「原作ネタバレも含みます」マチネの終わりに 琥珀さんの映画レビュー(感想・評価)
原作ネタバレも含みます
この原作を映画化する、と聞いた時にまず浮かんだのが、よくそんな無理なことを、という思いでした。ストーリーは単純なのに文庫本で460ページほどもあって、天才ギタリストの蒔野とバックボーンにヨーロッパの複雑な歴史の一端を体現する映画監督を父(原作では実父です)にもつ国際ジャーナリスト・洋子の内面の葛藤をあれこれと描いています。しかも洋子はパリではなく、イラク戦争後の混乱したバグダッドで危うくテロの犠牲になりPTSDに苦しみます。
自分の演奏に意味があるのだろうか、みたいなことを呟いた蒔野に向かって、洋子は言います。
「実際にバグダッドで蒔野さんのバッハの美に救われた人間よ。」ドイツ人の半分が死んだといわれている凄惨な30年戦争のあとに作られたバッハの曲が荒廃した当時の人たちを深く慰めたように。そういうことを信じさせてくれたのが蒔野の演奏なのだと。
洋子さんは歴史や文学的な素養で培われた深くて繊細な感性を持つ女性なのです。
薪野が若い才能に出会った時の心情についてはこんな風に書かれています。
『孤独というのは、つまりは、この世界への影響力の欠如の意識だった。自分の存在が、他者に対して、まったく影響を持ち得ないということ。持ち得なかったと知ること。ーー 同時代に対する水平的な影響力だけでなく、次の時代への時間的な、垂直的な影響力。それが他者の存在のどこを探ってみても、見出せないということ。
俺だけは、その歳になっても、そんな幻滅を味わうはずはないと、蒔野はどこかで楽観していたのだったが。……』
洋子の繊細な感性がどれほど蒔野にとっての救いであり、その存在と出会ったことについては、どんな未来(例えば、三谷と娘との幸せな結婚生活)を過ごそうとも決して忘れられない事実なのだということがここからも窺えます。
次は、洋子の実父でもあり、原作では存命している映画監督ソリッチと洋子との会話。この映画での主要テーマともいえる「未来が過去を変えることができる」ことと始めから運命的なものであったのか、について考えを巡らせるのに参考となる箇所。早苗から蒔野との別れの真相を聞かされた後のタイミングで交わされています。
『「自由意志というのは、未来に対してなくてはならない希望だ。自分には、何かが出来るはずだと、人間は信じる必要がある。そうだね?しかし、だからこそ、過去に対しては悔恨となる。何かできたはずではなかったか、と。
運命論の方が、慰めになることもある。」
「そうね。……よくわかる、その話は。現在はだから、過去と未来との矛盾そのものね。」』
こんな複雑で繊細に内面が揺れ動くふたりの恋愛を映画でどう展開するのだろう、とかなりの不安を抱えて鑑賞しました。
結論からいうと、素晴らしい出来映えだったと感服致しました。
確かに「僕も死ぬよ」は小説の文脈の中では、洋子の置かれた状況が前提での会話で、違和感なく受け止めることができましたが、映画においては唐突な感じは否めません。洋子のアメリカ人の夫への失望…サブプライムローン絡みの仕事における夫のウォール街的な姿勢が洋子には認め難く、それが夫には洋子の感性の繊細さや倫理観なのだと理解出来ず、洋子の冷たさに感じられ、あげく浮気までしてしまったのだが、AAAの格付の話だけではそこまで伝わらなかったのではないでしょうか。また、三谷早苗の〝贖罪〟的振る舞いも原作にはなく、会話の中で洋子に見抜かれてからの告白となっています。
といった具合に映画では相当に立て付けが変わっているし、説明的な会話も端折られていますが、なぜか原作の醸し出す雰囲気が上手く伝わってきました。
色々と考えたのですが、この原作の映画化を思い立った人(監督なのかプロデューサーなのか分かりませんが)はまず〝絵〟が浮かんだのではないでしょうか。パリ、ニューヨーク、セントラルパークや演奏会場、レコード会社のオフィス。そして何よりもこの映画の舞台設定において何をしても〝絵になる〟役者ふたり。そこに極上の音楽が加われば、2時間の〝絵〟が創出できる。たぶん蒔野も洋子もそれぞれ実年齢よりは10年くらいは若いはずですが、まったく違和感がありませんでした。
セリフや説明的な会話で現実感がなくなるよりも、絵画的な趣きで再現したい。内面的な葛藤や背負った過去も役者の感性で勝負できる。そういうチャレンジだったように受け取りました。
原作では重要なファクターであるイラク戦争後のバグダッドの風景やソリッチの姿は監督のイメージする絵の中には時間的制約も含めて、当てはまらなかったのだと思います。
