リチャード・ジュエルのレビュー・感想・評価
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引きこまれ感がいい。
クリントイーストウッド監督の作品はやはり間違いがない。そんな感想を見終わってから覚えた。
映画の中への引きこまれ感がいい。
単純な構図でが、前説でのどんな純粋な主人公かということ、脇を固める人々の人柄が
とてもわかり、その上での物語への展開はその一つと言える。
爆破の驚き、また最後に無罪を獲得した際のシーンはとても移入されてみていて落ち着いてみれた。
いい映画です。とてもお勧めします。
イーストウッドらしさ全開
クリント・イーストウッド監督。
最近は、近年実際にあった事件、事故を元に作品を作り続けています。
最近の出来事なので作中の登場人物や関係者の多くは普通にご存命です。
もし私が監督ならどうなるか?
彼らに配慮して、聖人君子として配役してしまうでしょう。
しかしイーストウッドはその人物達を実に人間味のあるままに描きます。
今回の主人公リチャードもそうです。
彼は最初から完璧な人間などではなく、頼った弁護士の言いつけすらも守れません。
人間関係だってぜんぜん完璧ではない。しかしそれが見事に構築されていく様が爽快であり、それを描くイーストウッドの上手さだと思います。
また私は、メディアリンチに対する強烈な一撃を期待してしまいました。FBIにも、記者にも。
ですが、それはリチャードも望んでいないのです。
それが最後の彼の捜査官への言葉で解ります。
「ハドソン川の奇跡」の最後のアメリカンジョークと同じような、最高にスカッとするシーンです。
円熟のイーストウッド作品。
たいへんな高齢ですがまだまだ私達に「人間」を届けてください。
濃密
【”スニッカーズ”が結んだ太めの”レーダー”と気骨ある弁護士との強き絆。冤罪の恐ろしさと、国家権力に対する激しい怒りを静かなトーンで描いた作品でもある。】
恐ろしい映画である。
実話である事が、恐ろしい。
現代でも同様な社会風潮である事が尚更、恐ろしい。(過去の誤りが、繰り返されている事実・・)
ジュエルの母ボビ(キャシー・ベイツ 名演である・・。)が、誇りの息子が突然、爆弾テロの容疑者にされ、家の前に詰めかける蝿のようなメディアの多数のカメラ、差し出されるマイクに驚愕する姿。
そして、彼女が勇気を振り絞って、メディアの前で涙を浮かべ息子の無実を訴える場面・・。
ジュエルがそれまで憧れていた法執行人の前で静かに言い放った言葉。
サム・ロックウェル演じるワトソン弁護士のFBI 捜査官達及び傲慢なジャーナリスト、キャシー(オリビア・ワイルド)に対する毅然とした態度。
そのキャシーもある事を確認し、自らの過ちに気付いた時の表情。
だが、一番腹立たしかったのが、FBI捜査官ショウ(ジョン・ハム)の自らの過ちを認めず、ジュエルに謝罪もせずに、ワトソンに捨て台詞を吐いた後ろ姿。そして、ジュエル宅から押収した品々を無言で宅に運び入れるFBI職員たち。品々には証拠品ナンバーが書きなぐられたままである。呆然と品々を見つめるボビ。
”きちんとジュエル親子に謝罪しろよ!と心の中で公権力の奢った連中を痛罵する・・・。キャシーもきちんと謝罪していないよな・・・。散々疑って、”疑惑”に曝された人々のプライヴェートを無茶苦茶にして、”間違ってました。” と書式一枚で済むことではないだろう!”
