ジョーカーのレビュー・感想・評価
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寄りかかる物の無くなる狂気
まさに“全てを失った男”
精神的にやられていて、社会にも見向きもされない。切れ切れで生きていた彼に怒涛に訪れる悲劇。職を、信頼を、尊敬を、尊厳を、全てを失う。残ったのは狂気じみた自由。
アーサーが追い込まれている間も外ではサイレンがなってた。それがアーサーをジョーカーたらしめる孤独感や虐げられた個人に見向きもしない世界を体現しているようで切なくなった。世界観も完璧
ホアキン・フェニックスの演技が上手いこと上手いこと、どんどん引き込まれていった。
と、一度見た物の見返したのでレビューを。
ここにいるのに存在しない世界で
今にも果てそうな蛍光灯がチカチカする公衆トイレ
うずくまるアーサーの悲哀に満ちた目、額にうかぶ血管の蓄積した虚しさ
綺麗ごとを並べた壁の裏で排除されて蔑まれて
いつのまにかマグマのようなもう1人の自分を内包させた
しなやかで、強靭な肉体をうねらせて踊る時アーサーは
そのエネルギーがとてつもない方向にはみ出そうとしているのを必死に抑制しているように見えた
どうか、どうかこのまま自分の中にいて、と
自分の居場所を探したかっただけ
小さな喜びを噛み締めたかっただけ
僕は存在するのか。
届かない叫びは刃と化した
あの衝撃から何年経つのか
社会はどう変わっただろうか
彼はこの秋にまたやってくるという
ゴッサムシティー住みたくなさすぎ
暗いって評判だったから見てなかったけど、思ったより暗い気持ちにはならず。
主人公が開き直ってからカッコいいけどそれまでがそんなにだったな
ジョーカーに可哀想な過去はあんま求めてないかも
元ネタのキャラを知らずに鑑賞
ずっと狂ってる世界の中で優しく生きてた彼が、世界の真実に気づいてしまって狂気へ変貌して行く様が怖かったし辛かった。
後味がとてもとてもなんか複雑だったな。
多分、彼を取り巻く世界が誰も優しくなかったことに私も気付いたからかもしれない。
だってすごく優しい人だったじゃない、彼!
現実と妄想の境目がわからなくて混乱したのもあるかもしれん。
とりあえず悲しい気持ちで終わった。
続編で仲間ができる?みたい?なので、期待したい。
凄い作品だった
ようやくこの作品を見る気になった。
ただ、やはり、わからないほど難しかった。
外国人の思考には文化の違いや表現の違いがあり、全体的には難しいわけではないが、解釈しようとすると途端に詰まってしまう。
アーサーの幻想の多くはわかるのだが、わからなかった部分も多かった。
精神疾患的な作品は、精神疾患者の主観が描かれる。
その主観自体がそもそもわかりにくいのだから当然だ。
この手の作品には私の妄想は通用しないようだ。
さて、
悪の化身「ジョーカー」
バットマンの敵役の誕生秘話
精神障害者
この精神障害は、なぜもたらされたのだろう?
愛する母
彼女の話と助けを求める手紙
貧困と底辺で暮らす人々
真っ先に打ち切られる州の予算
生きる上で必要な支援から先に切られていく世の中
日増しに広がる格差
アメリカという国が慢性的に抱える問題の根幹
貧困
大富豪ウェインの屋敷で雇われていた母ペニーフレック
ウェインを信じ手紙を書き続けるのは支援が欲しいから。
しかし返事など来たことはない。
主人公アーサーは、古いアパートに母と住み、ピエロで稼ぐわずかな収入で生計を立てている。
アーサーは人前で大きな声で笑ってしまうという障害を持っていた。
だから「私の笑いは病気によるものです」と書いたカードを持ち歩く。
彼は自分の病気や境遇をすべて母から教えられてきた。
しかし、母の話は全てでたらめで、彼女自信が精神疾患を患っており、強力な妄想の世界に囚われていることがわかる。
「ボクの人生は悲劇だと思っていた。でも、ボクの人生は喜劇だった」
アーサーの病気
社会から受ける冷遇
しかし、まさか愛する母親の話のすべてがでたらめだったとは…
母はそういう病気だということを、アーサーが受け入れることはできなかった。
結果がそうであった以上のことは何もない。
断罪 悲劇の根幹であり喜劇への目覚め
アーサーの精神障害は、母の恋人による虐待とネグレクトから起きたのだろう。
母の黙認 自分を責める代わりにした逃避 これが彼女の精神異常の根源
彼女の都合のいいように現実を作り上げるしかなかった。
さて、
同じアパートに住む女性ソフィ
彼女の役割は何だったのか?