冒頭のシーンでは、走らないと言っていた洋子さんにニューヨークの演奏会の時は遅刻するわけでもないのに走らせていましたが、(たぶん)ロケハン中に見つけた過去を変える象徴となった石塊(ベンチ)ともども監督の〝絵〟には欠かせないピースだったのですね、きっと。
原作未読です
怪我をしたジャリーラのためにギターを弾いた蒔野の、その時の彼の動機が、グレシャムさんのレビューで解って息を飲みました。
また、復縁せずに洋子のジャーナリストとしての生き様を見守る蒔野の眼差しも理由がわかった気がします。
「生き続けるように」と祈りを込めて託されていく“硬貨”は、象徴的に出演者みんなに差し出されていたんですね・・
映画の尺に収めるために脚本と編集でカットされていてもなお、何かが地下水のように湧いてくる作品通してのテーマが、御レビューで初めて合点がいきました。
ありがとうございます。
そ-ですね。最初シリアスに見えたのですが、告ってからは昔オールナイトニッポンでエロトークをしてた彼や“今日の観客で一番👉🏼カ・ワ・イ・イ・コ・ハ・ダ・レ・カ・ナ❣️”で選んだファンに手を付けるロックスターかに見えてハニカミ顔もニヤケ顔に見えちゃいました😑
ハリソンさん、ありがとうございます。
ネタバレレビューを読んでからでも音楽と映像と役者の皆さんが素晴らしいと、鮮度が落ちないということですね。良かったです。
琥珀さんの評価が高評価なので、これは!?と思い見てきました。
唐突感がないこともないですが、素晴らしい出来栄えだったと思います。
これは、人に勧めたくなる映画ですね。
多分、レビューみてなかったら、見逃してた映画です〜。
琥珀さん、ありがとうございます。
映画では結構唐突に薪野が洋子に愛を告白したり、時代背景はあまり描かれていないなか、所々で『幸福の硬貨』が流れることにより映画を紡いでくれたんですね。
自分の読んだことある作品が映画化されると、思い入れもあるからシンクロした際は嬉しくなり、逆にあれ?と思うこともあり。そんな経験が最近少なかったので、このサイトに登録して、原作のことを書かれてるレビューを眺めるのが好きでした。
琥珀さんのレビューは影から拝読させていただいてますが、かなりの読書量と、それを超える表現力が素敵だなぁと思います。ありがとうございます。
かいりさん、ありがとうございます。
少々長くなりますが、お付き合いください。
原作におけるジャリーラは洋子のバグダッド支局時代の現地採用のイラク人で、イラク内戦状態の中、スパイとみなされて殺されそうになります。そして、スェーデンへの亡命を図りましたが、経由地のパリで入国審査に引っかかり、強制送還となれば殺されるのが必至という命の瀬戸際で洋子のもとに一時的に滞在しています(勿論洋子の力添えがあってのことです)。
そんな状況のもと、蒔野が訪れ『幸福の硬貨』について映画の内容やタイトルの意味について、説明的な会話が展開されます。
映画は第二次大戦時のクロアチアが舞台。当時、ヒトラーを真似た人種政策をとるファシズム政党が政権を握っている中、リルケを愛する若いクロアチア人の詩人とセルヴィア人の少女、彼女に想いを寄せるファシズム政党の将校が絡むという愛憎劇です。
ラスト、戦争で破壊された町並みを背景にリルケの詩が朗読されて、美しいギターのテーマ曲が流れる。
『天使よ!私たちには、まだ知られていない広場が、どこかにあるのではないでしょうか?
そこでは、この世界では遂に、愛という曲芸に成功することのなかった二人が、(以下、省略)』
詩はまだ続きますが、その中に、『私たちの未だ見たこともない永遠に通用する幸福の硬貨』という文言が出てきます。
このような精神世界の奥深い高揚感に包まれるようなやり取りをしているうちに、蒔野と洋子は心の底からの繋がりをあらためて共有し、蒔野は少し運命がずれれば亡くなったいたかもしれないイラクの若い命の前で、映画のテーマ曲『幸福の硬貨』を奏でるのです。
原作を読んでいるとこのテーマ曲の重みが一層感じられます。映画では以上の背景まで語られませんが(ジャリーラの設定も違う)、実際の曲が素晴らしいので、小説では不可能な耳から入ってくる音楽を通じて、二人の気持ちの繋がりが伝わってくるように作られていると感じました。
なまじ、原作を読んでいると、映画の印象から発展させるはずの想像力が働かない、ということもあるかもしれません。監督が原作をどう解釈したのか、というアプローチと原作に縛られない想像力の発露。
どちらがどう、ではなく、人それぞれの楽しみ方があるということですね。
なかなか悩ましいところです。
原作をお読みになった琥珀さんには、「幸福の硬貨」はどう映ったでしょうか。私は大学生の時は本の虫だったのですが、とある時から読めなくなり、以降本を手にしていませんが、この原作は読んでみたいなと久々に思いました。460ページ大変そうだけど、、、