〈クリント・イーストウッド監督の無責任なメディアや横暴な国家権力に対する激しい怒りを、静かなトーンでじわりと描いた見事な作品である〉
実話だからこそパンチが弱かった
正義は戦わなければ得られない
ついでにホモ疑惑まで・・・なんでもありか、過熱報道
やっぱり思い出してしまうのが、94年に日本で起こった松本サリン事件だ。河野義行さんが真っ先に疑われて、重要参考人として何度も取り調べを受けた事実。被疑者不詳だったはずなのに、マスコミが先走りすぎて河野さんが怪しいと印象操作した事件でもあった。この頃は坂本弁護士一家殺害事件や異臭事件などもあり、(失業中につき暇だったため)新聞記事等を追っていたのでオウムが怪しいとずっと思ってたのに、この過熱報道のためにすぐに犯人は河野さんだと信じてしまった愚かな俺。人間なんて、誰でも一方的な大多数のメディアの報道を信じてしまうものなのだ・・・とにかく、この映画を観ている間、ずっと松本サリン事件のことが頭に浮かんでいたのです。
冤罪のパターンも色々あると思うのですが、FBIの早すぎるほどの対応がバカ捜査員を見ているようで辛かった。。第一発見者がまずは疑われるのはわかるとしても、証拠もないのにズカズカと踏み込んで家宅捜索、押収、さらには盗聴器まで仕掛けるという徹底ぶりだ。連日のように大勢の取材陣が小さな家庭を取り囲み、母バーバラ(キャシー・ベイツ)が可愛そうでしかたがない。
そんなシビアな描写の中でもFBI捜査官と切っても切れない縁となっていた地元紙のトップ記者キャシー(オリビア・ワイルド)がまた憎たらしい演技をしてくれる。彼女の「証拠はあるわよ」という自信の裏には、FBI捜査官の言葉というものしかないのだ。リークするのも平気、スクープ狙いや功名心だけで動いている、どちらかと言えば腐敗していく典型的な記者といったイメージ。ただ、終盤には涙を流すシーンもあり、やっぱり人間性善説に戻らなきゃと自ら反省。
なんだかんだ言っても一番カッコよかったのはサム・ロックウェル演ずるワトソン弁護士。「絶対に喋るんじゃないぞ、いいな!」と念を押すのに、法執行者のプライドがつい口を割らせてしまうリチャード・ジュエル。犯人が残した電話の台詞を何度も強要されるシーンは、心の中で「喋るな!!」と叫んでしまいそうになる。ただ、冷静になって考えれば、電話がかけられる状態じゃなかったんだから証拠にもならないんですよね・・・共犯説も唱えてたし。
もう、何回かに一回は素晴らしい作品を残してくれるイーストウッド監督。この作品も権力者と戦う正直者と弁護士の物語、しかも実話。ただ、権力者の横暴とマスコミの腐敗を暴いたのも、当時がクリントンの民主党政権だったからというのもあるかもしれないし、こんなのがあるからトランプに「フェイクニュース!」を連発させちゃうのかも・・・。
イーストウッドにハズレなし
一言で「素晴らしい!」
クリント・イーストウッド監督40作目の「リチャード・ジュエル」を見てきました。
クリント・イーストウッドファンと言う事を抜きにして本作品素晴らしい出来栄えで大変に見応えがありました。
2時間11分と言う正直、映画としては長い方に感じますが、その長さを感じさせない程、その映画の内容に引き込まれて行きます。
考えて見るとクリント・イーストウッド監督作品って実話に基づいた人間ドラマが多いですね。
「アメリカン・スナイパー」「ハドソン川の奇跡」「15時17分、パリ行き」など・・・・またどれをとっても社会問題になり、そのテーマをしっかり見ている私たちに問いかけて考えさせてくれる。
本作品も、国家とマスコミの餌食と言うか、ある意味暴力により、ひとりの善人とその家族の平穏な生活が崩されてしまう話をリアリティいっぱいに見ているこちら側に訴え問いかけてくれる。