ここらあたりが邦画と洋画の難しさの違いが出るところだろう。
私にはわからなかったので調べたところ、アーサーが抱いたほのかなロマンス、その幻想が描かれていたようだ。
アーサーの中の現実と妄想 これがこの作品のカギとなる。
アーサーが限界に達した時、勝手にソフィの部屋に侵入する。驚いたソフィは戻るように促す。つまり同じアパート以上に知り合うことなどなかったということらしい。
つまりアーサーには幻想世界がある。
TV番組に出演するシーン、その他いくつもの彼の幻想が描かれている。
マレーのショウ番組で彼を撃ったアーサー
逮捕され警察車両に乗せられるとき、町で暴動が起きている。
この暴動自体はニュースでもあるように「現実」だ。
しかし、パトカーに救急車が突っ込み、ピエロがアーサーを救出、彼はダークヒーローに祭り立てられるシーンは、彼による妄想だ。
アーサーもまた母と同じように、現実から逃れる妄想をすることで自分自身の精神状態を保っている。そうせずにはいられない。
最後に彼の言った「面白いジョークを考えついたんだ」とは、バットマンへとつながるのだろう。
この作品のような洋画は本当に解釈が難しい。
些細なニュアンスの違いを読み取る必要があるのだが、言語と文化の違いが難しくする。
最後は気になった部分について調べる必要がある。
しかし、
アーサーの起こした事件の背後にあった彼の思いに暴動が起きたという事実がある。
「ボクは存在しないものだと思っていた」にもかかわらず、自分にできた大きなこと。
不満
この社会に対する不公平感
この思いを持つ者の数の方が、アメリカ社会では圧倒的に多い。
アーサーはそれに気が付いたのだろう。
だから、底辺にいない「カウンセラー」には「理解できない」「ジョークを思いついた」
彼の思いついた「心の叫び」は、同調する不満を抱えた人を動かす大きな原動力となるのだろう。
これこそが「悪の力」だ。
アメリカ人含め世界中の人々の本音を表現した作品。
すごかった。
狂気に入る。空気が震える。
公開されて5年か…
当時も思ったけど
ホアキン・フェニックス
彼の演技は凄いなと。
道化師 ー
当初 彼の目標は純粋だった。
しかし報われない環境に
次第に崩れ去り闇の中へ
心も体も怒りに震える。
ホアキン・フェニックス
とにかく彼の演技だ。
※
暗くて哀しいけど美しい映像
バットマンシリーズはほぼ知らないので
「ジョーカー」の前知識がないまま観ました
ホアキン・フェニックスの演技と
緻密な構図で撮られた映像によって
暗くて荒んでいるのにやたらかっこいい。
シングルマザーのソフィーとのシーンは
(これはアーサーの妄想かな…)と気づいたけれど
あとは境界がわからなかったな?
