Mank マンクのレビュー・感想・評価
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配信向きかも
ずいぶん昔に『市民ケーン』は観たものの、うろ覚えだったから色んな資料やwikiまで読んでから劇場へ観に行きました。
ドキュメンタリーではなく物語になっていて、オーソン・ウエルズとマンクの対決シーンは最後の方にわずかだけ。
ケーンのモデルになったハーストはもちろん、MGM創始者ルイス・B・メイヤー やウエルズの盟友ハウスマンまで登場し、1930年代ハリウッドの妖怪たちのえげつないキャラクター性や、映画制作の闇の部分を描いていく。
基本的にフィンチャーらしい会話劇。
すごい出来なのは間違いないが、会話の内容を理解しきる間がなく次のシーンへ移るため、確認のためにもう一度観たくなる。
配信やビデオ向きかも……ってネトフリ作品だった。
理解するならリテラシーも必要だが、映画の完成度は今年ベスト級で、内幕物や群像劇としても楽しめる
1941年の古典的名作映画『市民ケーン』をめぐる制作秘話的な内容だが、脚本家のマンクの皮肉屋だが愛敬もある姿と新聞王ハーストとその妻マリオンとの友情と別れを中心とした群像劇としても楽しめる。
1930年の大恐慌も格差も今のアメリカ社会と地続きなのを、鮮明にしている構造なので、その周囲に興味や知識がないと半分ぐらいしか飲み込めないことや『市民ケーン』関連の知識が無いと分かりにくい部分が多々あるのが難点だが、映画好きのアメリカ人なら判る範囲なのだろう。たぶん。
全編を最新のデジタルカメラを使ったモノクロ撮影で行い映像も、陰影が深いのにも関わらず暗部の調子やディテールが残っており最先端の技術を見せつけられる。
キュアロン監督の『ローマ』などでもALEXA 65ミリの大型撮像素子を使ったデジタルカメラでのモノクロ撮影をしているが、あちらは、硬質でパキっとした透明感の強い仕上げに目を見張るがこの作品は、陰影もあるが柔らか目で時折、赤外線フィルム調の場面も有ってこちらも素晴らしい。
撮影カメラが、発表当時からRAW撮影が得意で、スチールカメラの発展型動画カメラとして話題になったREDのモノクロ機を使用して、そのポテンシャルをフルに使っているのだろうと思う。
フィンチャー監督は、デジタル撮影を以前から推進しており、多くの作品でREDを使っている。
8Kで撮影された本作をNetflixの配信で観てしまうのは、残念だが8K画質のポテンシャルを発揮できる上映環境が近場に無いので仕方ない。(ちなみに自分は5Kの液晶モニターで鑑賞)
特にマンクとイギリス人タイピストが屋外で会話する場面の背景は、赤外線写真の様なテイストで美しい。
しかし面白いのは、当時の映画の雰囲気を出す為か、冒頭からフィルムにあるシミの様な黒点をワザと入れたり映写フィルムの交換を知らせるチェンジマークのパンチを所々表示したりと凝った仕掛けも見受けられる。
フィンチャー監督もアナログ撮影に拘るノーラン監督とは違う方向からシネフィル振りを発揮している。
主演のゲイリー・オールドマンのなりきり振りは、正直アカデミー賞の主演男優賞を取ったチャーチルとダブるが、チャーミングな皮肉屋と道化の悲哀も見事に演じている。
アマンダ・ミシェル・サイフリッドが当時の偽りのスター女優マリオンの孤独と優しさも体現していて心に残る。
特にマンクと、月夜の庭園をデートの様に楽しげ散歩する場面や別れの場面での恋愛感情とは違う友情を感じさせるところなどが心に残る。
ハースト役のチャールズ・ダンスは、近年の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』時とは違う雰囲気で、存在感もあり監督が違うと、こうも役者は変わるのかと驚いた。
