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ドイツで精一杯歌う歌姫。その翌年には夭折している。その彼女のドキュメンタリーと称した映画。世界的に見てもすごく評価が高く、多くの視聴者が好感を持っている2015年公開のドキュメンタリー映画「Janis: Little Girl Blue (2015)」。録音されたものを聞きやすいように加工し180度違うものにしている。あくまでもこの映画とは関係ないが.....遠ざけたい映画として。
A brook a-burbling in my ears.
There is no room for you.
The grass a-growing in my eyes.
There is no room for you.
A woodpecker's nest within my heart.
There is no room for you.
映画の始まりは、ドイツ・ワイマールにある国民劇場前広場に建つ国を代表する2人の銅像の前に立て看板が置いてある。しかもその足元には、朽ちたポリ容器が散乱している。その立て看板にはこのような文字が.....”PLEASE DO NOT HOARD WE HAVE ENOUGH WATER AGAIN” この国というより文化を大切にする世界が崩壊していることを比喩表現として暗に描いているのか?
隔離されたサナトリウム。スクリーンに背を向けて、誰に聞かせることもなく、韻を踏む詩?"There is no room for you."を口ずさみながら主人公のヴィヴィが植物に水をあげている。しごく平和に...しかし
"お金をかけなくてもかけても面白い映画=ゾンビ映画"であり”jump scare”の雄。ハナから低予算とわかる映画でしかもドイツ? そんなことが相まってか、自分の中では"見る価値なし"と早々の判断。でも、なぜか見ている。あくまでも個人的意見として、言い訳がましすぎるのか? 映画が始まってから、主演のグロ・スワンティエ・コールホーフが誰かに似ていることばかり、気を取られているといつの間にか映画が進んでいたという真摯に映画を見ていない自分がいたが、映画も半分もすぎると誰だかわかるものとなる。ある角度から見ると前出の歌姫とどことなく似ている。
映画の始まりは、彼女ヴィヴィの家のプールで一瞬だけフラッシュバックすることで赤いワンピースの水着を着た少女がスクリーンに登場する。最初、あまりにも短いせいか、意味が全然つかめず、何を言いたいのか皆目見当がつかなかったが、シナリオも進むにつれてその内容が明らかになった時、ヴィヴィは、単にワイマールの町が嫌になったり、ゾンビ菌から逃れる目的の為にイエナに向かったのではなくて、別の目的があったというくだりとなっている。
途中列車が動かなくなってからは、エバとの森を抜けてイエナまでのロードムービーとなっていて、その中でも一つのCDプレイヤーを二人がイヤホンを共有して聞いて、初めて笑顔を見せるシーンがあったのに....
ヴィヴィが些細なことからエバと別れた後は、ガーディナーという中年女性との偶然の出会いが、自分自身を見つめ直し、これから自分が進む方向性を確立するために旅の再出発を試みるというお話になっている。そのガーディナー役をベルリン映画祭で最優秀女優賞を獲得しているトリーヌ・ディルホムが演じているので仮に半端な女優さんが演じたとしたらこの映画は終わってしまうほど彼女は、素晴らしい俳優さんと言えるかもしれない。
私たちって、試され続けるの?とヴィヴィがガーディナーに尋ねると、
I think....Earth is a wise old lady
and humans haven't paid her any rent for a long time.
And out there, that's our eviction order.
私たちを全滅させたのは何?
We have been carrying with us for million of years.
The virus was lying in wait......
Now it is time to take the chance this downfall is giving us.
そしたら何故、ここにいるの?
I'm opening unexpected doors.
Everything is changing. There is peace in chaos.
人はパラダイスに住むチャンスがあったのに.....
人類が初めて人を殺める旧約聖書の”カインとアベル”や、またアブラハムの宗教にもみられる終末論的”最後の審判”があり、ガーディナーが重要な予言者の一人、モーセとも捉えることができる。
ヴィヴィが物語が始まってから、気分転換にと髪の毛をやや茶色からピンクに染めるシーンは、地域によっては、明らかに東洋人からすれば”茶色”と言及する色でも赤毛とされ、忌み嫌われる場合があると聞く。それは、キリストを裏切ったユダや人類初の殺人者とされるカインの存在があるのかもしれないが、元々は”トール”という邪神が由来とされている。
この映画の特徴として、監督、脚本家、制作プロデューサー、主な俳優、すべての人が女性が務めていて、フェミニン映画と言ってもいい位の映画であるけれども、それに呼応するように結構骨太な内容に仕上がっている。
”最後の審判”の意味する内容が、ラストの場面で再会を果たしたエバが命を賭してまでヴィヴィを救う自己犠牲による善行があり、ヴィヴィが見殺しにするという能動的ではないにしろ”カインとアベル”という身内同士の死というものに対しての贖罪であり、懺悔の旅を何とも言えないディストピアのゾンビ映画のシチュエーションに設定したのは、ほかに考えても思いつかないほど何故かしっくりとあっている。
この韻を踏む詩には、続きがある。
I am a rock. I have seen life and death.
Know, you evil spirits, I do not sleep.
妹と巡り会えた時、涙腺が解放状態となる。💧 これ以上は言えない。
"What's the use of trying?"
"Buck up- never say die. We'll get along!"
ポーレット・ゴダードの台詞にはなぜか字幕がなく、たぶん映画の雰囲気を壊さないためかと.....気を取り直して、"Let's go!"と言っているのが声がなくてもわかります。
ポーレット・ゴダードの手をしっかりと彼が握ったように最後はイエナの街をしり目に、ヴィヴィとエバは、しっかりと手を握りしめあい、日がさす希望の道を進んでいくところで映画は幕を閉じます。
Finally パチパチ