ヘレディタリー 継承のレビュー・感想・評価
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オリジン
アリアスターは、よくわからない。
すごい映画だと感心し、圧倒されるが、なんでこうなるのかが、わからない。
『(~中略)ところで、シオドア・スタージョンはよくわからない作家だ。話そのものはよくわかる。文体が凝っているということでもない。結局、なんでこんな話ができあがるんだろう、という点がわからないのだ。何年もSFを読んでくれば、どんなに突っ拍子もないアイデアでもそう驚かなくなるものだ。というより、発想の根幹から小説として料理されるまでの内的プロセスに対して、ある種の納得をえることができるのが普通である。それができないのだ。(~後略)』
(シオドア・スタージョン作、矢野徹訳「人間以上」の水鏡子のあとがきより)
2021現在、全二作だが、二作だけでもカラーは見える。かんたんに言えば悪魔崇拝に弄ばれ、屠られるひとたちの話──だと思う。
だが、そんな話だとわかるにしても「結局、なんでこんな話ができあがるんだろう、という点がわからない」。
くわえて箍(たが)である。日本語には箍を外すということばがある。規律や束縛から抜け出す──の意味だが、アリアスターは箍が外れてしまっている。
人間界の倫理・秩序・暗黙のルールがことごとく蔑ろ(ないがしろ)にされている感じを受ける。
たとえば「ふつうの」映画では、少女を電信柱に直撃させてギロチンさせることはない。意味不明の殉教や生贄をしない。それらが、ふつうに描かれてしまうので、衝撃を受ける。不安になる。
こういったアリアスターに対する疑問点に、回答とまではいかないが、なるほど、これがオリジンか──と思わせたのが、過去のショートフィルムだった。
アリアスターは、過去にいくつかショートフィルムを撮っていて、YouTubeやvimeo等で見ることができる。
アリアスターの過去のショートフィルムは、とてもアリアスター的に見える。とうぜん、それらをアリアスターがつくったことを知った上で見たから──でもあるが、HereditaryやMidsommarで見た不安を煽る方法の原点が、そこにあらわれているような気がした。
簡約すると、特長は衝撃と不安だと思う。The Strange Thing About the Johnsons(2011)は衝撃でありMunchausen(2013)は不安があった。合わせるとアリアスターができあがる──気がした。(ものすごく簡単に言えば)
他のショートフィルムも監督の原点がかいま見え、興味深いものだった。
とはいえ、ヒントにはなったが「結局、なんでこんな話ができあがるんだろう、という点がわからない」は変わらなかった。
海外のインタビュー記事で監督は以下のように述べていた。
記事の時期はHereditaryの公開後。まだMidsommarは制作中だった。
『一般的に、そして特にホラーというジャンルの映画制作で私が気に入っていることの一つは、ある人にとっては消化しにくいテーマ性のある素材や、正直に話したいと思うような素材を、自分のメッセージが何であれ妥協することなく、また観客を失うリスクと同じように妥協することなく取り入れることができるということです。
悲しみやトラウマ、人々が悲劇を乗り切ろうとしたり失敗したりすることについての荒涼としたドラマを作りたいと思っているならば、素晴らしい映画を作ることになるかもしれませんが、それは配給が見つからないか、見てもらえないか、単に資金が出ないだけです。日の目を見るかどうかは忘れてください。あなたはそれを作ることができないかもしれません。
10年近く長編映画を作るのに苦労してきた者として、それがどうなるかはよくわかります。しかし、あるジャンルの観客の妨げになるかもしれないものが、別のジャンルでは突然美徳になるのです。
トラウマが家族のユニットに与える腐食した影響についての映画を作りたいと思っていました。悲しみの中で自分自身を蝕んでいく家族について、ウロボロスのような映画を作りたいと思っていました。それは私の中に確かにあった物語です。それを見つける必要はありませんでした。』
機械訳なのでわかりにくいが、要約すると、悲しくてトラウマな話を撮りたくて、それを妥協せずやりたいならばホラーにせざるを得ない──という話。
ウロボロスとは悪循環と訳すのだろうか。自分の体験からHereditaryをつくったと言っているが、そのあと、このインタビューで自分は家族とすごく良好な関係にある、とも述べている。
とんでもない話を撮りたくても、それがとんでもなさすぎると、観客を失ったり、配給が見つからなかったり、資金が出ないだけだが、ホラーにしたら、それが美徳になったと述べている。わけである。
その発言を踏まえてThe Strange Thing About the Johnsons(2011)を見ると、すごく意味がわかる。そのショートフィルムはアリアスターが撮ったという予備知識がなければ、かつこれはホラー映画ですよの告知がなければ、トラウマになる話──だからだ。
アリアスターの衝撃には、こけおどし感がない。
たとえば日本の残酷映画の巨匠が「衝撃」を見せるとすれば、それはおそらく「過剰」と同義語になる。のではないだろうか。
風呂場で屍体を解体したり、真っ赤なスパゲッティをわしづかみで食べたり、女子高生が手をつないで列車に飛び込んだり、をもって衝撃を表現するのではないだろうか。あなたは「おおすげえスパゲッティわしづかみで食ってるよ」と感嘆するだろうか?
