ファーザーのレビュー・感想・評価
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認知症を疑似体験し酔う新感覚の映画
時間軸と人物関係が入れ違い、観ている方も何が真実なのか分からなくなってしまう。
記憶に迷うシーンはBGMも相まって(羊たちの沈黙なアンソニー・ホプキンスだからなおさら笑)まるでホラーのよう。でもそれほど認知症とは怖い病気なのだろう。それを映像体験で見事に表現している。
そしてなんと言っても、アンソニー・ホプキンスの圧倒的な演技力。アカデミー賞主演男優賞は文句なしだ。
病で記憶や感情がチグハグなのに一貫した芝居。認知症の父を生きていた。
脇を固める俳優たちもそんな彼を見る目の演技が素晴らしい。何も語らなくてもお互いの関係やいたたまれない気持ちが伝わってくる。
生きていくとはなんなのかを考えずにはいられない。人生100年時代、長生きすることが本当に幸せなのか。
健康寿命が伸びることは喜ばしいことだが、長かれ短かれ人生をどう全うしたいかが大事。
そんな命と家族について見つめ直させてくれる珠玉の名作。
いつの間にか本人目線になっていきました。
認知症の人はこんなふうに日常が見えているのだとしたら気が狂いそうに...
認知症の人はこんなふうに日常が見えているのだとしたら気が狂いそうになるように感じた。
実際映像を観ていてもどの場面が現実で、どの場面が妄想なのかわからない。
何度か観たらわかるのかもしれないけど、実際の生活は何度も観直すとかできないし。
自分的には親というのは良い意味で絶対的な人なので、あんな風に弱々しい姿を見るのは本当に辛い。
(父が晩年の祖母の病室に入りたがらなかったというのが理解できる。)
上映中に鼻を啜る音がそこかしこで聞こえたが、男性と思われる音も聞こえた。
きっとみんな自分の親や祖父(母)と重ねているのかな?と思った。
出口のない不条理映画のような
娘や家族が、以前とは、全く違う筋の通らないことを言う。
自分が知っているのと全然違う人物が、自分は家族だと主張する。
時間は連続性を失い、前後関係もあやふやになる。
自分は不条理映画の観客のようだ。
そして実際、我々は映画館で そういう不条理映画を今見ていて、一体どうなってるのこれ?と思っている。
認知症というのは、少しづつ度合いを増していく不条理映画に突然放り込まれるということなのだ。
自分でも訳が分からない。腹も立つ。疑り深くもなる。
私は、アンの立場で映画を見ていると思っていたけど、それはアンソニーの視点だった。
不安でたまらない。その映画は終わることなく、大切な人は去っていってしまう。(いや、去っていっていないのかもしれない。それすら分からない。すがりついて母と呼んだ女性だって、看護師だったかもしれないし、アンだったのかもしれない。それさえ、彼には分からないだろう)
やがて、その不安も忘れていくのだろう。
アンソニーの怒りや混乱や不安も、アンの悲しさや苦しさや優しさや愛情も、ものすごくよく伝わってきた。
それが名優ってことなんだろうなあ。
オリヴィア・コールマンって、何の役でも普通のおばちゃんぽさがある。それって、どんな特殊な人の役でも、その人の中にある、普通の人と変わらない気持ちがものすごく伝わって来てるせいなのかなって思った。
アンソニー・ホプキンスはもちろん、オリビア・コールマンの名演も素晴らしい一作。
頑固で優雅でユーモアを欠かさない闊達な老人。やはりアンソニー・ホプキンスは名優だなー、と思いながら観ていたけど、結末近くの彼の演技は事前の想定をはるかに超えていました。これこそまさに名演。