しかし『市民ケーン』を監督した天才オーソン・ウェルズは不思議な存在感と胡散臭い部分があり、登場場面は少ないが、画面をさらって行く。
そういえば、ピーター・ジャクソンの『乙女の祈り』やティム・バートンの『エド・ウッド』でもオーソン・ウェルズが虚実で現れて物語の推進力になるのは、多くのクリエーター達が、ウェルズの作品に魅せられいるからだろう。
全編に渡ってセリフも映像も気持ちいいぐらいにキレがあり、地味な話しなのに引きつけられる。
フィンチャー監督の実力の凄さを見せつけられ完成度は今年ベスト級だと思う。
回想場面の多さや理解するならある程度のリテラシーも必要なところは、評価が別れるかもしれないが、内幕物や群像劇としても楽しめる。
2021年1月追記
音声コンテンツのポッドキャストPOP LIFEを聴いていたら、映画音楽ライターの木津毅氏が、『Mank/マンク』に限らず近年の映画全体がハイコンテクスト化(文脈)して知識が必要になっていると指摘されていたのは納得。
批評家や一部見巧者には評価される本作だか、レビューサイトだと今一つ評価されていない印象なのは、その前提となるアメリカの歴史や映画文学の知識が解らないと理解し難いのと面白くも無い側面もあり、その側面があまり先鋭化すると娯楽を求める人には、敷居が高くなり大衆娯楽としての映画の衰退にも繋がる恐れがあると思う。
40代の男の振る舞いを教えてくれる映画です。
あえて少数派として逆張りで生きる。
自分の信じるものに投資する。
いい女と仲良くなれるように頑張る。
自分の働きたい時間で働く。
よそ見して運転する人とは付き合わない。
現場に飛び込む。そこが修羅場になろうとも。
お金に困っている人には助けてあげる。他人のお金でも。
ゲイリー・オールドマンという色彩
『市民ケーン』をきちんと観たうえで鑑賞。
デヴィッド・フィンチャーの一番の特色と言えるサイコ的なサスペンスフル要素はないけど、個人的にフィンチャー作品の中では上位に来るぐらい面白かった。
前に『ゾディアック』の感想でも書いたけどフィンチャー作品の「憂鬱な胸糞さ」が苦手で後半の方は疲れきってしまうのだけど(そこが面白くもあるのでつい観てしまうのだが)今作は後半にいくにつれて面白くなり気が滅入ることなくサクサク観れた。
正直に言うと当時のハリウッドの背景などほとんど知らないし、登場人物が覚えられなくて、「誰だっけ?」ってなった(フィンチャー作品では毎度のこと)けど、あの毒とユーモアを織り交ぜたセリフの言い回しがすっごい面白くてハマった。
フィンチャーはスリラーもいいけど、皮肉に満ちた作風が個人的には好きだったりする。
それとゲイリー・オールドマンの圧倒的な佇まいに見入ってしまう。
彼がモノクロ画面に色を添えていたような感覚でゲイリー・オールドマンだけでも観ていられる気がした。最後に本物のマンクさんの映像が流れるのだけど、劇中の姿を瓜二つ過ぎてビックリした!「あれ?これって実際の映像じゃなくて映画用に撮った映像なんじゃないか?」と錯覚してしまうほど。
というか最初ゲイリー・オールドマンが何処にいるのか分からなかった。
自分の中ではゲイリー・オールドマン=ダークナイトトリロジーの刑事役だったから見た目が違いすぎて気づかなかった。
役作りが凄まじい!
これを観て確信したのは「現代で撮った白黒映画」は何故かハマるということ。
『ROMA』とか『異端の鳥』だとか…
滑らかな美しいモノクロ画面は妙に説得力があって感銘を受けてしまう。
では最後に1番好きなセリフを。
「映画というのはな、ここと、ここと、ここで感じるもんだ。」("ここ"が何処かは観てのお楽しみ)
知識不足
飛び交う
機知や風刺に富んだセリフ
おそらく有名な文化人や著名人の名前
私は、オーソン・ウェルズしかわからない
でも
フィンチャー作品
何度
そう
何度集中力が途切れ
スマホに手が行こうとも
今日の食事に思いを馳せようとも
最後まで観ようじゃないか!
