ファーザーのレビュー・感想・評価
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アンソニー・ホプキンス級の名優は変形する。
もうアカデミー主演男優賞も当然でしょうよと納得するしかない、アンソニー・ホプキンスの素晴らしさ。いけ好かなくて、威圧的な年寄りが、恥ずかしげもなく若い娘の前ではしゃいで見せたり、クソな言動を繰り返したり、まあ、自分の父親だったら絶対に見たくなような姿を、延々と娘の前で晒し続ける。なんとイタくて哀しい姿か。そして、それこそが老いであるとでも言わんばかりの容赦ない演出にもう釘付けである。
認知症側の主観から描くというトリッキーな形式も、映画として非常に上手くいっていてとても面白いが、やはりアンソニー・ホプキンスの演技に一番圧倒される。これ、まだ観てない人に言うと怒られそうなんですが、終盤で『千と千尋』の坊みたいになるシーンがあるじゃないですか。顔がまっかになって、身体全体が大きく膨らんだ大きな赤ん坊みたいにあって、まさに坊みたいに見えるんだけど、その後すぐに元のサイズの老人に戻る。
これって目の錯覚かもですけど、ホプキンス級の名優になると身体の大きさまで自在に変えられるのかと思いましたよ。そういえば『沈黙 -サイレンス-』でイッセー尾形が急速に身体しぼんで小さくなるという驚異的な演技をやってたけど、もうイッセー尾形やホプキンスのレベルになると、人智を超えてくるのだなと目を瞠りました。
言葉が思い浮かばない
認知症の頑固な父とそれに悩まされる娘のストーリーだと思い見始めるが、実際は認知症側の目線で製作されたストーリー
日時の整理がついていない点、思い込みが激しい点、細かな所だけ過剰に気にしてしまう点、認知症の大変さをリアルに感じた。
またアンソニーホプキンスの圧倒的演技力にも魅了された。細部まで拘って役作りされているんだなぁとつくづく、、
1番心に残ったシーン
→個人的には最後の子供の頃の気持ちに戻ってしまいつつも今置かれいる自分の状況を理解しながら涙してしまうシーンはかなり引き込まれてしまった。
舞台みたい
出演者が少なく、ほぼ室内のせいか舞台演技を観ているような感覚に。
娘と会話していたかと思うと突然男性が椅子にいてびっり。(ホラーかと思った)
パリに引っ越すのよ、と言っていた娘が言う。
「何言ってるのよ、パパ。私達ずっとロンドンよ」
自分のフラットと思っていたのに、そこは娘達のフラットだった。
実の娘の死についても覚えていない。
などなど。
老いるってこういうことなのか、と深く考えさせられた。
娘婿がいつまでイライラさせるんだ?と、体罰を受ける妄想。
もう何が何だかわけがわからない。
誰が本物なのか。
誰の言葉を信じていいのか。
しかし、悲しいかな腕時計が気になって仕方がない父の言葉は全て信じてはいけなかったのである。
本当に悲しい。
時に嫌味を言ったり、冗談を言ったり、怯えた表情をしたり。
アンソニーのもはや演技に見えない名演技。
個性派女優アンの表情も素晴らしかった。
派手な演出ないのに引き込まれ、あっという間の100分だった。
辛い
自分がどこにいるのか、目の前の人は誰なのか、今は何時で何をしていたのか、、など見当識を失った認知症の方の世界を見て恐怖を感じました。
自分や家族にいつかそのような日が来るかも…と考えるとほんとうに恐ろしいし辛いです。
感情がコントロールできない、人格が変わってしまう等の症状が原因で厄介なおじいさんになってしまって周囲の人を困らせてしまっている状況にも胸が痛みます。
なんと繊細で残酷か
■自分が認知症になるとは?
男性は5人に1人、女性はなんと2人に1人、寿命が尽きる最後の5年間で認知症に罹かります。
人生を最後まで見通す時、これだけ多くの人が認知症になる事実を踏まえると、「自分は認知症になるかも」という想定は不可避です。
しかし、本当に認知症になることが不幸なのでしょうか?
