惡の華 : インタビュー
「惡の華」伊藤健太郎&玉城ティナ、井口昇監督の“作品愛”から得た大切な感情
2009年から別冊少年マガジンで連載され、大きな話題を呼んだ押見修造氏の人気コミック「惡の華」。約5年間の連載中にはテレビアニメ化され、その後は舞台化もされるなど、作品に内在する思春期の鬱屈した思いは、時代を問わず訴えかけてくるメッセージ性が強い。そんな作品がついに実写映画化された。主人公・春日高男を演じた伊藤健太郎、ヒロイン・仲村佐和に扮する玉城ティナが、作品への思いを語った。(取材・文/磯部正和、写真/間庭裕基)
“青春”という言葉は、10人いれば10人の解釈があるほど、曖昧である。だからこそ、青春ストーリーというジャンルにもさまざまな作品が存在する。本作のヒロイン・仲村は、白紙でテストを提出したことを叱責する教師に「クソムシが!」と吐き捨てるようなエキセントリックな女の子だ。
玉城は「これまでに青春が描かれてきたストーリーはいろいろ読んできましたが、この作品における青春の解釈は初めての感覚でした。(原作者の)押見先生はどうやってこの作品を描いたのだろうかと強い興味があった」と原作に出合ったときの印象を述べると、「男子生徒にブルマを履かせたり、普段絶対言うことがないような過激なセリフを発したり、仲村佐和というキャラクターが強く心に残っていたので、その役でオファーをいただいたときは、是非やりたいと思いました」と当時を振り返る。
クラスの憧れの女の子の体操着を盗んだことを仲村に見られたことにより、自身の内側と向き合うことなる主人公・春日。彼は仲村をはじめとする女性陣に翻ろうされながら、アイデンティティが崩壊していく一方で、自分でも気づいていなかった自我に戸惑いを見せるという難しい役どころだ。
「今までやったことがないタイプのキャラクターだったのでやりがいはありましたが、すごく大変でした」と撮影の感想を述べる伊藤。特に、思春期の男の子の行動を把握し、表現することには困難を極めたというが、撮影のファーストカットで、女子生徒のブルマのにおいを嗅ぐシーンを振り切って演じたことにより、春日という男の子の行動が“腑に落ちるようになった”という。「あのシーンを思い切りやれたことで、自然と春日に近づけました。後半は台本を読まなくても、春日ならこういう行動をするだろうというのが、わかるようになってきたんです」。
誰にも触れられたくない心の奥に潜む変態性や羞恥心。そこをえぐり出していく衝撃作のメガホンをとったのは、「片腕マシンガール」「デッド寿司」「ヌイグルマーZ」などで独自の世界観を築いてきた井口昇監督だ。押見氏の原作に惚れ込み、映像化を熱望したという経緯がある。
特に仲村への愛は強いようだ。「井口監督は常に楽しそうで、演出をするうえでも、自分で仲村を演じてみたり、モニターチェックもワクワクしながら覗き込んでいたりしました。原作を愛していることが伝わってきたので、井口監督をどう喜ばせようかという思いで演じていれば間違いないのかなという気持ちでした」と玉城は語る。
「井口監督のフェティシズムに届くことが正解なんだ」という思いのもと、髪を染め、原作をトレースすることで「ビジュアルを原作にできるだけ近づけた」という玉城。こうしてブレることなく仲村を演じた玉城に対し、先に行われたイベントでは、井口監督も原作者の押見氏も「最高だった」と最大級の賛辞を送っていた。
一方の伊藤は、少女コミック原作をドラマ・映画化した「覚悟はいいかそこの女子。」で、井口監督とはタッグを組んでおり、本作が2度目の井口組となった。「前作は爽やかな青春物語だったのですが、今回は井口監督らしさ全開の物語。同じ青春でもまったく違うものでしたが、井口監督がとにかく目を輝かせて楽しそうに現場に立たれているので、こちらも楽しくなるし、もっと楽しんでもらいたい、もっといい芝居を見せたいと思ってしまうんです」と井口監督の人柄に惹かれ、芝居が乗っていったという。
思春期のダークな青春模様が描かれているにも関わらず、鑑賞後、なんとも言えない爽やかさがあるのは、井口監督をはじめ、作品に携わった人たちが、心から「楽しかった」と言える現場だったからだろう。玉城は「マイナスのオーラがまったくない現場だった」と語っていたが、作品の持つ世界観と作り手の熱意が、うまく化学反応を起こし、唯一無二の“青春”映画が出来上がった。
「この作品をやらせてもらうとなった時、誰の思春期を考えたかというと、やはり自分のことを振り返りました」と語った伊藤。続けて「僕の思春期は、周囲の大人に反発してひどいものだったのですが、決して後悔していませんし、それがあったからこそ、今の僕があると思っています。その意味で『惡の華』で春日や仲村がやってしまったことに対して、大人は大騒ぎしていますが、僕からしてみたら『やりたいことをしているんだから別にいいじゃん』って思ってしまう。それでいいと思うし、男っていつまでにたっても思春期が終わらないところがある。それが人としての魅力につながると思うんですよね」と出来上がった作品への解釈を述べる。
玉城も「やり切れなさやモヤモヤした気持ち、自分の居場所はここではない病ってすごくわかる」と作品やキャラクターへの共感を述べると「私自身にもコンプレックスや、モヤモヤした気持ちがあったので、仲村に寄り添えたし、彼女を通してこうした気持ちを昇華できた部分もありました。私は常に今が一番楽しいという人なので、思春期に恥ずかしいと思った出来事があった方が、その後の人生が面白いものになるのでは……と感じています」と持論を展開。さらに「10代のころは、いろいろな作品から影響を受けていたものが、この作品に携わってから、これからはなにかを伝えていく立場になるんだなという不思議な感覚になりました」と玉城にとっても特別な思いが胸に去来する作品になったようだ。