悪いのは、
私なのだから。
フィンチャーは現代のウェルズ?古き良き自分の罠にかかる共作・共犯関係!!
(FLASHBACK) 40年代の現在と30年代の回想が入り組んだ語り口を突破口に、テンポ良く時にコミカルに昔のハリウッドを描く。その中で冒頭ではうだつの上がらないアルコール依存症の中年脚本家が、徐々に積み上げていき、後半からと相手の本拠地に乗り込む圧巻の終盤にかけてただ一人反骨の象徴としてヒーローに見えてくる。昔らしいゆっくりとした暗転に、丁寧に右上のチェンジマークまで。映画史上屈指と名高い傑作『市民ケーン』のモデルとなった人々ウィリアム・ランドルフ・ハーストとマリオン・デイヴィスとの出会いから執筆中・後のあれこれまで、脚本家ハーマン・ジャコブ・マンキーウィッツを中心に描かれる。
NETFLIXとの4年間との独占契約を結んだのも記憶に新しい完璧主義フィンチャーが父の脚本を、同業者からの支持リスペクトも厚い名優ゲイリー・オールドマンをタイトルロールに、アマンダ・セイフライドや、白黒で見るとより一層オードリー・ヘップバーン味のあるリリー・コリンズを起用した見応えあるドラマ。正直、長年愛されてきている傑作『セブン』『ファイト・クラブ』といった作品群に比べるとまだ愛着も取っつきやすさも覚えていないが、撮影や編集、衣装美術など技術・裏方的な部門でもストリーミング作品としてはよりインパクトあるアカデミー賞大量ノミネートもあり得そうな各種方面での充実っぷり。そして映画の魔法は意識的に起こそうと思って起こせるものだと証明してみせた。遂に、やっと見られた!
60日とパスタ「タイプの音が聞こえないぞ」なぜかZ
個人的にはいろいろとダメだった
マンクがいかに「市民ケーン」の脚本を書き上げたのかを描く物語。
「市民ケーン」を観た記憶なんてほとんど残っていなかったから、事前にネットにあったネタバレ解説を読んで臨んだらそれが大正解だった。
ケーンのモデルとなった新聞王とマンクの因縁を徐々に明らかにしていく流れなのだが、それが市民ケーンと同じ構成。オマージュもあった(自分が気づいたのは少しだけ)し、裏話的なエピソードもあったりする。だから好きな人にとってはたまらないのかなと思いながら観ていた。
後半盛り上がるはずなんだが、後半も退屈だった。話し方とか内容が個人的に受け入れられなかったからなのか。もっと面白いのかもしれないのにと思いながら、それでも退屈だなと感じてしまった。不思議な映画だった。少しだけ自己嫌悪。
『市民ケーン』に憑りつかれた者たち
『ソーシャル・ネットワーク』で『市民ケーン』のような作品を撮ったデヴィッド・フィンチャーが、今回は完全に『市民ケーン』を撮ってしまった。
フィンチャー作品といえば、怒涛の対話劇と圧倒的な情報量がウリだと思っているが、今回はまさに“全乗せ”状態。特にハリウッド黎明期の小ネタを随所に盛り込んでるので、ルイス・B・メイヤーだとかアプトン・シンクレアだとかマルクス兄弟とか言われても、知らない人には全く分からないと思う。
そういう意味でフィンチャー作品は、一見さんお断りなところは無きにしも非ずだけど、それでも観てしまうのは、やっぱり「デヴィッド・フィンチャー」というブランドが確立されているから。
ウィンストン・チャーチルを演じた時は肉襦袢を纏っていたゲイリー・オールドマンが、本作ではチャーチルを彷彿とさせるでっぷり体型を造っていて驚き。クライマックスでの大演説は白眉。彼はもう個性派俳優ではなく「名優」の肩書を纏ってしまった。