私自身、この事件の事を知りませんでしたが、映画ラスト近くのリチャード・ジュエルが、FBIの尋問に、「僕のような事案を残してしまったら、誰も人を助けなくなってしまう」と言う台詞にグッと来ると共に、間違えに気づかない、また自分達が正統だと思っている国家権力やマスコミに怒りさえ覚えます。
強いて、本作品の難と言うか、足りなさを感じた部分も、その後、FBIやマスコミは、リチャード・ジュエルに対してどう謝罪したのか、疑った人たちはどうなったのかを知りたかったな・・・・・
他の作品を全部見た訳ではないので何とも言えませんが、本作品が、ゴールデングローブにも、アカデミー賞の候補にならないのが不思議かな・・・・
しかし、クリント・イーストウッドは90歳になってもこんな素晴らしい作品が作れるのだから正に凄い人だと思う。
本作品、数年前から制作を考えていて、元々配給権を20世紀フォックスが持っていて、ワーナーと共同で制作を申込み話が進んだらしいけど、20世紀フォックス側でクレームを出した人がいて、一時は制作が中止になり、その後、20世紀フォックスがディズニーに買い取られ、ディズニーの現在の社長が、元ワーナーの知り合いだった事から、話し合いで配給権を譲渡して貰い今回の制作、公開に至ったらしいけど、去年の6月に撮影、11月に試写、12月下旬に公開とそのスピード作業で本作品を作り上げたエピソードにも驚かされる。
何でもテストを行わない方法で、撮影を進めるのが、クリント・イーストウッド流らしいけど、早く次回作品も楽しみです。
さすがイーストウッド☆
さすがの“イーストウッド☆クオリティ”!楽しく観終わった後にじわじわと匠の手腕に唸ります。
満を持してのポール・ウォルター・ハウザーの主演作。こんなはまり役もなかなかないくらいジュエルはちょっと変わってるけど真面目な愛すべき青年。弁護士も決して敏腕なんかじゃないし、お母さんも息子を愛する普通の母親。普通の人が普通に暮らして、ある日事件に巻き込まれていく。解決方法も至極まっとうな主張で、情報に踊らされて判断が鈍った人たちには、こんなシンプルなことさえ見えなくなるのかとハッとする。
人の人生をエンターテイメントとして消費していくマスコミやSNSの恐ろしさ。だれもがどちらの側にもなりえる事を肝に命じたい☆
メディアリンチの怖さと冤罪の怖さ
テレビ朝日主催の試写会で鑑賞。
1996年のアトランタ爆破事件の実話を基にした物話。
メディアリンチの怖さと一度犯人と思い込んだら状況証拠や物的証拠が無いにも関わらず逮捕しようとする捜査官に背筋が凍るとともに怒りを感じました。
スリービルボードでは嫌な保安官役を演じたサム・ロックウェルが本作では彼を無実と信じる弁護士役で出演しているのがとても興味深かったです
フタを開ければ、やっぱり100%イーストウッド映画
ここ数十年のクリント・イーストウッド監督作は実話をベースにしたものばかりだが、本作を観て改めて確信したのは、そのテーマ選びの上手さ。
メディアによる言われなき誹謗中傷の怖さや、善きことをしたはずなのに一転して糾弾される側になってしまう不条理。『恐怖のメロディ』や『ハドソン川の奇跡』といった過去作にも通底するように、本作もフタを開ければ、やっぱりイーストウッドらしいテーマ。
クライマックスでのリチャード・ジュエルが、『ハドソン川』のサリー機長とダブって見えたのは自分だけではないはず。
母親役のキャシー・ベイツの名演は涙を誘う。
他人の人生を描いているのに、サラッと自身の作家性を盛り込んで映画化してしまうマジック。まさに映画作りのお手本。
新作が発表されるたびに思うことだが、イーストウッドには気力が続くまで映画を作り続けてほしい。
あと余談として、今回の試写の主催がテレビ朝日だった。テレ朝関係者、特に報道部は、本作をちゃんと人材育成の教材にしてほしいもの。
全てが詰まった完璧な映画!