病気の知識はあったとしても、認知症になった自分は一体どう感じ何を考えるのか良くわかりません。
■新しい視点で認知症の日常を描く
『ファーザー』は、認知症の日常を新しい視点で描く映画ですが、特に認知症に罹った人が見ている世界を教えてくれます。
ある日、アンソニー・ホプキンス演じるアンソニーは、娘のアンから新しい恋人とパリで暮らすと告げられます。ところが、自宅のフラット(アパートメント)には、アンと結婚して10年になるという見知らぬ男が現れます。実際にアンは、ロンドンに恋人と暮らしています。
この辻褄があわない状況に、われわれ観客は混乱しますが、ようやくそれはアンソニーが見ている世界だと理解が至ります。
アンは、父の日常生活をサポートしてもらうため介護人を手配しますが、アンソニーは癇癪を起こしトラブルになります。
アンは、アンソニーを引き取って3人で暮らし始めますが、アンソニーはそこを自分のフラットだと勘違いします。
別の日には、亡くなった娘が生きていると言って周りを困惑させます。
こうして認知症は、日増しに進行していきます。
そして最後は、施設に入所したことも、自分の名前もわからなくなります。
■認知症の人が見ている世界
アンソニー・ホプキンスが演じる認知症状の描写は、われわれに認知症のリアルを伝えます。
ざっと取り上げるだけでも・・、アンから直前に聞いた予定を忘れる「短期記憶の低下」、自分の経歴を勘違いする「エピソード記憶の低下」、今いる場所や時間が混乱する「見当識障害」、介護人に対する「暴言」、時計を盗まれたと勘違いする「物盗られ妄想」、同じ体験を二度する「幻想」、といった典型的な症状が次々と現れます。
そして、認知症状が悪化していく様子は、ドキュメンタリーともいってもよいものです。
ただそれだけでなく、この映画は認知症の「心の世界」に迫っています。
この映画は、第三者視点・客観的視点を徹底して貫いています。そのなかで、次々と起こる出来事の矛盾を通じて、認知症のアンソニーが見ている世界を描くことに成功しています。
しかし、アンソニーが抱く混乱や不安、諦めなどの本人の心境には立ち入りません。
故障したCDプレイヤーが、アリア「耳に残るは君の歌声」を繰返し再生する場面は、アンソニー自身が抱えている底知れぬ不安を感じさせます。
■認知症には2人の患者がいる
もう一つ、この映画の特徴は、やはり客観的視点から「世話する人」と「世話される人」という二つの立場を描き分けているところです。
認知症には2人の患者がいるといわれます。アンソニー本人の苦しみはもちろんですが、日常的に世話をするアンの悩みや悲しみはそれに匹敵するものです。
認知症の進行で、周りの人は日常で起こりえない様々な場面に遭遇します。介護に伴う労働はもちろんですが、例えば、記憶障害は家族の記憶にもかかわるものも多く、必要以上に傷つくことがあります。アンもアンソニーの言葉に傷ついていました。
しかし、この映画では、アンの苦しみを必要以上に描いていません。その代わり、アンを取り巻く人々がその都度登場し、感情を表します。
アンの恋人や見知らぬ男は、アンソニーに対する怒りを露わにし、介護人は戸惑います。そして、アンは悲しみ、涙します。
心情を分担させて描くことで、「世話する人」の苦悩を浮き彫りにしています。
このように認知症という現実を、この映画は極めて繊細に描きます。
それゆえ、認知症の残酷さが、われわれに突き刺さります。
あなたはアンソニーよ
これほど釘付けにさせられるとは思わなかった。
登場人物は6人。
人と人との間に広がる世界に引き込まれて、ある時はやり場のない悲しみに、ある時は主人公と共に混乱する気持ちを体感しながら進むストーリー。
おそらくストーリー中の時系列は、すでに主人公が施設に入ったところから始めっており、さまざまな断片化された記憶と現実を結びつけながら話は進んでいっているのだと思われる。
人間の現実を突きつけられる一方で、作品としての深さを思う存分に味わわされる。
アンソニーホプキンスの演技と脚本、グレーな絵が合間って、なんという映画だ。
その心許なさ
ロンドンで一人暮らしをする老人アンソニーをアンソニー・ホプキンスが、オリヴィア・コールマンがその娘を演じる。
薄れゆく記憶、住み慣れた家を離れ、1人施設で生きる事の心許なさ、侘しさ、孤独感…。嗚咽する姿に胸が詰まる。
BS松竹東急を録画にて鑑賞 (吹替版)
観ている人間が認知症になった時の苦しさを疑似体験でき、ミステリー映画様で真偽の推理も楽しめる