本作はアカデミー主演男優賞を受賞したアンソニー・ホプキンスの演技に注目が集まりがちですが、美術もそれにひけを取らない出色のできばえです。例えばカラーコントロールの見事さは一目で理解できるほどです。それぞれの場面には赤、緑、そして青といった基調色があり、それが壁紙や家具、衣裳といった形で入念に配置されています。これらの色は交錯する時間軸、事実と虚構の境界線を観客が判断する手掛かりとなる一方で、登場人物の姿や立場、彼らが語る説明との齟齬を際立たせる要素ともなっていて、観客がアンソニーの認知状態を客観的に理解する余地を与えません。場面の雰囲気や登場人物の心情と同期していた『ラ・ラ・ランド』(2016)のカラーコントロールを、舞台装置としてさらに洗練させた印象です。もちろん色彩だけでなく衣裳、内装など、それぞれが非常に豪華な作りであるため、画面を観察するだけでも十分作品を堪能することができます。
認知症を患ったアンソニーの視点で物語世界を観ていくため、作中では時間軸や場面のねじれ、跳躍が頻繁に生じ、そのたびに観客もアンソニーと同様に混乱し、不安に陥ります。しかし原作の舞台劇の作者でもあるフローリアン・ゼレール監督の意図は、単に観客に認知症の疑似体験を強いることを目的としている訳ではないようです。監督の演出は、観客の心情をアンソニーのそれと同期させて、決して引き離すようなことはしていません。それは例えば、彼が時折口にする姿を見せない娘と、周囲の人物からは徘徊としか見えないような行動の結び付きを示した描写に現れています。展開そのものはそれほど予想外ではないとしても、その表現の仕方は見事としか言いようがありませんでした。結末の描写と併せて、ここはゼレール監督の演出が光っています。
『アンモナイトの目覚め』のケイト・ウィンスレットと同様、本作のオリビア・コールマンも微細な表情の演技が素晴らしく、彼女の(現実の?)行動に見事な説得力を与えています。こちらも名演!
アンソニーホプキンスの演技を満喫
思わず唸りたくなる凄さ!
鑑賞してから約1週間経ちますがまだ衝撃を引きずっています。
とにかく凄いの一言。認知症や介護を描いたかなり暗めの物語、と想像していましたが全然違いました。
まず構成、脚本がお見事!ある意味ミステリー仕立てになっていますのでできれば何の予備知識も入れずに観てアンソニーと共に混乱しちゃってください。
(ここはどこ?あなたは誰??)状態に陥ってしまいましょう。
そして主演のアンソニー・ホプキンスの圧巻の演技よ!
アカデミー賞の主演男優賞は納得です。あの時(え、チャドウィックじゃないの!?)ってなって本当にごめんなさい。
頑固だったり訳分からないこと言ったりお茶目だったり超はしゃいだり。誰もがまるであの人みたいだ、と身近な老人の姿を思い出して観ていたのでは?
80代であれだけの台詞を覚えてあんなに動いて演技して、ほんと凄いよアンソニー。うちの両親は2人とも70代で逝っちゃったからなぁ。
映画の構成が抜群に面白いし私なら作品賞もファーザーだったな。
2021年暫定マイベスト1です。
印象的だった壁や服の色「青」の謎を解くためにもう一度じっくり観たい作品。
これから観ようとする人は、全てのレビューや解説を先に見ちゃだめ
この映画を観ようとする人は、事前にどんな映画か、解説やチラシを読んで興味を持って観に行くんだろうなぁ。地味な内容で、何かのはずみで行くような映画ではないので、このジャンルの映画を観てみたいと思った人だけが行くんだろうなぁ。
でも、すべてのレビューやここの映画解説を読まずに、何を扱っているか知らずに観ると、映画の最初の方は???のはず。理解不能のはず。その方が楽しめるし、主人公に同化できる。で、徐々に分かる、なぜ???だったかの種明かしで、映画の構成にまだそんな手が残っていたのかと驚くと思う。残念ながら、映画解説自体がそのネタを書いてしまってるので、早々に想像がついてしまった。ま、驚かせることが監督の意図じゃなく、その哀しさを示したかったのだろうけど。でも、少なくとも最初の方ではアンソニーを体験できるのに。
ところで、役名や生年月日を役者の実際と同じにするというのは、誰の発案だろう。役と役者は一体化で撮影するためのアイデアかな。だったら、観客も・・・。
ただただ怖かった
サスペンスのような
認知症の擬似体験
自分の葉を失うのはどんな気分になるか