主人公リチャード・ジュエルのヤバイ感じが絶妙。
仕事熱心なのはわかるけど、やや行き過ぎの感が否めない。
悪い人じゃないかもしれないけど、思い込みが激しく、人との距離感が上手く取れていないような…
会話が微妙に噛み合っていないような部分も怖いし…
「正しい」を振りかざして人を従わせる事で、鬱憤を晴らしている風にも見える。
趣味も普通にヤバイしww
この危ういバランスが本当に素晴らしい!
プロフェッショナルな英雄が不当に糾弾される姿は『ハドソン川の奇跡』でも描かれていましたが、危うい人物のグレーゾーンを描く事で、冤罪と戦う物語だけに留まらないテーマが広がっていました。
家族の愛、信頼、友情などの人間の普遍的なテーマはもちろん、社会的なテーマも鋭く、さすがはクリント・イーストウッド監督!
FBIとメディアに噛み付く90才!!
過去の出来事を描きながら、現代社会に物申す!
多様性の受け入れが問われる世の中ですが、そもそも一人の人間の中にもいくつもの顔がある事に気づかされ、
わかりやすいレッテルを貼るメディアの罪深さ、
わかりやすさに飛びつく大衆(←私を含めて)の罪深さも浮き彫りになっていました。
今やメディアは個人の「つぶやき」がニュースとして成り立つレベルだし
裏も取らずに視聴率や部数欲しさにネタに飛びつくなんて、「いいね」欲しさに噂レベルや憶測のゴシップを垂れ流している個人と何ら変わらない。
不確かな報道によって、傷つく人や人生を狂わされる人が生まれる事への責任の無さ。
情報を受け取る我々も、ネットニュースやワイドショーを鵜呑みにしているようでは同罪で、報道とエンタメの線引きをきちんと持たなければいけない。
さすがに「新聞」はそれらとは一線を画している「報道」だと信じていましたが、本作は新聞の先走り報道が全ての始まりでショックでした。
下世話なゴシップ要素も相まって、メディアの報道合戦が物凄いスピードで加速してゆく様は、見えないモンスターが巨大化していくようで恐ろしかった。
FBIの強引さも、報道の影響を受けていると思えるし。
「報道とは?」メディアのモラルに苦言を呈する作品でした。
でも、クリント・イーストウッド監督が本物の巨匠だと思えるのは、そこかしこに散りばめられたユーモア!!これに尽きます。
ゴリゴリ問題提起を押し付けるのではなく、サラリとしなやかに描いているところが、本当にすごい。
クリント・イーストウッド監督の豊かな人間性と、人を見つめる深い眼差しを感じました。
監督の手にかかると、主人公のグレーゾーンも、人間味あふれる感情に思えます。
怒りを表に出さないのは、何も感じていない訳ではなく、人々の言葉に傷つき、不当な扱いに対しては怒りを抱えている。
ヤバイ趣味も、その怒りやストレスの捌け口だろうし、そう考えると社会の闇を表した人物とも言えます。
でも、自分を卑下することなく、自分は自分だと言える自信や強さは、良くも悪くも母親の愛を受けているからでしょうね。
もちろん、母親役のキャシー・ベイツには泣かされましたとも!!(T-T)
スピーチのシーンだけでも見る価値あり!
いくつになっても母親は、息子を守りたいと願っているものなんだなぁ。
クリント・イーストウッド監督の映画は、立ち姿や佇まいで物語るシーンが印象的で、役者に芝居をさせないイメージでしたが、珍しくガッツリ芝居させているのも驚きでした。
『ジョジョ・ラビット』に続き、サム・ロックウェルのやさぐれ弁護士が良い!!
リチャードとは別のグレーゾーンを感じる役どころで、組織に馴染めない感じがリチャードとの距離を縮めたのかもしれません。
二人の関係の変化も見どころ。
無駄が一切ない完璧な映画でした。
個人が自分の信念や信条を貫くのは難しい。単純な実動的難しさも然る事...