フロリアン・ゼレール 監督による2020年製作のイギリス・フランス合作映画。原題:The Father、配給:ショウゲート。
楽しくなる映画ではないが、認知症のアンソニー(アンソニー・ホプキンス)視点で物語られ、観ている人間が認知症になった時の苦しさを疑似体験できる凄い映画であった。ぜレール監督による原作戯曲が元らしいが、とてもよく練られた脚本(ゼレール監督及びクリストファー・ハンプトン)と思えた。認知症が進むと、今居る場所が分からなくなり、誰が誰かが混乱してしまい、時間の観念や大きな出来事の記憶さえ消失してしまうのか!誰もが成り得て、本人に悪気は無いだけに、悲しく、そして苦しい。
加えて、サスペンス調映画でもあり、事実が何かという推理を楽しめる映画(自分の場合はそれは視聴2回目で初めて可能であったが)でもあった。
長女はオリビア・コールマン(アン)で、そのかつての夫はジェームズ。今の恋人がルーファス・シーウェル(ポール)。長女より可愛がっていた次女(ルーシー)は、事故で次期不明ながら既に亡くなっている。ここまでは、明確な事実。
アンソニーはアンの家で一時的ということで暮らしていたが、長期になりそのストレスからかポールは随分と苛ついていた。その後ヘルパー・イモージェン・プーツ(ローラ)が面倒を見てくれていて、アンソニーは次女に似ている彼女を気に入っていた。但しローラーに関しては、真偽がかなり自分には不明。
しかし、アンに新しいパートナーができパリで同居のため、アンソニーは老人ホームで暮らすことになった。マーク・ゲイティス(ビル)とオリビア・ウィリアムズ(キャサリン)はその老人ホームの介護職員。これも事実。ただ、マーク・ゲイティスによるアンソニーの殴打は事実か妄想なのかも自分には不明。アンソニーの妄想の可能性の方が高いとは思うのだが。
長女アンの長年の介護の徒労感も見事に表現されていて感心させられた。献身的に介護しているのに、妹への愛情は表明されるが自分への愛情表現は殆ど無し。さんざん苦労して探してきたヘルパーも何人も追い出してしまう。挙句の果てに、娘の自分さえ誰か分からない反応を示す。首を絞めたくなる気持ちも共感できるところ。そうした、介護に苦しんできてる家族の割り切りと新たな人生への再挑戦を示した映画でもあった。
監督フロリアン・ゼレール、製作デビッド・パーフィット 、ジャン=ルイ・リビ 、クリストフ・スパドーヌ 、サイモン・フレンド、製作総指揮エロイーズ・スパドーネ 、アレッサンドロ・マウチェリ、 ローレン・ダーク オリー・マッデン 、ダニエル・バトセック 、ティム・ハスラム 、ヒューゴ・グランバー ポール・グラインディ。
原作フロリアン・ゼレール戯曲『Le Père 父』、脚本クリストファー・ハンプトン(1988年『危険な関係』ではアカデミー脚色賞) 、フロリアン・ゼレール、撮影ベン・スミサード、美術ピーター・フランシス、衣装アナ・メアリー・スコット・ロビンズ、編集ヨルゴス・ランプリノス、音楽ルドビコ・エイナウディ。
出演 アンソニー・ホプキンス:アンソニー、オリビア・コールマン:アン、マーク・ゲイティス男、イモージェン・プーツ:ローラ、ルーファス・シーウェル:ポール、オリビア・ウィリアムズ:女、アイーシャー・ダルカール:サライ医師。
過不足なく認知症そのもの。
何もかもがすべて、認知症の方そのもの。
特有の目の感じまで、そのもの。
アンソニーホプキンスは誰かを参考にしてアンソニー役を演じたのかもしれないが、本当に認知症なのではと疑ってしまうほど。
健常者から見ると十分攻撃的な時もあるが、これはレビー小体型ではなく、アルツハイマー型。
作品内は認知症の認知世界で描かれているため、時系列が思い出す順で、バラバラ。
娘のアンを思うと、認知症になった父親に悪気は一切ないだけに、吐き出す場もなく、本当に気の毒で。
時系列順に並べてみると、おそらく下記の流れだろう。
幼い頃から姉妹のうち姉のアンよりも妹のルーシーの方をアンソニーは可愛がっていた事がよくわかる。
ルーシーは容姿も可愛らしく、画家になり、アンは馬鹿扱いされていたが、ルーシーは事故で亡くなった。
その後痴呆になったアンソニーはしばらく独り暮らしをし、アンは仕事をしながらほぼ毎日通って面倒を見ていたが、大変なのでヘルパーさんにも来てもらう事に。
ところがアンソニーは癖がある性格で、言葉を選ばないところがあり、どのヘルパーさんも長続きしない。
良いヘルパーさんとも揉めてしまったため、アンは夫とイタリア旅行に行くはずが旅程をキャンセルし、次のヘルパーさんが見つかるまで、アンソニーは長年住んだフラットからアン夫婦の自宅へ。
