レ・ミゼラブルのレビュー・感想・評価
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全編が長い長い答え合わせ
ビクトルユーゴーの「レ・ミゼラブル」と同じタイトルだが、ジャンバルジャンもコゼットも出てこない。舞台は現代のパリ、その下町と言えばいいのか。
起きる出来事全てはジリジリと緊張感を高めてゆくが、エンタメ特有のカタルシスはどこにもない。
なぜならその全てが、すでに結末に対する検証だからだ。
そしてその結末は、見た者の心の中にしか存在しない。
これはひとつの寓話であり、たとえ話を用いた実験映画なのではなかろうか、とさえ感じてしまった。
突き付けられて、国も人種も関係なく我が身を振り返るための。
だが確かに人は、何もしゃべれず右も左も分からないところから、始まるのだ。
そこへどんな種をまいて育てるのか。
あらゆる地域でモメごとが勃発し続けている今、
私たちはちゃんと未来を育てられているのか。
不寛容に苛まれた世界で燃え上がる怒りに圧倒される圧倒的にリアルなドラマ
2018年W杯優勝に沸くシャンゼリゼから始まる物語。『あゝ無情』の舞台として有名なパリ郊外の街モンフェルメイユ。シェルブールから異動してきた警官ステファンが配属されたのは犯罪防止班BAC。同僚のクリスとグワダとともに街を巡回しているとロマのサーカス団と黒人グループの小競り合いに遭遇する。サーカス団の檻からライオンの子供が黒人の少年に盗まれたと逆上する団長をなだめ、犯人探しをする3人。あっけなく犯人の少年イッサを見つけるが・・・。
多様な民族がそれぞれのイデオロギーを保ちながらギリギリのバランスで暮らすゲットーに充満したルサンチマンに火を放つのはほんの些細な出来心。崩壊の序曲が高らかと奏でられる中に佇むイッサの瞳に浮かぶ何かに魂が揺さぶられます。本作全編に漲っているものに似たものは世界中に漂っていて、それはマスクをするしないのような小さな種火であってもあっという間に燃え広がる。そんな絶望と背中合わせで生きる我々にできることは何かを終幕後にじっくり考えさせられる作品。抜け出すことの出来ない貧困が横たわる廃墟のような街での2日間をリアルに描き出すラジ・リ監督の憤りと優しさを湛えた演出が深い余韻を残します。
それは落ちた社会の話
今作を観ながら真っ先に思ったのが、マチュー・カソヴィッツの『憎しみ(1995)』という作品。当時私が観ていたフランス映画と言えば、ベッソン、ルコント、ベネックスが中心だったので、フランスの貧困地区を舞台にしている作品を観るのは『憎しみ』が初めてで、酷く衝撃を受けました。
それから、約25年。1995年からフランスの貧困地区は何も変わってなく、むしろ時代と共に更に酷くなっている印象を受けました。貧しい大人達はなす術がなく、子供達は犯罪を犯す。貧困層は更生のチャンスも与えられず、政府も根本的な解決をするつもりがない様にみえます。
今作が公開される少し前から新型コロナウイルスが世界中で流行しましたが、作品の中で描かれる貧困層のライフスタイルを観ていると、彼らが新型コロナウイルスの感染から身を守れない事が容易に分かります。密集し衛生的でない住環境、仕事はサービス業が中心。
現に新型コロナの死者の大半は、貧困層と移民です。政府が無策であれば、この新型コロナウイルスをきっかけにして、今後更に経済格差は広がり続けます。
今後の更なる経済格差の広がりは、日本も例外ではありません。私はフランス映画を鑑賞しているのに、今作から政治が腐敗し落ち続ける日本社会を想像してしまいました。
落ちていく社会を描いた『憎しみ』で語られたラストのセリフ、『ここまでは大丈夫』のどの地点に私は日本はいるのだろうかと。
’‘それは落ちた社会の話。落ちていきながら何度も確かめた。ここまでは大丈夫、ここまでは大丈夫…。大切なのは落下ではなく、着地だ。“
ライオンの育て方
ヴィクトル・ユゴーの有名過ぎる「レ・ミゼラブル」で有名な、今は犯罪多発地域でスラム化している街が舞台。
その街の警察に異動でやってきた穏やかで人道的なステファンと粗暴な同僚二人とアフリカ系移民が沢山住む荒廃した団地のコミュニティの人々を中心に話は進む。
