風の電話のレビュー・感想・評価
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モトーラ世理奈は早くも邦画界でかけがえのない存在に
NHKドラマ「透明のゆりかご」(現在4Kで再放送中)で初めてモトーラ世理奈を知り、その圧倒的な個性に驚かされた。そして昨年から今年にかけて「少女邂逅」「おいしい家族」そして本作と、主役や重要な役で起用され、異なる物語の中にもある種共通した空気感を醸し出している。
東日本大震災で家族を失った17歳のハルが、多くの人に助けられながら故郷を目指す旅を描く。道中で出会う人々の経験や思いや優しさに触れ、彼女は喪失を自覚し、再生のきっかけをつかんでいく。演技巧者の共演陣を相手に、モトーラ世理奈は常に自然体に見える。泰然ではなく、はかなげで、頼りなさげで、自らを持て余すかのような。そんな脆弱さを演技という鎧で隠すのではなく、そのままさらけ出す逆説的な“強さ”がある。それを引き出した諏訪敦彦監督の演出も大きい。
どうかこの魅力を失わないまま、邦画界で順調にキャリアを積み上げてほしい、と心から願う。
喪の作業(グリーフ・ワーク)の「終端」としての「風の電話」
健康にとって「孤独はタバコよりも有害」という言い回しがありますけれども。
悲哀(グリーフ)からの立ち直りにも、孤独を避けて、人と人とのか関わりを築くことが、やはり不可欠なのだろうと、評論子は思いました。
本作を観終わって。
ちなみに、日蓮宗の法話に、こんなものがあるようです。
とある女性キサーゴータミがお釈迦さまのもとへ来て、亡くした幼い子どもを生き返らせてくれという。
お釈迦さまは、ケシの実をひと粒、一度も死人を出したことのない家からもらってくれば、その子を生き返らせるという。
早速、キサーゴータミは町へ行き、ケシの実を求めて家々を尋ね歩く。
ケシの実はどこの家にもあるのだが、一度も死人を出したことのない家は一軒もない。
そのことを知って、死者を出すこと=悲しみを経験した者は自分だけではないことに、ようやく彼女はは気づいた。
(日蓮宗尾張伝道センターのウェブページで紹介されている法話を要約)
そして、そういう他者との関わり(と、その関わりから得られる新たな気づき)が、喪失からの立ち直りの作業=喪の作業(グリーフ・ワーク)ということなのだろうとも、思います。
(上掲の法話で、キサースゴータミにとって、ケシの実を求めて町の家々を訪ねて歩いたことは、実は、お釈迦さまが彼女に与えた立ち直りのための喪の作業(グリーフ・ワーク)だったのではないかと、評論子は思います)
ちょうど、マウスピースからトランペットに吹き込まれた息は、最初は単なる共鳴音として抜差管の壁面に何度も反響しながらその中を進み、最後にはベル(開口部)から、初めて「音色」として、空間(この世の中)に放出されるように、他者との人間関係に何度も反響し、あるいは反響されたりしているうちに、最後の最後には、気づきを得た「新たな自分」として、喪の作業(グリーフ・ワーク)から開放される―。
これを本作になぞらえて言えば、そのトランペットのベル(開口部=放出口)に当たるものが、言ってみれば、本作の「風の電話」なのだろうと思います。
(風の電話のようなものだけを作ってみても、その前段に当たる抜差管の中での反響のプロセスが欠落していれば、グリーフ・ワーク(喪の作業)としては、体(てい)をなさないのだろうとも思います)
不幸な震災で、父を母を、そしてたった二人の兄弟だった弟まで失ってしまった春香でしたけれども。
やはり、同じような痛手(悲哀、喪失)を経験している公平や森尾との出会いを通じて、その痛手から立ち直っていく姿が、心には何とも温かい一本でもありました。
そして、じっくりとそういうプロセスを経た最後の最後に、思いの丈(心情)を素直に吐露(とろ)することで、人は悲哀や喪失から立ち直ることができるのでしょう。
その意味で、本作の「風の電話」は、そういう喪の作業(グリーフ・ワーク)の終端としての意味づけがあったのだろうとも思います。
評論子には、充分な佳作だったと評したいとも思う一本でした。
(追記)
上記のとおり、本作は、春香といろいろな境遇の人々との出会いがエッセンスになっている訳ですけれども。
しかし、最初の妊婦さんとの出会いは、春香にとっては、小さくはなかったのではないかと、評論子は思います。