ホアキン・フェニックスの哀しい笑い声が
脳に焼き付いてしまう。
マイノリティにも「生きやすい」社会
<映画のことば>
世間の目だ。
こう訴えてくる。
心の病などない。
普通の人のようにしていろ、と。
精神を病んでいるアーサー。
それゆえに、精神的に不安定になると、彼は不随意に(意図せずに)笑い出してしまうという。
「障害」というよりは、ある種の「病的な発作」と捉えるべきなのかも知れません。
服薬によって抑えられる症状なのかも知れませんけれども。
しかし、母との二人暮らしをしながら、カウンセリングを受けているが(今は)病院に
はかかっていない様子なのは、経済的な理由もあってのことと思います。
そんな生い立ちからか、コメディアン志望の彼。
首尾よく人気コメデイ番組の司会者に才能を見いだされ、ステージに上げてもらえて、望んでいたコメディアンの途が拓(ひら)けたものの、ネタづくりが、考えていたよりも、ずっとずっと重たいものだった。
そこへ、小児科病棟での賑やかしの仕事中の思わぬミスから、プロモーターからは解雇の憂き目に。
追い討ちをかけるように、地下鉄車内でのタチの良くない連中とのトラブル。
そういう不幸の積み重なりがが、彼を社会から疎外していってしまったよう。
「こんなに爪(つま)弾きにされるんなら、誰でも変わってしまうわなぁ」というのが、評論子の偽らざる想い。
結局、アーサーは、最後には拳銃の威力に自らの存在を託すまでになってしまう-。
清掃人組合のストライキで、生活環境が悪化しつつあったという世相が、周囲の人々の感情を、いよいよ刺々しいものにしていたのでしょうか。
そのプロセスには、本当に胸の痛む思いがします。
たとえ世間一般とは違った習慣・価値観の持ち主であっても、それが社会一般を害するものでない限り、それは個性として尊重されて、疎外されないような社会になったとすれば、それは、どんなに素敵な「生きやすい」社会であることでしょうか。
「人は生まれながらにして自由かつ平等であり、差別は、ただ公共の利益のためにのみ設けられる。」と高らかに謳いあげたのはフランス人権宣言(人および市民の権利に関する宣言)ですけれども。
その基本的人権尊重主義の考え方は、「差別」というフレーズを「社会からの疎外」と置き換えれば、そのまま本作にも通用するように思います。評論子は。
そして、基本的人権の保障は、常に社会的なマイノリティのためのものであることも、鮮やかに描き出していたとも思います。
民主主義・人権主義といわれる現代の日本社会に住まって、「基本的人権の尊重」とは、やや手垢(あか)に古された常套句のようにも受け取られ勝ちですけれども。
しかし、その意味合いをもう一度だけ問い直してみるためには、決して出来の悪い作品ではなかったと思います。
自身への自戒も込めて、佳作と評しておきたいと思います。評論子は
(追記)
「楽しいから笑うのではない。 笑うから楽しいのだ」というのはウィリアム・ジェームズ(アメリカの哲学者・心理学者)の言葉だそうですけれども。
しかし、言ってみれば「笑えば笑うほど不幸に落ち込んでゆく」とでも形容すべき本作のアーサーを姿を観ていると、胸の痛さに、いたたまれません。
「救貧」「防貧」というのは、社会政策として修正資本主義国家が果たすべき仕事のはずなのですけれども。
勝本勘三郎(1867-1923)という人は、検察官のご出身で、後に犯罪の法を研究する刑法学者に転じた方ですが、国家が救貧・防貧のための施策をなおざりにしながら、その一方で(多くが貧困から生み出される)犯罪者だけを厳しく処罰することは、あたかも国家が犯罪という落とし穴を仕掛けておいて、たまたまその落とし穴に陥ってしまった者を犯罪者として取り分けて厳しく処罰するようなもので「惨も惨、酷も酷、これに過ぎたるはなし」と嘆いた気持ちが、評論子には、分かるように思います。
(追記)
本当の末筆ながら、お断りしておきます。
評論子は、この系統(DC、アメコミ)の作品も、ほとんど観ていませんし、バットマンシリーズをほとんど(まったく?)観ていません(今を去ること、おおよそ半世紀前に、30分枠のテレビシリーズで放送されたバットマンは視ている。)
したがって、本作と他のシリーズ作との関連性ということでは、いささか的外れなコメントなのかも知れませんけれども。
あくまでも、純粋に単品の映画作品としての本作のレビューであることを、ご理解いただきたいと思います。
間口を広げたタクシードライバー
バッドマンの敵役だとは何も知らず鑑賞。
最高。普段は忘れないようにシーンを書くがそれもいらない。
「タクシードライバー」は感想が二分する(おそらく)意味不明か共感で。
それよりも広い、反面教師ににすればそれまでだし、母を殺した理由を探せばそういう映画だし、バッドマンの裏側と感じればそうなる。街のうっぷん劣等感不平等。人生の捉え方万能感認められたい思い愛。病気への理解、認知、理解者。孤独。
別に通ぶるわけじゃないが、刺さらない人には刺さらなくてイイお話。
ただこの「どうしようもない思い」ってのは昔から俺だけじゃなく、お前だけじゃなく、少なからず「在る」って事が自分にとっては安心する。元気を貰える。
ただ様々な多様性にも合わせた現代で間口を広げることは自然かもしれないが個人的には、もっと物語をしぼってもよかったと思い4.5
悲しいよ、めちゃくちゃ哀しい。
どこまでが現実で、どこまでが妄想か分からなくなる。 おかげで観てい...