そのまま同居となる。
アンソニーがいる暮らしが長く続き、アンの夫は我慢の限界を迎え、アンは離婚。
その後しばらく、アンの自宅でアンソニーは暮らしていたが、アンにはフランス人のパートナーができて、いよいよアンソニーは施設に入る事になる。
施設に入る頃には認知症もかなり進行していて、職員や医師のことも毎日忘れてしまうし、かなり幼児退行が進んでいる。周りが誰か自分が誰か、どこにいるかもわからない、怖いからママに迎えに来て欲しいと泣きつく。
この間、15年くらいだろうか。
元エンジニアだったアンソニーは快活でよく話す、冗談好きで陽気な性格だったが、認知症になると、言っていいことと悪いことの線引きができなくなってくる。
そのダダ漏れする心の声に、アンがどれだけ傷付くか。
はじめのうちは理性がまさり、忘れてしまっても尋ねては失礼だと躊躇し、遠回しに聞いたり、わからなくても悟られないように話すが、言葉も態度も場面に合わせた適切な選択ができなくなり、分別がつかなくなっていく。特有の、物の場所を把握しきれなくなり、あると思った場所にない=盗られたと言い出す症状も。
思い出すのは、人生で強く気にかけている事ばかり。
つまりは次女のルーシーや、ルーシーが描いた絵、いつでも旅に出られるように肌身離さず着けていたい腕時計など。毎日十何年も見てくれているアンは出てこないのが酷。
しゃんとしていた時を知っているからこそ、進行が悲しいが、元々そうではないと知っているからこそ、嫌いにはならない。
ただ、他人は認知症慣れしていなければそれがわからないから、なんで酷い人なんだと、アンの夫のように腹を立ててしまう。
昔からルーシーばかり可愛がられていて複雑な気持ちも抱えつつ、アンはアンソニーの認知症進行を大きく受け止め、長年生活を合わせ、周りに理解者がいなくても心の整理をし、とても優しく、できた人。
そのアンが、初老に差し掛かるくらいの年齢にも関わらず、髪型が短いことを父親に褒められただけで、ものすごく嬉しそう。
笑顔が、いかにこれまで褒められてきておらず、幼少から妹ルーシーとの扱いの違いを我慢してきて、なのに介護を一手に引き受け、夫や人生を犠牲にし、それでも認知症の父親を受け止めて向き合っているか、全てを物語る描写。とても印象に残った。
作中、アンソニーが相手が誰かよくわからない時に出てくる、シャーロックホームズでホームズの兄マイクロフトを演じるマークゲイティスが余計に、アンソニーが認知症として認知する世界の、不可解で何が何だかわからない怖さ不気味さを助長する。
身近で認知症の過程を見たことがあれば、誇張も何もなく、そのものなことがわかるはず。
自分もいつかなるかもしれない認知症の世界の視点で、実際に認知症の人に携わった時に、心情や進行度を理解し、寄り添える人間でありたい。
身近な人が密かに始まっている時にも、気付けるようでありたいとも思う。
残酷なまでに疑似体験させられる
混乱し迷路を彷徨う当事者の辛さ、苛立ち
面倒をみる家族やその近い関係の人たちの辛さ、苛立ち
介護の経験はないが祖父母や
これまで会話をした年配の方々
アンソニーの仕草や様子の全てが
よく知っていた光景だった
あの時のあの人たちの混乱した様子や
寂しそうな目や孤独を知って涙が止まらなかった
今どこにいて何をしているのか
腕時計を見て時を把握する
それだけで孤独な自分は少しは落ち着くと思う
娘と笑い合ったり、感謝の言葉を述べたり
アンの涙を拭ったりする父としての優しさ
日々忘れることが多くなり混乱している一方で
まだいるアンソニーの中の父としての在り方にも涙
最後は胸が辛くなる子供返り
キャサリンが優しい介護士でよかった
高齢化が進んでいる今の日本
自分も同じくらい歳を取ってから理解するのでは遅い
現代の人に観て欲しい一本
これを観るだけでどれほど歩み寄れるか
歳をとるまで理解し得なかった感情を何十年も早く
疑似体験させてくれたアンソニー・ホプキンスの
名演技に感謝し、拍手を贈りたい
なかなか難しい映画でした
認知症視点という予備知識があっても、どれが今の話しか映画が進まないとわからない。幻覚と時系列が前後していると思うけど、最後のシーンで前半のシーンであの人達がそのセリフを言っていたのかとわかって、流れが掴めました。
映画の序盤はこっちも困惑します。
見終わったらそういうことかとわかります。あるシーンで返事しなかったこととか他にもいろいろ。
認知症の困惑した感じなどよく演じていたなぁと思います。
さすが、ハンニバル・レクター!
