SFというカテゴリにこの作品は入るのだろうかと思うほど、発表されていない科学実験は数多くあるように思う。
クローン技術は明治以前の技術ではないかと思うほど、最近のSNSなどで様々な客観的証拠があげられ、そのピースをはめていくとクローン技術ははるか昔の技術かもしれないと考えてしまう。これは今のところ陰謀論に過ぎないが…
さて、この作品の最後にエリザベスが家を出ていくシーンと、彼女に植え込まれたパターン化された思考回路とそれを無視するように歩く彼女が、自分自身の行動に満足を覚えほほ笑むカットがある。
これは自分の、つまり教育された思い込みとルールから自分自身を変えていく行為であり、誰もができるそのことをあえて取り組んでいる人は、実際にはごくごく少数だと思う。
しかしこれこそが自分の自由意志で行動することであるというのを教えられたように思う。
この作品のテーマがこの「欠如」にあるように思う。登場人物すべてが心的な欠如が動機となっている。
エリザベスに1日一人で過ごさせる試験がある。言いつけを守れるかどうかだ。身体的問題がクリアされ、本物のエリザベスに期待するのは、ヘンリーの言うことを絶対守る女性である必要があった。彼にとっての絶対要件だ。
そしてこのエリザベスが一人で過ごす時間が非常に興味深い。
巨大な屋敷とプール、宝石やドレスや酒類… どれも豪華で普段欲しいと思うものばかりだが、映像ではそれがむなしいものに感じてしまう。
そのむなしさは、ヘンリーがつぶやいた「あの時の歓喜をもう一度味わいたい」という言葉と対比する。
ヘンリーは、失ってしまった歓喜のために、クローンを作り続けていた。
彼が求めたこの喜びこそ人間が求める唯一のもので、そのために様々な出来事や物品によって喜びという感覚を得たいのが、人間の本当の本質だろう。
エリザベスに欠けているのは、喜びを知らない、またはインプットされていないということだ。
そしてそれを本物のエリザベスを作るというたった一つのことでなければ実現しないものと決め込んで実験し続けるヘンリーは、エリザベスの本質である喜びを演出してやれないという、本物のエリザベスを作る上でなくてはならない最大の欠如があったと、私は思った。
それが彼が徐々に異常化した根源だろう。完璧でなければダメなのだ。
ストーリーもこれらの点がうまく描かれ、人間の本質に迫っている。当然プロットもいい。
盲目のオリバーが求めていたのが、自分は誰だということだった。彼はクレアが毎日日記を書いていることを知っていたが、それを読むことはできない。
エリザベスに言い当てられて動揺した。「…幼いエリザベスの体中にキスしていた…」これは、オリバー自身の欲求であり、ヘンリーの遺伝子で作られた自分自身に葛藤し続けていたのだ。
クレアが元科学者で、ヘンリーの実験の協力をしていたという、彼女の日記を使って表現しているのもいいアイデアだ。
ある日クレアは、休み明け屋敷に戻るとそこにいたのがエリザベスだったことに激しく動揺する。それは、彼女によってヘンリーが殺されたことを意味していた。そして心不全まで起こすのだ。彼女が救急車で病院へ行った後、恐ろしい出来事がいくつも発生する。
やがて、誰もいなくなった屋敷に戻ってきたクレア。
ヘンリーからエリザベスによって、そして今度はクレアにバトンが渡された。
クレアは何不自由のないあの屋敷でいったい何をして時間をつぶすのだろう?
最後にSF特有の終わり方をしている点もよかった。