この作品は映画の予告だけ見てすぐに劇場に向かってほしい。この作品は単なる認知症患者と娘の純愛のような作品ではない。映画というVRを通じて認知症の人の気持ちを体験できる作品だとおもう。
映画とは世界最古のVRである、と俺は思う。だからこそこの映画の意義は素晴らしい。まず開始5分でこの映画の異様性に気付けるはずだ。さっきまで娘と話していたがカットが切り替わると今度は違う人間が入ってきて「私が娘よ」という。そしてまたしばらくして最初に出てきた役者がまた映画のキャメラに出てくる。あるいは「パリに行く」とさっきまで言っていたはずなのに次では「そんなこといつ言ったの?」といわれる。次第にこれは悪い夢なのではないか、現実なのか非現実なのか、その時系列さえも複雑に混ざり合い本当に混乱してくる。また演者の出るタイミングもスムーズでさっきまでいなかったのにいつの間にか部屋にいたりもしかして最初からスタンバイしていたのかと思うくらいな自然さで計算されていると思った。
部屋のデザインも無機質だがきちっとバランスなどが綺麗に揃っていて、さながらキューブリックの映画みたいにセットがきっちりしていたり、窓から風景を見るシーンなどはヒッチコックの裏窓を思い出す。
またアンソニーの演技もとても味わい深く、ルービックキューブのように場面が切り替わるがそれに合わせて演技しているのが本当にすごい。笑っていたら次に真顔になったり、混乱して自身を失い子供のようになる人物造形は臨機応変を問われるしそれにちゃんと応えるのが見事だ。
娘が献身的に介護するが、アンソニーはそれに応えず、娘より既にいない妹の方を溺愛している感情を見せつける所はこの認知症がいかに厄介か、親と子の関係性を壊していくのかがよく知れる作品なのだと思う。
そして自分を失っていく恐怖も同時に描いている。人生のサイクルが見れて、人間は子供→大人→老人(子供)に戻っていく。それはまるで木が葉っぱをつけ、落とし、また生えるように生命のサイクルを自然に例えるのが命の儚さを感じられた。
最後施設に入院をし、看護婦さんにすがるシーンは、人間というのは人がいる限り人を求める。人がいるからこそ安心してそれを抱きしめられる。人と人の普遍的な愛の形、関係性、受け止めてくれる人がいるというありがたさを感じられとても余韻が深い。
アンソニーは終始時計に執着している。それは自身の時間が失っていく中でそれを唯一確かめられ流からこそ安心できるからなのかもしれない。人生は限られた時間だ。だからこそ子の映画でそれを考えられるのも本当によかったと思った。
いつか行く道は…こんなにも切ない
自分の父は介護なんてできなかったくらい、呆気なく亡くなったから、認知症の苦労とか、介護の大変さも知らないのはラッキーなのか。
父のことは大好きだったから、亡くなる前にもっと話せればよかった。父の思い出話とか、家族の昔話とか、一緒に行ったゴルフの話とか…。だから、親御さんの介護で苦労している同僚には羨ましくもあるんです。
映画の中のアンは、よく年老いた父を置いてパリに行けたな…。実際は同居している子が親の介護をするなんて、多くないかもしれないけど、あのお父さんはかなりヤバめで、めんどくさいし、認知症もかなり進んでいるんだから、あの状態で、あの世代で愛する人の元へ行くために国外に行くのはどうかなぁ…。
アンソニーホプキンス、83歳かぁ…。この年齢で世界的に評価される仕事ができるなんて、相当幸せな人生だわ…。
時を戻そう
映画が認知症の疑似体験装置になるとは!ちょっとズルいけどスゴい作品です
すごい作品だな〜と思いました。
何がすごいって、アンソニーという年老いた認知症の男が主人公で、彼の視点で描かれているんですよね。だから観客に入ってくる情報が正しいのかどうか疑わしいんですよ。娘がさっきとは別の人に替わったり、相手の発言内容が以前と180度違ったりします。もしかしたら今スクリーンで起きていることはアンソニーの思い違いかもしれないというのは、とても混乱しますね。認知症を題材にした脚本を書きたいと思ったことはありますが、本人の視点で書くという発想はありませんでした。
