ソワレのレビュー・感想・評価
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カタルシスという名の「浄化」
作品を見終えた後で、このタイトルを検索した。
フランス語で「夜公演」
どうやらプロデューサーが「誰もが心の底に秘めた癒えることのない痛みや大切な思いを、夜会に封じ込めて、次の朝にまた新たな一歩を迎えて歩き始める」というメッセージを込めたと語っていたのを発見した。
2020年という時代とこの逃避行物語の設定には若干疑問点が覗いてしまうものの、基本的なプロットとその向かう先が普遍的なテーマを持っていて良かったと思う。
また、物語が進行するにつれて新しい情報が挿入されるのも悪くない。
さて、
廃校に忍び込む二人
黒板に書いてあった「卒業おめでとう」という文字の脇に書いた自分の本名
彼女は何故「大久保タカラ」と記載したのだろう?
そこには高校を卒業できなかった彼女の思いがあるのは間違いない。
しかし、彼女にとって忌まわしい姓を何故書いたのだろう?
逆にそう書いたのは、今までのすべてを捨ててしまいたかったのかもしれない。
それでいながらしかし本当は、彼女はありのままの自分でいたかったのかもしれない。
黒板を見て沸き上がった負の感情は明確でありつつ、その中に隠しきれない無抵抗な意識が表現してしまった描写で、その両方が半々に混ざり合っていたはずだと解釈した。
冒頭のシーンでタカラが老女の髪の毛を整えるシーンがあるが、一瞬で老女が消えてしまう。
あれはいったい何を意味したのだろうか?
タカラは介護施設で働いているが、老人たちはやがて死んでしまう。
発作で倒れた女性と徘徊した老人のセリフにも表れている。
「あんたも死ぬのを待っているだけじゃないか」
タカラの生き方に対する「天からの声」
椅子に座っていた老女は、現在の延長線上にある未来のタカラだったのではないだろうか?
また、、
この作品の至る所にある「水」
いくつものシーンに水が使われている。
この物語の中の水は何を意味するのだろう?
この水は何かの象徴だろうが、その意味は深いことがわかるものの、もう少し明確に1点を突いてほしかった。
例えば半月のシーンと満月のシーンがあるが、それは期の熟度を表現しているのがわかる。
つまり逃避行に溺れている時期の半月と、気づきが起きたときの満月だ。
水をモチーフにした明確な意味をどこかに挿入してほしかった。
それにしても、タカラの心の動きは大変良く理解できた。
さて、、
ショウタ
冒頭から彼が何者なのかがはっきりと描かれている。
俳優を目指す若者が、あんなことに手を染めながら平然としているのが現代社会なのだろうか。
老人が彼を見て「どこかで会った」というのも、また「天の声」なのだろう。
世話になったバイト先で盗みを働いたとき「逃げられんぞ、自分からは」と再び天の声
彼が自分で言ったセリフ「天は乗り越えられない試練は与えない」
おそらくお芝居の中で覚えた言葉なのだろうが、これもまた天の声で、これはタカラの胸の奥に届いてその意味を考えさせることになる。
ショウタは、その中途半端な生き方をタカラとの出会いによって矯正される運命だったのだろうか?