ドキュメンタリーの様にリアリティもあって、最後まで引き込まれた。
暴言や暴力、粗暴で利己的な思惑が渦巻く大人達。
同僚の二人も警官としての正義やモラルよりも、自らを守る事を選択してしまうが、その中でも、恐怖心や罪悪感等目の奥の心の細かい揺らぎも感じられて俳優さんの演技、心理描写も良かった。
その中で良心的なステファンが傷ついた子供イッサを唯一抱きしめ手当てをする。
スラム街のボスが、交渉してきたステファンに言った「お前を信じたいよ」この言葉の重み。
暴徒化した若者子供達、
イッサのラストシーンの選択は…
移民と貧困、暴力、人格の荒廃、教育、差別、格差、政治、様々な問題が絡み合って、簡単には改善されない問題だけど、
子供はいつでも被害者。
荒れた心を連鎖させても何も救わない救われない。
気づいた者から連鎖を止めていかなければ。
それは、親子の子育てだけでは無く、
他人に向ける些細な善意の行動や言葉がけでも良い、そこに確実に善意の種は撒かれているから。
善意の連鎖が大きくなりますように。
サーカスの親方のライオン愛🦁には笑っちゃった。
エンドロール前に映し出されたビクトル・ユゴーの言葉が響く。
「友よ
よく覚えておきなさい。
世の中には悪い草も悪い人間もいない。
ただ、育てるものが悪いだけだ」
帰り道にミュージカルのレミゼの民衆の歌が脳内リフレイン
生々しくて、ヒリヒリしてて、沢山考えさせてくれる、とても良い映画でした。
あゝ無情
世界? 時代? 為政者?
何が、誰がいちばん悪いのかは分からない。
だが悪いおとな、だらしのないおとなの姿を
こどもたちに見せてはいけない。
でも、そういうおとなでいられる自信がないのは
わたしの弱さか?
それとも人間の弱さか?
火炎瓶は最低の兵器
いや、ミリヲタとして言わせてもらえば、あんなアホな兵器は無いから。簡単すぎ、残虐すぎ、安全装置なし。知恵のない、ただの人殺しが使う殺人兵器です。
2018年7月15日。FIFAワールドカップの決勝で、フランスはクロアチアを4-2で下して優勝。フランスチームでゴールしたのは4人。マリオ・マンジュキッチは旧ユーゴ、クロアチアの移民。アントワーヌ・グリーズマンはブルゴーニュ地域出身。ポール・ボグバはフランスとギニアの国籍を持つ。当時19歳のエムバッペは、フランス・カメルーン・アルジェリアの三重国籍。多国籍のフランスらしいチームを応援する群衆の中には、アルジェリアの国旗を体に巻いた男もいました。出自の違いを一瞬でも忘れ、フランスの優勝に歓喜した人々。
1998年、自国開催の大会で初優勝した後、フランス人記者は、こんな記事を書いて世界中に発信しました。「朝、窓の下を見ると、サッカーボールを蹴りながら学校へと向かう子供たちの姿がある。これが、この大会で優勝した、最大の意義である」。二回目の優勝を果たしたロシア大会で、かの国は何を得たんだろうか。なんて事を思うサカヲタが一人。いや、たまたまなんですが、映画鑑賞した日、フランス代表チームのレプリカユニ着てたもんで。背番号は11でナスリのネーム入りw フランス代表ユニって、ポロシャツみたいに襟が付いてるんで好きなんです!
◆「子供の悪さは大人の責任」。全くもって仰せの通りです。
"Lead" でしょうね。親が、大人が、「子供達にはこういう大人になって欲しい」と思う姿に、まずは自分がなる。それが全てだと思います。ちょっと気になって「しつけ」を英語辞書で調べてみると「discipline」「train」「teach」なんかが出て来ます。しつけも教育も「Lead」と言う単語は表示されなくて。我が国の概念でも、「教える事」「躾けること」は、一方向の矢印なんだ、って思った次第です。
いずれにせよ。
逆恨みで暴動を起こし、火炎瓶まで持ち出した少年を、撃てるか、撃てないか。見る人に問いかける手法は、ちょっと嫌かも。撃てずに火炎瓶に三人が焼かれれば、少年たちへの憎悪を招く。SIG SAUER Proの9mm弾に少年が倒れれば、おそらく、意見が分かれ議論になる。映画的にはですね、個人的には、撃つべきだったと思います。撃って議論を巻き起こすと言う選択もあるのではないでしょうか。
◆俺たちは本当にフランス人なのか?