認知症の人の視点で見るとこんな風に混乱するのか〜。映画がこんな風に疑似体験の装置になるとは発見でした。
アカデミー賞でいくつか賞を獲ったということ以外、前知識なしで観に行ったのも良かったのかもしれません。アンソニーが整然としていて、キッパリとものを言うキャラクターなのもあって、もしかして主人公を陥れる陰謀なのかもしれない、とか考えたりしてました。
実際に自分の娘の容姿が突然変わったり、独身のはずの彼女に夫がいることが分かったり、一晩のうちに部屋の内装が変わったりしたら、たぶん認知症でなくても混乱して頭がおかしくなりますよね。だから実は全部アンソニーを狂わせるための陰謀だったという暴露が、いつか来るんじゃないかとドキドキしてました。
結局、やっぱり認知症だったのだと分かり、ちょっと拍子抜けしましたが、この映画の本当の狙いが認知症を疑似体験させることにあったのだと気づいて「うわ、すげぇ」って思いました。
ただ、少し気になったのは、アンソニーのいない場面にまで認知症の影響があった気がするんですよね。例えばアンが眠っているアンソニーの首を締めるシーンがありましたけど、後にそっくりなシーンがあって、今度はアンソニーを撫でます。これってつまりアンソニーが首を絞められたのは思い違いで、本当は撫でただけだったということを示唆している──と読み取れるんですよね。他にもこの“よく似ているけど少しだけ違う=実はアンソニーの思い違いだった”という手法が使われているシーンはあったので。でもそれならアンの視点で描いちゃいけないんですよ。行動はアンの視点なのに記憶はアンソニーの視点というねじれ現象になってしまっているので。映画や脚本のセオリーとしてはNGです。
でもセオリーを外しているからこそ観客を混乱させることができるのだとも思います。セオリー通りに描くより、疑似体験を取ったのだろうな〜って。
しかしやっぱりズルいな〜とも思っちゃいます。だって何でもありになってしまうじゃないですか。もはや何が真実で何がそうでないのか、分からないですよね。果たして本当にその人物の言動なのかすらも疑わしい。テレビで見たことを娘が言ったと勘違いしてる可能性だってあるわけでしょ。監督や脚本家が何とでも言い訳できちゃうっていうのは、ダメだと思うんですよね。
とはいえ、すごい作品だということは揺るぎないです。
視点
単なる家族映画かと思ったら‥
父親目線で描かれる日常は、認知症のいわゆる見当識障害を擬似体験することができる。時間の感覚のなさ、自分が認識している人の顔の不整合、そして自分が今居る場所の不確かさ。ちょっと忘れたかな、という程度だと、認知を修正すべく周囲に合わせることができるんだけど、理解できないことが連続すると、もうその修正もできなくなる。最後、アンソニーが、何が何だかわからないと母を求めて泣く場面はほんとに共感してしまった。さぞかし、不安なことだろう。。
アンソニーホプキンスの演技は、リアルで、切なく、愛らしくもあり、主演男優賞は納得。
精神世界が崩壊する狭間の孤独
認知症の老人が主人公の地味なドラマかと思ったら、息詰まるような展開と巧みな構成が圧巻の心理劇でした。お話しの始めから主人公の発言がちぐはぐになり、さらに時間、空間、人物まで入れ替わり錯綜し、現実と老人の内的世界の境界線がわからなくなります。複雑な展開に観客は翻弄される形になるんですが、画面から目が離せない緊張感があると同時に、これは認知症患者の介護者にとって紛れもない現実。最後に主人公が何ヶ月も前から介護施設にいた事実と、さらに本人がその事実のショックから幼児帰りして、帰りたいと号泣するシーンは衝撃的です。思わず身につまされるようで、もらい泣きしました。アンソニー・ホプキンスは、これ以上ない名演でした。
文句なしの五つ星
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