劇場公開日 2020年3月6日

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「戦いすんで日が暮れて」Fukushima 50 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0戦いすんで日が暮れて

2020年3月24日
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鑑賞方法:映画館

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 原発の事故現場とそこにいる者たちのシーン、その家族のシーン、そして政府と東電関係者のシーンの3つで構成される映画である。当然ながら事故現場のシーンが中心で、あの日あの現場で何が起きていて何が起きていなかったのか、何が解っていて何が解っていなかったのかを描く。

 佐野史郎が演じた菅直人総理大臣はヒステリックだがエネルギーに満ちていて、理解できないことを理解しようとし、兎に角自分の目で見ようとした。そこには保身の気持ちなど微塵もなかったことを感じさせる。対応を散々批判された菅直人政権だが、あれでよかったのかもしれない。少なくとも「悪夢の民主党政権」が口癖の暗愚の宰相でなくて、本当によかった。
 そもそも福島原子力発電所の事故が発生する5年も前の2006年に、原発の津波対策について共産党の吉井英勝議員が電源喪失の危険性を質問したとき、どの質問に対しても「そうならないように万全を期している」と、木で鼻をくくったような答弁を繰り返したのは、何を隠そう当時の総理大臣安倍晋三である。どうせならこの答弁の様子もどこかに挿入してほしかった。
 その後は民主党の対応を批判し、オリンピック招致では「福島原発はアンダーコントロール」と嘘をつく。おまけに制御不能とわかった原発を、あわよくば外国に売りつけようとする。こんな人間が当時の総理だったら、東電の経営陣にいいようにあしらわれて、もっと酷い状況になっていたことは想像に難くない。

 さて本作品は大作らしく、俳優陣は非常に豪華である。それぞれに印象的な台詞が割り振られ、どの俳優にとっても大切な作品となっただろうと思う。中でも吉岡秀隆が演じた前田の台詞が印象に残る。そして家族のシーンの中では前田の妻役の中村ゆりが非常によかった。この人は女の儚さと切実な表情を併せ持っていて、下り坂を転がりはじめた日本社会を描くのにもってこいの女優さんだ。ペシミスティックな作品が増えるにつれてこの人の出番も増えるだろう。
 佐藤浩市の伊崎当直長、渡辺謙の吉田所長。ともにエンジニアであり、原発のスペシャリストである。前代未聞の事態に対し、これまでの経験と知識を総動員して、死も覚悟の上で事に当たる姿は真摯で、胸に迫る。一方で東電の本社は、原発をなんとか無事に残したいがために対処が遅れてしまう。ときに総理大臣のせいにしながら現場を待たせたり、逆に危険な作業を急がせたりする。最初から現場主導で対応していれば、原発はあれほど放射能を垂れ流さなくて済んだのかもしれないが、いまとなっては何も解らない。
 東日本が存亡の危機にさらされたのは事実であり、被害を食い止めようと死にものぐるいで闘った人々がいたのも確かだ。そして、そもそもこのような事態を生じさせた源流には、原発利権に群がる人々の悪意があったことも紛れもなく事実なのである。もし原発事故の現場でモリカケ事件と同じように保身だけで対応されていたらと思うと背筋が寒くなる。いまごろ東京も人が住めなくなっていたかもしれない。

「戦いすんで日が暮れて」という言葉がある。佐藤愛子の小説のタイトルではなく、明治に作られた軍歌「戦友」の一節だ。もちろん当方は軍歌を礼賛することはないが、軍歌だからといってそれだけで否定する訳でもない。言葉は言葉だ。
 戦場の只中で倒れた戦友に仮の包帯を巻きながら、折から起こる突貫攻撃に立ち上がり、友に別れを告げる。思いもよらず生き残った夕方、友を探しに戻るという歌である。戦場に喜んで行った訳ではない。国民の命を粗末にする政治家によって、御国のためという大義名分を与えられて行かされたのだ。それと同じ構図で、原子力発電のもたらす巨大な利益と、原発の技術はいつでも核兵器開発に繋げられるという醜い野望が福島の事故を生んだ。被害を被るのはいつも弱い立場の人々だ。

 歌といえば、終盤で流れる女性ボーカルの歌が美しい。当方には「ロンドンデリーの歌」にとても似ているように聞こえた。今年も咲いた桜の花は美しいが、福島の事故現場では未だに放射能が溢れ、その処理が次第に手に負えなくなってきている。プルトニウムの半減期は数万年だ。海に流すのか土地を探すのか。かつて「万全を期している」と原発の安全性を主張した安倍晋三は、福島の悲惨な現状に何の関心も示さず、「アンダーコントロール」と言ってニタニタと笑っている。
 戦いすんで日が暮れて。あの現場にいた人々はいま何を思うのだろうか。

耶馬英彦