高齢化社会、他人事ではない
認知症「側」の観点から描かれる世界。人物や時間軸や場所や出来事が入り乱れて、トリックのような現実の「老い」。
偉そうな姿から愚かで赤子のような姿まで晒すアンソニー・ホプキンスは流石。
高齢の親が居る身としては他人事ではないなぁ。
自己の崩壊を明晰に演じるアンソニー・ホプキンス
2020年(イギリス/フランス)監督:フロリアン・ゼレール
恐ろしい映画でした。
認知症の父親役のアンソニー・ホプキンスが実に名演でした。
2度目のアカデミー賞主演男優賞受賞も納得です。
56年に渡る役者人生の集大成に相応しい演技でした。
同作品は同時にアカデミー賞の脚本賞も受賞。
非常に観客(わたし)を惑わせる映画でした。
娘(アン)の視点と、
父親(アンソニー)の視点の両方で描かれる。
そしてアンソニーは認知症がかなり進んでいます。
そこに脚本も映像も意地悪い。
娘のアンがある時は別人だったり、
アンの元夫なのか現夫なのか?居間にいる男。
この男は現実の人物なのかも不明です。
「お前(アンソニー)にはイライラする。俺たちの邪魔をいつまでするつもりか?」
と、面の向かって聞いてくる。
長生きは身勝手で我が儘・・・とまで言う。
私はちょっと考えたのですが、このポールと名乗る見知らぬ男は、アンの分身で、もしかして、アンの本音を話すのが彼なのではないのでしょうか?
アンの姿は、優しく父親思いで献身的な娘そのものです。
しかしそんな優しい娘が、60歳過ぎて出会った男の住むパリへ移り住んだりするものだろうか?仕事も捨てて・・・。
あるシーンでは、精神科医にはハッキリとパリ行きを否定しています。
本当にこんがらがります。
新しい介護人のローラは、若く美しく妹娘のルーシーに似ていて、
嬉しくなったアンソニーはタップダンスを披露したりする。
しかし翌日現れたローラは中年の女の人でした。
全てはアンソニーの妄想で、顔の識別も出来なくなっている・・・
見知らぬ男が居間にいる・・・アンの顔も忘れる・・・
と、認知症の症状と思って観ることも出来ます。
認知症患者の見ている心象風景は、これほど歪んでいるのですよ!!・・・と。
娘のアン役は「女王陛下のお気に入り」でアカデミー賞主演女優賞を受賞したオリビア・コールマン。
善意の娘を演じて、「本音はそれだけではないだろう!」
と、ツッコミを入れたくなる好演でした。
監督は2012年にこの映画の元となる戯曲を書いたフロリアン・ゼレールで、
今回戯曲を自ら監督しました。
ミステリー映画やサスペンスのように謎がいっぱいで、疑心暗鬼になってしまいます。
騙し絵のようなシーンがいっぱい
アンソニーのフラット(家)から私(アン)のフラットに越して来たのよ、
ここは私(アン)の家・・・と言うのに、
アンソニーが慣れた手順で紅茶を入れるキッチンは、
キッチンの壁はベージュ模様のタイルだ。
(アンの家はブルーの壁紙。)
アンソニーの壁に飾られてるルーシーの絵は、アンが自宅だと言う居間にも
飾られていた。
騙してるのは誰?
記憶が薄れてるアンソニーを良いことに嘘を付いてるの?