サッカーで活躍すれば、称賛され英雄になる。落ちぶれれば、手のひらを返したような扱いを受ける。それが移民であれ、生粋のフランス人であれ、同じだと思うんですが。ただ、移民の子の場合、「国へ帰れ」と罵られる。どれだけ頑張って社会に貢献しようとも、その国に迎え入れられていないかの様に錯覚する、いや、疎外され違和感を感じる人の話は、良く聞く訳で。ジオディーヌ・ジダン(同じ移民である姉を侮辱されて頭突き退場した話はあまりにも有名)も、マリオ・バロテッリ(彼はイタリア代表。差別に悩むも、養父母の愛でドロップアウトから立ち直る)も。
出自による差別は無くならない。そうした数多の実例の中から、パリの移民団地の現実が描かれているのであろう、って所が結構刺さりました。
良かった。救世主がいないところがリアルで。
人も正義も何一つ信じられなくなるのが差別
若い世代に何を残すのか問う、今この世界中に刺さる映画。ひたすらに胸が痛い。負の連鎖はここで止めなければと強く思う。
ビクトル・ユゴーの小説「レ・ミゼラブル」の舞台で、パリから17キロの郊外にあるモンフェルメイユは移民が多く住み犯罪多発地区。この街で生まれ今も暮らしているレジ・リ監督が現状を伝えるために作ったという。
モスクを作り子供たちを指導して自治を進めたい移民に対し、警察は支配者のように自分が法だと横柄な態度をとる。政治家はどちらにも良い顔しながら隙あれば弱みを握ろうとする。
そして誰も幸せそうに暮らしていない。誰もがストレスを抱え、行き場のない現実から逃れるためにつかむのはドラッグか武器か人を貶めることか。
なんのことない小競り合いから、ドローンが撮った一部始終をめぐって一触即発の緊迫。
差別と格差、衝突、負の連鎖の末に見る心臓の止まりそうになる光景。
アメリカでの事件から世界中にBlack lives matter運動が広まる今こそ、ここで私たちの世代でこんなことは必ず終わらせると、身をもって感じられる映画。
ラストシーンに残された一縷の望みに賭けたくなる。少年イッサのまなざしが目に焼きついて離れない。
ラジリ監督、長編デビュー作とは思えぬ熱量
一つの街で起こった小さな事件が発端となって、全ての出来事が悪い方向へと進み、悲劇のドミノ倒しが最悪のゴールに向かって倒れていく様を描いた構成の見事さ。
登場人物一人一人がその街に根付いた徹底的リアリティ、街に孕むさまざまなトラブル、社会問題や思想、思惑の入り乱れ、大人と子供のカーレース、とまぁあっという間に映画のカオスに飲み込まれる。
これって多分、子供たちの視点から描いたらもう少し単純な勧善懲悪ものに見えると思うんだけれども、主人公の視点を善良な新米刑事にしてあえて警察側から描くことによって見事にその単純さを避けている。そしてそれが物語の緊張感やラストシーンに、見事に活きてくる。
この構成、長編デビュー作にしては凄すぎないか?と思っていたのだが、HPを見たところ彼は結構前から短編映画をいくつも撮っていたらしいことと、2005年のパリ暴動を経てからは自分の街をドキュメンタリー映画として数年間撮り続けているらしいことがわかった。
なるほど本作のリアリティは彼の長年のドキュメンタリーのキャリアによって培われてきた観察眼の賜物である。
言われてみれば新米警官の2日間の激動のドキュメントとして本作を見ることもできる。
そんで描かれていることも実際に起きたことに基づいているとのことで、そういった様々な街の現実をモンタージュのように切り貼りして映画脚本として物語を構成したものだと考えるとやっぱり構成は見事なものだが、前提としてこの人はドキュメンタリー監督としてとても優秀なんだなということがわかった。
今後、フランスのケンローチ的な存在になっていくのか、はたまた彼独自の作家性でまだ見ぬ怪物に突然変異していくのか、とても興味深い監督である。
問いかけ
「悪い草も悪い人間もいない。ただ育てるものが悪いだけだ。」
冒頭のW杯、フランスのナショナルチームがプレーする様に連帯して興奮するシーン。しかしこの連帯は、本編で社会に根ざす分離の側面を炙り出す中で、見せかけのものなのではないかと、観終えた私に深く問いかけた。
一つ、特に印象に残ったシーンを挙げると、それは警官らが一連の少年にかかる諸々をひとまず終えて、彼らがそれぞれの家に帰って、彼らとその家族との関わりを描いた箇所である。