しかしその伏線は高校時代に仕込まれていた。
これがこの物語を作る上で最初に思い付いたことなのではないかと感じた。
劇団が合宿に選んだ場所はショウタの地元だった。
そこの介護施設職員タカラ
逮捕された時、ショウタはタカラが最後に示した言動の意味がよくわからないままだった。
しかし、まじめに働き始めたショウタは、演劇にも端然と向き合い始めた。
最後のシーン 高校時代の演技を再確認している場面で、あの表現をする自分を発見した。
おそらくタカラは、彼と同じ高校の後輩、または先輩だったのだろう。
ショウタをショウタくんと呼んでいたので、先輩かもしれない。
父の所為で退学することになった彼女は、自分とは対照的に教室で楽しそうにしていたショウタのワンシーンが脳裏にしっかりと刻み付けられていたのだ。
ホテルのシーンは、彼女がそのことを憶えていて、同時にそれがショウタだったこと気にづいた。
それに気づいたのがいつのタイミングだったのかはわからないが、その事も彼女にとっては天の声だったに違いない。
そうやって彼女の中の天の声のパズルのピースが徐々に埋められていく。
そしてこのタイトルを示す神社の中の舞台 この場面を幻想的に演出している水
彼女の幻覚 あのお芝居の再現 幻想 両親…
幻覚の少女は、当時最初に傷ついたタカラだったのだろう。
その傷ついたはずの少女が笑っている。
あの舞台は赦しを意味していたのだろう。
そして妊娠したタカラは、未来の暗示だろう。
そう、
赦しと認識の変化によって、認知症の老婆という未来が変化したのだ。
しかし、それでもまだ当惑状態は続く。
橋の欄干を乗り越える勇気もなく、ひれ伏すように崩れ落ちたところに登場したショウタ
彼を見て「ひとりは嫌」と本心を叫ぶ
同時にショウタも自分自身を告白した。
逮捕される直前、タカラが言った「また見つけてよ」という言葉は、このシーンで最初に発した言葉だった。
つまり、意味的にはそれはショウタに自分自身を再発見して役者を目指せと言っているが、その根底にある彼女の望みは、「もう一度私を見つけてほしい」ということだろう。
それが彼女の願いだ。
そして最後のシーンでショウタはタカラを発見した。
あの日、あの時、廊下に彼女がいたのを認識した。
天の声
天の導き
天は乗り越えられない試練は与えない。
同時に別の道を示してくれる。
ショウタはこの世の中の不思議さを改めて感じたことで、タカラの心の声を読み取ったに違いない。
彼はこの先、もう一度彼女を見つけることになるのだろう。
いい作品だった。
しかし、ここでまで思考しなければたどり着けない難しさがある。
あくまで個人的な妄想でしかないのだが。
ただそれもまた楽しみかな。
もしかしたら「水」は、ここにたどり着いた時に得られるカタルシスの元々の意味である「浄化」だったのかもしれない。
今どき駆け落ち?『人の気持ち分かっていないのはこの監督だけ』
人物の相関関係や設定が短絡的。
だから、『雪に耐えて梅花麗しい』と言う言葉が生きてこない。
自虐的デカダンスで、日本のサブカルチャーはここでもまだ生きている。
40年以上前の若松孝◯の演出で、こんな映画沢山見た。
ネタバレさせても良いと思うが、それをやると何も残らない。
『いい加減、才能ある側のフリするのやめや』
実にその通りである。
男が描く『女性や人の生きざま』を鑑賞する時代は終わったと思う。
愛の無いAIでも人の感情を表せるとか言っている。つまり、これまでの作品はそんな程度なんだと思う。男やAIでも表現出来る単純な内容だったと言うことだ。さて、
ドザエモンが上下反転するように、女性の描く人の生き様は、男や愛の無いAIには理解出来るないものかもしれない?性の二元化が否定される時代なので、女、男を意識的に区別できやしない。しかし、男には物理的な生理は無いし、物理的な妊娠もないのだ。
つまり、男が理解出来ない経験を女は積んでいる。だから、女性が描く「人の生き様」は男やAIが描くそれよりもが深みがあると男の僕は断定する。
弱い者が損をする世の中・・・