どこまでが現実で、どこまでが妄想か分からなくなる。
おかげで観ていて何度も鳥肌がたった…
近隣に住む女性とのやりとりは見るたびにぞわっとする。
一番好きなのは階段のシーン。
何度も暗く重い足取りで登っていたあの階段を
スポットライトが当たっているかのように
軽い足取りで踊りながら降りてくるジョーカーが本当にかっこよく見える。
アメリカであれだけ罪を重ねたら懲役何年になるんだろう?
人生に最低なんかなかった
さらに底がある…
終始暗い雰囲気で陰惨な事が起こってる中で
病院に日が差し込む美しい画があの場面に表現されるってのが
恐ろしい映画だなぁと思う。
一人殺せば悪党で、 百万人だと英雄だ。 数が殺人を正当化する。
チャップリンの言葉を思い出しました
いわゆる社会的弱者が家族にも友人にも恵まれなかった末路を観ているみたい
誰にも見向きもされなかった男が銃1つで沢山の人に注目される快感の演技がすごかった
喜劇
自分も家庭環境が酷く、躁鬱を患っていて、才能を認められないとジョーカーには親近感が湧く側の人間としての評価であることが前提にある。
とはいえ、それはあくまで「他者が自分のことを見たら」鬱屈として無敵の人になるのかならないのか……どっちなんだい! といったように見えるというだけであって、自分自身は楽天的だし、自身の人生にとって有害な親や親族は全て縁は切っている。才能は世間に認められてはいないが、この世界は「楽しんだらクリア」というスーパーマリオの1-1よりも簡単なゲーム内容なので、あまり成功や金銭に執着は無い。曲を作ってゲームを作って絵を描いて……友達と遊んで。それだけで十分幸福だと言えるからだ
だからどれだけ屈折し、追い込まれ、そうするしかなくなったとしても、自分はジョーカーのようにはならないと確信している。その上で、きっと人生においてあまりに辛すぎる経験の数々によって麻痺した心がマトモに機能していたのなら、ジョーカーが自分の心に溜まった怒りや憎しみの澱を浄化してくれたようにも思えた。したくても理性によって留めていた拙いルサンチマンを、自分の代わりに解放してくれる快感、カタルシスを覚えただろうな。と素直に思ったのも事実だ
ジョーカーは去年の秋くらいに見たんだけどレビューできずにいたのは親の自殺未遂が何度もあって、縁は切っていても警察やら病院から呼び出されるので忙しく、その関係で金銭的にも時間にも余裕が持てなかった為である。それはまぁどうでもいい。誰が死のうが生きようが関係のない話だし、自分にとって人生のあらゆる判断基準は「楽しいか楽しくないか」の二点のみであるので、親が自殺未遂で病院に運ばれ駆けつけた時も
「楽しくないことに時間使わされて不快だなぁ」
という事だけを考えていた。それが毎月の様にあれば尚更だ。さっさと死んでくれたら楽だけども、葬式やらが面倒だし死んだら死んだでダルいなぁ、と。そのくらいにはもう無頓着である。無頓着であるが故に、きっとこうして楽しく生きられているのだろう。
なのでジョーカーのような道を歩むことはないと言えるのだけれど、それとは別として私は頭がよくない人が嫌いだから、例えば元日の震災でデマを流したり、人工地震がどうのと騒ぎ立てている人間を見て「こいつら死なないかなぁ」とぼんやり思っていた。陰謀論を信じようが信じまいがその人の勝手だけれど、今必要なのは被災者の無事を祈り、被災者にとって有益で確実と言える情報を拡散することだ。陰謀論の考察はその後にいくらでもしたらいい。
彼らは真実に気づいていると言う。このままでは日本が危ない!と。日本の為に、人の為に、救ってやりたいから真実を拡散しようという感情が彼らを突き動かしているのだろう。だって他人などどうでもよければ、真実を拡散などせず頭の悪い人間が陰謀に殺されるのを待っていればいいだけなのだから。