事をしでかした思いを、怒りを隠しながら家族とひたむきに向き合う者もいれば、泣きながら母親と話す者、少々癇癪を持ちながら子と接する者もいる。事の後のそれぞれの家族との向き合い方を通して、彼らがどのような意識を持っているのか、よくわかったような気がした(家族には人は正直になることが多いと思う)。
最後のシーン、出来れば、希望を持ちたい。
育てるものが悪く、ああした復讐に走った彼らである。育てるものを悪くしたもの、悪いものの源は一体何だろうか?社会に問いかける。
新鋭の監督による「郊外映画」の傑作。
冒頭、鮮やかな三色旗の色彩と波のような群衆の只中に放り込まれます。この場面は本作のポスターなどのアートワークでも使われており、高揚感に溢れています。
だが本作の主要な舞台となるパリ郊外のモンフェルメイユは、全く異なった表情を見せます。荒れた住宅地に住む住民はすさんだ眼差しで肌の色の違う隣人を眺めています。主人公ステファンはこの地区の犯罪対策班(BAC)に配属され、二人の同僚と共に巡回に出発します。この(警察官としては無能な)同僚達に導かれて、彼はまるで地獄巡りのようにこの地区を体験します。
ユゴーの名作『レ・ミゼラブル』と本作とは直接的な結び付きは少ないものの、「無情」を重要なキーワードにしていることは間違いありません。住民達の内実をよく理解しているはずの同僚が引き起こした事態、大人の暴力にさらされる少年達など、一つひとつの事態の積み重ねが、やがて大きな動きへ発展していきます。誰かが事態を操っている訳ではないのに、結果的に重大事件に関与してしまう、そこに大きな無情を感じさせます。
本作は大きく二部に分かる構成で、前半と後半である要素や関係性が反転する仕組みとなっています。その転換の幕間に挿入される短い映像が、後半のやるせなさを一層強めています。
フランスには本作のような「郊外映画」が分野として確立しているそうで、他の作品も観たくなりました。
社会の闇がリアルに
もっと早く見たかった作品だが、コロナ流行の影響で6月まで待ち続けた。期待通り、いや、想像以上にパリ郊外の貧しい町の悲劇が痛々しく描かれている。
移民、貧困、格差、憎悪などを、ラジ・リ監督は作品の舞台となった地域で見てきたという。そうでなければ、ここまで濃密な映画は作れないだろう。
国は違うが、米国で黒人男性が白人警官に殺害され大問題になっている今、おすすめの作品。
現実を考えさせられる最後
最後、イッサは火炎瓶を投げるのか。
ポマード刑事は銃を構えた先に何があるのか。
いろんなことを考えさせられる映画でした。
実際にこの一つの事件がどんな最後だったかを伝えないことで、この一つが解決しても、同じような事件が次から次から起こる世界を感じた。
大人が隠蔽する世界に子供達が反抗する。
模範となる世界がないことで、
世界が良い方向に進むにはどうしたらいいのか、
考えることのたくさんある映画でした。
フランスの華やかさゼロのリアル
パリのオシャレで華やかな風景は全く登場せず、移民や低所得者が暮らす一部地域での数日間が描かれます。
見て見ぬフリしてオシャレなフランスだけを見てはいけない、こんな側面もあるのだと作品を通して訴えかけられているようで、非常にカロリーを使う作品でした。緊張感が続く中、後半20分がとても辛い。負の連鎖を止めるには、どこから手をつければいいのか…。
観ていて楽しい気分にはなりません。でも観て良かったです。
フランスはいつの時代も革命の地
民衆の力が一つになり権力と戦う地。ただ、現政権を選んだのも市民。力を持つと変わってしまう国民性なのか?アントワネットはオーストリア人だったね。日本人には無い声をあげる大切さがわかる。
暴動の起こし方
ヴィクトル・ユゴー校もあるモンフェルメイユという地域。転勤してきたばかりのステファンは犯罪防止班に加わることになるのだが、やがてクリスやグワダの言動に疑問を持ち事態を収めようとするのだが、少年たちのフラストレーションが爆発してしまうリアルな物語。
本家ビクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』ではジャン・バルジャンがパンを盗んだことにより始まるが、今作は移民街の少年イッサがサーカス小屋から子ライオンを盗んだことが発端だ。些細なことではないはずで、そのライオンを抱いた写真をSNS上にアップしたことから即座に捜査対象になり、荒っぽいクリス(木下ほうか似)や地元警官のプライドを持つグワダが事件をややこしくしてしまう。