(被災して)何らかの傷を心に受けている人々との出会いが、春香にとっては喪の作業(グリーフ・ワーク)」としては太宗を占めることは疑いがないのですけれども。
しかし、いちばん最初の出会いでもあり、(被災して)何らかの傷を心に受けている人々とは全く異質の立場であって…。
促されて彼女のお腹に触れた春香は、「命の胎動」をリアルに感じ取っだろうことは、疑いのないことでしょう。
そのことは、後の春香にとっても、決して小さな体験ではなかったことと思いました。
否、最初に妊婦さんとの出会いを配置した本作は、構成的には優れていたとも、評論子は思いました。
(追記)
それにしても、本作の登場人物は、食べること、食べること―本当によく食べていました。
考えてみれば、食べることは、とりも直さす、そのままイコールで「生存に必要な栄養素を経口摂取すること」。
これ、すなわち「生きること」「生き延びること」を具象する所為と、評論子は受け取りました。
やはり亡くなった者を思い出し、偲ぶことができるのは、生き残った者にしかできないこと。
(誰のものであったかは失念しましたけれども。本作中にも、そんなようなセリフがあったことと記憶します)
そして。生きている以上は、ちゃんと食べなければならないとも、改めて思い直しました。
その点でも、評論子には、印象に残る一本でした。
それぞれで感じてみて
水のような映画
とかく此の手の映画はあまりメジャーではない俳優さんが出演しているイメージですが 「風の電話」に限っては 豪華メンバーです。
映画の題材はストレートな自己再生の旅。観る人それぞれが それなりに共感する。
しかしながら この映画の狙いは違う!そんなテイストを取り入れながら 序盤戦からかなりの力業で引き込んでいく。
ドキュメンタリーなのか巧妙な演出なのか かったるいストーリーなのか 物凄いオチがあるのか...どこにも針を振らずとも 取り合えずみせられてしまう。
何処かで見たようなシーンの中に淡々としているが故 役者は深いところでの演技に全力投球しているように感じました。
観てしまう...なんだか観てしまう。が続く映画。
残念なのは終盤戦からラスト。リアリティーの暴走。真のリアルを演者に求めてはいけない。
どんな映画でもオチだけはしっかり考えないとエンターテイメントとは言えない。
痛み、悲しみの普遍性
特別なものは何もない。会話は平々凡々とした感情の交換に終始しているし、西日本から東京を目指すというロードムービー的動線に迂回路はほとんどない。どこにでもいる人々、どこにでもある映画。しかし本作はそうした「どこにでもあること」、すなわち交換可能性を突き詰めた果てに普遍性を打ち立てようとしている。
劇中ではしきりにものごとの交換可能性が強調される。たとえば冒頭、主人公のハルは土砂災害に見舞われた山奥の村落に迷い込む。滅茶苦茶に破壊された家屋と、途方に暮れる少女。その光景は3.11の惨状を強く惹起させる。あるいはクルド人家族との出会い。帰ろうにも帰る故郷がないという理由から日本での窮屈な生活に耐え続ける彼らの姿は、家族と故郷を失い遠い街で細々と暮らすハルの憂鬱と強く共鳴する。あるいはハルを見て死んだ娘のことを思い出し、泣き崩れる母親。
時空を超越して個々の体験が重なり合う。「震災」「原発」といった固有名詞が有する良くも悪くも強烈なイメージは徐々に相対化されていき、そこに通奏低音として流れている痛みや悲しみといった不可視の感情が前景化してくる。2時間20分という長尺、全編にわたる長回しの多さは、その繊細な変化の過程を捉えるための必然性であるように感じた。
津波に飲まれた両親と弟に「風の電話」から電話をかけるハル。彼女の言葉は素朴で拙い。悲しい、なんで、待ってて。しかしそこには普遍性がある。彼女の痛みや悲しみは、誰もが抱くことのできるものだ。だからこそ彼女の言葉の素朴さ、拙さがかえって沁みる。
痛みや悲しみは特権化されやすいものであるように思う。当事者が「お前にはわからない」と言い切ってしまえば、あるいは非当事者が「俺にはわかるはずがない」と諦めてしまえば、両者の間には埋めることのできない断絶が生じてしまう。しかし本当に「わからない」のだろうか?場所や時間といった外部構造を一つずつ丁寧に外していけば、そこには案外似たような痛みや苦しみが横たわっているのではないか。
東日本大震災はあまりにも強烈なできごとだった。しかし誤解を恐れずに言えば、その強烈さゆえに「当事者だけが語りうるもの」として不健全にタブー化されている節がある。本作はその凝固した「震災」観を長い時間をかけて徐々に融解させ、そこにある普遍的な人間感情を掬い上げることに成功している。説教臭い感じがまったくないのが本当にすごい。