個人が自分の信念や信条を貫くのは難しい。単純な実動的難しさも然る事ながら、それがいわゆる”普通”と違うとなるとさらに困難さは増す。周りの目=一般論に晒されることに、人は耐えられない。SNSが普及し誰もが匿名という盾をかざして他人のあらゆる物事にケチをつけることが許された現代、真っ直ぐな内面の決意は偏見のフィルターを通って歪められ曲げられやすくなっている。実際に起こった事件やその当事者が追及されない一方で、不確定な印象操作によって実像が歪められる事象や人物。メディアが世界中を覆ったこの時代においては、全てがイメージによって(それらが間違っているか否かに関わらず)定義されてしまう。そのイメージを正しく世に伝えるのが、他でもない報道、ジャーナリズムのはずだ。
ここ数年、報道について描かれる作品が多く見られるようになった。特に昨年の『ペンタゴンペーパーズ/最高機密文書』と、今年の『新聞記者』については、作品の着地する温度こそ違えども、報道の在り方、そして報道には終わりがなく常に始まりしかないことを改めて観客に思い出させる意義深く素晴らしい作品だった。ニュースの源流の信頼性なくして、それを鵜呑みにする事など出来ない。情報源の確認・立証が描かれるのも同2作の偉いところだった。ではもし、情報源が不確かな個人的主観によるもので、それに基づく記事が信頼されるべき新聞という媒体から発信されたらどうなるか。それがさらにテレビに波及し、罪もない人間を巻き込んで行ったらどうなるだろうか。その実例を今作『リチャード・ジュエル』は改めて提示し、今の観客に問いかける。我々はあの事件から、また類似する様々な事件から、何かを学んだのかと。
今作は、主人公・リチャード(ポール・ウォルター・ハウザー)が消費者庁の事務用品係として勤務しているところから始まる。ここで彼は、後に彼を助ける弁護士のワトソンと出会い、強くはなくとも確実なつながりを持つことになる。因みに、お菓子研究家の福田里香さんの「フード理論」的な面で言ってもここの場面は周到に演出がされている。リチャードがワトソンにあるものを渡すのだが…そこにも注目してほしい。やがてその職務を離れ、リチャードは大学での警備職に就くこととなり、紆余曲折あって最終的には1996年のアトランタオリンピック会場のすぐ近く、センテニアル公園の警備員として働き始める。リチャードの事件に至るまでの顛末、またその他の登場人物が事件の前にどこにいたかを描くここまでの流れが、まず非常に巧妙で上手い。特にリチャードの遍歴の見せ方だが、ここを失敗すると後半で(世間に向けて)明かされる事実に対しての観客の反応が変わってくる。リチャードが自分の憧れである“法執行官”として、無自覚にどれだけの行為をしたのか、またそれに対して周りがどんな対応をしたかを、ほぼありのまま見せていく。正直かなり危ういバランスだ。一歩間違えれば、今作の事件では無実でも、違う場所違う時間では何かやらかしかねない人物に見えてしまう。だがここが流石イーストウッドといったところ。実際に事件が起こってみるまで敢えてそうしたグレーな描き方でリチャードを見せることにより、観客も彼に対する疑いや偏見を持ちやすい構造を作っているのだ。それによって、まずはジョン・ハムとオリビア・ワイルドらの、犯人を特定したい=標的を定めたい連中と視点を同化させ、ある決定的タイミング(ここの、“足しか見せない”という演出も見事)でリチャードの関与を否定した瞬間に、彼の善意からくる行動を示して観客の信用を勝ち取る。ただ単純に、リチャード・ジュエルという人物を100%善人として仕立て上げず、実際に本人が持っていたグレーさ・非常識的な側面も描きながら、しかし確実に感情移入できる善き人としてのお膳立てを整える。事実を脚色するうえで、これ以上の演出はないだろう。見事である。是非、疑いと善意の織り交ざった上手さを見て確かめてほしい。
