リチャード・ジュエル : 映画評論・批評
2020年1月7日更新
2020年1月17日より丸の内ピカデリーほかにてロードショー
巨匠イーストウッドが深い尊厳を持って描く“名もなき英雄”の生き様
イーストウッド映画が愛される理由のひとつは、どれだけ世の中が変わろうとも主義主張が一貫しているところにある。アウトサイダーの目線で社会や権力に鋭い眼差しを投げかけ、英雄とは何かを問い続ける。それはある意味、巨匠の頑なな生き様であり、闘い方だ。89歳の彼の通算40本目となる監督作もまた、変わらぬ通奏低音がじわじわと胸に迫る、まごうことなきイーストウッド映画だった。
リチャード・ジュエル———それはつい3日前まで英雄として賞賛されていた男の名だ。警備員の彼は、アトランタ・オリンピック開催中の音楽イベントにて爆発物を発見。すぐさま観客を避難させ被害を最小限に抑え、時の人となる。しかしその後、FBIが疑いの目を向けたのをきっかけにメディアは豹変して襲いかかり、ジュエルは一気に奈落の底へ。無辜なる人が社会の餌食とされてしまったのである。
興味深いのは、これが爆破テロの真犯人を追うサスペンスではないということだ。もちろん監督が違えばその事件性を追究できたのかもしれないが、他ならぬイーストウッドは、ごく普通の人が辿る葛藤のドラマにこそ眼差しを向ける。それも世間的にまださほど知られていない俳優を主演に据えることで、観客さえも先入観を持って見つめてしまうような状況を構築してみせるのだ。
捜査当局があの手この手で攻勢をかける中、何ら抵抗手段を持たないジュエルはまるで西部劇に登場するいたいけな民のよう。一方、キャシー・ベイツ演じる母は不安に崩れ落ちそうになりながら息子を信じ続け、またサム・ロックウェルが飄々と演じる弁護士は母子に手を貸すカウボーイにも見える。ここにはライフルも馬も荒野もないが、自ずとイーストウッドの最もよく知る構図が浮かび上がっていることにハッとさせられる。
確たる根拠もないまま情報が暴走する状況は今も変わらない。すぐに思い浮かぶのはネットの炎上や誹謗中傷だろうし、分断された米国における情報戦のあり方だってそうだ。巨匠は昔話をするのではなく、間違いなく現代社会に向けて引き金を引いている。そして当局やメディアの断罪に時間を費やすよりは、純朴な男がそれでもなお善き市民であり続ける姿を、尊厳を持って浮き彫りにしようとする。その静かな視座からあふれる温もり。ジュエルもまた、イーストウッドが描いてきた“名もなき英雄”の紛れもない一人なのである。
(牛津厚信)