アリアスターの不安は不快である。
ぎこちない、気まずい、などの意味でawkwardという英単語がある。より分かりやすい日本語にするなら「放送事故」という感じ──だろうか。
わたしは俗物なので、その手の動画をけっこう見る。知ってのとおりYouTube等で、awkward interviewや放送事故などの検索語で探すと、ざくざくと出てくる。
トークショーや、なにかのインタビューや、会見などで、舌禍などから妙な雲行きになる──ことがある。怒らせたり、ぎくしゃくしたり、日常が飛んで人間の素を露呈する瞬間がある。
海外にも多いが、日本でも朝生の激高シーンみたいなものが山ほどある。あるいは多目的トイレを利用したお笑い芸人の会見。あの会見で、かれを質問攻めにした芸能マスコミの記者たちのサイコパスっぷりたるや「怖い」を超えていた。大の大人が犯罪者でもない人間を寄ってたかって吊し上げて。完全にホラーフィルムだった。
人は「怖い」を超えると「嫌」(いや)になる。
わかりやすく言うと「ああ見ていられない」という感じ。
「怖い」は見ていられるが「嫌」は見ていられない。
とんでもない不快感。(と言いつつ見るわけだが)
アリアスターの描く不安はawkwardや放送事故に見る不快感に似ている。
とりわけチャーリーが亡くなった後の家族の食事場面。すさまじい気まずさ、不快さ。
将来ある若手監督を協賛し、みずから何本もの製作総指揮に名乗り出ているスコセッシ監督だが、アリアスター監督も褒めている。
海外の記事でスコセッシ監督は以下のように述べていた。
『数年前、アリ・アスターという監督の『ヘレディタリー』という作品を初めて観た。最初から感銘を受けた。明らかに映画を知っている若い監督だった。形式的なコントロール、フレーミングの正確さ、フレーム内の動き、アクションのテンポ、音など、すべてがそこにあり、すぐに明らかになった。
しかし、絵が進むにつれて、それは私にさまざまな影響を与え始めました。特に妹が殺された後の家族の夕食のシーンでは、不快になるほど不安になった。
すべての記憶に残るホラー映画のように、この映画は名もなき言いようのない何かに深く入り込み、その暴力は肉体的なものと同様に感情的である。』
機械訳なのでわかりにくいが、巨匠も不快を認めつつ、それをsomething unnameable and unspeakableな=なんと言ったらいいかわからないような、衝撃を受けたと言っていた。
巨匠さえ、名状しがたいものだった──わけである。
ずっと、同監督が「わからない」と言ってきたが、巨匠もそう言ったように、それらは映画ファンにとって面白さに他ならない。さまざまな表現方法に慣れているわたしたちは、unnameableな、unspeakableなものを積極的に見たいと思っている。
ので、ちょいちょいわたしはAri Aster next movieとかで検索をする。あちらの映画情報は、かなりまとまった話でもお釈迦になることがあるので、話半分だが、いろいろ出てきた。韓国映画のカルト、地球を守れ(2003)のリメイクとなるホラーコメディをつくっている。という話があった。ホアキンフェニックス出演でタイトルはBeauisAfraid、との情報もあった。BeauisAfraidはアリアスターの過去のショートフィルムにあった。
いずれにせよもっとも気になる映画監督のひとり。
映画を見て、もう一度という気には、ほとんどならないのに、次回作が見たくて仕方がない。のがAri Aster監督なのです。
雰囲気良し。
何なんだこれは…
期待しすぎた
期待してみたが、ナーンだ悪魔崇拝の話かとガッカリ。
既成宗教や民間信仰によりかからないものかと思った。
というのも、そういうのをベースにすると、超常現象の真実らしさは全てそこに理由を預けてしまうから。
ホラー映画は怖いかどうかより、オリジナリティがあるかどうかを見ている。
気持ち悪さはあるがオリジナリティは低い。従来のホラーの寄せ集め。
アニー役の女優が楳図かずおを実写した演技で点数を上げている。
家族崩壊、不穏系陰鬱ホラー
尤もらしいが、つまらぬ
何この物語…
結論として、地獄の8人の王のうちの一人を受肉させたかった話…でしょうか。元々は祖母にいたけど、健康な若い男の肉体に再受肉させたというお話。
妻が暖炉の前で謎のノートを燃やし、夫が燃えたのは意味がわからなかった。母親の夢遊病は、祖母(に取り憑いている地獄の王の力の一端)による「操作」だったのかもしれない。教室で頭を打ち付けたのは、「さっさと体を渡せ!」と地獄の王が直接手を下したのかもしれない。