最初はそれほど引き込まれなかったのに、高齢者施設の名称が「さくらの園」ということで俄然集中力が増してしまいました。老人に劇を教える?なんてわけがわからなかったのに、それで劇団を中心にした意味もわかる。『櫻の園』と同じく劇中劇があるのも意図したものなのだろう。「安珍・清姫伝説」にしても、2人がコインランドリーを待ち合わせ場所にしたものの帰ってこなかった翔太に対して怒りをぶつけるんじゃないかとも思われたが・・・
競輪やパチンコじゃ稼げないもの。逃避行中に2人でどっちが稼げるか?などと、スナックで働くタカラに対してパチンコをやってしまう翔太。最初は多分3万くらい勝ったんだろうけど、勝ちが続くはずもない。そんなことだから刑事に「かくれんぼ」なんて言われちゃうんだよな。と、逃げてる理由が性的暴行の恐怖から来るものだと知ってたはずの翔太すら、もはや現実からの逃避にしかなっていなかった。
痛さはわかってるつもりだった。しかし、施設で年金のために親を生かしておく奴もいるとか聞かされ、自分のやってきた詐欺の受け子のことも反省したり、一緒に逃げているタカラに対する思いやりが彼を変えた。父親が死んだから大丈夫だと思い、体を重ねようとするも拒まれたところが印象に残る。影絵よりも心に響いた。
一方、タカラの最初のシーンにおいても老女性が消えたりとか、何かと幻影を見ることが多い。恐怖の父親像、さらに優しそうな両親と自分の幼少期、そして翔太も。一人じゃ生きていけない自分。寝ている間にマニキュアを塗ってくれた翔太。ようやく心から笑えそうな気がした。こうやって笑うんだよ・・・
梅農園の夫婦もよかった。スナックもそうだけど、「駆け落ち」という言葉に弱いのか。よし、今度使ってみよう・・・あ、おっさんじゃ無理か。芋生悠さん、江口のりこの妹かと思ったよ。似てると思ったから優しくしたのかな?などと思いつつ、やっぱり最高だよ!2人とも。
間違えて、映画館の座席が前の方にしてしまったけど、最初の手振れ映像は見にくかったものの、海岸での思いっきり引き映像は前の方にして正解だと思いましたよ。そして希望の持てるラスト(ただし、翔太が和歌山に帰らなかったら蛇女になっちゃうかも)。ちょっとした仕掛けがまだあるんじゃないかともう一度確認しながら観たいと思ったのに、今日が最終日でした・・・マチネとソワレ、意味深だ・・・
あんまりだった
タイトル負けしているなー、と思った。
好きなシーンもせりふもなかったし、途中ちょっと飽きちゃった。
お父さんが死んだのがわかった時だけ、よっしゃ、刺した甲斐があったね!と思いました。
逃げる気なら、大阪に出るけどな
御坊から和歌山市まで、結構苦労して逃げてくるけど、南部の梅農家の後、和歌山駅で降りてるから電車使ってる。電車賃くらいはあるんや。農家のバイト代か。なら、大阪まで行けば逃げられるのにな。和歌山なんか人少ないから、よそものがうろついてたら目立つし。
…というように、主人公たちの懐具合に整合性が感じられなくて、せっかくの幻想的なシーンも、あまり響いてこなかった。
なにより、どっちが主で話をまとめたいのかがイマイチ分からず。
DV被害者で施設の利用者さんに触られただけで過呼吸になるのに、スナックでは平気とか、何となくあちこち詰めが甘い。そして、逮捕されて山下さんのその後は?なんで何も描かないの。くずの翔太が山下さんが前から彼のことを知ってた(好きだった)ことに気づいて改心するのなら、ラストじゃなくもっと前に持ってこないとなあ。見てる方はもやもや。
(そして、和歌山市に入った後で白浜の円月島のショット挟むの、あれはアカン。関西の人なら知ってる名所。彼らがどこにいるのか混乱する)
主役の二人はとにかく好演。うまい。和歌山弁もうまかった。
映像とお芝居はステキでしたが…
キャスト、特に芋生さん存在感、演技や、映像美はとてもステキでした…が…脚本が酷すぎる。あまりにご都合的すぎる展開で、ツッコミどころが多すぎます。翔太の動機が全く見えないし、結局タカラだけが犠牲になり続け、泣き寝入りじゃないですか。どうして一生懸命生きてる人が犠牲になるのか?って言う疑問が冒頭投げかけられましたが、オレオレ詐欺に加担している、お前が言うな!って思ったし、最後までお咎めなしときた…最後まで、女の子だけが犠牲になり続けるひどい展開です。カタルシスが全くない。え?なんで?どうして?って言う疑問だけが残り続ける映画でした。脚本だけなら、生涯ワースト級です。ごめんなさい。