けれどそれでも真実とやらを拡散させるのは「自分は他の人が気づかないことに気づくことが出来る特別な人間だ」と信じ悦に浸りたいからか、「陰謀で被害を負う同族を見捨てられない」という正義心かのどちらかでしかないからだ。
彼らは後者だと言うだろう。だがその時点でもう彼らは破綻しているのである。だって、同族が苦しんでいる時に投げかけてやる言葉が応援でも心配でも、有意義な生活の知恵でも要救助者の情報拡散でもなく、人工地震がどうやって起きるかを説くことだけ。彼らは一体何を守りたくて真実を訴えているのだろうか。
同族を守りたくて真実を訴えているはずなのに、そのことに夢中になりすぎて、目の前で苦しんでいる同族を無視するどころか不安を煽るような情報ばかり拡散させて苦しめている。一体彼らは何と戦い、何を守ろうと必死になっているのだろうか。
政治批判をずっと繰り返し、著名人の誹謗中傷を繰り返し、確定してもいないゴシップの情報を鵜呑みにして誰が悪いだのと宣う。
私は、この人生をあらかた楽しんだあとは、こういう人間たちを片っ端から殺して回ったあとに死ぬのも悪くないかもな、と危険極まりない考えも度々よぎるのである。
別に人間がよりよい社会を!とか。
人間が地球の癌だから全生物の為に!とか。
崇高な目的などがある訳でもないし、優生思想など微塵も興味はない。もちろん人を殺して平気なんだ俺は、心がないからね。……なんて厨二病のようなことを言うつもりもなく、怒りで我を忘れようが人を殺すなんて出来るはずもない小心者である事は自覚している。
だけど、この世界に生まれた以上「楽しむ」以外に出来ることなどなく。
この世界に生まれたことでしかできない……美しい景色を見て、音を聴いて、味わって。あらゆる経験がこの世界を遊び尽くす、ということなのであれば「殺す」という経験も、折角生まれたのだから楽しんでおかなければもったいないと思うのだ。
いや、楽しくなんかはないだろう。主観的な視点で言うなら。私は誰かが喜んでいるのを見ている時が一番幸せだし、傷ついたら何とか助けてあげたいと、ボランティアに参加したり、3.11の時も溜めていたお小遣いを全額募金したりだってしてきた。優しい気持ちはちゃんとまだ残っているはずだ。
そんな気持ちを持ちながら「頭が悪く性根の腐った人間を皆殺しにしたい」と思うことははたして矛盾しているのだろうか。倫理を大切にしながら、知的好奇心の為に倫理を破り捨てることは人間にとって自然なことだと思う。
みんな、私が頭がイカれてると思うかもしれない、という思慮はきちんとある。至って正常な判断能力を有しているから。理解される必要はないし、されたいと思ってる訳では無いけれど、時々無性に寂しさを覚えるのもまた事実だ。
陰謀論者についていきなり批判したり、どうでもいい身の上話をしたり、情緒不安定に写るだろうけど、要はそれら全て引っ括めて「ジョーカーという映画のレビュー」だ、という事だ。分かるだろうか
私はこういった気持ちを抱えながら……。いや、抱えるなんて悲愴なものではないか。抱いていることすら普段忘れてしまうくらい誰かの笑顔の為に楽しく暮らしているが、心にはずっとそんな濁って澄み切った感情の澱が溜まっている
そんな全てを「俯瞰して見りゃ喜劇だから」と、私は私の感情や人生の全てを笑っている。私はずっと前から、自分の人生を喜劇として見ることが出来ているから、ジョーカーを見ても無敵の人になるようなことはないと思えたし、これが社会に悪影響を及ぼすようなものでは無いとも断言出来る。これを見たくらいで行動に起こせる人間は、鬱屈した負の感情を溜め込んだって人を殺すことすらできないような、何も成すことのできない不良品ではない
皆が皆、私のように見境なく幸福を貪る獣ではないのだから
さよなら、アーサー
「子供を連れて来ないで」という異例のコメントを出した映画チェーンもあった。日米同時公開の今日、NYの劇場は厳戒体制が敷かれたという。
ジョーカーは悪意の震源である。彼のエネルギーが大きければ大きいほど、破壊の衝動の拡散は凄まじい。