そして、センテニアル公園での悲劇が起きる。不吉な劇伴の背後にステージの音楽が流れ、リチャードやその他警備員たち以外事の重大さが理解されていない不安と、いつ爆発するかもしれない緊張感が充満する。爆発の瞬間もショッキングで、事前に犯人が「爆発まで30分」と警察に電話しているものの、具体的な時間が示されない為に観客は身構えようがない。他の大作と比べて、爆発描写が特別派手というわけではないが、かなり意表を突いてくる。また爆発の被害表現もバランスが取られ、人々の怪我は流血のみなものの、爆弾から飛散した無数の釘がモニュメントに突き刺さるカットを挿入することで、画面上には映らない痛みを観客側に共有させている(『シン・ゴジラ』の冒頭、濁流の向こうに…の場面と似た間接描写が直接痛みを与える考えられた編集だ)。実際死者が2名出ている事件の悲惨さを臨場感をもって描いた、今作の大見せ場だ。この場面以降、今作には派手な見せ場はないが、重要なのはここからである。
事件から一夜明け、FBIの捜査が開始されるなか、会場の主催会社AT&Tの役員がリチャードをメディアに出演させたことから流れが変わっていく。法執行官としての行動が、遂に世間に認められ喜ぶものの、善意による過去の摘発が彼を追い詰め始める。あくまでも一個人が見た意見・懸念を、プロファイルという定型に押し込めて考えようとするFBI(情報源)と、人々にそれを”事実”として流布する発信者(新聞/テレビ)、そして当事者(リチャード)。この一方的な情報と攻撃の流れの中で、抵抗する術のない一般人がどのような被害を受けるのか。あらゆるところで語られるようになった”ペンによる被害”の構造に、今作はもう少し踏み込んで挑んで見せた。具体的には、加害者側の視点が入ってくるのだ。
現在を舞台にしてメディアの被害を描く場合、そこには匿名性=書き手の不明さというものが上手く利用される。戦う相手の不確かさが全方位からの攻撃を想起させ、登場人物を追い込んでいくわけで、今作にもその点は描かれている。ただ同時に、1996年という時代設定上、今作にはSNSが存在しない。少なくとも、戦う相手、自分を叩く相手が見えている。遠くからスマホで不特定多数が撮るのではなく、ある特定の多数がテレビカメラで追いすがってくる依然残る悪癖と同時に、匿名性の確立していない時代を活かした描写として発信者の優越の様を見せているのだ。そこでその軽薄な発信者を演じるオリビア・ワイルドが素晴らしい仕事をしてみせる。一報道記者とは思えない女性的な粗野さ(同じオフィスの女性記者と明らかな対比が見られる)、大惨事を目の前にして発せられる耳を疑う言動、そして手柄を立てた時の反応。特に最後は、今作の白眉の1つかつ最強の胸糞描写であり、ワイルドのキャリア史上でもトップクラスの怪演だ。是非劇場で見て頂きたいが、注目して欲しいのはこの場面の場所と賞賛を送る人が誰なのかだ。彼女にとっての世界の狭さ、少なくともリチャードという一般人には害でしかない報道に歓喜し継続を望む周囲。Twitterやその他SNSでの過激な投稿が注目を集め、そこに外野が油を注ぐ現状と、一体何が違うのか。もう20年以上も前の出来事であるにも関わらず、そこで描かれる記者の姿は、今の自分たちが省みるべき何かを提示して見せている。
