「“信教の自由”を理解しながらも、差別や偏見にまみれる社会の縮図」星の子 Naguyさんの映画レビュー(感想・評価)
“信教の自由”を理解しながらも、差別や偏見にまみれる社会の縮図
「星の子」。
主演映画は「円卓 こっこ、ひと夏のイマジン」(2014)以来となる芦田愛菜。
まだ16歳なので“マナちゃん”と呼んでも差し支えないはずなのに、時折、垣間見える知性と、子役からの実績が、すでに“芦田愛菜さん”と呼ばせる空気感を纏っている。
前作の頃(10歳)は、“ザ・子役”のルックスであり、この世代における6年の大きさを物語る。芸能ニュース的には、この間に慶應義塾中等部に通常入試で合格した才女である(現在、慶應女子高)。
そして6年ぶりの映画として、彼女が選んだのが主演作品であり、しかも大森立嗣監督作品というところが、またその大物感に箔をつける。実力派俳優がこぞって出演を望む監督のひとりだ。今年も大森監督は長澤まさみ主演の「MOTHER マザー」を送り出している。
さて本作の原作は今村夏子の同名小説で、第157回芥川賞候補になっている。
主人公の中学生ちひろ(芦田愛菜)は、愛する父母に大切に育てられた。幼少期に病弱だったちひろを救ったのは、藁にもすがる想いで、両親が頼った宗教と、その団体が提供する怪しい“水”だった。
いぶかしがる叔父の家族は、ちひろと姉を引き取って、両親から引き離そうと試みるが、ちひろは愛する両親を裏切れず思い悩む。
中学3年生で受験を控えたちひろは、新任の先生に一目惚れするが、夜の公園で両親が頭にタオルを乗せ、“水をかける”怪しい儀式を先生に目撃されてしまう。
結果、片思いの先生には激しく拒絶され、避けられてしまう。揺れ動く心の葛藤を演じる芦田愛菜の演技が見どころだ。
本作の完成報告イベントで、「信じる」ことについて聞かれた芦田愛菜が語った答えが、日本国内だけでなく、中国版ツイッターWeiboの記事にも取り上げられ大反響を呼んだ。
「『その人のことを信じる』ということは、その人自身ではなくて、『自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっている』。だからこそ人は『裏切られた』とか言うけれど、それは『その人が裏切った』とかいうわけではなく、『その人の見えなかった部分が見えただけ』。その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられること』なのかなって思った。」
「でも、その揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しい。だからこそ人は『信じる』って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったり、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思う。」
小学生の時すでに年間180冊の本を読んでいたという読書家の彼女の状況理解力・考察力には感心するばかり。ただならぬ16歳である。
と同時に、記者の質問「信じることについて」は、映画のテーマである“宗教観について”を聞いたものであって、これまた絶妙に、はぐらかしているところが賢明すぎて恐ろしい。
この映画(原作)が描いているのは、ひじょうに日本的な風景であり、“新興宗教”をモチーフに日本社会の縮図そのものを表現している。
この映画を観る人も、“信教の自由”を理解しながら、差別や偏見にまみれ、加害者にも被害者にもなりうる。世界的に種や文化の多様性が叫ばれる時代に、“自分とは異なる異様なものを受け入れられるか”という課題も突きつけられる。
惜しむらくは、芦田愛菜のダダ漏れる知性のせいで、主人公のちひろが平凡な女の子に見えないこと。授業中に、片思いの先生の似顔絵をノートに落書きする姿は、どうしても芦田愛菜という才女イメージが邪魔をしてしまう。
大衆イメージというのは厄介だ。バラエティ番組への出演よりも、映画や舞台でもっと幅広い役柄をこなし、彼女のキャリアを積み上げるしかないのかもしれない。
いまから、こんなことを求めちゃいけないとは思いつつも、やがてオトナの女性を見せる役柄や、汚れ役にも挑戦してほしいし、女優・芦田愛菜の可能性は無限に広がっている。
(2020/10/10/ヒューマントラストシネマ渋谷 Screen2/ビスタ)
はじめまして。
自分もイベントの発言関心しました。
そりゃそうですな。
そして、芦田愛菜ご本人がやりそうもない、
ノートに落書きばかりの意味がわからない。
あそこで、すごく難しい問題を突然当てられて、すんなり正解を答えるシーンとかあったら、そうか、授業内容なんか退屈なんだよー!的なんだけど、
映画だと、単に恋心から落書きしてるとしか感じないし。