小さな幸せ
不幸のてんこ盛りみたいな女の子がいた。でも自分の力で精一杯生きている。お年寄りに優しく接して誠実に暮らす毎日の中で、またとんでもない不幸が訪れてしまった。男は諦めたようなその子をほっとけなくて連れ出すけれど、中途半端野郎だから途中で放り出しそうになる。
けれど戻ってきた。不器用ながらもその子に寄り添おうとする。そんな逃避行の中で女の子は何を考えただろう。やっと自分を見てくれる人ができた。当たり散らされても嬉しかったに違いない。まして、その男の子はかつては光の中にいた彼だ。朝起きたらマニキュアを塗ってくれてるなんて、それだけで幸せだと思う。
この先も不幸かもしれないけれど、この小さな幸せが彼女の心をあっためてくれるといいなと思った。
村上虹郎はこういう影のある微妙な若者役がよく似合う。珍しいタイプのイケメンだ。
重く閉塞感が漂いますが、不器用な荒々しさがなんか気になる作品です。
以前から興味があったのと、観た方の評判が良かった事もあり、観賞しました。
で、感想はと言うと…重い…重いなぁ
全体的に終始付き纏う閉塞感に気持ちがなんだかどんより。
様々な境遇の中、思いを断ち切るかの様に逃げ出す二人に希望が見えない。
だからこそ、捕まる事でしか活路が見いだせないからか、虚無感が半端ないんですよね。
むか〜し見た「サーティーン・ボーイ」と言うテレビドラマをなんか思い出しました。
刑務所帰りの父親に乱暴され、思い余って刺してしまった介護士のタカラと、役者を目指しながらもオレオレ詐欺に加担し小銭を稼ぐ翔太との二人の逃避行なんですが、二人が現場から逃げて、和歌山市内をあてもなく彷徨い逃げるのは、なんと言うか虚しくやるせない感じなんですよね。
その分先々での出会いというかドラマがあるけど、ちょっと薄いし少ない。
梅農家に頼み込んでのアルバイトなんか、もっと膨らませて良かったのではないかな。
またタカラがアルバイトをするスナックなんかもいろんなドラマがあると思うし、ドラマが生まれると思うから勿体無いなあ。
行く先々での人との出会いに悪い人もいるかも知れないけど、良い人との出会いもあって、そこで少しだけで人としての成長が見えれば、物語に光明が見えるかなと思うのですが、如何でしょうか?
でも、ラスト辺りでの二人の幻の戯曲のやりとりは個人的には好きですね。
今までの鬱屈した雰囲気から光が見える様な感じで、小劇団っぽい演出ですが、良いんではないかと。
タイトルのソワレと言う名付け方は結構好きです。
タカラが父親に襲われたり、翔太がオレオレ詐欺の受け子をするのも昼間でありますが二人は身を隠す様に夜の街をさ迷い歩く。
ラストの戯曲のやり取りも含めて、ソワレな世界ですが、細かい事を言うと…そんなにソワレだは無いので、マチネ(昼)とソワレ(夜)的なバランスなので、どちらかと言うと「マチソワ」なんですが…マチソワでは題名ではあんまり締まんないですねw
なので、ソワレで正解かな。
閉塞感漂う重い作品ですが、その分役者の技量が問われる作品で、こう言う作品は個人的には嫌いじゃなんですが、タカラの設定はかなり重い。
タカラには同情と共感は出来ても、翔太には個人的には同情も共感も薄い。
タカラがムショ帰りの父親に乱暴されている所に駆けつけ、止めに入って、タカラと一緒に逃げる所ぐらいまでは“翔太、良い奴だなあ〜”と思えても、その後が頂けない。
アルバイトを頼み込んで引き受けた先の梅農家に泊めてもらったにも関わらず、夜中に金を盗もうとする。また金を稼ぐとしてもタカラはスナックで働いて稼いでも、翔太はギャンブルで金を稼ごうとする。あまつさえ、一緒に逃げても“お前のせいでこうなった”とタカラにぶちまけたら“翔太、カッコ悪いぞ”となりますわな。
最後にオレオレ詐欺の加担の罪で捕まらないのも、個人的にはなんか納得出来ないw