アメリカを筆頭とする移民問題を抱えている国にはこうした状況が常に起こるのだろう。最初は生意気なクソガキがっ!などとも感じていたけど、グワダが誤ってゴム弾を発砲したことで見方が変わってしまうのです。威嚇でもないし、明らかにイッサに向けられた銃。それを盗撮趣味の少年バズがドローン撮影したものだから、さらに問題が大きくなるといったストーリー。
政治や行政の隠ぺい体質が叫ばれる世の中で、警察のものが最も怖い。誰でも監視対象、捏造逮捕という事態も起きるし、クリス自身は「俺が法律だ!」などと主張している恐ろしさ。こうなっては少年の犯罪が小さいことにも見えてくるのですが、根底にあるのは人種差別なのでしょう。こんなわずかの時間でも暴動が起きるということもIT社会が発達したためだと感じてしまいます。
このご時世ではコロナ禍の影響で、ギャングまでもが自粛しようと主張する動画もありましたが、終息が近づくと多大な失業者も増えることだし、このような暴動が起きるのかもしれません。
すべてに私が存在する
冒頭から展開される,民族,種族間の憎しみ・いがみ合いが頂点に達するかと思いきや,終盤にいたって世代間の断絶があらわに。日本人には理解しがたい,ある種,そう状態とも言える様相の人たち。これも一つの様式美か?そこからの粘り腰の交渉が・・・だからネゴシエーターって海外にはいるんだなあ。日本にもいるかもしれないけれども,困難度がけた違いだと思われる。
ロマのおじさんたちがいきなり凶暴なのにビックリ。「ジョニーを帰せ」で犯人を問答無用でぶち殺しそうな勢い。住人たちは警官におべっかを使うか,憎しみをぶつけるかのどちらかしかない。
こんなところで働いてたら,誰でもクリスみたいになると思った。
そして合間に挿入される,それぞれの生活。それぞれの人生。みんな人間で、みんなそれぞれの人生を生きてる。
イッサはどうしようもない悪ガキに見える。でも大人から理不尽に押さえつけられてさらにダークサイドに転落?
私は彼が火炎瓶を投げなかったと信じたい。投げたらジ・エンド。ステファンはイッサを撃たなかったと信じます。
お腹いっぱい食べさせてあげて!
何もリサーチなく鑑賞し、題名から
希望に満ちた作品かと思っていたので、
冒頭から、あら、ちょっとこれは
違うわ!で、え?んま!えー!の連続でした。
途中、お腹を空かせた子達が、
屋台のおじさんに、食べ物をねだる
シーンがありました。でも、お金が
ないので、邪険にあしらわれてしまいます。
わたしの経験上ですが、子供の心とお腹は
連動していると、つくづく感じます。
つまり、お腹がいっぱいになれば、
心も満たされるんではないかと。
できるならば、手料理であればなおよし。
料理そのものより、作る過程の
例えば、包丁でトントンとまな板を
叩く音や、蓋を開けた時にモワッと
たつ湯気の情景や、鼻腔をくすぐる
匂いがあれば、尚のこと、お腹だけどはなく
心も幸せで満たしてくれると思うわけです。
すると、不思議なことに、粗悪な
思いに負けない丈夫な心も育まれる
という図式になるよな気がします。
特別な事はしてあげられなかったけれど、
3人の野獣に近い笑息子達を
育てた、わたしなりの子育てで得た、
確信であります。
様々な状況があり、食べるに
食べられない子供達がたくさん
いると危惧します。
もちろん、親や周りの大人が
見本となる行動や振舞いを示すことは
大切ですが、その前に、どうか
お腹を満たしてあげて!
そしたら大丈夫!と、叫んだ作品でした。
人を育てる難しさ
映画の最後にテロップが出る。その言葉が全て。ここでいう「人を育てる」というのは教育だけではなく、大人が背中で見せるということ。
勉強ができるできないとか、運動が得意かどうかではなく、大人がしっかりとした行動や言動を行うことができるのか。子どもは絶対に見ている。
僕は日本人の優しさとか謙虚さが好き。でも、最近はそれが薄れているように感じる。こういう話のとき、よく若者が槍玉に上がるが、その若者を育てたのは今の大人。社会が悪い、他人が悪い、アイツは得してる、自分は損してる。いま一度、自分ができる良いことを積み重ねないと、この映画のようになるだろう。
映画としてはドキュメンタリータッチでPOVを活用したような映像でドキドキするが、主役の存在感が少し薄く感情が見えにくいため、キャラクターを応援しづらい部分はあった。
フランスの現状を感じ、日本の場合はどうだろうと考えたい方は是非劇場でご覧ください。
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