ただ今作はそうした記者にも気付きの瞬間を与えている。これが、ワトソンがリチャードの無罪を確信する描写(つまり観客も確信する瞬間だ。事前にその”場所”を映しているのも周到なところ)と同じ、ある決定的な事実を知るという展開になっている。自分の報道がFBIの完全な固定観念による根拠のない推論だったことを知った彼女に、一体何が出来るのか。何も出来ないのだ。手柄しか見ない狭い視野が導いた、罪のない人間への冷たい視線。そのある意味最大の被害者を前にして、元凶たる彼女が出来るのはただその姿を見て涙を流すことのみ。人によっては、ワイルドの演じるキャラクターに同情の余地を与える描写として違和感が残るかもしれないが、実際彼女はその場面以降姿を消す。結局のところ、最初に間違いを犯した人間に、改心こそすれそれを訂正する機会は与えられないのだという、非常に現実的で突き放すような退場になっている(彼女のラストシーンの立ち位置にも注目して欲しい)。針に糸を通す、やはり見事な結末のように見えるはずだ。
また、こうしたメディア(現代のSNS)に対する批評性と並行して、最後には追い越す要素が、FBI=連邦政府の行き過ぎた職務遂行だ。爆発現場にいながらも食い止められなかったことへの鬱屈を抱えた捜査官を、ジョン・ハムが見事に演じているが、彼と彼の仲間によるリチャードに対する尋問場面はどれも素晴らしく不穏な圧力を持ち、法的手続きというものが彼らにとってどのようなものかを端的に見せつける。計3度ある”全面対決(特に最初と2度目はかなり酷い、つまり面白い)”は法廷劇の緊張感を孕み、同時にそこでリチャードの信条や経験が危機の回避にも罠への陥落にも繋がるあたりが、彼自身を揺さぶっていく重要な描写として機能している。FBIを単純に悪役にしているきらいもあるが、これが導く快感はひとしおである。
人には疎まれる信念、法執行官としての誇り、それら全てをねじ曲げ自分を型に押し込めようとする相手に、最後リチャードは圧倒的正論を叩きつける。『ハドソン川の奇跡』の終盤同様、しかし確実にミニマムになった舞台において同等かそれ以上のカタルシスを与えてくれる場面だ。充分なほどスッキリする場面なのだが、重要なのはその顛末を他の一般人=情報の受け手が知る場面がないことだ(実は今作、マスコミの追及が描かれる一方で、リチャードのことを見る冷たい一般の視線が描かれる場面は驚くほど少ない)。最終的な判断を下した裁判所の決定も、大々的な発表でなく手渡しで済まされ、その後の世間の反応は描かれない。個人にとって重要なプロセスでも、世間はそこに既に関心がないことのさりげない表現だろう。リチャードが戦った信念についての闘争は、また彼のような冤罪を防ぎ、劇中の台詞にもあるように善意の行動の抑制を回避するためのものだったはず。しかし我々は、その戦いがあったことも忘れてしまう。その寄るべなさが、勝利であるはずのラストに悲しい余韻を与えている。
ラストシーンの細やかな幸福と不穏さが同居する幕切れは、多くの人に『アメリカンスナイパー』を想起させるはずだ。硬派な社会的メッセージのこもった作品として、同作の血は確実に今作にも流れている。信念をもって行動した真の法執行官。抑圧と型への押し込みと戦った善意の人。どこにでもいる、“行動する”という当たり前で一番難しいことができる人間が、人知れず消えていくという事実は重くのしかかってくる。
ただ付け加えておくと、決して硬すぎる映画では無い。驚くほど多くのユーモアや不謹慎だが思わず笑ってしまう描写がたくさん盛り込まれているので、退屈せず楽しめるだろう。それらが、リチャードの個人性から来る疑いと表裏一体になっているのも抜け目がない。ここは『運び屋』の温度差コメディの側面が活かされている部分で、重要なツッコミポジションかつドラマ的推進力になり得る相方としてのサム・ロックウェルが素晴らしい演技を見せる。特に、事後やギリギリでの報告に対する反応が抜群に面白い。
『アメリカスナイパー』の社会的メッセージ性、『ハドソン川の奇跡』のカタルシス、『15時17分、パリ行き』の臨場感、『運び屋』のユーモア。ここ4作のDNAが組み合わさった、イーストウッドの実話映画化の集大成。これを年明け一発目に見れるとは、幸先がいい。心からオススメである。
イーストウッドの匠の技を再確認。
全372件中、341~360件目を表示