ただ、都会に翻弄されて、流される様に生きる若者が純粋で不幸な女の子に出会って、純粋な気持ちを思い出すと言うのなら、そこまでのバックボーンの説明や、東京から遠く関西の和歌山に老人ホームに施設慰問に来た説明があっても良かったのではないかな。
タカラの衝撃的なシーンまでが結構説明不足過ぎて、なかなか分かり難い。
不器用で純粋なタカラとの比較として、翔太をクズな感じで仕立て上げていると言うのは分かるんですが、翔太の生い立ちやバックボーンの説明や描写が薄くて、初っ端からオレオレ詐欺の「受け子」を担っているだけに、夢を語っていても、安易でその場凌ぎの軽い感じと言うイメージが拭えないんですよね。
翔太の扱いや描写は結構重要な筈なのに、個人的にはなんか軽い感じがします。
それがまた、タカラへのウェイトが大きく重くのしかかって、全体の閉塞感を重くしているんですよね。
タカラは…報われないなあ。父親に乱暴されていて、警察にも何度も相談しているのに、解決の糸口が見えないから殻にこもって引っ込み思案の自暴自棄な感じがしている。
この作品はそんなタカラの境遇と思いが全体の雰囲気を作っているからこそ、重くのし掛かるんですよね。
謳い文句にある「ふたりで逃げた。幸せだった。」と言うには個人的には感じられない。あくまでも結果論でそう感じるかも知れないけど、逃走中のタカラは行く先々で必要とされてお金を稼ぐことの嬉しさはあっても、翔太との間にそれを感じ取れなかった。
タカラ役の芋生悠さんは安藤サクラさんみたいな感じで、若いのにかなりのベテラン感が漂う感じ。翔太役の村上虹郎さんは目元がなんとなく菅田将暉さんみたい。でもどちらもピュアで不器用な感じがこの作品の荒々しさと世界観を構築していて気になる役者さんです。
不器用で重い作品ですが、なんかそれがクセになると言うか、目が離せないんですよね。
割と嫌いじゃない作品なのですが、もう少し光明が見える部分があっても良かったかなと。
気分が凹んでる時にはかなりヘビーな作品なので、精神的にフラットか前向きモードの時に観賞をお勧めしますw
私はソワレがすき
誕生日クーポンが切れる日だったので、何かみよう!と検索したら、なんとシネコンで本作が上映していてびっくり。
単館系だと勘違いしてた私。
たまたま、村上虹郎さんの英語でのインタビューを動画でみて興味津々の本作でした。
レトロな雰囲気で、セリフが少なめの進行、ちょいちょい挟んでくる時系列不明の画像がモヤモヤし、どうしてソワレ?と理解できず取り残されかけた前半の私。
そこから若い2人の走る逃げる〜の逃走シーンの始まり始まり。
出会う人が助けてくれるパターンか、と思いきや…現実を思い知らされるような対応。
今時の映画なのに暗くて悲しくて救われないのか?とソワソワするなか、ソワレのシーンが美しくて胸が熱くなった。
やがて、たどり着く2人の着地点で心臓を鷲掴みされた。
ああ、人はみんなスポットライトを浴びたいと思って生きる。
どんなに苦しい毎日でも、きっと誰かが探してくれる、いつか光が差すことがあるよ…そう、伝えられた気がした。
誰もが自分の人生では主役なのだから。
村上さんと芋生さんの熱演に拍手!
素晴らしいの一言
夏の吐き気を催すような蒸し暑さと対比的に映し出される砂浜と海。
若者たちの生きるということに対するどうしようもない寂しさと迷い。
神様は試練を与えるがどこかに逃げ道を作ってくれている。しかし、どこに散りばめられているかは分からない。
二人が逃亡した意味。
二人はそれぞれが抱えた絶望や鬱屈を振り払うためにに逃げ続ける。
泥臭く。ときには現実が迫り、ときには過去の暗い影にまとわりつかれながらも必死で逃げる。
翔太には言いようの無い孤独と逃れようの無い挫折が。
タカラには身を切られるような過去の記憶とトラウマが。
二人の逃亡はそんな現実に対する必死の抵抗と
希望への渇望に満たされていた。
そして行き着いた先の二人のソワレ。夜の公演。
登場人物はとにかく人間臭く、そんな彼らには時として胸を締め付けられる。
それだけに衝撃は待ち構えている。
翔太は果たしてその後タカラを迎えに行ったのだろうか?
二人は再会したのだろうか?