演技は良いが演出が下手
🎥有り、触れた、未来の後に、たまたま同テーマの本作品。監督の差が如実に出てしまった‼️辛いことを辛い、不安を不安と語らせたり描いたりすると観客は同調できない。オープニングのこれは震災の関連した内容の映画だと言うモノローグも不要。🎥有り、触れた、未来は一切舞台を最後の最後まで語らない。演出がまだらっこしくて見てられない❗モトーラはそのまだらっこしい演出の中でも存在感があった。演出に影響を受けないベテラン、三浦友和、西島秀俊、西田敏行が良かった‼️中途半端なドキュメンタリズムは意味不明。クルド問題がなぜ出てくるのか・・・。ロードムービーなのか・・。これも意味不明。広島発の北へのロードムービーは🎦ドライブ・マイ・カーを想起させたが本作品の方が先であった。それにしても震災とその被災地を表に出し過ぎ。その当事者はこれを見れるか?あとではなく先に見ていたらもう少しいい評価にしただろうか。
一言「人は1人じゃ笑えないんだよね」。
重たいロードムービー
8歳の時、3.11の津波で家族、友人を失い、広島の叔母に引き取られるも、高校生になった今もなお寂しさとトラウマを抱えて生気を失ったかに見える寡黙な少女春香、叔母の入院をきっかけに放浪の旅にでる・・。
いつしか故郷の大槌町に向かうのだが、辿りつけたのは善意の人々の助けがあってこそ、助けてくれる人たちもまた、心の傷を負った人たちが多い、金八先生の唄ではないが「人は悲しみが多い程~、人には優しく出来るのだから~♪」を地で行くような人ばかり・・。
主人公が新人だから脇はベテランが固めているが友和さん西島さんは主人公に優しく寄り添う抑えた演技が光っています、福島出身の西田さんは全面アドリブ、地のままのような福島弁丸出しで美声まで聞かせてくれました。
復興の現実、震災の被害者や難民に対しての応じ方に物申すシーンもありましたが総じてメッセージ性より悲運の少女に寄り添うことが主題だったのでしょう。
諏訪監督は震災直後では撮れなかったと語っていましたが、ニュースで遺族にインタービューするような破廉恥な真似はできなかったと言うことでしょう、時が経って風化してしまう前に今一度、地震や火山の国、日本に暮らすと言うリスク、束の間の平穏であることの尊さ、家族を想うことの意義を問いかけたかったのでしょう。個人的には震災後の高校野球大会での「生かされている命に感謝し・・・」の選手宣誓が心に残りました。
陸前高田市で震災遺児や孤児の支援活動をしている「あしなが育英会東北事務所」の西田正弘さんは東日本大震災では多くの人が突然亡くなってしまい遺族側に「ちゃんとお別れしてない」という心残りの意識が高いと語っていました、「風の電話」でお別れを言うことは心の区切り目に役立っているのかも知れませんね。
本作を正視するのが生き残った者の義務のような使命感もよぎり耐えましたが、正直、2時間を超える長帳場、重たいロードムービーでした。
ありがとう
3.11 忘れられない数字。原発 津波の被害を残した大地震。私たちの住んでいる所も大きな被害を受けた。海がないので津波は無かったが家の屋根の瓦は落ちて家の中も壊れて相当な被害を受けて大変だった。
主人公のハルは震災によって両親と弟を失った空っぽな心の叫び…… どうしたら 埋めることができる
色んな人と出会い ただ ありがとう という言葉しか発しないハルだけど思っていることがわかる。
風の電話
大切な人を失った悲しみを
誰にも言えず 風の電話で 想いを言った
心の叫びを話すことができた
いつも涙目で虚ろな顔だったが亡くなった家族に会う時は自分がおばあちゃんになった時。それまでは生きると
ハルと同じ境遇の人達はたくさん居ると思います。残された人が亡くなった人をどのように偲んで生きていくかそれぞれの想いをもって。
亡くなった人と話ができる電話
主人公(モトーラ世理奈)は3.11で両親と弟を亡くし、広島の叔母に引き取られていた。
その叔母が倒れ、一人ぼっちになってしまう恐怖から、故郷の岩手に行くことに。
途中で原発作業員をしている男(西島秀俊)に拾われ、車で向かうことに。
ロードムービーなので、色んな人達と出会うエピソードが興味深い。
「家族を思い出す人がいなくなるので死んじゃだめ」
人の苦しみや悲しみに寄り添いたい、そう、深く感じました‼️
で?
