「ギリアムの悪夢に追い付いてしまった現実世界」テリー・ギリアムのドン・キホーテ りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
ギリアムの悪夢に追い付いてしまった現実世界
スペインで「ドン・キホーテ」の映画を監督中のトビー(アダム・ドライヴァー)。
トラブル続出で製作に行き詰った感がある。
出資者(ステラン・スカルスガルド)から、「他の映画からアイデアをいただけばいい」と助言され、酒場の物売りの籠から手にしたDVDは『ドン・キホーテを殺した男』。
この作品は、自分が学生時代の卒業制作で撮った作品で、小さな賞ももらった・・・と思いだしたトビーは、現在のロケ地からほど近い、件の映画を撮影した村へと向かう。
村にたどり着いたトビーは、ドン・キホーテを演じた靴屋の老人(ジョナサン・プライス)はその後自分をドン・キホーテと思い込み人里離れて暮らしていると聞き、また、ヒロイン・ドルシネア姫を演じた娘(ジョアナ・ヒベイロ)はスターの座を目指して大都会へ出ていったしまったと聞く。
そして、再会した靴屋の老人は、すっかりドン・キホーテになりきっており、トビーを従者サンチョ・パンサと思い込む・・・
といったところからはじまる物語。
その後、ドン・"靴屋の老人"・キホーテとサンチョ・"映画監督トビー"・パンサが遭遇する悪夢のような事柄が描かれていくわけだが、現実と悪夢とが混然一体となった物語はテリー・ギリアム監督の過去作品『未来世紀ブラジル』と同じような趣向。
だが、あちらは、管理社会(=現実)下での日本風な夢想、と切れ目切れ目はわかりやすかったが、本作では、現実と悪夢との境目がわかりづらい。
わかりづらい、というと難解なように思えるかもしれないが、現実も悪夢もそれほど大差ない、といえばいいかもしれない。
米国CM監督によるスペインでの大規模映画の撮影、出資者のボスがさらに出資を請う大物はロシア人、スペインの片田舎にはモロッコから難を逃れてきたイスラム教の難民たち・・・
国というボーダーは消え失せていながらも、それぞれのナショナリズム意識は高い。
その上、個人はいつでも「俺、俺、俺」と言っている(と、これは、ドン・"靴屋の老人"がサンチョ・"映画監督トビー"に対して言う台詞だが)。
なんだか秩序は消えてしまい、現実が悪夢なのか、悪夢が現実なのかが判然としない・・・そんな世の中になってしまったわけだ。
そんな物語の中で、悪夢をみるのは、常に、サンチョ・"映画監督トビー"であり、ドン・"靴屋の老人"は悪夢なんぞはみない。
この構図がおもしろい。
正気を失ったものには普通に見える世界・・・
最後に、ドン・"靴屋の老人"は、自分が「靴屋の老人」であることに気が付くのだが、これがあまりにも虚しく、哀しい。
そしてその代わりに、サンチョ・"映画監督トビー"がドン・キホーテになってしまうわけだが、普通であるためにはしかたがない必然、と感じられる。
幾度も、製作と中断・中止を繰り返した本作、完成するときには、あっさり完成する。
それは、テリー・ギリアムが悪夢と思っていた世界に、現実の世界が追いついてしまったからではありますまいか。