きっとそうであってほしい。
いや、そうでなければならない。
映像美、美しい音楽とともに本当に良く練られた脚本。
久々に映画を見た。そんな風に思わせてくれる作品でした。
時々良いけど1mmしか刺さらない感じ
先週から変なんです。刺さらない、と言うか、かなり刺さり難くなってるみたいで。でも青痛脆いは結構刺さったけどなぁ…
冒頭。潮騒が都会の雑踏のノイズに切り替わって行く所とか。空き家で2人の「影絵」を使った、タカラの心象表現とか。雨上がりの夜のステージ、ラストのタカラの後ろ姿などなど。琴線を引っ掻く場面はたくさんあるけれど。
その二倍ある「それはちょっと、どうかと思うよ」が、良い場面を帳消しにする無惨。最後の号泣場面などは、ドン引き…
合理性がどうのこうのでは無く、翔太の人格の問題でも無く。根底にある厭世観みたいなものへの拒否反応、と言えば良いのか…
芋生悠さんの熱演には共感を覚えました。個人的な好き嫌いのレベルの話ですが、外山文治さんは、やっぱり苦手です。
意味の無いものなどない。空っぽな人間などいない。的な話で、刺さる人には刺さると思います。実際、同じ列に座ってた女性は泣いてましたので。
これに1,800円とか1,900円は払いたくないよ、ってだけ。
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8/31追記&ネタバレに変更
「新世界合同会社」は「作家主義打ち出し、純度の高い作品目指す」との記事を見ました。豊原功補さんは、かつての「ディレクターズカンパニー」みたいなもんを目指しているとも。
ディレクターズカンパニーの初期作品を調べてみたんですが、
1984:人魚伝説、逆噴射家族
1985:台風クラブ、ドレミファ娘の血が騒ぐ
と、作家性だけでは無く、時代を映す鏡としての作品が並びます。
一方のソアレ。人間のドロドロした部分や不遇・不幸を並べ立て不条理を訴える手法には、全く目新しさも感じないけれど。
両親から愛情を注がれたという記憶もなく、幸せを感じる事も無く、作り笑いの方法だけは知っている、「死んだように生きて来た娘」。あてもない逃避行生活であっても、「私の方を向いてくれる人」との時間は、彼女にとって十分に幸せと言える時間だった。に違いない。的な。
「夜会」と言うタイトルは、影絵の中で翔太に寄り添ったタカラの心象を現すタイトルなんでしょうけど。決定的に、何か足りない気がして、技術的に。タカラの変化って、も少し描写あっても良いんじゃないかと言うのと、そもそも時代的な問題やら、役者の男と不幸な娘を引き合わせるための設定の問題やら、観客が置いてけぼりにならないような工夫って無いんでしょうか。
作家性って言う言葉って、便利ですよね。「製作側が密室で自己満足する事を正当化するため」に使われる言葉だと感じることが、たびたびあります。印象としては、そっち系の映画の範疇を超えきれてないと思いました。
これは単館どまりかねぇ。
しかも、パンチ足りないし。
単館でやってる作品て、たまに、ずしーんと来るやつあるから。
【”辛いときは、新しい場所を作って・・こうやって笑うんだよ・・” 若き男女の自由を求めて彷徨う姿が刹那的で哀しいが、”煌めき”も感じさせる作品。】
■印象的なシーン
1.山下タカラ(芋生悠)が、刑期を終えた”許しがたき父親”に再び襲われ、偶々タカラを探していた翔太(村上虹郎)に助けられるシーン。
タカラが積年の恨みなのか、咄嗟の行動なのか、鋏で父親の腹を刺してしまい・・。
ー何故、翔太がタカラと一緒に逃げたのか、最初はピンと来なかったが、翔太のそれまでの生き方”劇団員として俳優を目指しているがパッとせず、オレオレ詐欺の手先として少しばかりの金を手にする姿を思い出し、
”翔太もタカラと同じく、”空虚で鬱屈した感情”を抱えていたからだろう”と、推測する。
2.和歌山の山中で梅干しを作っている農家でバイトに雇ってもらいながら、夜、金をくすねようとした翔太に農家の男が掛けた言葉。
”自分からは逃げれやんぞ・・”
翌朝、男の妻(江口のりこ)が語った言葉。
”あの人も、昔は・・”
3.一夜のソワレ ”夜会” の幻想的なシーン。
4.自由になるために船に乗ろうとした二人が警察に捕まってしまうシーンで、タカラが翔太に叫んだ言葉・・。
”・・・・、こうやって笑うんだよ!”
