がなかったのでamazon primeで視聴。
かなりいい、心があったまるような、背中を押されるような感覚になる。
芦田愛菜はクラスでも目立たない引っ込み思案な性格の生徒、宮本信子は夫に先立たれ、家で小さな書道教室を営むおばあちゃん役。全く違う二人が出会い、変化をもたらしていくのだが、まさかのその出会い方がBL!!ただ、BL苦手だから見るのやめとこうかな、とか思う必要は全くない。あくまでメインは二人の関係性であり、それがすごくいい。言ってしまえばこの二人、世間からは隔絶されていると言えるだろう。芦田愛菜はクラスの人気者を遠巻きで見ているような生徒であり、宮本信子は小さな家で一人暮らし。その二人が互いにBLに惹かれる理由もなんとなくわかるのではないだろうか。BLとは、現実の世界であればマイノリティであり、彼らも世界から隔絶された人々である。それが物語の中であれば、堂々と、恋愛をしているのだ。しかもそれが書店の一部分を占めるほどの人気のコンテンツになっている。社会から隔絶された人々にとって、こんなにも勇気を与えてくれるものがあるだろうか。もしかしたら彼女らは、形こそ違えどBLというものの中に、自分の理想像を見つけたのかもしれない。また、そこで引用されているBL作品と、芦田愛菜が書く同人誌がまた良い。詳しくは書かないが、二人の関係性をうまく描写していて、泣きそうになってしまった。というかかなり泣いた。
最後に、私はどちらかといえば芦田愛菜のほうに年齢が近く、彼女の姿と高校時代から今にかけての自分を重ねることが多かった。進路志望書、受験、本当に自分のやりたいことは何か?と問う中でアイデンティティの葛藤は避けられない。そんな中、宮本信子と出会い、彼女の家の縁側で一緒に暮らすことでメタモルフォーゼを促し、本来の自分を発見する。また、途中の芦田愛菜の母の「我々小市民は~」という言葉もいい。好きなものを好きでいいんだ。そう思わせてくれる。ここの部分について、詳しくは「変態仮面」(2013)も観てみるといい。まさしく、変態(メタモルフォーゼ)であるので、青年期のアイデンティティの葛藤と重なる部分が多いと個人的には思った。話を戻すと、この場面を通じて、この映画でいう僕にとってのBL作品とは何か考えずにはいられなかった。それを肯定し、好きになれる日が来るといいなと思う。
宮本信子と芦田愛菜
ほっこり
同人女なら絶対刺さる。
女性版「ハロルドとモード」△恋愛+友情
元気をもらえる素敵な映画
17歳と75歳の友情
主人公(芦田愛菜)はBL漫画が好きな女子高生で、書店でバイトをしている。
ある日、高齢の女性(宮本信子)がBL漫画を買い、そのあとも色々聞きに来るので、仲良くなってしまう。
主人公は進路を決めかねていたし、高齢女性は娘のいるノルウェーに行くべきか悩んでいる。
17歳と75歳の女性が、互いを思いやり、何事も我が事のように思う姿は、見ていてホッとする。
本音を引き出す縁側
遠くから来た二人は近くにいた二人という点から「縁側の存在論」へと帰着するμεταμόρφωσις
あまり期待していなかったのだが、妻が「見ろ!見ろ!」とせがむ。
なら、まぁしょうがないかなという生真面目な夫の想い。
うん、この映画は生真面目な映画だった。
主人公二人の演技もそうだったのだが、エンドロールに流れた「歌」がまさにそうだったでしょ(笑)。
ただ、どうしても宮本信子は、今NHKのBSで再放送をしている「夏バッバ」という目で、
芦田愛菜は、「慶応1年生」という目で見てしまう。そりゃーしょうがないよね。許してね。
原作のコミックは読んではいないが、「縁側」の使い方がいいね。
縁側って、まさに他所にお邪魔する際の、そして余所者を受け入れる際の「緩衝帯」というか意味論的には重層的な構造体(笑)。おそらくは原作でもそうかもしれないけど、映画でもそれが上手に使われていた。
だからこそ、そこでこそ
今までとは違った自分を、自分と違った人を、何の躊躇いもなく受け入れることができるんだね。
むかーし、むかーし、実家にあった縁側を思い出す。
縁側って、ほんとは玄関以上の意味を持っていたっていうことを。
玄関って肩肘張った入り口出口だけど、
縁側って違っていたでしょ?
そこは、誰もが、泣いて笑って、話を無造作に交わした場所だったよね。
いろんな人のいろんな言葉があったでしょ?
今は、あまりにも少なくなった「縁側」。その存在論。それを考えさせられた映画、そんな形而上学的・思弁的な意味論を考えさせられてしまうような高尚な映画だった・・・。
っていうには言い過ぎかもしれないが、いい意味で期待に反する「後味のいい」映画でした。
芦田愛菜過ぎたのが少し
愛菜ちゃんすごいの一言に尽きます。
うららの「まっすぐ」「全力投球」が本作の屋台骨
〈映画のことば〉
「漫画を書くのって、楽しい?」
「あまり楽しくはないです。自分の絵とか見てて、正直、辛いです。」
「そう。」
「でも何か…やるべき事をやってるっていう感じがするんです。」
何事にも「まっすぐ」「全力投球」のうらら(芦田愛菜)が本作の屋台骨になっていると思いますが、それを率直に表現したセリフが、これだったと思います。そして、その「まっすぐ」「全力投球」が、(その情熱を今はなくしてしまった年代の)市野井雪(宮本信子)を惹き付け、うららにはない「落ち着き」「老練」「成熟」が、反対にうららを雪に惹き付けている…そんな関係性が、うららと雪との間に築かれていなかったでしょうか。
そして、紐帯としてそんな二人を固く結びつけたのが、二人のBL漫画に対する「好加減」(さりげなく本作の最後を飾った習字)ということなのだと思います。
おそらく、他のレビュアー諸氏が指摘する本作の「温かさ」は、実はそこから湧き上がって来ているのだとも思います。
そんなこんなで、本作は本当に良い映画だったと思います。評論子は。
(追記)
それにしても、走る、走る。また走る。こんなに走る主演女優は、滅多にいない。
走る姿は彼女の「まっすぐ」「全力投球」の体現以外の何ものでもなかったと思います。評論子は。
最高の組み合わせ
全208件中、41~60件目を表示