また、オーソン・ウェルズ役の俳優が実に本人そっくりだったり、『仁義なき戦い』の金子信雄扮する狡すっからい組長を思わせるルイス・B・メイヤーの面の皮の厚さなどニヤリとするシーンもあり、フィンチャー作品の中でもコメディ色が結構強いかも。
ゲイリー演じる脚本家マンクは、権力を持つ者の意向一つで製作体制が変わるハリウッド業界に抗うフィンチャー自身。そんな彼が、自由な製作体制で映画が撮れるNetflixを選んだのは自然の摂理なのかもしれない。
今回は先行劇場公開で観たけど、これだけ情報量が多いと、やっぱりこの作品は自宅とかでじっくり観られるNetflix向きなんだろうな。
パワーゲーム
もっと芸術性の高い内容かと思いきや、極めて政治性の強い内容だった。
ひたすらパワーゲームを見せられた感じですね。
余談だが、あれだけ毎日酒浸りになれば早死にするわな・・残した作品は1級かもしれないが、人としては好きになれない。
ひたすら個人的興味で映画を作ってしまう。
なんていうマニアックな企画。確かに劇場用映画では成立してないだろう、というストライクゾーンの狭さ。私的興味の固まり。ゆえに面白さで比肩するものがない。圧倒的な技術を持っていて、そして会話のほとんどが業界会話だし。
しかしハリウッドは脚本家主人公の映画の系譜があるよね。まあだいたい閉じ込められる。ここで締め切りがセットされて、しかも脅してくる相手が若き日の天才オーソンウェルズ。こっちは大ベテラン。そこに至るまでが断続的に回想で突っ込まれてくる。
正直、このハーストネタから市民ケーンへと至る創作ネタをもっと盛り上げて欲しかった。でも敢えてなんでしょうね。熱がこもりそうな書いてる姿は描かず寝ておきてばかりだし。
ということで、盛り上がりには欠く。あくまで市民ケーンのシナリオができるまでの話なので。でもラストシーンはなんかいい気分になる。
オルガンを弾くサル
市民ケーンは数十年前に観たことあるけど…ぐらいの状態で鑑賞。
ケーンーマン・マンキウイッツ=マンクが市民ケーンの脚本を書いた話。
1940年、クレジットに名前を載せないという契約を交わしたマンクが牧場宿泊施設に缶詰状態になり、60日間で脚本を仕上げて行く。
半分は映画会社や関係者、政治家との1930年代の様々なシチュエーションでのやり取りの回想シーンで、時には回想シーンから更に回想したり。
もっとヒリヒリするような波瀾万丈や障壁があるのかと期待してみたけれど、その時勢におかれた何かに例えて遠回しにはなしたり、能書きが多くペラペラ良く喋る主人公のメンタルの話が主という感じ。
市民ケーンや主人公そのものに特に思い入れや興味が無い自分には、いつの話なのか、何の話なのか良く判らないところも結構あるし、判る部分でも、なるほどというところはあっても響くものはあまりなかった。
パロディも随分昔に観たことある程度じゃわからないしね。
その時代のハリウッドや市民ケーンに造形が深い人じゃないと楽しめないんじゃないかな。
【変わらぬアメリカ、変わるアメリカ】
1930年代、アメリカは1929年に起きた大恐慌の悪影響が続き、大不況は続いていた。
こうしたなか、作品中には、脚本家組合が設立された話が出てくるが、今のSAG-AFTRAの前身となる全米俳優組合組合もこのころ設立され、それぞれ、労働条件の改善や、搾取に対抗する条件などを求めて制作者と交渉していた。
こうした組合は、当時はまだ、社会主義的と見做され、企業側や、共和党からは忌み嫌われる存在だった。
映画「市民ケーン」では、ケーンが労働者の側に立ちニューヨーク州知事の座を争うのだが、この「マンク」では、カリフォルニア州知事選を競う場面が出てくる。