ラストシーン間近、亡霊が家を取り囲み、王の帰還?降臨?を待ち望んでいる様子にも伺える。
ただ、チャーリーが死ぬ必要性はあったのか。単に祖母に操作されやすいチャーリーだったのか。正直、ホラー映画好きに好評なのは、予備知識(ホラー映画を観ている経験・情報量)があるからそれに基づいて(あーこれはこういうことかー)(そういうパターンね)とか、ヒモづけて楽しめてるのだと思います。
ほぼほぼホラー映画初心者の見解では、家族内でその地獄の王は継承(ヘレディタリー)されるルールになっていて、母親は祖母に操られていた節がある。
しかし、子どもへの愛から、その母親が祖母の操りに抵抗していた様子も見える。結局、最後には乗っ取られてしまったが、母の愛は、長男を堕ろそうとしていた罪悪感を地獄の王に則られて、勝てなかった。という風に受けとった。
この家族に加わった、祖母の血を引かない夫は邪魔者として燃やされたくらい。これが一番かわいそう。日記燃やしたついでに燃やされた感がすごいかわいそう。
シンプルに怖いけれど、カルトという価値感に馴染みが薄いと、ちょっと楽しみづらい。しかし、映画の雰囲気やセットへのこだわりが随所に感じられます。このへんはミッド・サマーと同じ。
最後に、母親の職業(個展を開くとか言っていたのでたぶんアーティスト?)柄で、ミニチュアを作っていたのが気になりました。
おそらく「地獄の王の目線」を暗示していたのかなと。俯瞰で全体をみえている異形な存在の視点。事故現場を再現する狂気っぷりは、アーティストそのもの。
「家族」ではなく、「家族になろうとしている」人たちの物語に思えました。
ピーターに受肉してしまったが、この血筋で、この継承(ヘレディタリー)が終るのは、本当に「家族」になれる世代なのだろうなと思う。
雰囲気ホラー
1度ではわからないけど面白い
主人公アニーの母の葬儀の朝から映画は始まる
子供達がまだベッドなのに
自分だけ用意して車で待っているアニーは
きっと子供の世話をほとんどしてこなかったのだろう
秘密主義で閉鎖的な母の葬儀に人が予想外に来たことに戸惑うアニー
実は母、リーはカルト集団のお后的な立場だった事は後からわかるのだが付箋だろう。
不仲だった母の死に予想外に苦しむアニー。
『なぜかわからないが母に責められている気がする』
『兄は母が自分の身体の中に他人を入れたと言って首を吊った』
『息子には近づかせなかった』
この事からアニーは過去に母のカルト的な秘密を知り、息子が狙われている事にも感づいていたようで縁を切っていたが自分でもその事について記憶がなくなっているようだ。
ピーターを産みたくなかった、という発言や夢遊病の症状で殺そうとしていたことからもわかる。
リーが死んで、魂がチャーリーに宿ったのか
光が部屋で動き、死んだ鳥の首を切る。
チャーリーのナッツアレルギーの症状やピーターが車で危険運転をしたことは偶然だが、事故にあい首がとんだのは悪の力が働いてるように思う
※首の切断は必要な儀式なようだ。
カルト集団の仲間の嘘で家で降霊の儀式を行い
王は男の身体ではないといけないことから
ピーターを悪の王に捧げるための手助けをしてしまうアニー
気づいた時にはもう遅い
ピーターにはチャーリーの魂がのりうつり、悪の8番目の王になる。
謎
鬱病で物が食べられなくなり餓死したアニーの父は
悪の王だったのか
鳥の首を切ったあとにフェンスの向こうからチャーリーに笑顔で手を振る人はだれ?
思いつくままの駄文の感想ですいません。
キリスト教徒にとっては心底怖いかも
厳格でやや常軌を逸した所があった祖母エレンが死に,彼女の怨念のようなものが残された家族を襲うのかと思いきや,そうではなかった。祖母とも深い関わりがあった第三者が実は悪魔崇拝主義者だったという点がポイントなのだが,彼女がなぜ一家に執拗に関わり続けたのかがよく分からない。それゆえ終盤で悪魔崇拝が関係していると判明した時の恐怖が減退してしまっている。それまでは地味な展開ながら,ジワジワと心が蝕まれるような恐怖が心に重くのしかかってくるようで,なかなか強烈な印象だっだけにちょっぴり残念だ。
怖かった、、
たしかに現代ホラーの頂点だ
不気味
マニア向け
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