映像は騙し絵のように仕組まれている。
アンソニーが窓から見下ろす景色にもフェイクが隠されているのだ。
年老いると自分の目に見えるものを疑わなくてはならないのか?
アンソニーは常に、自分の判断に懐疑的です。
自分で何も出来なくなる。決定権がなくなる。保護者の指示のままに行動するしかなくなる。
ここに相手への信頼が失われたら・・・と思うと本当に恐ろしい。
そこに付け込まれて、ロフト(住居)も財産も失い、
何より時間、自由、尊厳さえ失う。
死んだら何ひとつ持って行けないのだから当然なのだけれど、
生きてる間に奪われて行くのを見るのは辛い。
老いの現実を突きつける衝撃作でした。
見応えたっぷりの名作
「ロンドンのフラット」は、リビングも寝室もベージュの壁、木製のキッチン、クラシカルな家具、黄色系のカーテン。ある時からブルーグレーの壁、モダンなキッチンになり、インテリアや照明も変わっていた。アンソニーの寝室のベッド、タンスも微妙に違う。ものすごい変化なのに、アンソニーとアンに魅せられている間に鑑賞者の脳も混乱する。
忘れないうちに時系列を整理したい。合ってるかは分からないけど。
①アンは近くに居て日常的に会いに来てくれる
→「アンはそばに居てくれる」
②アンソニーの認知症が進み、トラブルを起こしてアンジェラが辞めてしまう。
アンはパリで暮らすことになったと告げる。
→「アンはパリに行ってしまう」
③父を一人にはできないので、パリのフラットで夫のポールと同居することに。
ポールはいつも赤ワインを飲んでいる。
→「イタリア旅行をキャンセルしたのは私のせい?」「老人ホームに入れろ?」「いつまで居座る?」「イラつく?」
④アンは新しい介護士を探している。
→「ローラはルーシーに似ているのでお気に入り」
⑤介護生活に疲弊したアン(父に殺意さえ抱いた)は、父をロンドンの老人ホームに入れることを決める。キャサリンとビルがアンソニーの世話を見ることに。
⑥施設に入って数週間が経つ。①〜⑤とルーシーの死とが混同し前後しながらループしている。
頭の中のロンドンのフラットが、アンのモダンなフラットとミックスされ、病室の青色ベースに徐々に侵食されていくところがリアル。偽ポール(ビル)と偽アン(キャサリン)が早い段階で出てくるのは、この物語が入院後の幻想だからだ。
人物と会話のすり替えがサスペンスホラーのようだが、映画を最後まで観ると納得する。
冒頭のポールは、介護士ビルの顔に、冷たい感じのアンの夫のイメージがミックスされている。
世話を見てもらっているうちにアンとキャサリンがごっちゃになる。
アンが買い物から帰ってきたと思ったら、キャサリンが現れ、困惑する。
5年前にジェームズと離婚した話は、アンではなくキャサリンとの会話だと思う。
ローラとキャサリンもごっちゃになる。2回目に会ったローラは言葉遣いからしてキャサリンだが、ローラに見える。だから次にローラを待ってると、キャサリンが現れ動揺する。
アンソニーは、(亡くしたルーシーは別として)アンや妻、周囲の人を見下していた傾向がある。快適な空間を整えるため、誰が家事をこなしてきたのか。シャツにアイロンをあててくれるのは誰なのか。その存在に対する認識が抜け落ちている。
自分が人に見下されるなんてあり得ない。だからポールに言われた嫌味が理解できないまま脳にこびりつく。
葉が落ちていくに従って、無条件の愛=母に帰依するが、人は生きている間にエゴを捨てきることはできないから悲しい。かつて豊かに繁っていた樹々の緑が切なかった。
認知の正誤
アンソニーホプキンスは安定の演技力。
視点を認知症患者側から描くので最後まで正誤がわからない。
正誤という捉え方が合っているのか、どうなのか、
考えさせられる。
DNAレベルから治療可能な医療進歩を期待したい。
記憶は財産である。
すべての葉
認知症の混乱とはこんなものなのだろうか?観ている者も何が本当か分からなくなる。時間の認識、人の認識。葉が落ちていくように記憶もなくなる。みんな誰かの子供、観ていて切なくなる。
最後子供に返ってママを求める所は悲しみに暮れる。
ここは私のフラット(家)だぞ
映画「ファーザー」(フロリアン・ゼレール監督)から。
いつかは自分も通る道(認知症)と考えると、他人事ではないが、
認知症の本人と、家族を含めた周りの感覚にこんなに違いが
あるのかと、考えさせられた作品となった。
「少し前からなんだが・・」と前置きをして
「妙なことばかり起きる、気づいてたか?」。
ラストには「何か様子が変だ。なぜ私はここに?