マンクの執筆した脚本は、マンクが直前に経験したことが多く盛り込まれ、そして、没落するケーンのモデルは実在のハーストだった。
作品で取り上げられるカリフォルニア州知事選の共和党側の宣伝工作は、あらためて考えると、フェイクニュースだ。
フィルムを使って、堂々とフェイクニュースを作成して、流していたのだ。
現代のアメリカの大統領選挙となんら変わるところなどない。
そう、この作品は、今、作られるべくして制作されたのだ。
そんな対比も、実は滑稽だったりする。
当時の映画作品で多かったのは、どうもギャング映画のようだ。
何度も皮肉たっぷりに引用されるのはキングコング。
娯楽作品がほとんどで、教養が重視されるような環境ではなかったのだろう。
まあ、これも現代と似たようなものかもしれない。
その中で、「市民ケーン」は異色だったはずだ。
成り上がり、労働者のための政治家を目指し、そして、スキャンダルなどを経て没落して行く人間の物語。
「市民ケーン」が史上最高の傑作とされる所以は、物語のノンフィクション的という独創性や、脚本だけではない。
オーソン・ウェルズのワンマン映画とされるものの、そのおかげで、今では当たり前の撮影ノウハウなどが新たに導入され、物語に重みを与えている。
ただ、やはり、「市民ケーン」はマンクの執念によって出来たことは間違いない。
ケーンは力を失う。
しかし、現実では、共和党も実は力を失い、作中で社会主義的と揶揄された労働時間は今や8時間がベースで、福利厚生は改善、人種差別は大きく後退し、ジェンダーの差別も当然無くなってきている。
それに、今や、大統領選でカリフォルニア州の選挙人を共和党が獲得できるとは誰一人思わないだろう。
民主党のケネディは銃弾に倒れたが、クリントン、オバマは長期政権を全うした。
白人労働者を鼓舞したトランプは、大統領の座を追われることがほぼ決まりだが、何かに取り憑かれたように、フェイクを発信し続けている。
既得権益にしがみつく、当時の映画制作者や企業のようでもあり、皮肉だ。
そして、多くの俳優やシンガーは、人種や国籍を問わずパフォーマンスし、米国の屋台骨となっているITやハイテク産業の労働者も対象の市場も、人種やオリジンを問うたりしないし、相手は世界市場だ。
トランプを支持する白人至上主義者は所詮ワン・オブ・ゼムでしかないのだ。
この世界最高傑作の映画誕生にまつわる物語はモノクロで撮られている。
しかし、色褪せず僕達に語りかけている。
普遍的な価値観はあるのだと。
時代や環境が変わろうと、それは変わらないはずだと。
我が国の現状を鑑みると気後れしそうになる。
因みに、「市民ケーン」は、作中で数回紹介されるコンラッドの「闇の奥」の制作を断念して取り組まれた作品だ。
「闇の奥」からインスパイアされて作られた作品はコッポラの「地獄の黙示録」。
#BlackLivesMatterのムーブメントで、標的とされた銅像に、ベルギーのレオポルド2世のものがある。
「闇の奥」のモデルとされる人物だ。
何か、最近の出来事と連なって、シンクロニシティとは言わないが、妙な縁を感じる作品だと思った。
まあ、制作者は意図してると思うけど。
多くの人に観て欲しいと思う。
ハリウッドの光と影をモノクロの世界で
メジャー映画の製作工程の中で描かれる人間の心の葛藤。
デビッド・フィンチャーが撮る所に意味がある。
市民ケーンやこの当時のアメリカの歴史を知ってから、鑑賞すると良いかも。
イビキをかいて、寝ている輩がいました。
私としては、予想外に面白く重厚な映画でした。
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