自分たちの足元が崩壊するのではないか、という恐怖が映画の公開に警戒心を抱かせるのだろう。
逆に言えば、それくらい「ジョーカー」は注目され、多くの人が観る映画だということだ。
後にジョーカーとなるのは、ピエロの仕事をしている痩せぎすの青年・アーサー。彼はストレスがかかると笑いの発作が起きる。
哀しい笑い、苦しみの笑い。笑うべきじゃないのに、抑えてもこぼれ続ける哄笑に感情を引き裂かれる。
アーサーは、元々ジョーカーだった。
自分ではどうにもならない不具合を抱え、病気の母親を抱え、仕事は上手くいかずボロボロになりながら家へと続く階段を昇っていく。
ハッピーな笑顔を張りつけ、良い人間・アーサーでいるために、階段を昇る。
帰路にある階段は人の「高潔さ・善良さ」のメタファーなのだろう。どんなに最低な状況でも、階段を昇れば自分を「善」の世界に繋ぎ止めてくれている人がいる。
それを支えに、アーサーでいたいと努力する。
しかし、悲しいことに自分を支えていたものは一つ、また一つと崩れていく。「ここが底辺」だと思っていた、その更に下へと突き落とされる。
そして、滑稽なことに自分がハッピーとは程遠いと思っていたモノこそが、暗い喜びであることに気づいてしまう。
機会さえ与えられなかったら、アーサーのままでいられたかもしれない。積み重なった様々な要因が、一歩ずつ着実にジョーカーを呼び起こしてしまった。
人に笑いを届けたかった。本当に?
銃なんてハッピーじゃない。本当に?
もはや、アーサーでいたかったのかどうかすらわからない。開放されたジョーカーは、踊りながら階段を降りていく。
一歩、階段を降りる度にアーサーの欠片が落ちていく。ジョーカーの赤いスーツから。
高潔さなんてどうでもいい。もう、自分を偽るのはやめたんだ。
全編を通して、アーサー役のホアキン・フェニックスを観る映画だ。不協和音としか表現できない笑いと、メイクの下に張りついた哀しみ。
人に受け入れてもらおうとしては無視され、仮面をかなぐり捨てたら祭り上げられる不条理さ。
好演?怪演?むしろ「憑依」と言った方がしっくり来る。
ホアキン・フェニックスなくして「ジョーカー」は成立しない、完璧なピースだ。
好意を持ってもらおうと、ハッピーな表情をするのは私たちも同じだ。その「ハッピー」が本物になることを、切に願う。
最後に。さよなら、アーサー。
この3.5はホアキン・フェニックスの鬼才に捧ぐ
全く共感できなかったのはホアキン・フェニックスの大胆かつ奇妙な演技のせいか、私が幸せな人間だからなのか…。共感は出来ないけどアーサーの感情はきっと間違いではないと思うから、最後にはあの道化くさい笑いではなく心から笑えていてよかったと思う。
これが人生。嘘みたいだけど、夢を踏みつけて小躍りする人もいる。
ジョーカーがなぜいい人から悪になったのかその真相がわかる映画でもありました。
ジョーカーが悪になる前の人間としての生活をしていた姿が明かされました。
まず。いい人でもあり性格が優しくて。気難しい人でもあったのに
そんな彼がなぜ悪みたいな人物になったのかがすごくわかりました。
てか理解するぐらいにわかってしまったことが
正直驚くようにびっくりしかありませんでした。
ジョーカーの本名がアーサーという名前でしたアーサーの職業がピエロでもあり
母親のためにも稼がなきゃいけない時期でもあり
凄く困難と精神に病んでいた人でもありました。
特に笑いが止まらなくなる時があり必ず笑ってしまうと収まらない症状でもありました。
それを治したいからこそ精神病院に通いながら過ごしていたのかもしれません
そしてアーサー事態が自分の本当の悪を生み出す存在になった人とか
職場も失って
どれだけの苦しみを味わってきたのかもそこでわかるようになります。
そんな人間の内なる憎みとか悪意がいつしか犯罪を犯してしまう人間になるのかも知れません。
そんな人間が一番怖いと僕は感じてしまいましたね