これはコロナ禍がなくても、おそらく映画館では観ない。
デリケートなテーマで、
訳知り顔で軽々しく扱われても不快になるだけだから。
そして、案の定そうなった。
終始、陰鬱。
おそらく魅力的な娘なのだろうが、
ヒロインの表情だけで心が暗くなる。
星一つ出ていない夜に暗闇を描かれてもよく見えない。
闇に朧気でも光があればこそ、それがくっきりと浮かび上がる。
制作者は何を描きたかったのか。
津波に、原発に、土砂災害、さらにはクルド人まで、
盛りだくさんで散漫になっている。
タイトルの風の電話はおまけ程度にちょっと出てくるだけ。
ラストの電話シーン、
おそらくは最も盛り上がるべきところでウトウトしてしまった。
今リアルな自然の恐怖
震災
痛みを共有しよう。共に生きよう。
小学4年の時に津波で家を流され家族を喪い、一人生き残った少女が、8年後に故郷を訪れ家族に別れを告げ「生きるよ」と呟く物語。
立ち直ってもいない。吹っ切れてもいない。立ち上がるには程遠い。一人生き残ってしまった事の哀しさとか申し訳なさとか。家族に会いたい思いに捕らわれ、前に進めない少女。もう、ネガネガネガネガの一色ベタ塗り。最初の場面から「死んだ様に生きる少女」は濃淡無しの黒塗り一色心理。浅いとまでは言いませんが、多少の濃淡はあっても、内心描写に、ってのが、ものすごく気になってしまって。これも一種の過剰演出。いや、ネガ振り切りの過剰演出は苦手なもんで。
一緒に生活する叔母役の渡辺真起子さんをはじめとして、ロードムービーを彩る役者さん達の、長回し一本勝負の演技には拍手しか無いです。皆さん、素晴らしいと思いました。
トルコ国内のクルド人は弾圧と差別の対象となっており、メメットさんは実在の人物。でも、ぶっこみ過ぎだよ。これは個人的な意見ですけど、トルコ国籍クルド人の難民申請は「妥当」だと思います。でも、このエピソードはぶっ込み過ぎ。
個人的には「風の電話」を肯定的に考えています。必要だ、とも思わないけど。「誰かに会えない悲しさ」を打ち明ける場所、ってのもあるけど、「非業のうちに死んで行った者のつらさや恐怖感やら悲しさ」を、一時期だけでも共有する場所にもなってると思うから。
ちょっと話はそれますが。
「あやしいお米」事件が、メディアの下衆っぷりを教えてくれた2011年。正しい知識はそっちのけで、皆の不安を煽る、クソええ加減な報道を繰り返す体質は、今も続いとります。メディアが、福島・東北への偏見と差別を煽ったもんなぁ。未だに真に受けてる人、居るでしょ。可哀想に。
彼等に、復興を語る資格は無いと思う。
その前に、人ですらない。
思うんです。復興、復興ってうるさいけど。色んな立場にある方々が、色んな意見を言う時に、復興って言うけど。その前に私達、同じ日本人が最初にしなければならなかった事は痛みを共有する事だったんじゃないかと。あの時、政府もメディアも私達も、何をしてしまったのか、何をしなかったのか、考えなければならないでしょ、と思ってしまう映画でした。
痛みを共有し、共に前に進もう。
痛みの共有って言っても、一緒に泣くくらいしかできないと思いますけどね。ヒトは、二足歩行を行うにあたり、特別なスキルを要しません。ひとしきり泣いた後、立ち上がる事さえ手助けしてあげれば、歩き出せると思うんですよね。西島秀俊がしたみたいに。
微妙な感じの映画で、ほぼ泣けず。
普通だった。
少女春香の演出に、ちょっとだけ濃淡があれば、全く違う印象の映画になってたのに、と思いました。
不思議と巻き込まれていく
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