私は誰なんだ?、何が起きてるんだ?」と呟く。
しかし、作品中、気になったのは、
何度も何度も繰り返される「ここは私のフラット(家)」。
生活した家だけは、記憶の中で、残り続けるのか、
雰囲気が変わっただけでも気付く。
娘さんの家に移ったことはわからなくても。(汗)
字幕の妙は「ここは私の家だぞ」でもいいのに、
なぜか「ここは私のフラット(家)だぞ」と訳される。
わざわざ「フラット(家)」とする意味がわからなかった。
誰かわかる人がいたら、是非、教えて欲しいなぁ。
P.S
イギリス人のフランス人評価「英語も通じない連中」
これが一番、笑えたかなぁ。
自分のためにもういちど観たい
父アンソニーと娘アンの心の機微が見事に描かれていた
肉親ならでは。。。の感情だろう
だって、近所の人がそうした状況にあると知ったときとは明らかに違うのが本音だとおもう
身内でさえ娘とその夫の姿に
よくあらわれている
自分で自分のことがわからなくっていく
恐怖、認めたくない気持ち
対する
よく知ったその人が少しずつ消えていってしまうような寂しさ、つらさ
老いは誰しもの人生の道の先にあるもので
どう受け入れられるかが鍵だと教える
どうしようもない変化に遭遇したとき
あわてるのは仕方ない
でも本作を観た経験は
もしかしたらクッションみたいな
なにかを
ふわっと自分の手元によこすのかもしれない
抗えないことに
そばにいる者がやさしく存在できれば
奇跡のような命のレールで出会った意味、
愛という感情がなしえるものを
ひとつ知ることになるのかもしれない
すべては永遠ではなく
のこされた限りある時間のなかのこと
家についたら一本の電話で
安らぎを与えたいと思った
もし、抜いたばかりの歯を
わたしの歯は一体どこにいっちゃったんだ?とか
今さっきの確認を
そんなのみたこともきいたこともないとか
とんちんかんに思えるやりとりがあっても
もらったクッションをかかえて一呼吸おき
まるごとゆっくり包めるような
できるだけそんな自分になりたいと思った作品
愛をもって
自分のためのクッションは必要だ
悲しい
認知症を描いた映画は結構あるけれど、ここまで本人に寄り添った視点のものは初めてじゃないだろうか。
人の顔と名前、自分が今いる場所、過去の記憶など、全て辻褄が合わないのに、周りはそれが当たり前のように接してくる。まるで1人だけサスペンス映画の中にいるような恐怖。
これだけ見ると同情して可哀想だなで終わるが、周りの立場に立つとそれだけでは済まない。病気のせいだとわかってはいても、心無い発言をされたり同じ話を何度しても覚えていなかったりと、イライラの毎日。アンは娘だからある程度思いやれるし、介護士たちは仕事だから受け流せるが、ポールは他人だからイライラを本人にぶつけてしまう。それでも覚えてないから余計イライラ。
私自身も認知症の家族と暮らしたことを思い出しながら観たが、そうだよなあイライラするんだよなあ。と共感した。
アンソニーは恐らく以前は非常に知的でチャーミングな人物だったんだろうと思うが、そんな彼も認知症になったらただの迷惑老人になってしまう。本人も悲しいし周りの人間も悲しい。ひたすら悲しい映画だった。
そして、始終クラシック音楽が流れ高級なフラットを舞台に美しく描かれている中に、アンがアンソニーの首を絞めようとする描写があったり、アンソニーがアンにお前の葬式が楽しみだ的な発言をしたりと結構エゲツない描写が入ったことで、綺麗事で終わらないリアルを感じて、それがすごく良かった。
悲しい、、、アンソニーの演技すごい
まさに祖母の半介護をする母と一緒に見ました
海外でも同じ事象が起こっていて共感しました
そしてアンソニーの認知症のうつろな感じがとてもうまく表現されていて、泣きたくなりました
時間軸飛んだり、言ったことを言ってなかったりどっちやねん!という構成が面白かったですね。まさに認知症体験映画
最後には母を求めるシーン、、、なける
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