なぜ人間が怖いのかといいますと
人間には心も体も優しくて幸せになりたいという夢があるのに
その幸せを邪魔したり
幸せを奪ったり
夢が夢じゃなくなるほど
悪意が広がるという存在でもあり
そんな人間がいつしか恐ろしくなるという恐怖でもあることを
この映画では知らせたいと感じました。
特にアーサーが悪になるきっかけもそのことがあったからではないかと思いますし
悪に染まった人間はいつしか取り戻せなくなる存在でもあり
幸せではいられない状況でもあるので
人間が人間じゃない何者かのモンスターになるという存在でもあります
例えば人格が適合して新しい何者かが生まれる場合でもあるし
その人格がいつしか犯罪を犯してしまうきっかけにもなるかと感じます。
それぐらいに犯罪は犯してはいけないし
幸せな街にはいつしか犯罪の世界に陥る場所でもあるので
世の中が変わらなければこの世界も変わらないと僕は感じました
なのでこの映画を見て僕が思ったことが
犯罪をなくすためにはどうしたらいいのか
どうすれば犯罪がなくせる世界になるのか
それを思いながら見ていたのと
ジョーカー誕生の秘話が明かされたとき
人々は悪の組織とも呼ばれるジョーカーに
支配されるのであろうかと僕は思いました。
それがいつしかバットマンに倒される日が来るのが
訪れるということは
僕もすぐにわかりましたね
それぐらいにこの作品のキーパーソンでもある
ジョーカーの正体が知れて
よかったと感じました!
悪のカリスマ誕生の衝撃!
これはすでにアメコミ映画ではなく、今まで見てきたバットマンシリーズのジョーカーとは異質であります。結末に衝撃を受けるか。完璧な悪役ジョーカーの誕生に陶酔してしまうのか。い、いやこれは非常に危険な結末とも言えますね。
悪のヒーローが誕生したのである。現実社会でも、ジョーカーは受け入れられ、誰にでもなれる可能性をも秘めている。社会から認められられず苦しみ、格差社会を恨む人たちにとってジョーカーはカリスマとなり教祖に成りえるかもしれない。正直、映画の後半は現実なのか空想の世界なのかが混乱して分からなくなりました。それほどまでに、この映画が訴えるメッセージが現実社会と重なってしまい衝撃的なのです。
これまでもジョーカーを描いてきた作品はたくさんありました。でもそこには正義のカリスマであるバットマンが存在して、均衡が取れていたのです。あの『ダークナイト』でヒース・レジャーが見事に演じたジョーカーですら、最後はバットマンに倒されるのです。でも、本作は、心優しい男が悪へと堕ちていき、悪のカリスマとなっていく過程のみ描かれています。そこに正義は全くなく正義を抹消してしまったようです。
映画は冒頭からラストまで、ずーーっとうす暗く、もの苦しく、何かどっしりとした重い感覚が付きまといます。アーサーへの仕打ちの数々が本当にひどすぎて目を背けてしまいたいくらい。重い感覚にプラスして、頻繁に発せられるアーサーの笑い声は、観終わった後も聞こえてくるほど印象的です。そしてアーサーのダンスも印象的でした。
そのアーサー&ジョーカーを演じるのは、ホアキン・フェニックスです。役作りのために約24キロの減量をしたその姿は、劇中で背中が写るシーンで見せる痩せ方は異常なほど。ヒース・レジャーもそうでしたが、何かジョーカーを演じるには命を懸ける宿命があるように思えてなりません。それほどジョーカーを演じるのは大変ですが、そこまで自身を追い込むべき魅力があるんでしょう。本作はまさに、度肝を抜くホアキン・フェニックスの狂気的な演技に尽きます。
唯一この映画で救われたのは、バットマンの誕生を一瞬でも描いてくれていたことでしょう。あぁ、このままゴッサム・シティは悪の街になり果てるのか…。と思った瞬間に1つの光も誕生してくれたのです!
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