<”空虚で鬱屈した感情”を抱いた二人が、自由を求めて彷徨う姿が、刹那的で哀しいが、
未来の煌めきも感じさせる作品。
独特の世界観を漂わせた、外山文治監督のオリジナル脚本も秀逸である。>
ラブストーリーではあるが、映画への愛の讃歌
まず、この映画、万人受けはしないだろうなと思います。スクリーンから惹き付けられるものはあると思うけど、全体的に静かで普通に見ていたら感情移入もしにくい作品かと思います。
でも、自分としては見方を変えたら本作の伝えたいことを感じ取ることができました。まあ、あくまで自分の解釈としてですが、、、
さて、作品に触れると自分が見てて思ったことは、主人公=映画、ヒロイン=観客ということです。
主人公は人間的であれど、どことなくファンタジーな存在のように思います。あまりよく知らない人と共通なものがあるからと一緒に逃げてくれる。正直、ありえない存在だと思った人は絶対いると思います。自分も思いました。
それに比べ、ヒロイン側の方は感情を追っていくと人間的で現実的な存在として描かれていたように思います。ただただ普通と幸せが欲しかった女性として。だけど、それを得ることができない、どうしようもない現実が襲ってくる。きっと、介護も大変ながらやりがいはあったと思います。でも気づいてしまったんだと思います。ただ死ぬのを待つだけに。
そんな時に起きた悲劇による人生の転機によって変わっていく。
この逃避行自体も非現実的ではあるけど、それはやっと望んでいたようなヒロインにとっての自由でもあったのだと思います。しかも、ヒロイン一人ではなく、男性の主人公と。
ただ死ぬのだけを待つだけだと思っていたのに、ある意味、王子さまのような存在と出会い、二人で逃げる。
現実は常に襲っては来るが、逃避行していくうちに自分の長所、人の優しさ、恋心、愛を感じながら経験していく。失われた時間を非現実的な部分で取り戻していく。
だけど、主人公も人間的な部分も出てきてヒロインに対して苛立ちが募り、二人が分断されてしまう。なぜなら主人公は失うことだけになっていくばかりだから。
一人になったヒロインは改めて現実を知り、孤独なことを知る。そこで死ぬことを選んでいくんだけど、怖いから人間だから死ねない。
そこでもう一度出会う主人公とヒロイン。もう本当にご都合主義的で主人公はファンタジーな存在だなとここで改めて感じさせるが心が揺さぶられる。ネイルの部分も非現実的ながらロマンティックで良い。
二人は最終的には、ヒロインだけが捕まる。
正直、ここまでならロマンティックな話で終わるのだが、この映画、ラストになぜ主人公がファンタジーな存在なのか納得させられる。
ヒロインが度々、辛い時にやっていた仕草があるのだが、その仕草が主人公の自主映画で演技付けした部分であったという、いわば、どんでん返しのようなものが明かされる。
つまり、この映画はラブストーリーというよりも映画を見る人たちに向けた愛の讃歌のような作品なんだと思う。
映画には喜怒哀楽があり、人生が描かれていたり、時にはリンクする時もある。
ヒロインが捕まる時に言った「私の人生、からっぽじゃなかった」という言葉は映画を見てきた観客に対しての言葉のように感じた。
だから、映画の影響力というものを映像で見事に素敵な形で見せた映画史上最高の人生最高のラストカットだと個人的に感じる。
主人公=映画、ヒロイン=観客というのは現実を見なきゃいけないけども非現実的なものを主人公(映画)が誘い、理想を見て現実に生きることを描いた映画なのではないかと思った。
なので、評価に惑わされずに映画が好きなら一度は見てほしいし、響いた人ならラストカットは永遠なものになるかと思うのでぜひとも劇場で見てほしい作品。
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