同時に上映された三作品の中では、本作品が最も映画らしかったが、演出が非常にユニークだ。舞台稽古みたいな、あるいは俳優のオーディションのような設定で、役は同じだが俳優が次々に入れ替わるという斬新な手法である。
菊池寛の「父帰る」は林家三平の落語にも登場するメジャーな文学作品で、本作品はその戯曲をほとんど踏まえていると言っていい。
人間の存在は、思い出や想定などで話に出てくる観念的な存在ならば、簡単に切って捨てることができるが、質量と体積を持った実物の人体として眼前にあると、なかなか無視はできないし、それなりの重みがある。人には情があるからだ。世間一般の父親という役割を果たしていなくても、父は父であるという時代でもあった。
親と書いてしたしむと読む。つまりは鳥と同じで、身近にいるから愛著が湧いただけの話なのだ。個体としての父ではなくて、普遍的な意味合いでの中年男だと思えば、情が湧くことはなかっただろう。その辺りが人間の切ない部分であるし、おそらく菊池寛は前向きに評価しているところでもあるだろう。
愛と憎しみは表裏一体である。愛も憎しみもなければ、それは無関心ということになる。愛の反対は無関心であるが、無関心が悪とは限らない。父親を他の男性と区別しないで同じように接することができるのは、愛著から脱却して悟りの境地に入った者だけだ。人間は愛著という苦しみから解放されず、いつまでも人間関係の中で苦しみ続けるのだ。菊池寛の戯曲の本当の意味はそこにある。
本作品は菊池寛の戯曲をほぼそのまま上演した作品で、菊池寛の深い世界観がその重さのままに迫ってくる。見ごたえのあるいい作品ではあるが、映画としての独自性や個性、主体性には欠けており、評価は微妙と言わざるを得ないだろう。ただ役者陣の演技はかなり洗練されていて、高く評価できると思う。