「これからの正義の話をしよう(喜劇と悲劇は抱き合わせ)」ジョーカー pipiさんの映画レビュー(感想・評価)
これからの正義の話をしよう(喜劇と悲劇は抱き合わせ)
最初にネタバレしておく。
だから、まだ未視聴の人は、この先を読むのは鑑賞後にして欲しい。
最大のネタバレは、おそらく「この作品はDCバットマンのジョーカーとは関係がない」
という事だ。(監督自身が仄めかしているから本当だろう)
もちろん、そういう作品には見えないように作ってある。
いかにも「バットマンの名ヴィランであるジョーカーが、いかにして生まれたのか?その誕生秘話である」と「見せかける」ように構成されている。
だからすっかりそうだと信じて、そのまま鑑賞を終える人も多いのではなかろうか?
「woke」或いは「stay woke」と言えば「社会的に重要な事実や問題(とりわけ人種間の差別や平等に関するもの)を意識していたり、積極的に気にかけたりしている状態」を指す。
それは非常に価値ある事だと思うし、私自身そうありたいと思う。
しかし「woke culture」などの表現で使われる場合には少々ニュアンスが異ってくる。「本質を逸脱した過剰な正義感」として揶揄する意味合いが強まると感じる。
過剰過ぎる「言葉狩り」や古い時代の名作に対して「差別に抵触する不適切な描写」を理由に改変したり絶版としたりする事もその一つだし、昨今の「コロナ自粛警察」も「過剰な正義感」の悪しき発露だろう。
行き過ぎた正義は「人間誰しもが持つ弱さや愚かさ」への寛容さを奪ってしまう。「意見や見解の多様性」も失われ、実現不可能な理想的正義に縛られて、結局は他者を傷つける。
本作は「喜劇」という文化を抑圧&衰退させかねない「過剰な正義感」に対するフィリップス監督のアンチテーゼだ。
「コメディ映画を作り、それをひっくり返す」
「世界が正義と妄信するものをひっくり返す」
「喜劇に見えるものの視点をひっくり返す手法で悲劇を創作する」
この重要な任務を完遂してくれそうなキャラクターとして、ジョーカーに白羽の矢を立てたってわけだ。
「もしもDCのバットマンとジョーカーが実在すると仮定し、彼らのユニバースを「現実のノンフィクション」だ」とするならば、本作は「ジョーカーの事実に着想を得た、事実ベースのフィクション作品」だと捉えるのがわかりやすい。(少しもわかりやすくないか?(苦笑))
だから、オープニングにDCのロゴはない。エンドロールの全クレジットが終わってようやく申し訳程度に出るだけだ。
キャラクターは借りたが、本作のベースになっているのはアメコミではない。
ヴィクトル・ユーゴー原作の1928年サイレント映画「笑ふ男」が参照作品だ。
また「フレンチ・コネクション(71年)」「狼よさらば(74年)」「タクシードライバー(76年)」「キング・オブ・コメディ(82年)」のエッセンスを盛り込んでいる事は監督が明言している。
アーサーは言う。
「自分の人生は悲劇だと思っていた。 でも、今わかった。喜劇だってね」
これはチャップリンの言葉を踏まえてだろう。
劇中で流れる「モダンタイムス」は、マジョリティが正常でマイノリティが異常だとする価値観をひっくり返す。
「ジョーカー」も「正義と悪」「正常と異常」の価値観をひっくり返す事に、監督の情熱は傾注されているように思われる。
困ったのは、作品の一体どこからどこまでが「妄想」であるのか、監督が種明かししてくれない事だ。
50%という事はない。60%?80%?90%?
いや、もしかしたら99%すら「妄想」なのかもしれないのだ!
監督は「最後にアーカム州立病院の部屋で見せる、あのシーンだけが、彼が純粋に笑っている唯一の場面」だと述べている。
また、ロバート・デニーロ演じるマレーはアーサーに「オチはなんだ?」と何度も詰め寄る。つまり喜劇として作られているはずの「ジョーカー」という本作も「オチ」があるのだ、と仄めかしていると推測出来る。
この映画には「妄想シーン」である事を示唆する仕掛けが散りばめられている。
例えば
「作中の時計は常に11:11だ」
「利き手が変わる」
「機関が変わっても担当カウンセラーが同じ」
「地下鉄での発砲可能数が多すぎる」
などは明らかにハッキリとおかしい。
また、非常に気にかかるのが
「作中『アーサー』から『ジョーカー』に移る時、髪が『黒』から『緑』になるが、ラストシーンの人物は『髪は黒。凶行はジョーカー的』という矛盾を孕む点だ。
監督の言う通り「ラストシーンだけが本当の笑い」だというのならば、私達観客が「アーサーの現実」だと信じ込まされていたすべてのシーンすら「本当の主人公の妄想」という見方も可能なのだ!
(「アーサーの妄想オチ」とはまったく意味合いが違う!この映画の非常に秀逸な点の1つだろう)
しかも「ジョーカーとなったあとのアーサーである」と仮定可能な余地まで残されている・・・。まったくもう!
観客に「この映画はバットマンのヴィラン、ジョーカーの誕生秘話ですよ〜」と心の底から信じ込ませ、それが限りなく「真実」であるかのように演出しながら、実は「すべて虚構」であるという演出も随所に散りばめている。
喜劇をひっくり返し、悲劇をひっくり返し、真実と虚構、現実と妄想をひっくり返す。
なるほど、喜劇役者は「騙されている観客」の方であり、笑っているのはアーサーでもジョーカーでも無い「真の主人公」だという事か。
「コメディ作って文句言われるなら、コメディひっくり返して悲劇にすれば問題ないんだろう?(気付かれないようにそれもひっくり返して喜劇に仕上げてやるけどね)」って辺りが本音かな?
フィリップス監督、良かったね。随分と
「釣れた」ね?
世界中から発信されるレビューを読んで、監督はどんな笑いを浮かべているのだろう?
「正義への妄信」「真実だと思うものへの妄信」を問題提起する代わりに、随分と手の込んだブラックコメディに仕立てたものじゃないか。
嫌いではないが、私達は更に建設的に「これからの正義の話」でもしてみようではないか。
今日は
とても引き込まれた映画でした。
この映画を喜劇として観る、広い視野は私には持つ資質というか、
知性は無いですよ。
裏の裏が精一杯で、更にその上を思考するとかは無理の無理です。
素直にホアキン・ジョーカーは悲劇と妄想の狂人(でもすごく好きな)
今、Wikipediaをみていたら、もう「ジョーカー2」は始動してて、2024年10月4日公開とまで決まってるんですね。
楽しみというか、レディ・ガガが共演。
1を超える2になるのでしょうか。
pipi様コメント、フォローありがとうございます😸
凄いです。 pi pi様のレビュー。
熱量、知識量、文章力、分析力。
私は足元にも及ばないです。
ジョーカーのレビューで一番ですよ。
宜しくお願い致します。